勝ちヒロインを好きになってしまったのですが   作:北極鳥ユキ

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その12 スタートライン

 華恋さんは相変わらず綺麗でサラサラとした桃色の髪をなびかせていた。

 袴田の姿は見えず、彼女一人だけのようだ。俺がいることにびっくりしているようで、廊下の真ん中で呆然と佇んでいる。

 

 目が合うと、わずかに肩を強張らせた。どうやら気まずいのはお互い様みたいだ。

 

「うぇっと……華恋さん……」

 

 ぎこちない顔で反応する。

 驚きやら、気まずさやらで、なんと返せばよいのか分からない。

 

 俺が言葉に詰まっていると、 華恋さんが声を出した。

 

「……あ、また会ったね、祐一君」

「そ、そうだね。その……まだ学校にいたんだ」

「ちょっと用事があって」

 

 きっとこんな風になるまでの華恋さんなら、もっと「奇遇だね!」みたいに明るくいってくれたはずだ。

 たぶん、俺たちはいま同じことを思っている。

 何でここにいるの……って。

 あまりにも不意打ちすぎる遭遇。こんな状況のせいか、どことなく授業終わりの時よりも距離を感じる。

 

 廊下を挟んで微妙な距離感が続く中、隣のハルはきょろきょろと俺と華恋さんを見比べていた。

 

「……えーっと。黙り込んじゃって、どうしたんすか? なんか空気重くないっすか」

 

 おいこら、やめなさい。気まずい空気に油を注ごうとするんじゃない。

 

「ははーん。もしや、祐にぃ、喧嘩でもしたんすか?」

「してない!」

「してないよ!?」

 

 声が被った。

 

「あーえっと。華恋さん、紹介するよ、こいつは……ハルだ」

 

 とりあえず紹介しておこう。

 べ、べつに気が動転しててそれ以外に会話が思いつかなかったわけじゃないぞ!

 ハルを会話の口実にしようとしてるわけでもない……ぞ。

 

「ハルっす!」

「こんにちは。私は姫宮華恋、祐一君のクラスメイトだよ」

 

 ハルは俺たちの微妙な空気などお構いなしに元気いっぱいの自己紹介。

 華恋さんはハルに目線を合わせながら答える。なんというお姉さんムーブ。まさか華恋さんにお姉さん属性まであるとは。

 

「よろしくっす、華恋先輩!」

「うん、よろしくね!」

 

 明るく言うその笑顔は、誰もが見惚れる『学園のアイドル』そのものだった。

 ……俺以外には今まで通りの華恋さんを見せている。やっぱり対応が変なのは俺だけらしい。

 俺はいったい何をやらかしてしまったんだ?

 

「ハルちゃんはツワブキの生徒じゃないよね。中学生?」

「中二っす。今は祐にぃに学校を案内してもらってるっす」

「もしかして祐一君の妹さん?」

「ちが──」

「ちがうっす! どちらかといえば幼馴染っす!」

「それも違うからな!?」

 

 おいおいこの子は何を言い出すんだ。幼馴染はもう十分に足りてるぞ。これ以上はキャパ―オーバーだから重浦先輩に分けてやってくれ。

 

「幼馴染なの?」

「ちがうちがう。こいつは友達の妹なんだ。訳あって面倒を見てて」

「そうなんだ。それで学校探検を」

 

 華恋さんは興味深そうにウンウンと少し大げさに頷いて見せる。

 こういうちょっとオーバーなリアクションは華恋さんがいつも自然にやっていることだ。

 ハルを挟んだことで思った以上にアイスブレイクできているのかもしれない。

 

「そういう華恋さんはどうしたの? こんな時間まで学校にいるのって珍しいよね」

 

 できるだけ当たり障りのない感じで聞いてみる。もちろん、袴田と二人で歩いていた姿を見ていたことなど知らないふり。

 

 もっと聞きたいことはたくさんあった。マジで山ほどある。

 

 袴田と何してたの? 二人きりだったの? それとも八奈見もいるの?

 

 でも、そんなことを直接聞いたらプライベートに踏み込みすぎるし、ここは自然な流れで誘導しなければ……。

 

「あ、えっと。ちょっと忘れ物しちゃって」

 

 俺と目が合うと、華恋さんの笑顔がまた少しぎこちなくなっていた。

 

「ほら、そこの教室」

 

 華恋さんはがらんとした教室に指をさす。

 中を覗いてみると、並べられた机の上に、小さなペットボトルが一つだけ置かれているのが見えた。そそくさと回収すると、飲みかけのペットボトルをこっちに見せてくる。

 あっ、さっき俺が飲んだのと同じピーチティーだ。

 

「これ忘れちゃって」

 

 ヘテっ、とおっちょこちょいをごまかすような笑顔。かわいい。

 

 いやまて。

 

 ここの教室は放課後だれも使っていない場所のはず。そんな密室で袴田と何をしてたんだ!?

 

 『密室』『男女』『二人きり』『青春』

 

 まずい。そういう単語を並べちゃだめだ。あまりにも危険すぎる。

 

「祐一君?」

 

 苦々しく思っていると華恋さんが小さく首をかしげる。

 ハルはニヤーッと何か企んでいるような不敵な笑みを俺に向けた。

 

「祐にぃ、目が泳いでるっす。もしや可愛い女の子と話せてるから緊張してるんすかー?」

「は、はぁ! してねぇし! 俺、普段から華恋さんと話してるし!」

「そうだよハルちゃん。私と祐一君は友達で、よく話してるよ!」

 

 俺がハルに食って掛かると、華恋さんもフォローを入れてくれる。

 

「私たちね、よく一緒にお昼ご飯を食べてるんだよ。だから仲良し……だよね? 祐一君」

「あ、ああ。……仲良くさせてもらってる、よ」

 

 お互いに探り合うような同意。

 傍から見てこの距離感が「仲良し」かと言われると、甚だ疑問ではある。

 実際、ハルは俺に対して明らかに疑うような視線を向けていた。

 

「へー。仲良しなんすね。じゃあなんで微妙に会話がぎこちないっすか?」

 

「「そ、それは……」」

 

 と再び声が被った。

 そもそも俺は知らないぞ。こんな風になった理由なんて。

 

「あーっ。そういえば八奈見はいるのか? いつも一緒にいるイメージだけど」

「杏菜ならもう帰ったと思うけど。……珍しいね、祐一君が杏菜のこと気にするなんて。何か用事でもあったの?」

「ああ、いや、ちょっと気になって」

 

 急に八奈見の話題を振られ、華恋さんは少し困惑気味に答えていた。

 ってことは袴田と二人きりかよ!!

 

「先輩、先輩。実はハルたち、さっき見ちゃったっす。教室から出てきた時、すっごくイケメンな男の人と一緒でしたよね?」

「えっ!?」

 

 華恋さんはパチッと目を見開く。

 

「なんかこう……漫画のワンシーンみたいで、すっごくお似合いだったっす」

 

 こいつさらっと隠れてたことを暴露しやがった!

 

 しかも、お似合い……か。

 ハルの無邪気な言葉が俺の心を確実にえぐってくる。さっきもこいつは袴田と華恋さんの並ぶ姿を見てカップルだと誤解した。きっとそこには、完成された「主人公とヒロイン」の姿があったのだろう。

 

 そしてそれは、俺といる時の「ぎこちない空気」とは大違いで──。

 

「空き教室で二人きりなんて、先輩たちはいったい何してたんすか?」

 

 ハルはさらに爆弾発言をぶち込んできた。

 

 おまっ、ハル!? 火薬庫に全速力で突進してるぞ!?

 いくら子供だからって許されないデリケートな話題だってあるんだぞ!

 

「やっぱり彼氏さんっすか?」

「えっ、ち、ちがうよ!? 草介君とはただの──」

「またまた~! そんなに美人なんすから、イケメンの彼氏ぐらいいるはずっす!」

「もー! いないよー!」

 

 華恋さんは顔を赤くして否定するが、その慌てぶりが逆に「特別な関係」を邪推させる。

 

 ハルと華恋さんが会話を続ける中で、俺は半ば放心状態だった。

 

「で、実際のところ、どうなんす──」

 

 ふと我に返る。これ以上、ハルに余計なことを言わせるわけにはいかない。

 後ろから近づいてハルの口を塞ごうとするが、二度目は無いと言わんばかりに抵抗されて、あっさり脱出された。

 

「ハル気になるっすー! 何してたんすか―!」

「す、すまん、華恋さん! こいつ余計なことを……」

「祐にぃだって気になってるくせにー!」

「ちょっと黙ってろ!」

 

 暴走するハルを何とか抑えようとしていると「待って祐一君!」と短い声が響いた。

 

「祐一君にはちゃんと話さないとだめだよね。草介君と何をしてたのか」

 

 華恋さんは真面目な表情を浮かべると、まっすぐ俺の方を見てくる。

 その瞳には、ハルに向けるような屈託のない笑顔ではなく、どこか必死な色が宿っていた。

 

 改まったように真剣な顔で見つめられるものだから、いろいろ勘ぐってしまう。

 

 俺は覚悟を決め、ごくんと喉を鳴らした。

 

「えっと……あのね。草介君と二人でいたのは本当」

 

 華恋さんは、ペットボトルを握る手に少し力を入れる。

 

「ちょっと相談してたの」

 

 相談。うん、相談。まあ、相談。そうだよな。相談だよな。

 うんうん。華恋さんと袴田は仲いいし、相談の一つぐらいするよな、うん。

 

 つまり、密室で『秘密の青春』をしていたわけじゃなく、普通に相談してただけってことだな。

 よし納得……とはいかない。

 だって袴田には相談できるけど、俺には相談できないってことだ。

 

 悩みがあるなら俺にも相談してほしかった。

 まだそんな関係性にないことはわかりつつも、心の中でそう思っていた。

 

「そっか。袴田っていいやつだもんな。相談相手としちゃ最適な奴だ」

 

 俺は肩を落としながらも、物分かりの良い友人として取り繕って見せる。

 

 さっきの仲良しってのも、ハルの前だから言ってくれた世辞だったのだろう。

 やっぱり俺は、袴田のようにはなれない……。

 

「なんの相談をしてたかは知らないけど、俺が力になれそうなことなら言ってくれ。まあ、俺よりは袴田の方が頼りになるんだろうけど」

「ううん。頼りになるとか、ならないとかじゃなくて……今回だけは、絶対に祐一君には言えなかったの」

「え? ぜ、絶対?」

 

 あまりにも予想外すぎる強めの拒絶に、心臓がどくんと跳ね上がる。

 えっ、俺ってそんなレベルで信用されていないの? 

 負けを認めたけど、さすがにショック。普通に傷ついたよ。

 

 ダメージを受けている俺に対して、華恋さんは短く言った。

 

「だって『祐一君のこと』を相談してたんだもん!」

「へ?」

 

 俺のことを相談──って、それはつまり。

 

「え、えっと、俺をいつリストラするかとか……?」

「リストラ? 何の話?」

「だからその……友達としての関係は壊さずにうまく俺と距離をとるための方法とか……」

「ちょいちょい! なんでそうなるの!? 全然違うよ!?」

 

 華恋さんは即座に勢いよく否定する。

 

「むしろ逆だよ、逆! 私はもっと祐一君と仲良くなりたいの!」

 

 きーんとするような高い声が廊下に響き渡る。

 そして、辺りは静寂に包まれた。

 

 ……え?

 

 ……え?

 

 ……えええええ!?

 

 頭の中で全身全霊で叫んでみたものの、驚きすぎて声には出なかった。

 

「え? え? どういうことっすか? なんか祐にぃの言ってることと全然違うような」

 

 ハルは困惑気味に言って、俺に視線を向ける。

 

 いやいやいや。これは勘違いなんかじゃないはずだ。

 確かに最近の華恋さんはおかしかったし、俺は急に距離をとられた。仲良くなりたいなら普通は逆じゃないか?

 

「つまり……俺と仲良くなりたかったの?」

 

 あんまりのことに理解が追い付かず、オウム返し状態。

 

 華恋さんはド直球すぎる「仲良くなりたい」発言が恥ずかしかったのか、顔を両手で顔を覆っている。そして指の隙間からまんまるの瞳をわずかに覗かせている。

 

 かわいいすぎる、なんていう言葉では表現できないレベルだ。破壊力が高すぎて直視できない。

 

「どうしたらいいのかなって、いろいろ草介君に相談してたの……」

 

 ……いやまて、冷静になれ北見祐一。こんなところで一喜一憂している場合ではない。

 まずは事実確認をしなければいけない。これまでの不自然な態度とか、放課後の発言とか。

 

「でっ、でもでも! 華恋さん、最近なんかおかしかったし、距離を置きたいとか、一回おしまいとか、そんな感じのことを言ってたし……」

「確かに似たようなことを言った気もするけど、誤解してるよ!」

 

 華恋さんは顔を覆っていた手を下ろすと、ぐいっと近づいてくる。

 揺れる髪と共にふわりと、花のような、桃のような、甘く爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。

 

「祐一君、私と話す時……いつもすごく頑張ってくれてるでしょ? 言葉を選んだり、気を使ったりして……すごく優しくしてくれる」

 

 目の前までやってきた華恋さんは、上目遣いで俺に訴えかける。

 それは放課後に言われたことと、ほぼ同じ内容だった。

 

「でもね、紗由ちゃんの前で見せるような『自然な祐一君』とは、違うなって感じてたの」

 

 図星だった。

 でも、華恋さんは俺にとって『高嶺の華』のような存在で、そして何よりも『好きな相手』だ。

 だからこそ、嫌われないように、少しでも好意を持ってもらえるように、ごく当たり前のこととして彼女に対して紗由の前とは別の、よそ行きの北見祐一を作っていた。

 

「もしかしたら、私のせいで無理させちゃってるのかなって。私といると疲れちゃうかなって思ったら……それがすごく嫌だったの」

 

 華恋さんは「それに……」と腰に手を当てながら続ける。

 

「ズルいもん」

「へ?」

「祐一君……紗由ちゃんと話す時は、すっごく楽しそうだもん。私にも、そういう所を見せてほしいなーって、思っちゃったの」

 

 それは「嫉妬」というより、むしろ輪に入れない子供のような、可愛らしい「憧れ」だった。

 そういえば、前に華恋さんが「幼馴染」について話していたことを思い出す。

 あの時も、幼馴染の間にある距離感にあこがれていると言っていた。

 

「私、けっこー頑張ったんだよ? やっぱり幼馴染の輪に入っていくのって難しいから」

 

 華恋さんはむすっと口を尖らせる。

 

「じゃあ、俺を観察してたのはなんで? あのぎこちない距離感はなんだったの?」

「祐一君のしぐさとか反応を研究すれば、自然に盛り上がれるかなって」

「それで……どうだった?」

「全然ダメだよ! なんか変に意識すると考えすぎちゃって、余計に緊張しちゃった」

 

 華恋さんは眉尻を下げて、力なく笑う。

 

「そうこうしてる内に、今日の放課後だよ。祐一君が急に謝ってくるし、なんか落ち込んでるし。このままじゃ、マズイって思ったの」

「それで袴田に相談を……」

「そういうこと。だから、『今の距離感は一回おしまい』なの! 変な気遣いはリセットして、全部仕切り直し!」

 

 な、なるほど。そういうことだったのか。

 どうやら俺の読解力が無さすぎたようだ……って無理だろ! 

 あの態度と会話でそこまで読み取れる奴なんでいねーよ!

 

 ……ま、まぁ、ともかく、だ。言葉足らずにも程があるが、その勢いと不器用さが一周回って華恋さんらしいと言えるのかもしれない。

 

 それに、俺がリストラに怯えていた間、彼女は「どうすれば自然に話せるのか」、「どうすれば仲良くなれるのか」を真剣に悩んでくれていたのだ。好きな人にそんな風に思われるなんて、すごくうれしいことじゃないか。

 

 俺は視線を華恋さんから逸らしつつ、照れ隠しで頭をかいた。

 

「それで草介君に聞いたの。『どうすれば祐一君ともっと自然に話せるかな』って」

「袴田はなんて答えたんだ?」

「『考えすぎだろ。北見はいい奴だから、いつも通り自然に話しかければいいじゃん』って。彼らしいよね」

「ほんとに袴田らしい答えだ」

「ほんとに」

 

 俺がくすっと笑うと、華恋さんも続けて笑った。

 

 それから俺たちは少しの間、一緒に笑い合っていた。

 肩の荷がすっと下りたような解放感。それと共に、華恋さんが俺のことを気にしてくれているのだ、という充実感が押し寄せる。

 

 たぶん、いま華恋さんに対して、自然に心の底から初めて笑った。

 俺の中で何かが吹っ切れた。

 取り繕わないと嫌われるなんて、俺の心配性と卑屈さが生んだ幻想だった。

 

 そもそも『恋愛』って、好きな相手に自然な自分を好きになってもらう行為じゃないか。

 

 それを隠したままの恋なんて、きっと成就するはずもない。

 俺は初めから何もかも間違っていた。この混乱も、誤解も、気まずさも。ぜんぶ俺がスタートラインを間違えたところから始まったのだ。

 

 今すぐ俺の悪いところを全て治せるわけじゃない。

 たぶん明日になればまた卑屈になるし、これから先、華恋さんと関わる中では無数の不安や心配が待ち構えていて、そのたびに一喜一憂するに違いない。

 

 でもそれでいい。だってそれが北見祐一なんだ。

 だから、それを含めて、俺は姫宮華恋に好意を持たれるような男になりたい。

 

「……あのさ、華恋さん!」

 

 一通り笑いが落ち着くと、俺は華恋さんをまっすぐに見据えた。

 

「ん、なあに?」

「俺……もっと華恋さんと仲良くなりたい」

 

 言い切ってからすぐに顔が熱くなってきて、心臓も脈が速くなってきて少しうるさかった。

 

 ……ていうか、今のって捉え方次第では普通に告白じゃない? 

 

 やばい! まだそんなつもりはぜんぜんないです! 告白を成功させるためには色々と下準備が必要だし、ちゃんと時間をかけたいし、それにそれに、こんなところで振られたくない! 一生に一度の告白チャンスを使い切りたくない!

 

「あ、いや、その、あくまで友達としてというか!」

 

 慌てて言い訳を並べようとした、その時──

 

「うん……!」

 

 短い同意のあと華恋さんの顔が輝いた。

 それは今まで見たどの笑顔よりも眩しくて、柔らかくて、等身大の女の子の笑顔だった。

 

 高嶺の華は、いま目の前に咲いている。

 一輪の華として、俺の手の届くところに美しく凛と咲いている。

 

 その眩しすぎる笑みに俺は胸を打たれた。

 そして再び自覚した。やっぱり俺は、姫宮華恋が好きなんだ、と。

 

 心臓の音は、しばらく鳴りやみそうになかった。

 

     ◇

 

「あー、えっと。終わりました?」

 

 ハルが声を上げながら、ぬるっと割り込んでくる。

 ジト目で俺と華恋さんの顔を見比べた後、その間に小さな体を二人の間に滑り込ませて俺の方に向き合う。

 

「祐にぃ、なにか忘れてないっすか? 大事なことっす」

「忘れる? 何をだ?」

 

 考える人のポーズで思考を巡らせてみるが、特段心当たりがない──いや、あったわ。

 

「あっ、康斗か」

「ちがうっす!!!!」

 

 違うらしい。

 

「え? じゃあ、なんだ? なんか忘れてたっけ」

 

 ハルは顔を赤くしながら、ぷくーっと頬をこれでもかと膨らませている。

 拗ねている時の顔だ。

 

「祐にぃのバカ!!!!! まだハルと学校探検中っす!!!!!!!」

 

 耳をつんざくような声が廊下に響き渡り、ガラス窓が微かに震える。

 ハルはばっと勢いよく走り出すと、引き留める間もなく、あっという間に渡り廊下を超えて隣の校舎まで消えてしまった。

 

 その様子を見て、困惑する俺とは対照的に、華恋さんはクスクスと口元を隠しながら笑った。

 

「ふふっ、ちょっと独占しすぎちゃったかな」

「どういう意味?」

「さて、どういう意味でしょう。じゃあ、私はそろそろ行くね。これ以上お邪魔しちゃ悪いし」

 

 ステップを踏んで距離をとると、その場でくるりと回って俺に背を向ける。 

 

「また月曜日にね、祐一君。……あと、ちゃんとハルちゃんのこと追いかけてあげてね?」

 

 横顔で小さく微笑みながら言うと、華恋さんは軽やかな足取りで去っていった。

 

     ◇

 

「こんなところにいたのか。ずいぶん探したぞ」

 

 ハルを探して校舎を回り、最終的にたどり着いたのは漫研部室の前だった。

 小さな少女は扉の前で体育座りで丸まっている。ここまで来たはよいものの、部室内に入れなかったらしい。

 

 扉には『部員不在! 入ってくんな!』と重浦先輩の達筆な字で書かれたA3用紙が張られていた。

 

「ぜんぶ祐にぃが悪いっす。ハルがいるのに、華恋先輩ばっかり相手にするから……」

 

 膝に顔をうずめた状態のハルは少しかすれた声で言う。

 

「悪かったよ」

 

 ハルを探している間に怒り出した理由はちゃんと整理できた。つまりはヤキモチだ。

 一緒に学校探検をしていた相手を華恋さんに取られて悔しかったのだ。

 

 正直、中学二年生という年頃の子はもっと大人だと思っていたけど、それはあくまでも俺の価値観。それに、ハルにとっては見知らぬ学校で頼れるのは俺一人。そんな状況で蚊帳の外に置かれたのだから、孤独を感じてしまったのだろう。

 

「祐にぃのバカ……」

「ほんとに悪かった。ちゃんと反省してる」

 

 緊張とか孤独感で、年齢よりも子供っぽい態度をとってしまっても無理はない。

 俺はハルの横に座り、無防備な頭を優しくなでる。

 

「なあ、ハル。もう一か所行きたいところがあるんだが、一緒に行かないか? ……もちろん、お前がよければだけど」

「………………それ、どこっすか」

「特別な場所だ。この学校の大半の人間は存在を知らない……秘密の屋上だ」

 

 少しの沈黙の後、ハルはジャージの袖でゴシゴシと目元を擦ってから、顔を上げた。

 

「特別っすか?」

「あぁ。なにせ屋上には俺の持ってる鍵がないと入れないからな」

 

 それを聞くと、ハルは俺の手を借りず、自分の力で立ち上がる。

 その時俺に見せた表情は努めて明るく振る舞っているようにみえた。

 

「……行くっす。秘密の屋上」

 

 俺が階段の方に進みだすと、てくてくと横に並ぶ。

 ハルの姿は無理をして背伸びをしているようにも見えるが、同時に屋上への期待をしているようにも見えた。

 

     ◇ 

 

 階段を登り切って屋上の扉を開く。同時に、びゅわっと初夏の風が吹き込んできて、俺たちの髪を揺らす。

 思わず目を閉じるが、すぐに日差しが瞼の上から差し込んできた。

 

「うわぁ……すごい。すごいっす!」

 

 俺よりも一足早く目を開いたハルが屋上に駆け出してゆく。

 目を開くと、三河の上に広がる蒼天が視界いっぱいに広がった。

 

「危ないからあんまりはしゃぐなよ~!」

 

 ついこのまえ逆立ちした身ではあるが、年長者として注意しておく。

 まあフェンスはがっちり作られてるし、間違っても落ちることはないと思うが。

 

「高いっす。豊橋がぜんぶ見えるみたいっす!」

 

 フェンスに張り付きながら、ハルは三河湾の方角を向いて感嘆の声を上げる。

 

 全部というのは大げさな表現だが、ここからは学校周辺だけでなく豊橋の市街地もある程度は望むことができるビュースポットだ。

 あと、目を凝らせばかろうじて三河湾も見えたり見えなかったりするらしい。

 

(諸説あり。俺は建物があるから見えないはず派だが、紗由は天気が良ければ見えるはずと主張している)

 

「いい眺めっすね。風も……気持ちいいっす」

 

 緩やかに吹く風を全身で浴び、前髪をパタパタと揺らしながら呟く。

 どうやらこの場所をお気に召してくれたらしい。

 

「ねえ、祐にぃ。ここは『秘密の屋上』なんすよね」

 

 俺がその隣に立つと、ハルはそっと声をかけてきた。

 

「だったら、祐にぃと一緒に来たのはハルが一人目っすか?」

「いつも紗由とはここで昼飯を食ってるんだ」

「……やっぱりっす。祐にぃの秘密を一番に知るのは、いつだって紗由ねぇっす。あと……ほかには誰かいるっすか?」

「あとはここを紹介してくれた重浦先輩と、華恋さんぐらいかな。康斗は……ほら、あいつ高いところ苦手だから」

「じゃあ私は四番目なんだ」

 

 いつもとは違う雰囲気で言って、ハルは一層深くフェンスに身を預けた。

 一方、俺はフェンスに体重をかけすぎるのが怖くなって、逆に一歩離れる。

 

「…………特別なのに、スタートラインがちがいすぎる」

 

 不意に、ハルの小さな呟き声が聞こえる。

 

「ん? それってどういう──」

 

 その時、ぶっぶーとスマホが震え出した。

 画面を見てみると、康斗からLINEのメッセージが届いている。どうやら、腹の具合が安定してきてトイレから脱出できたらしい。

 

「おい、ハル。康斗がトイレから出られたらしい。降りて合流しよう」

 

 フェンスに背を向け、三河湾の反対側に広がる石巻山を眺めながら返信を打ち込んでいく。

 

「もうすぐ梅雨の季節っす」

 

 屋上から離れようとすると、そんな脈絡のない声が聞こえてきた。

 振り返るとハルはまだフェンスを握って、空を眺めている。

 

「ほら、あっちに灰色の雲。まだ遠いっすけど、いつかこっちまで来るっす」

 

 まだ空は晴天を保っているというのに、言葉と共に湿気を帯びた生暖かい風が頬をなぞった。

 迫りくる重たい雲と、それを眺める少女の横顔を見ていると、なぜか胸がざわつく。

 

「いくぞ、ハル。康斗が待ってる」

「……了解っす! 兄ちゃんを回収して帰るっす!」

 

 ハルはようやくフェンスから離れると、駆け足で俺の横を通り過ぎてゆく。

 

「お、おい、走ると危ないぞ! 転んじゃうぞ!」

「平気っす~! ハルはもう子供じゃないっす~!」

 

 ハルは一度も振り返らずに階段を駆け下り、やがて踊り場の向こう側に消えてゆく。

 小さな背中に続こうと足を延ばすが、最後にふと気になって背後に広がる空を確認した。

 

 頭上にはまだ豊橋の蒼天が広がっている。

 しかし、雲は確実にこちらへと迫っていた。

 一日前よりも近く。一時間前よりも近く。一分前よりも近く。

 

 雨の季節は、もうすぐそこだ。

 

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