波が砕ける音が、やけに近い。
砂浜に立つ水色の人影は、揺れているのに形を崩さなかった。背後のリングがゆっくり回り、海面の一部が持ち上がる。細い水柱が矢のように並び、空気がひやりと冷えた。
「来るぞ……!」
葉がタマフを構えた瞬間、水の矢が一斉に放たれる。軌道は一直線ではない。途中で折れ、回り込み、足元へ滑り込んでくる。刃で弾いたはずの水が、砂に落ちる前に再び形を取り戻した。
「なんじゃこの動きは! 散っても戻るぞ!」
サクナの声が跳ねる。
「形状が固定されていません。攻撃自体が本体に近い……!」
ココロワの言葉が続く。
葉は低く身を沈め、横へ跳んだ。だが着地した砂がぬるりと光り、水膜へ変わる。靴底が滑り、踏み込みが遅れた。次の矢が肩をかすめ、細い衝撃が身体を震わせる。
「……くそ、足場まで奪うのか」
リングが一拍だけ加速した。海面が盛り上がり、今度は槍のような太い水刃が振り下ろされる。タマフで受けると、硬さではなく重さが押し寄せた。衝撃はないのに、力だけが積み重なってくる。
「叩いても意味がないぞ、葉!」
サクナが叫ぶ。
「分かってる……けど!」
振り払った水が地面に落ち、再び敵の腕へ戻る。まるで攻撃の失敗が存在しないみたいだ。呼吸を整える暇もなく、次の波が押し寄せる。
「葉様、注意を。こちらの回避軌道が読まれています」
ココロワの声が静かに響いた。
確かに、避けた先に矢が来る。反射で動くほど追い込まれる。
砂を蹴り上げて距離を取るが、海面が持ち上がり、壁のように立ちはだかった。視界の端で、祠の白い注連縄が揺れている。
「……測られてるな」
呟いた瞬間、水色の人影がわずかに首を傾けた。返事はない。ただリングが回り、水刃が増える。数が増えたのに、動きは乱れない。
「腹が立つのう……戦っておるのに、生きておらぬ顔じゃ」
サクナが低く言う。
葉は一歩踏み込み、タマフを大きく薙いだ。水刃をまとめて弾き飛ばす。だが散ったはずの刃が空中でほどけ、細い粒となって背後へ回り込む。
「後ろです!」
ココロワの声。
振り返るより早く、水の衝撃が背中を打った。
重さだけが身体を押し、視界が一瞬だけ白くなる。砂が跳ね、呼吸が浅くなった。
「……っ、効かねえな……」
立ち上がる。タマフを握り直す。
目の前の敵は、一歩も動いていない。ただ観測しているだけだ。こちらの攻撃も、回避も、すべてを数値に変えているみたいに。
「葉様、このままでは消耗します。固定点が必要です」
「固定点、ね……」
波が寄せる。
その音に混じって、祠の方から微かな鈴のような響きがした。次の瞬間、海面が大きく持ち上がる。今までとは比べ物にならない量の水が渦を巻き、壁となって迫った。
「……来るぞ!」
タマフを構え直した直後、重い水圧が叩きつけられる。
身体が宙に浮き、視界が祠へ向かって流れた。
背中から叩きつけられた衝撃で、視界が砂色に揺れた。
乾いた音と一緒に柱が軋み、祠の前に転がる。肺に残っていた空気が抜け、息が浅くなる。波の音だけが遅れて戻ってきた。
「葉!」
サクナの声が鋭く弾ける。
「……大丈夫。まだ、立てる」
腕に力を入れ、砂を掴んで体を起こす。祠の柱に寄りかかったまま、目の前を見上げた。浜の中央、リキッドは変わらない姿勢で浮いている。リングが静かに回り、水刃が再び形を取り始めた。
「距離を詰めてこぬ……?」
サクナが低く呟く。
「観測を優先しています。こちらの反応を見ているのでしょう」
ココロワの声は静かだが、わずかに速い。
祠の足元で、何かが転がった。
倒れた供物台の隙間から、丸い影が砂の上を滑る。反射的に手を伸ばすと、指先に冷たい感触が触れた。
鯛をかたどった古い護符。
木製のはずなのに、表面が水面のように揺らいでいる。触れた瞬間、小さな波音が耳の奥で鳴った。
「……これは」
「それじゃ! 神の気配がするぞ!」
サクナの声が一段高くなる。
「葉様、それは触媒です。神格を呼び寄せる“鍵”……おそらく、この場所に残されたものです」
ココロワが言葉を選びながら続ける。
護符が、微かに温い。
握った手の中で、脈のような揺れが伝わってくる。祠の注連縄が風もないのに揺れ、鈴がかすかに鳴った。
その瞬間、空気が乾く。
浜の中央から、水が引いていく。
リキッドのリングが加速し、周囲の水分が吸い上げられる。砂の色が変わり、祠の影まで湿り気が消えていく。
「……狙われておるぞ!」
サクナが叫ぶ。
水刃が一直線に飛来する。
反射的にタマフを振り上げ、刃を弾く。だが砕けた水が粒となって祠の柱に絡み、足場を崩そうとする。
「葉様、このままでは祠ごと崩されます!」
「分かってる……けど、離れるしかないな」
護符を握り直し、祠から一歩踏み出す。
足元の砂はまだ乾いている。だが次の瞬間、地面が薄く光り、水膜が広がった。
「……来る!」
水槍が地面をえぐる。
衝撃を避けて横へ跳び、祠から距離を取る。背後で柱が軋む音がした。振り返らない。今は護符を守ることが先だ。
「葉様、浅瀬へ。水辺でなければ儀式が成立しません」
「……なるほど。場所を選ぶってわけか」
浜の端、波打ち際へ向かって走る。
リキッドは追ってこない。ただ、距離を保ったまま水刃を放ち続ける。その動きが、余計に不気味だった。
「……焦っておらぬのう」
サクナの声が低くなる。
「焦る必要がないのでしょう。こちらの行動を計測しています」
波が足首に触れた。
冷たい水が護符の表面に反応し、小さな光が揺れる。握った手の中で、波紋が広がる気配がした。
葉は一度だけ息を整える。
「……なら、逆に利用するさ」
背後で水刃が砂を裂く音がした。
だが足を止めない。祠から少し離れた浅瀬で立ち止まり、護符を見下ろす。海面がわずかに揺れ、波が円を描くように寄せてくる。
波打ち際に立つと、足元の砂がゆっくりと沈んだ。
護符を握る手の中で、水面のような揺らぎが広がる。背後から水刃が飛び、浅瀬を切り裂いた。跳ねた水が頬に触れる。
「葉様、そこです。……神格反応が最も強い」
ココロワの声が静かに導く。
「ここで、やるんじゃな」
サクナが短く言う。
葉はうなずき、ガンガンタマフの柄を砂へ突き立てた。
刃先が水に触れた瞬間、波が円を描いて広がる。浅瀬の水面が一拍遅れて光り、足元がわずかに固まった。
遠くで、リキッドのリングが回転速度を上げる。
水刃の雨が迫るが、葉は動かない。護符を胸の前へ掲げる。
「……測ってるなら、最後まで見ていけよ」
サクナの声が重なる。
「舞え。神の前じゃ、逃げ腰は許されぬ」
ココロワが続ける。
「構造を補助します。動きを崩さないでください、葉様」
深く息を吸い、足を踏み出す。
波に合わせて身体を揺らし、ゆっくりと円を描く。神楽というには荒い。だが、護符がそれに応えるように震えた。小さな波音が、耳の奥で重なる。
水刃が横を掠める。
肩の布が裂けたが、歩みは止めない。踏み込むたび、足元の水が弧を描き、円が広がっていく。
「……面白いのう。水が、笑っておるみたいじゃ」
サクナが小さく笑う。
「反応が増幅しています。もう少し……!」
ココロワの声がわずかに弾んだ。
護符が宙へ浮き上がった。
淡い水色の粒子が集まり、浅瀬の水面を持ち上げる。波紋が重なり、祠の鈴が遠くで鳴った。海が呼吸を合わせるように揺れる。
リキッドの水刃がさらに密度を増す。
矢が一直線に迫る。葉は避けない。タマフの柄を握り、舞を続ける。矢が水面に触れた瞬間、弾かれるように軌道を逸らした。円の内側だけ、別の流れが生まれている。
「……来い」
護符の揺らぎが、ひとつに収束する。
水の粒子が圧縮され、小さな球体を形作る。そこに、鯛の影が一瞬だけ浮かび上がった。
波が弾ける。
水色の眼魂が、葉の手の中へ落ちた。
握った瞬間、冷たいはずの水が柔らかな温度に変わる。円を描いていた水面が静まり、浅瀬に穏やかな揺れだけが残った。
リキッドのリングが止まる。
一拍の空白。計測が終わったような静けさ。
葉は息を吐き、眼魂を見つめた。
「……福の神、ね。悪くない」
サクナが鼻を鳴らす。
「当然じゃ。腹が減った顔の神などおらぬからのう」
「葉様、儀式は成功です。……ですが、敵はまだ健在です」
ココロワが落ち着いた声で告げる。
海面の向こうで、水色の人影が再び動いた。
リングがゆっくりと回り始める。次の戦いが、すぐそこまで来ている。
葉は新たな眼魂を握り直し、浅く笑った。
「……じゃあ、ここからだな」