浜辺に静けさが戻る。
波の音だけが、一定の間隔で寄せては返す。さっきまでそこに立っていた水色の影は跡形もなく、砂はただ湿っているだけだ。
俺は浜辺に腰を下ろした。
潮の匂いが肺に入る。戦いの熱が少しずつ抜けていくのを感じながら、砕けたリングの欠片が消えたあたりを見つめた。あれは眼魔じゃない。動きも、考え方も、明らかに違う。
「……眼魔とは、違うよな」
呟くと、サクナヒメがすぐに返す。
「違う。あれは“生きて”おらぬ」
短い断言。
ココロワヒメの声が続く。
「はい。感情の波がありませんでした。怒りも焦りもない。ただ、観測し、最適解を選択しているようでした」
俺は砂を掴む。
指の隙間からこぼれ落ちる粒を眺めながら、戦闘中の違和感を思い出す。攻撃を当てても崩れ、崩れても再構築する。あれは“守ろうとしている”動きじゃなかった。効率を保つための動きだ。
「測られてた、か」
「うむ。まるで、お主の力を確かめておるようじゃったな」
サクナヒメの声が低くなる。
「前回の光の個体も、今回の水の個体も、性質が極端です。属性特化型……いえ、概念特化型と申すべきでしょうか」
ココロワヒメが一拍置いて続ける。
「眼魔のように社会や階級を持つ存在ではなく、機能ごとに分かれた兵装のようにも見えます」
兵装。
その言葉が引っかかる。
「……誰かが、使ってる?」
沈黙が落ちる。
波の音が、やけに大きく聞こえた。
サクナヒメが先に口を開く。
「神でも鬼でもない。じゃが、自然でもない。あれは“造られた”気配がする」
ココロワヒメが静かに補足する。
「もしあれが独立した存在ならば、目的が見えません。ですが“誰かの意思の延長”ならば話は別です。観測、解析、対抗策の構築……戦闘そのものがデータ収集である可能性も」
俺は立ち上がる。
浜辺の向こう、街の方向を見る。東京の空は、いつも通りに見える。だが、その裏で何かが動いている感覚は消えない。
「……光と水、か」
「次は何が来ると思う?」と聞く前に、サクナヒメが言う。
「来る前に、腹ごしらえじゃ」
思わず笑う。
けど、その軽さの裏で、胸の奥が冷えている。
俺たちが勝ったのは一体。
だが、あれは“数”で来るかもしれない。
「ガンマイザー……」
まだ確証はない。だが、そう呼ぶしかない存在。
波がまた寄せる。
消えたはずの水面に、ほんの一瞬だけ、円を描く揺らぎが走った気がした。
境内は、思っていたより静かだった。
夕方の光が傾き、石段の影が長く伸びている。鳥居をくぐった瞬間、空気の重さが一段変わった。
「……静かすぎるな」
足を進めるたび、砂利が小さく鳴る。
だが、その音が妙に響く。社務所は閉まっている。風もないのに、拝殿の鈴がわずかに揺れた。境内の奥、注連縄で囲われた大きな岩――蛇の磐座が見える。
その周囲に、石像が並んでいた。
新しく奉納された像、という雰囲気ではない。
古びたわけでもない。表面は滑らかで、質感は生々しい。目を見開き、口を開けたままの表情。手を伸ばしかけた姿勢。逃げようとした瞬間で止まった身体。
「……これ、人だな」
近づく。
服の皺まで刻まれている。指先の爪、まぶたの厚み。彫刻にしては、細かすぎる。
「サクナヒメ、どう思う」
少し間を置いて、声が返る。
「嫌な気配じゃ。神の気配ではない。……止められておる」
止められている。
俺は像の足元にしゃがみ込む。
台座はない。地面からそのまま立ち上がっているように見える。足の裏と石畳が一体化している。触れようと指を伸ばしかけて、止めた。
「ココロワヒメ、解析できるか」
「……表層は完全に石質です。ですが内部構造に微弱な生体反応の残滓が検出されます」
一拍。
「完全な物質変換ではありません。外殻のみを石化させ、内部を閉じ込めている可能性があります」
胸の奥が冷える。
外側だけ固める。中身を閉じ込めたまま。
風が吹いた。
そのとき、磐座の表面がわずかに光った気がした。
岩肌のひび割れが、蛇のように走る。石像の影が長く伸び、足元を這う。
「……見られておる」
サクナヒメの声が低い。
俺は視線を上げる。
磐座の上部、暗い裂け目の奥。何かが動いたように見えた。黒と緑の揺らぎ。目を凝らすと、何もない。
沈黙。
境内の奥に、もう一体あるのに気づいた。
拝殿の前で膝をついたままの石像。両手を合わせ、祈る姿勢で固まっている。
祈った瞬間で、止められたのか。
「……これは警告か、それとも実験か」
独り言のように漏らす。
「観測の可能性が高いです」
ココロワヒメが淡々と続ける。
「前回までの敵と同様、戦闘ではなく“効果測定”を行っていると考えられます」
測るために、固める。
俺はゆっくり立ち上がる。
磐座を正面から見る。巨大な岩は何も語らない。ただそこに在る。だが、その存在感が妙に圧を持っている。
「サクナヒメ」
「うむ」
「これは、蛇の神ってやつか」
短い沈黙。
「違う。あれは“神ではない”。神の名を借りておるだけじゃ」
背筋が冷たくなる。
石像の一体が、わずかに軋んだ。
目の端で、石の粉が落ちる。振り向くと、像の瞳に細いひびが走っている。
ひびは、内側から広がった。
俺は息を整える。
「……来るな」
磐座の影が、ゆっくりと伸びる。
境内の空気が固まる。動きが、重くなる。
砂利の上で、足音がひとつ鳴った。