人斬り矢攻志郎   作:kita1751

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第1話

――元治元年 八月初旬 京・七条河原町――

 夕暮れが沈み、京の町に夜の帳が下りる。

 禁門の変からひと月。炎に包まれた御所の記憶はまだ生々しく、都は平穏を取り戻したかに見えて、なおどこかが緊張していた。

 長州は朝敵とされ、討幕の声を上げる者たちは姿を潜めた。新選組は斬奸の名のもと、町を駆ける。赤乱隊と呼ばれる新興の武士団も、京の治安維持の任に就き、浪士狩りは日に日に苛烈さを増していく。

 だが――その裏で、音もなく忍び寄る“影”があった。

 その名を、矢攻志郎(やこう・しろう)という。

 出自、不明。かつての藩も、所属も、何一つ明かされぬまま、ただその“技”だけが語られていた。

 長州にも与せず、薩摩にも属さず、攘夷とも佐幕とも言えぬ思想。名乗らず、語らず、そして誰にも仕えぬ。

 彼が残すものは、ただ一つ。

 死、であった。

 八月初旬の夜。

 七条河原町の裏長屋で、ひとつの死体が発見された。

 死んでいたのは、元会津藩監察・深見左内。

 かつて浪士取締の任にあった男で、今は京に残り密偵活動に従事していたと言われる。

 発見時、男の喉元には深々と刀傷が一つ。

 血は噴き出した痕もなく、驚いたような表情のまま崩れ伏していた。

 争った形跡は皆無。部屋は整い、凶器も持ち去られていた。

 あまりに静かな死――それが、逆に町を震撼させた。

 「まるで、死神が通り過ぎたようなもんや……」

 噂が広がるにつれ、人々の口から一人の名が囁かれるようになる。

 矢攻志郎――影を斬る男。

 彼は、何者なのか。何のために斬るのか。

 そして、この“静かな殺し”が、やがて赤乱隊をも巻き込む嵐の兆しであることを、まだ誰も知らない――。

当時、京都には赤乱隊と呼ばれる信濃藩藩主松平信秀直属の治安維持組織が居た。

 

信秀を征夷大将軍に擁し、徳川とは異なる体制を築く。

 そのための旗印が、**赤乱隊(せきらんたい)**である。

 赤乱隊は、戦乱の常道を破る異端の集団だった。

 出自も身分も問わぬ。才能と実力、忠義と胆力、それだけが値打ちとされる。

 鮮紅の陣羽織に身を包んだその一団は、内には学を求め、外には刃を振るった。

 時に京では新選組と共闘し、治安維持の任にあたったが、やがて利害の対立から敵対。

 諜報、誘導、陽動、斬撃――そのすべてをこなし、勢力を蝕む影の存在と化していった。

 「志なき者は要らぬ。だが、志ある者なら……下郎でも将となれ」

 赤松はそう言い、敵味方の身分を問わず多くの浪士を取り込んでいく。

 その動きは幕府を動揺させ、反徳川派に一筋の光明をもたらすと同時に、数多の血を流す理由ともなった。

 赤乱隊の剣。その源流を辿れば、すべて赤松 真に行き着く。

 そして、その剣を最も近くで学び、最も深く受け継いだ者たちがいる。

 間 栄人(あいだ えいひと)――一番隊隊長。

 無言実行を貫く寡黙な剣士。

 赤松が赤志館を開いた初期からの弟子であり、真の動きを最も正確に模倣できると評された男。

 剣は静かで鋭く、呼吸一つに合わせて人を斬る。「影の任務」に向いていたのは、剣の性質ではなく、彼の“沈黙の信念”にあった。

 尾田 京助(おだ・けいすけ)――二番隊隊長。

 剣術の才は幼少から知られ、赤志館でも「理」を極めた技巧派。

 理屈では誰にも負けぬ構えと、刃と刃が触れ合う寸前に勝敗を決める間合いの達人。

 赤松の「斬るな、斬れ」という教え――即ち、“無駄な殺しはせず、殺すと決めた時は一太刀で”を最も忠実に実践する。

 矢制 新二(やせい・しんじ)――三番隊隊長。

 力任せの剣と思われがちだが、それは誤解だ。

 その豪剣の中にこそ、赤松の教えた“肚(はら)”と“理”が詰まっている。

 彼は、「一撃で終わらせる覚悟」こそが赤乱の剣と信じて疑わない。

 三人は、赤松 真を師として仰ぎ、共に信州の地で汗を流し、命を張り、剣を磨いてきた。

 彼らの剣筋は三者三様ながら、いずれも「二宮流」を源としておる。

されど、そのあまりの技量と沈黙、また任務中に見せる不可解な行動のせいで――

「矢攻志郎の正体は、この中におるのではなかろうか」

と町中に疑いの声が広がっておった。

それでも、三者三様ゆえ、誰が矢攻の正体かは誰も知り得ぬままであった。そこで、作者の私はこんな小説を読者に贈りたい。 

 

 

「“京に蠢く剣を、静かに摘み取れ”――それが密命の全文だ」

 赤松の言葉に、三人の弟子たちは目を細めた。

 間 栄人がすぐに口を開く。

「……どういうことでしょうか? それでは、まるで謎かけのようです」

 だが、赤松はその問いには答えず、やや間を置いてから、静かに口を開いた。

「――わしは、殿を将軍にしたい」

 その一言に、座敷の空気が変わった。

 赤乱隊の総隊長・赤松 真は、決して軽々しく夢を語る男ではなかった。されど、今のその声音には確固たる意志があった。

「徳川は二百年、時代を治めてきた。だが、もはや政は腐り、諸侯は動かず、民は苦しんでおる。戦なき治世が長く続いた代償じゃ。……今こそ、ただの血筋ではなく、“志”ある者が天下を治めねばならぬ」

 矢制 新二が低く息を吐いた。

「それが……殿と?」

「うむ。殿は――信濃の小藩にあって、民をまとめ、内政を立て直し、朝廷と幕府の両方に影響を及ぼす手を打ってきた。武に明るく、学に通じ、政の才もある。将軍の器は、あの方を措いて他にはおらん」

 赤松の声には熱がこもっていた。師でありながら、忠臣でもあった。松平信秀の夢は、すなわち赤松自身の夢でもある。

「だが、その道は平坦ではない。今の京は、政と欲と怨念のるつぼ……剣が交わりすぎて、誰が敵で誰が味方かもわからぬ。だからこそ、殿はこう命じたのだ。“蠢く剣を、静かに摘み取れ”と」

尾田 京助が、目を伏せたまま問う。

「“蠢く剣”……それは、長州、薩摩でしょうか?」

 すかさず、間 栄人が続ける。

「あるいは、土佐や肥前の攘夷志士……」

 赤松は静かに首を振った。

「もう一つ、おるだろう。……壬生の狼だ」

 その名を聞いた瞬間、三人の背筋に微かな緊張が走る。

 ――新選組。

 京の町を震え上がらせる異形の剣客集団。幕府に忠誠を誓いながらも、その実、己が信じる秩序のために刃を振るう獣たち。

 赤松は続ける。

 

「攘夷派などよりも、新選組は遥かに優れた剣客集団だ。剣の技も、組織の統制も桁違い。なにより、あやつらには“鉄の掟”がある」

 

 言いながら、赤松の声音には僅かな重みが宿った。

 

「一度刀を抜けば、斬るしかない。裏切り者には切腹を命じ、脱走者には容赦なく死を与える。恐怖で縛りながら、武士以上に武士らしく振る舞うことで、壬生の者たちは己を保っておる」

 

「あやつらがいると、殿の野望を――新たな世を築くという真の大義を、歪められかねぬ」

 尾田 京助が、静かに眉をひそめた。

「新選組が……邪魔になると?」

 赤松は頷いた。

「うむ。あやつらの忠義は“幕府”に向いておる。あの頑なさは、いかなる変革の風も、力で押し返す。たとえそれが、この国を救うための一歩であっても、だ」

 間 栄人が、小さく息を呑む。

 「どういうことでしょうか?」

 尾田 京助が低く問うた。言葉は穏やかだが、その眼差しには鋭い光が宿っていた。

 赤松 真は、静かに息を吐いた。

「“変革”とは、常に血の上にしか咲かぬものだ。……だが、むやみに流せば、それはただの暴虐となる。だからこそ、的を絞らねばならん」

 言いながら、赤松の声はさらに低く、研ぎ澄まされた刃のようになった。

「天に二日はいらぬ……」

 一瞬、空気が揺れた。

「――この京に、ふたつの“秩序”は必要ないのだ。我ら赤乱隊は、武による正義でも、官軍気取りの高説でもない。“民のため”という一心で動いている。だが新選組は違う。あやつらの刀は“幕府”のためにある。いかに民が飢え、国が腐ろうとも、“上からの命令”を守るのが正義だと信じている」

 赤松は、立ち上がり、歩みを止めた。

「……京は変わらねばならぬ。この国の中心が、まず揺らがねば、どれほど信秀殿が大義を掲げようと、ただの夢で終わる」

 その瞳には、まるで遠くを見据えるような光が宿っていた。

「京を支配せねばならん。官も、町も、寺も、裏も、すべてが我らの声で動くようにせねば、この地に新たな秩序は築けぬ。……それこそが、殿の野望を“形”にする唯一の道よ」

 言葉が落ちた瞬間、誰も口を開かなかった。

 尾田 京助が、ふと低く唸るように言った。

「……つまり、新選組を討つことで、京の“秩序”を塗り替えると……そういうことですね」

「うむ」

 赤松の返事は簡潔だった。迷いも、情もなかった。

 

 「……されど、正面切って事を構えば、後々、面倒なこととなろう」

 赤松 真は低く呟き、盃をひとつ脇にやった。

 「奴ら――新選組なるは、京の町では“正義”面をしおる。ゆえに我らが剣を振るえば、世の目はたちまちこちらを“賊”と見なす」

 尾田 京助と矢制 新二が、無言でうなずく。

 「ゆえに……攘夷派を装うのじゃ。“天誅”とでも名乗れば、京の民草もあえて追及はすまい」

赤松の目は、すっと間 栄人へ向けられた。

「分かりました。お受けいたします」

間は静かに言い、尾田も矢制も頷いた。

 

 

 「うむ……さようなれば、こちらで名を拵えよう」

 赤松は懐より文を取り出し、硯に墨を落としながら筆をとった。

 さらさらと書きつけられた名は――

 《矢攻 志郎》

 「“やこう……しろう”?」

 尾田が眉を寄せた。

 赤松は筆を置き、微かに笑みを浮かべる。

 「“矢攻”と書いて“やこう”じゃ。矢のごとく真っ直ぐに、ためらいなく敵を貫く意。“志”は志(こころざし)、志士の志よ。“郎”は……人として生まれし、報いを背負う者の証じゃ」

 矢制 新二が静かにうなずく。

 「戻らぬ覚悟にて放たれし、一本の矢……か」

 赤松 真の眼光が、部屋を横切る風のごとく三人をなぞる。

 そして、重々しき声を放った。

 「……“矢攻 志郎”という名、ただ一人のものにあらず。――間よ、尾田よ、矢制よ」

 赤松は、一枚の紙を取り出し、その名を墨で大きく書き記す。

 「この名は、夜に生きる者の“影”よ。すなわち――“矢攻 志郎”を名乗る者、常に一人とは限らぬ。斬り捨てた者の数だけ、“矢攻 志郎”は生き続けるのだ」

 尾田 京助が、目を細める。

 「……その名にて、斬るのですか?」

 「さよう。“赤乱”の名を伏せ、矢攻の名にて斬れ。“志”を攻める、と書いて“矢攻”――いかにも攘夷の志士めいた字面よ。疑う者も、まずあるまい」

 赤松は立ち上がり、三人を正面に見据えた。

 「今宵より、三人とも“矢攻 志郎”となるがよい。京に血を流すとき、その名を使え。……誰が斬ったか、何人であろうと、残るは“矢攻 志郎”ただ一人」

 「まさしく影法師……」

 矢制 新二が、口元を歪めた。

 「おのおのが、“志郎”として生き、“志郎”として斬り、“志郎”として消える。見事な策にござるな」

 間 栄人が、静かに名を口にする。

 「矢攻 志郎……“志を貫く矢”、その名に恥じぬ働きを」

 尾田もまた、刀の柄に手をかけ、軽く目を伏せた。

 「この命、矢攻の名と共に捧げよう」

 赤松の眼に、わずかに光が宿る。

 「よいか。“矢攻 志郎”は、おぬしたち三人に託した“影の義”よ。――義に迷うな。斬るべきは、“正しさ”を偽る者どもじゃ」

 京の夜に、名もなき“志郎”が三人。

 その名は、やがて剣の噂となり、風のように広がってゆく。

 

 しかし、斬られたのは、幕吏や新選組の者ばかりではなかった。

 風聞が市井に広がり始めたころ――同じくして、長州浪士二名、薩摩の志士四名、土佐の若者四名が、立て続けに何者かに斬られたのだ。

 いずれも京の路地裏、あるいは茶屋街の路地で、或いは勤王の密会からの帰路で。

 すべてが一太刀。

 頸動脈を断ち、心臓を貫き、あるいは胴を断ち切って――いずれも剣技に覚えのある者でなければなしえぬ所業。

 そして例外なく、現場には血に滲んだ一片の紙が残されていた。

 ――「矢攻 志郎」。

 

 

――それは、赤乱の影にして、京の夜を血で染める密命の剣。

 その正体は一人にあらず。

 斬り役、尾行役、監視役――三人一組にて動き、その都度、役目を入れ替える。

 誰が斬るか、誰が尾を引くか、誰が見張るか――それを知るのは、その場の三人のみ。

 かようにして、姿なき刺客「矢攻志郎」は、京の裏路地に幾たびも現れては、また消える。

 

 その夜、標的は幕府目付の佐渡山宗庵。

 行く先々に目を光らせ、攘夷志士の動向を詮索していた男だ。

 ――まず、標的の動線を読み、尾行役がその背を追う。

 この夜、その役を担うは矢制 新二。

 左手に護身用の木杖を持ち、商人のふりをして歩く。

 その視線は常に標的の背に――まるで獣のごとき執念。

 監視役は尾田 京助。

 高所より全体を俯瞰し、周囲の動きを見張る。

 時に合図を送り、時に路地裏に人影が差さぬよう煙管火を投げて人払いする。

 そして、今宵の斬り役は――間 栄人。

 いつもは穏やかなる栄人が、この夜ばかりは斬鬼と化す。

 「標的、寂れた辻に入る」

 屋根上から京助の合図が降る。

 新二がわざと袋小路へ誘い込むように、足を緩める。

 ――そして、栄人が立つ。

 その袖から滑るは、研ぎ澄まされた細身の脇差。

 「佐渡山殿、閻魔さまが待っておられる」

 言葉が落ちぬうちに、刃が走った。

 首を断たれた標的の身体が、地に沈む音のみが、夜に響いた。

 後始末も素早い。

 血を拭い、刀を仕舞い、痕跡を消し、三人は何事もなかったかのように町の闇へと消える。

 

京は夕暮れ、風に柳が揺れていた。

 黒い着流しに身を包み、矢制新二は辻堂の影にひとり立っていた。

 今宵の標的――長州の密偵・桂村四郎。

 だが、男の背後には思わぬ影がついていた。

 ――河上彦斎。

 かの肥後が誇る剣客にして、勤王志士をも震え上がらせる人斬り。

 斬る相手が幕吏であろうと、同志であろうと、刀にためらいはない。

「……よもや、あの河上が動くとはな」

 屋根上の尾田京助が、呟きを風に消した。

 今宵の矢攻は中止――

 いや、否。

 矢制新二はその目を閉じ、ひとつ息を吐いた。

「俺が、やる」

 そう言って、新二は袋小路へ向かう。

 そこで待つのは、ひとりの刺客――

 紅の細身刀を腰に下げた小柄な男が、夕陽の影のなかに立っていた。

 

 

 

 背後より、別の気配が立つ。

 気配を隠さぬ、それでいて殺気もない。

 ――否。殺気すら“常なるもの”となった男。

 河上彦斎。

 京にその名を知らぬ者はいない。

 幕吏を斬り、浪士を斬り、志士をも斬る――

 長州の“狂犬”にして、“最も純粋な剣”。

「名を名乗れ」

 小柄な影が、雨に濡れた地面に声を落とす。

「……矢攻志郎」

 矢制新二は、そう名乗った。

 それが己の仮面であるとわかっていても。

「聞いたことがある。影より現れ、標的を消す者……今宵は、俺と斬り合え」

 二言、三言、それだけで十分だった。

 河上の刃が走る。

 踏み込みがない。にもかかわらず、その間合いに達する速さ。

 矢攻は下がらぬ。

 すれ違うように横に滑り、斬撃をかわし、

 返す一太刀を――「斬らず」に打ち込む。

 だが、河上の刀は、それすら許さぬ。

 二人の動きが、雨に融けていく。

 まるで刃が踊るように――いや、舞う。

 「名を名乗れ」

 細くも鋭き声が、雨音を裂いた。

 背の低き影が、路地の入り口に立っておる。

 痩躯、短刀のような眼光、濡れた袂が微かに揺れる。

 「……河上彦斎、か」

 矢攻が名を呼べば、相手は一歩、音もなく踏み出した。

 「その通り。おぬしが“影狩り”と噂の……矢攻志郎よな」

 矢制新二は、瞬きひとつせず応じた。

 「――仮の名にて候。それがし、今宵は“そなた”に用がある」

 「奇遇だ。俺もまた、斬ってみたくてな。おぬしのような“まことの剣”を」

 

 

二言、三言。それだけで十分であった。

 河上の刃が走る。

 踏み込みの気配すらなく、それでいて一閃、間合いに届く。

 矢制は、下がらぬ。

 刃をすれ違わせるように身を滑らせ、

 矢のような斬撃を紙一重でかわすと、

 反撃の一太刀を――「斬らず」、打ち込む。

 だが、河上の剣は、それすら許さぬ。

 流れる水のごとく身を捻り、矢制の攻め手をいなした。

 二人の動きが、雨の中に融ける。

 まるで刃が踊るように――否、舞うかのように。

 小さな音がした。

 息を吸う音か、血が落ちた音か、それとも――

 突如、矢制の構えが沈み、地を滑るように一歩踏み出す。

 その刹那、閃いた刃が、真っすぐに――河上の胸を穿った。

 突き。

 深く、迷いなく、ただひと筋。

 河上の瞳が、見開かれたまま、揺れる。

 そこには怒りも、恐れもなかった。

 ただ、静かな敬意と、ほんの僅かな笑みが――あった。

「……見事」

 そう一言、血とともに漏れた声が、雨に消えた。

 

 数日後――。

 長州藩邸の奥、桂小五郎は報告を受けていた。

 密偵が持ち帰ったのは、信じがたき一報であった。

「……河上が、敗れたと?」

 机の上に置かれた血濡れの羽織。

 確かに、彦斎の持ち物に違いない。

「はい。矢攻志郎という者との一騎討ちにて……胸を一突き、されたと」

 報告する男の声音には、震えが混じっていた。

 長州の狂犬――河上彦斎が、敗れるなど誰が想像したであろうか。

 だが、桂はすぐに沈思した。

 目を伏せ、扇子で口許を覆い、ひとつ長い息を吐いた。

「……よかろう」

 ゆっくりと、言葉を紡ぐ。

「河上は、生きておらねばならぬ。あの名は、剣以上の意味を持っておる」

「はっ……?」

「河上彦斎は、“恐怖”の象徴じゃ。幕府方にとっても、味方にとってもな。やつが斬ることで、我らの威は保たれておる」

 桂は立ち上がり、障子の外に目をやった。

 京の町が、霧雨の中に沈んでいる。

 後の文献において、河上彦斎の名が刻まれる暗殺事件は、驚くほど少ない。

 人斬りとして恐れられたその剣が、記録上では、ある時を境に沈黙するのだ。

 だが、それは決して彼が討たれたという意味ではない。

 むしろ、名だけが生かされた。彼自身は、剣を抜くことを許されなかったのである。

 矢制新二との対峙、その一太刀こそが、河上を“剣士”として終わらせた。

 それを知った桂小五郎は、すぐさま判断した――河上の「姿」は消しても、「名」は残せ、と。

 以後、京の闇に現れた「河上彦斎」は、かつての彼ではなかった。

 名を継いだ別人が、命を刈った。だがその斬り口は、どこか粗い。

 真の狂犬は、すでに牙を収めていた。

 河上本人は、表に出ることなく、静かに名を譲ったのだ。

 彼が再び剣を抜くことはなかった。

 名は駒として使われ、剣は鞘に――そのまま、歴史の闇に沈んでいった。

 

 夜の浜町河岸、勝海舟の屋敷。

 灯は落とされ、静けさばかりが支配していた。

 「……あれが、海舟の間か」

 三人の影が、瓦の上に伏せる。

 闇に生きる者の名――“矢攻志郎”。

 その正体は一つに非ず、時と場によって姿を変える三つの剣。

 今宵の斬り役は、間 栄人。

 「行くぞ」と言わぬまま、彼は風のように動いた。

 飛び降りた足音すら、夜の虫が呑み込む。

 だが、踏み込んだその先で、待ち構えていた男がいた。

 「おまんら、海舟先生の命、狙う気かえ」

 声は若く、だが冷えた鉄のような響きを持つ。

 灯の下、現れたのは――岡田以蔵。

 土佐の「人斬り」、幕臣の護衛に成り下がろうとも、その剣は健在であった。

 「矢攻志郎とやら……名を聞くのも、ここが最後ぜよ」

 以蔵が唇の端を吊り上げ、地を蹴った。

 踏み込み一閃。

 構えもなく放たれた斬撃は、まるで野獣が喉笛を裂くかのごとき速さと凶暴さを帯びていた。

 振るうというより、打ち込む。

 空気が裂ける音が夜を震わせた。

 が――その刃は、すんでのところで空を斬る。

 「ほう……」以蔵が低く唸る。

 そこに立っていたはずの男、間 栄人の姿は、既に一尺後方にあった。

 「退かんか、そりゃ面白ぇ」

 以蔵は畳みかけた。

 逆袈裟、胴、足、首――刃筋は躊躇なく、まるで命の価値など紙のように軽いと告げていた。

 間は静かに、ただ受けた。

 一の太刀、鋭く受け流す。

 二の太刀、捌いて紙一重で躱す。

 三の太刀、足をわずかに滑らせ、空間の裏に身を隠すように消えた。

 「――斬れねぇ……?」

 以蔵の額に汗が浮く。

 その刹那、閃きが走った。

 四の太刀を放った瞬間、以蔵の視界から、栄人の姿がふっと消えた。

 「……なっ」

 気づいた時には、冷たい感触が首筋にあった。

 月明かりの下、背後に立つ男――間 栄人が、剣の切っ先を喉元に突きつけていた。

 「早業……だと……」

 以蔵の息が荒くなる。

 膝が崩れ、音を立てて砂を噛んだ。

 背後からひとりの影が言う。

 「間、止めを刺せ。時間はねぇ」

 だが、栄人は剣を引いた。

 「勝海舟は、今日ではない」

 その声には、まるで風のような静けさがあった。

 三つの影が踵を返し、屋根を蹴り、闇へと融けてゆく。

 岡田以蔵は、膝をついたまま、空を睨んでいた。

 その瞳には、怒りでも、悔しさでもない――

 ただ、獣のような、本能的な“恐れ”が宿っていた。

 その夜、以蔵は死んだ。

 否――その命は、表の歴史から「死んだことにされた」のだ。

 間 栄人との一太刀勝負に敗れ、命を奪われた以蔵の亡骸は、闇に伏したまま放置されることはなかった。

 その首を回収したのは、坂本龍馬であった。

 「……以蔵。わしの、友やった」

 龍馬はその骸を前に、ただ一言だけ呟いた。

 血に塗れた喉元に手を添え、剣を握っていたであろう指を一つひとつ解いた。

 誰よりも人を斬り、誰よりも己を傷つけ続けた男。

 狂犬と畏れられながらも、心の奥底には、純朴な忠義と悲しみを抱いていた男。

 それが、岡田以蔵だった。

 龍馬はその死を、隠した。

 身代わりを用意したのは、長崎の古き同志。

 役人と通じ、記録をすり替え、牢に入れ、拷問の痕まで偽装させた。

 そして数か月後――

 京都にて「岡田以蔵」は斬首されたと発表された。

 以蔵の死は、世間の目からは忠義に背いた末路とされ、語られることも少なくなっていった。

 だが、龍馬だけは知っていた。

 本物の以蔵は、あの夜、己の剣が及ばなかった男に討たれ、静かに土へ還ったのだと。

 「以蔵、おまんのことは、わしが墓まで抱えていくきに……」

 彼は、友の魂を守るために「嘘」を歴史に刻んだ。

 それが、坂本龍馬にとっての、せめてもの弔いだった。

 

 

 幕末の京――

 その夜、またひとつ、幕吏の首が落ちた。

 やったのは、田中新兵衛。薩摩藩に連なる密偵にして、最凶の人斬り。

 名もなき小役人から、与力・目付に至るまで、田中の刃にかかれば、例外はなかった。

 斬る理由は――ただ一つ。「邪魔だから」だ。

 「幕府の腐れ役人どもは、京にいらん」

 そう吐き捨て、斬り捨ててゆく。

 その太刀筋は凄まじく、捕縛を試みた同心らも皆、返り討ち。

 街の者は言った。「人じゃない、化け物だ」と。

 だが、ある日から――その田中の背には、ひとつの影がついていた。

 尾田京助。赤乱隊二番隊隊長。

 得物は直心影流。沈黙と観察の男。

 田中が斬っては去るその後を、京助は言葉ひとつなく追っていた。

 追うこと、七日。斬られた幕吏、十一名。

 そして――その夜もまた、田中は血に濡れていた。

 池田屋裏手の細道、死角の闇に潜む瞬間を、尾田は見逃さなかった。

 

 「そこだ」

 闇から放たれた突きは、風も鳴かぬ鋭さ。

 「――っ!」

 田中が気づいたときには、既に肩を裂かれていた。

 「誰だ……ッ!」

 返す刃で切り結ぶ。

 (な、なんじゃ……こやつ……)

 敵の姿は見えない。気配も、ただの影法師のように朧。

 斬り返そうと刀を抜く――その手を、さらに一閃が貫いた。

 肘の腱が切れ、刀が地に落ちる。

 「お、おのれ……何者……っ」

 田中は地に這い、なおも問いかけた。

 「名を……名を名乗れ、卑怯者……!」

 返事はない。

 代わりに、足音すら立てぬ何者かが、その場を離れていく気配だけがあった。

 (誰なんじゃ……誰に……俺は……)

 人斬り田中新兵衛――

 その名を京の闇に轟かせた刺客は、

 己を討った者の名を知らぬまま、血に染まりて、静かに息絶えた。

 

 

 

 その夜、姿を消した人斬りを捜す声が、京の街に溢れた。

 町方も、辻番所も、浪人仲間も、口々に「田中新兵衛はどこだ」と叫び、路地の隅々まで目を光らせていた。

 だが――

 数日後、鴨川の河原に打ち上げられていたのは、一つの無惨な死体だった。

 顔は潰され、骨が砕け、指という指には焼け跡があった。

 皮膚は裂け、衣も剥がれ、誰のものともわからぬ、まるで“誰かにされた”かのような遺骸。

 検屍にあたった町役人は、長い沈黙ののち、記録に一行だけを残した。

 ――「ただの浮浪浪人、変死体にて処理」と。

 だが、その死体には、腰にわずかに残された柄巻の切れ端があった。

 それが“田中新兵衛”のそれと同じものである、と語る者もいた。

 それでも、名は記録に刻まれなかった。

 ――誰かが、死を偽装したのだ。

 それが尾田の手によるものか。あるいは、彼の正体を知る者の策か。

 新兵衛を恐れた誰かが、「歴史から名を消す」ために仕組んだ可能性もある。

 真相は、今も闇の中にある。

 

 西郷隆盛――その威風、まさに動かざる大山のごとし。

 だが、彼を真に護る“剣”こそ、この男にほかならぬ。

 中村半次郎。後の名を桐野利秋。

 薩摩が誇る隼のごとき男。黒羽織の裾を翻し、己が主君の前に立つその姿は、まさに“死を斬る者”の風格をまとっていた。

 そんな彼らのあとを、静かに追う者があった。

 赤乱隊三番隊隊長――矢制新二。

 石畳に音も立てず歩を運び、やがて距離を詰めて声を発する。

 「お伺い申す、西郷殿とお見受けいたすが……」

 

 「……何のようでごわす」

 西郷隆盛が重く口を開く。その声は静かでありながら、聞く者を威圧する山の如き重みがあった。

 その前に立つ矢制新二は、一歩踏み出し、鋭く告げる。

 「貴殿は――我らにとって、あまりにも大きな脅威。ここで、消えてもらう」

 言葉と同時に、鞘鳴りが走った。

 矢制の手が、ためらいなく刀を抜く。

 直後、中村半次郎もまた、静かに一歩を踏み出す。

 「……ならば、わしを斬ってからにせんか」

 その声とともに、黒羽織が風に舞い、鞘から閃く刃が抜かれる。

 死と死とが対峙する瞬間。

 京の夕空を裂くように、二人の剣士が、無言で踏み込んだ――。

 鴨川のほとりにて――

 夜はすでに更け、京の空は雲に閉ざされていた。月すら顔を隠し、ただ、二振の剣のみが光を放つ。

 中村半次郎――

 薩摩が誇る剣鬼、その踏み込みは疾風。

 対するは矢制新二、赤乱隊の矛。怒涛のように押し寄せるその剣は、山を割るがごとき重みを持っていた。

 「はッ!」

 半次郎が斬り込む。

 鋭い一閃、だが――矢制の剣は動じぬ。

 右肩から左腰へ、半太刀を受け流し、瞬時に反撃の一太刀。

 「ぬう……ッ!」

 受け止める。だが、矢制の剣は重い。剣気に気圧され、膝がわずかに沈む。

 「剛の者よ……名に恥じぬ!」

 半次郎は笑った。

 だがその笑みも束の間、矢制が踏み込む――その一歩は、まるで大地を揺るがすかの如し。

 刹那――

 矢制の剣が唸りを上げた。空を裂く豪剣、一太刀にて風を切り裂き、半次郎の防御を粉砕する。

 「ぐッ……!」

 鋼と肉とが交わり、血飛沫が舞った。

 中村半次郎――その身体が、ついに地に伏す。

 「……見事……じゃった……」

 荒い呼吸の中、半次郎はなお笑みを絶やさぬ。

 

中村半次郎が地に伏した。

 血の匂いが、風に乗って流れていく。

 矢制新二は一瞬、静かに刀を納め、半次郎の死に敬意を表した。

 ――そのときだった。

 ふと顔を上げる。

 ……西郷の姿が、ない。

 「……抜けたか」

 辺りに気配は残っていない。

 群衆も兵もおらず、あるのは死と夜風のみ。

 矢制は舌打ちした。

 「さすが、ただ者ではないな……あの巨体で、よくもまあここまで素早く……!」

 己の目の前で、忠臣を盾に時間を稼ぎ、なお逃げおおせる。

 それは侮蔑すべき逃走ではない。生き延びるための、老獪で冷静な判断。

 「中村を失っても、己を守り切るか……“西郷隆盛”」

 その名を呟いた矢制の目に、わずかな怒りと警戒が宿る。

 ――今宵は逃した。だが、次はない。

 静かに夜が明け始めていた。

 西郷隆盛――その巨体を闇に隠し、京の街を離れた。

 耳に入る知らせはひとつ。中村半次郎が、矢制新二の豪剣に討たれた――という報であった。

 西郷は黙して座し、やがて小さく息を吐いた。

 「ならば――死を偽らねばなるまい」

 その言葉に、覚悟と慈しみが混ざる。忠臣を敵に討たせることなく、歴史に名を残すための、唯一の策。

 半次郎の存在は、表の記録から姿を消すこととなる。

 しかし、薩摩の隠れた道では、彼の名は生き続ける――桐野利秋として。

 西郷は、その場で手を打った。死体の処置、周囲への偽装、京の町への目くらまし。

 中村半次郎――その名は、京の闇に消えた。

 矢制新二との死闘の果て、彼は討たれた――はずであった。

 だが、それは真実ではなかった。

 敗北を喫し、深手を負いながらも、彼はわずかに命を繋いでいた。

 西郷隆盛はその姿を見つけるや、すぐさま策をめぐらせた。

 「半次郎……このまま表に名を残せば、敵どもは容赦せぬ。ならば、おまえは――」

 そしてその日より、“中村半次郎”は歴史から姿を消した。

 代わりに現れたのが、「桐野利秋」という男である。

 新たな名を持ち、傷を隠し、半次郎は再び西郷の傍らに立った。

 幕末を生き、明治を駆け抜けた剣士。

 表には出ぬその真名は、いまも歴史の影に息づいている。

 中村半次郎は、死ななかった。

 彼は名を変え、明治まで生き続けたのだ。

 

 四大人斬り――河上彦斎、岡田以蔵、田中新兵衛、中村半次郎。

 幕末の世を血に染めた剣客たちは、その名と共に恐れられた。

 されど、これらの剣鬼を討ったのは、いずれも一つの影――

 すなわち、赤乱隊の面々であった。

 各地に潜み、あるいは策略をもって、またあるいは正面から刃を交え、

 赤松真の教えを受けし者たちが、静かに人斬りどもを葬っていったのである。

 だが――後年、歴史はその事実を伝えなかった。

 記録に残ったのは、討たれた者の末路ではなく、

 あたかも彼らが自然に朽ち果て、あるいは明治に生きたかのような虚像のみ。

 中村半次郎に至っては、「桐野利秋」と名を変え、明治新政府の要職を務めし者として語られる。

 その真がいかにして捻じ曲げられたか、知る者は少ない。

 ――時代が変われば、正義も変わる。

 真実は、常に勝者の都合によって塗り替えられるのだ。

 されど赤乱隊は知っていた。

 彼らが斬ったのは、ただの剣士ではない。

 時代を狂わせる“魔”であり、人の道を外れた“刃”であったと――。

土方歳三は眉を寄せ、手元の報告書を睨みつけた。

 「妙だ……妙すぎる」

 京の町に潜り込ませた密偵たちの情報は、一様にこう伝えていた。

 赤乱隊――その動きは、時に表の任務と異なり、夜陰に紛れて不可解な行動を繰り返しておるという。

 「暗躍しておる……ただの浪士ではない」

 歳三は机を拳で叩いた。

 これまで赤乱隊の存在は、表面上、治安維持の任にあるだけの集団に見えていた。

 だが、密偵の報告は、それを覆す。

 彼らの足取りは、標的を追い、斬る影の存在――矢攻志郎の噂と符合していたのである。

 「……赤乱隊か。そなたら、何を企む」

 疑念が土方の胸に渦巻く。

 忠義の剣士たちである自らの眼に、これほどの影が映るとは、想像だにせぬ事であった。

 夜の京、風は吹き荒れ、密偵の報告は次第に土方の心を縛りつける。

 ――赤乱隊。影の剣士たち。その真意は、一体どこにあるのか。

 京の一角、壬生浪士組──新選組の屯所。

 夜が深まり、蝋燭の火がゆらゆらと揺れる中、土方歳三は三人の隊士を前に立った。

 「赤乱隊の剣客、矢制新二……を追え」

 静かに広げた地図に、男の足取りをなぞるように指を這わせ、土方が低く言い放つ。

 「この数日、京の裏で不穏な動きがある。……獣の臭いがする。おそらく、こいつが“矢攻志郎”だ」

 その名に、沈黙が落ちた。

 斎藤一は無言でうなずき、沖田総司は扇子をくるりと回して口元を隠す。

 永倉新八が、半ば呆れたように口を開く。

 「こいつが……噂の人斬りってのは。本当にそんな奴がいたんですね」

 土方は鋭い目を向ける。

 「いや、もう一歩踏み込んで考えろ。──ただの人斬りじゃねぇ。赤松真の弟子、赤乱隊の一番隊隊長……剣に生き、闇を往く男だ」

 沖田が茶目っ気混じりに呟く。

 「“矢攻志郎”って、なんだか悪役みたいな名前ですね。尾行して出てきたら、挨拶くらいはしてくれますかね?」

 「馴れ合うな」

 土方が一喝し、地図を指で叩く。

 「こいつは斬ることに迷いがねぇ。殺気のない顔で、平気で喉を裂いてくる類だ。覚悟しとけ」

 斎藤が低く答える。

 「……命令は?」

 「尾け。尻尾を掴め。必要ならば、腕の一本、脚の一本へし折ってでも連れてこい」

 永倉が薄く笑った。

 「ずいぶん荒っぽい命令ですねぇ。まあ、嫌いじゃない」

 蝋燭の火が揺れ、三人の影が壁に踊った。

 静寂が、やがて出陣の気配に変わる。

 「赤乱隊を──矢制新二を確保しろ」

 土方の声が静かに響いた。

 その夜、京の闇へと、三つの影が溶けてゆく。

 矢攻志郎──矢制新二の行方を追って。

 

 

 目標の影がふと足を止めた。

 空気が張り詰める。

 

 「……さきほどから、つけ回されているようだが」

 低く、穏やかだが芯のある声が背を向けたまま響く。

 「何用でござろうか。新選組の方々」

 

 斎藤が前に出る。足音を立てぬよう歩き、静かに言葉を返す。

 

 「矢攻志郎──いや、矢制新二だな。おぬしに話がある」

 

 男が振り返る。

 月明かりに照らされた眼光は、まるで猛禽のそれ。

 

 

 「はて、何のことか。拙者ただの素浪人。天下の新選組が、浪人ひとりに夜回りとは──ずいぶん暇そうでござるな」

 皮肉ともつかぬ穏やかな声音。しかし、その眼差しは笑っていない。

 永倉が笑うように言い返す。

 「言うねえ。たしかに暇かもしれねえが、あんたの首をとるだけの理由は、こっちにゃ山ほどある」

 「なるほど。ならば問うが、拙者が誰を斬った?」

 矢制──否、矢攻志郎と目される男は、一歩も動かず問いかけた。風が吹き、袴の裾が揺れる。

 沖田が扇子を口元に当てたまま、ぽつりと漏らす。

 「京の辻斬り騒ぎ。証はない。でも、すでに何人も斬られている。斬られた連中に共通しているのは──“赤乱隊に仇なす者”ってことだけ」

 「……ふむ」

 

 「……ほう、そのような凶行が溢れているとは京は怖いところ。新選組のご活躍をお祈りします」

 涼しい顔でそう応じる矢制。だが、その目には明らかな戦意が宿っていた。

 永倉が一歩前に出る。草履が土を踏み、わずかに音を立てた。

 「お祈りだけで済むなら、こっちも苦労しねぇ。……さて、首に縄をかけさせてもらおうか。素浪人さんよ」

 「なんとも物騒なお言葉。しかし……お引き取りを願いたい」

 「拒否権はねぇよ」斎藤の声が鋭く割って入る。

 次の瞬間、矢制の体がすっと沈んだ。右手が柄に触れる。風が止み、空気がぴんと張り詰める。

 「……おやおや、問答の刀も抜かずして終わりとは。──武士の世も変わったものだ」

 その言葉と同時に──

 斎藤が動いた。土を蹴る音。沖田が後方に回り込む。永倉が踏み込み、抜刀の構えに入る。

 矢制の体がふわりと揺れ、抜刀。瞬きする間もなく、斎藤の刃と矢制の刀が激突した。

 火花。鉄の音。静かな夜に、斬鉄の響きが鮮やかに跳ねた。

 

 「……」矢制は三人を睨む。瞳には怒りも焦りもなく、ただ深く静かな、湖底のような澄んだ暗さがあった。

 風が吹いた。

 沖田の頬をかすめたその風に、殺気が混じる。

 「名を偽って何を守っているのかは知らないけど……あなた、赤乱隊の一員ですね」

 沖田が静かに言うと、矢制──否、矢攻志郎は目を細め、ふっと笑んだ。

 沖田が静かに言うと、矢制──否、矢攻志郎は目を細め、ふっと笑んだ。

 「さぁな。なんのことやら。赤乱隊? 人斬り? 物騒な話はご免こうむりたいものだ」

 飄々とした声音。しかしその足元には、微塵の隙もない。

 「しらを切るつもりなら、屯所へご招待しようか」

 沖田が口元に扇子を当てたまま、笑みを崩さずに言った。

 「新選組名物の拷問って茶菓子があるんだ。杭に括りつけ、蝋燭を垂らしてじっくり話を伺う――甘味は出ぬが、泣き声はよく響く」

 「拷問とは……そのような“雅な茶菓子”は、草深き国の出身ゆえ、馴染みが薄い。──だが、味わうつもりも毛頭ない」

 矢攻志郎は静かに言い放つ。声には怯えも怒りもなく、ただ凪のような冷淡さがあった。

 永倉が鼻で笑う。

 「いやいや、せっかく京に来たんだ。楽しまなきゃ損だぜ?」

 言葉とは裏腹に、永倉の足がわずかに動いた。

 

刃を交えるよりも先に、言葉の応酬は終わっていた。

 もう笑ってはいなかった。永倉新八の瞳に浮かんでいたのは、ただ「闘い」の色だ。好戦者のそれ。修羅場を嗅ぎ慣れた獣のような目。

 ──来る。

 思考より先に、身体が動いた。矢制新二は、斜めに身を引いた。

 その直後、空を裂くように、永倉の刃が畳を滑った。

 早い。

 重い。

 そして、迷いがない。

 矢制は小太刀を抜くと、左に半歩流し、流れるように脇腹を狙って打ち込んだ。

 ──受けられた。鍔迫り合い。火花が散る。

 「やるじゃねぇか、田舎者」

 永倉が笑う。その剣先には遊びがなく、次の瞬間には蹴りが飛んでくる。

 (冗談に見せて、殺気を隠してる……)

 矢制は足元を払われかけ、体を捩って受け流した。息が乱れぬよう、最小限の動きでかわす。

 殺気を、読みすぎるな。目の前の剣筋だけを見ろ。

 そう己に言い聞かせる。

 永倉の剣は、剛と剛。型など捨てている。いや、それすら“型”なのだろう。

 「殺し合い」の中で磨かれた剣。

 (新選組……これが)

 一瞬、胸に棘のような感情が刺さる。

 赤松先生の剣は、こうではなかった。

 矢制は息を整え、間合いを取ると、小太刀を逆手に構え直した。刃を返す音だけが、部屋に響く。

 やるしかない。口ではなく、剣で通すしかない。

 「来い」

 矢制の声は低く、凪いでいた。

 決して気を張るのではなく、ただ、己の命を一本にしている声。

 永倉の笑みが消えた。

 今度は本気で斬りに来る。

 ──この一太刀、死合いとなる。

 ──次は、こちらの番だ。

 矢制は足を滑らせるように踏み込み、剣を一閃。

 小太刀とは思えぬ重圧と速度が、永倉の防御を削った。永倉が身を逸らす、紙一重の間合い。

 「くっ……!」

 舌打ちが聞こえた。だがその音は、もはや余裕の裏返しではない。明らかに、苛立ちと焦り。

 矢制の剣──それは、矢のように鋭く、斧のように重かった。

 研ぎ澄まされた刀筋に、力がある。剣筋の理に、体の芯から通った剛が乗っている。

 それは赤松真の道場で叩き込まれ、実戦の地で磨き上げられた剣だった。

 (この男……斬れない。いや、斬らせてくれない……!)

 永倉新八が後退した。畳を踏みしめる足音が、初めてわずかに乱れた。

 肩が揺れている。息が乱れている。

 矢制は追撃した。動きにためらいはない。

 刃を上段から叩き下ろす。受けた永倉の腕が、わずかに痺れたように下がる。

 ──あと三手。

 矢制は、そう見た。

 あと三手で、この男の肩を斬り落とす。

 永倉の目に、焦りと、怒りと、そしてわずかな──

 恐れが宿った。

 (終わる……)

 その瞬間だった。

 「やれやれ、永倉さん。少しばかり、休んでいてくださいよ」

 涼やかな声がした。

 矢制の首筋に、わずかな殺気が走ったと同時に、風を切る音。視界の端から、白刃が横合いに迫る。

 ──速い。

 矢制は咄嗟に跳び退いた。頬に、一筋の熱。

 白い肌に、赤い線が走っていた。浅い斬り傷。

 振り返れば、そこに立っていたのは、白い羽織。

 柔らかな笑みを浮かべた青年──沖田総司。

 「すみませんね。彼、負けず嫌いなもので」

 沖田が、冗談めかした声で言った。だがその刃先には、笑いなど一片もない。

 矢制は額の汗を拭い、小太刀を握り直した。

 ──これが、新選組の二枚看板か。

 構えのまま、静かに息を整える。

 斬るべき敵が、増えた。

 だが、怯えはない。

 矢制新二の剣が火花を散らした。

 永倉新八の剛剣と拮抗し、斬り下ろされた一太刀を受け止めた刃が、甲高く響く。

 矢制は静かだった。

 怒りも焦りもなく、ただ冷徹な集中がその目に宿っている。土埃の舞う座敷で、鋭く踏み込んだ。

 「……ちぃっ、なんなんだコイツ」

 永倉が毒づく。間合いを取り直そうと後退した刹那、背後に忍び寄る気配があった。

 沖田総司だ。笑みを浮かべつつ、薄刃のような殺意を携えて矢制の側面を狙う。

 斬る──そう思われた一瞬、横合いから黒衣の影が割り込んだ。

 尾田京助だった。

 「遅れた。すまん」

 それだけ言って、尾田は沖田の斬撃を受け止めた。

 力まず、しかし芯のある剣筋が、沖田の手首の動きを封じる。

 「……もう一人、来ましたか」

 沖田が目を細める。

 その直後、矢制の左背後からさらに一陣の風が吹く。間栄人が突入した。

 小太刀の刃が永倉の脇腹をかすめる。永倉が肩を引いてかわすが、間の連撃は止まらない。

 「加勢する。今度は三人だ」

 声に焦りはない。短く要点だけを伝えるその調子は、平時の訓練と変わらぬ。

 矢制は頷きもしない。ただ剣を握る手に力がこもる。

 彼は言葉より先に斬る。

 三人が剣を交錯させる。互いに指示も呼び声もない。

 それでいて、ぴたりと連携はかみ合う。

 尾田は沈着に沖田を相手取り、間は斬れ味鋭く永倉を牽制する。

 矢制は中央で呼吸を整え、機を見て動く。

 永倉が苦笑し、汗を拭う。

 火花が弾け、息がぶつかり合う。

 六つの影が座敷の中で交差した。

 矢制新二は永倉新八と剣を交え、互いに譲らぬまま攻防を繰り返す。

 その脇では尾田京助が沖田総司と対峙していた。どちらも沈黙を貫き、斬撃のたびに目が研ぎ澄まされていく。

 間栄人は後方から支援のように立ち回り、空いた間合いを縫うように突きを繰り出す。

 そこへ、新たな影が座敷に踏み込んだ。

 黒羽織を翻した新選組の一人──斉藤一だった。

 「助太刀しよう」

 声は低く鋭く、すでに抜かれた刃が月光を映す。

 斉藤は尾田の背に向けて踏み込んだ。

 「……っ!」

 尾田は気配に応じて振り向きざまに受けた。火花が飛び、足元の畳が裂けた。

 斉藤の剣は重く速い。沖田が一歩引いた分、斉藤が攻勢に出る。

 六人が揃った。

 刃が交差し、足音と息遣いが混じり合う。

 だが、言葉はない。誰も指示を飛ばさない。誰も名前を呼ばない。

 矢制は永倉の剛剣を受け止め、逆に肩へ打ち下ろす。

 永倉は刀で受けて受けて、だがその手に力が入りすぎている。焦っているのが見てとれた。

 尾田は斉藤と沖田、二人を相手取って動く。無理をせず、しかし一歩も引かず、剣の呼吸を乱さない。

 間は矢制に追いつき、横合いから永倉の膝下を狙った。永倉がそれを蹴り払う。泥臭く、だが確かに強い。

 「思ったより……やるな」

 永倉が息を吐いた。

 「……三人が連携してるのか、いや、連携じゃない。ただ“邪魔しない”だけだ」

 まるで水が流れるようだった。

 誰が前に出ても、誰が下がっても、残りがそこを埋める。言葉も意図も交わさずに。

 矢制が斬り上げ、永倉が下がる。

 そこへ間が飛び込み、矢制と入れ替わる。続いて尾田が沖田と斉藤の間を抜けて援護に回る。

 三対三。

 だが、赤乱隊の三人の剣筋は、一人ひとりが自由に動いているようでいて、なぜか隙がない。

 それはまるで──

 「……おい、こいつら、訓練してやがるな」

 永倉がつぶやいた。

 「三人で組んで動くのに、無駄がねぇ」

 沖田が微笑んだ。

 「楽しそうだ。これは──遊びがいがある」

 座敷の空気が、斬撃で刻まれていく。

 畳が裂け、壁が割れ、木の柱に刃が突き刺さる。

 矢制は一歩踏み出す。

 視線の先には、永倉の荒い呼吸。

 ──倒すのは、今。

 それを察したか、斉藤が横から刃を差し込んできた。

 矢制は身を引いて受ける。鋭い。が、読める。

 この男も、命を斬るために生きてきた者だ。

 刃と刃が鳴る。六人の剣士が、ただ無言のまま、その場にある唯一の言葉――「斬る」という意思だけで、語り合っていた。

 

 畳が焼けるような熱気の中、六人の斬撃が交錯し続けていた。

 だが──その均衡は、僅かに傾いた。

 尾田の額から一筋の血が流れた。

 その斬撃は斉藤のものだった。深くはない。しかし、明確な“変化”だった。

 沖田の動きも、冴えていた。

 踏み込みに無駄がなくなり、尾田の防御の隙をわずかに削っていく。

 一方、永倉は矢制との鍔迫り合いの中で、気迫を剥き出しにしていた。

 その目は「追い詰めた」と言っていた。

 間が、察した。

 一歩、引いた。

 ほんの半歩だ。だが、その動きに尾田が応じる。

 尾田が斉藤の剣を受け流し、後方へ弾かれるように退いた。

 続いて矢制が永倉との間合いを詰めた──かに見えたが、すぐに下がる。視線を向ける。

 互いに言葉はない。

 だが、呼吸が合っていた。全員が同じ決断に至っていた。

 逃げる──いましかない。

 尾田が先に抜けた。

 間がそれに続く。矢制は一瞬、永倉の刃を受け止めると、刀を滑らせて払い、反転する。

 永倉が追おうと踏み出すが、遅れた。

 「……ちっ!」

 斉藤が横をすり抜けて追いかけるも、尾田が背後に煙玉を投げつけた。

 小さな爆ぜる音と共に、室内が白煙に包まれる。

 沖田が目を細めた。

 「煙か……気の利いた真似を」

 煙の向こう、足音が遠ざかっていく。

 永倉は歯を食いしばるように言った。

 「逃がしたか……だが、あの三人──ただ者じゃねぇな」

 斉藤が煙の切れ間に立ち尽くし、鞘に刃を収めた。

 「……“三人で一人分”の戦術じゃない。三人が三人とも、独立していて、それでも崩れない。妙な組織力だ」

 沖田が目を細めて、微笑んだ。

 「追うのはまた今度にしよう。……楽しかったよ、久しぶりにね」

 煙がすべて晴れたとき、そこに残っていたのは、荒れ果てた座敷と、燃えた畳のにおいだけだった。

 京の町に流れる風が、どこかざわついていた。

 赤乱隊が越後へと進軍し、信秀公の名のもとに「征伐」の火蓋が切られたという噂は、壬生の屯所から御所の周辺に至るまで、日毎に熱を帯びてゆく。

 長州もまた、狙われている──その話は、まるで黒雲が空に広がるように、京の空気に緊張を走らせていた。

 各藩の兵が動員され、新選組もまた出動命令に備えて殺気立っている。

 浪士狩りも間引かれ、細かな私闘などは見過ごされるようになった。京の町の風紀すら、次第に「戦支度」へと姿を変えていった。

 そんな中、矢攻志郎の名は──いつの間にか、町の声から消えていた。

 あれほど密やかに、だが確実に新選組を揺るがせたあの浪人も、誰もその行方を語らなくなった。

 屯所に顔を見せた密偵すら、もうその名を報告に載せることはなかった。

 ただ一部の者だけが、あの晩に起きた激戦の痕跡と、数滴の返り血を記憶していた。

 彼が生きているのか、あるいはどこかで力尽きたのか──それを知る者は、もう京にはいない。

 そして時代は、矢攻の名を追うよりも早く、次の「戦」を求めて動いていた。

 人々は血と名誉と権威の匂いに酔い、剣戟の軋みに耳を傾け、やがて誰もが、あの「異形の浪人」の存在を忘れていった。

 矢攻志郎。

 その名は、ただ風に消えた。

 京の記憶から、音もなく。

京の古寺の奥、灯りの差さぬ土間に、一振りの刀が鎮座している。

これこそ、かつて「鬼神の如き剣」と畏れられた矢攻志郎の佩刀と伝わるものだ。

刀身は長く、異様なほど肉厚で、持ち上げるだけでも常人の腕は痺れ、膝が笑うという。

試みに手をかけた若者は幾人もいたが、皆、重みに耐えきれず畳へと崩れ落ちた。

今やその由来を知る者は僅かとなり、寺の者もただ「古き武士の遺物」として埃を払うばかり。

しかし、夜更け、誰もいない本堂に虫の声が満ちる頃、刀身が月明かりを返して幽かに光るのを見た者がある。

あたかも、かつての主が再び戦場へ赴かんと、静かに息を潜めているかのように——。

 

 

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