ダム、ダム、ダム。
体の奥にこもった熱のやり場がなく、ただ俯いていた。
ふらりと体育館を出て、昇降口まで歩く。風が涼しかった。
ボールの弾む音。ワックスとバッシュの擦れる甲高い音。
耳いっぱいに広がるバスケットボールの音を背に、
『期待してたんだけど、あいつダメそうだな』
冷たい床に座り込んでいると、頭の中に声が反響してくる。
怒鳴り声や、落胆した声。
また今日もダメだった。どれだけ練習しても、どれだけ実践しても、ダメだった。
中一で高校生並みの身長だった俺に、周りは期待していた。
誰かに初めてされた『期待』はとても重たくて。俺は、それを裏切った。
座り込んで、ぼーっと床を見つめる。
それで何が変わるわけでもないのに、自分の影が落ちる床を見ていたかった。
「よっ!」
「ひゃっ!?」
突然、首筋をキーンと冷たい刺激が襲って変な声が出る。
慌てて顔を上げると、正面ではペットボトルを片手に持った少女がくすくすと笑っていた。
「これ差し入れ」
「あっ、ど、どうも?」
少女が渡してきたのは、結露でびちゃびちゃになっているアクエリアスだった。
うちの中学校って自販機ないはずなんだけど、どこで買ってきたんだろう。
っていうか、この子だれ?
「えーっと……だれですか?」
「あっれ。あたしの顔、忘れちゃった?」
少女はその場でくるりと回ってセーラー服のリボンを揺らす。
明るさのある可愛いらしい女の子だった。でも、その顔に見覚えはない。
もしくは、単に忘れているだけかもしれない。鷹胡台中学に入学してから数か月。今日まで同級生や先輩と関わる機会はたくさんあった訳だし、そのどこかで面識のある相手なのかも。
「ごめんなさい。おれ、まだあんまり人の顔を覚えられなくて……」
正直に言うと、少女はそっかそっか、とうなずく。
「でも不正解だよ、祐一くん。君はあたしのことを知ってる。入学前からね」
少女はおれの隣に座ると、ぴったりと肩を寄せくる。
石鹸のいい匂いがして、どきっとする。
「あ、あの……」
訳も分からずソワソワしていると、少女は一層耐えかねたという感じで笑い出す。
おれの反応が余程面白いらしい。なんなんだこの子。からかっているのか?
「話すのは卒業式以来じゃんね」
少女はポケットからメガネを取り出すと、すちゃっとかけた。
「まさか……真登瀬さん? 六年一組の?」
「大正解!」
真登瀬さんは腕を回すと、わしゃわしゃっと頭をなでてくる。
「久しぶりだね、北見くん!」
メガネ姿を見てようやく繋がった。小学校で同じクラスだった真登瀬亜希だ。
おれは真登瀬さんの顔をじっと見つめる。
今の印象は卒業式の時とはぜんぜん違っていた。小学校の時はこんなに「かわいい」って感じじゃなかったし、もっと大人しくて地味な感じだった。
「中学校デビューってやつ?」
「うん。ちょっと頑張ってみようかなって思って。どうかな、全然分からなかったでしょ」
「ほんとに……分かんなかった」
真登瀬さんは照れくさそうに笑い、ピースサインを向けると眼鏡をポケットにしまった。
「で、こんなとこで座り込んじゃって、なんかあったの?」
「まあ、ちょっと」
「きいたよー今はバスケ部だっけ。ねね、どんな感じ?」
「真登瀬さんってスポーツとか興味ないでしょ」
「スポーツには興味ないけど、実は垢抜けついでに、どっかの女子マネになろうと思ってて。ほら、イケてる女子ってマネージャーになりがちじゃん?」
「それは偏見じゃないかな……」
「とにかく、ちょうどいい機会だし教えてよ。バスケのこと」
◇
ツワブキ高校の体育館。
バスケ部に囲まれながら、俺と亜希の1on1が始まろうとしていた。
あちこちから視線を感じて、なんだか気まずい。
隣で練習中の女子バレー部も何故かこっちを見てきて一層気まずい。
そんなに注目することだろうか。ただちょっと不審な男女がバスケ部に乱入して1on1をしようとしているだけなのに。
……いや、めちゃくちゃおかしいな、これ。
「ルールはシンプルに三本先取ね」
ダム、ダム、ダムと、亜希は手元でボールを弾ませながら告げる。
亜希がボールを持ち続けているということは、俺が攻撃でスタートらしい。
俺が外側のラインに立つのを確認すると、亜希はバウンドを止めた。
「んじゃ始めよっか」
「動画はどうするんだ? 俺が動いてるところを撮るんだろ?」
亜希は視線を泳がせると、適当に手をひらつかせる。
「まずはリハビリ。いきなり撮っても動き悪かったら逆効果でしょ? 本番はあとでそこのマネージャーちゃんに頼むから」
「……はあ」
いまいち納得できずにいると、亜希は俺に向かってボールを投げ渡した。
しゅっときれいな弾道でボールが飛んでくる。
「さ、試合開始だよ」
◇
ダム、ダム、ダム。
規則正しいドリブルの感触が腕に伝わってくる。
懐かしさと共に感じたのは、体の重さだった。思ったよりも体が動かない。
まずはドリブルを続けながら様子見。
正面に陣取る亜希はどこからでもかかってこい、と言わんばかりに両手を開いている。
体を右に引っ張ると、釣られて亜希の重心も動く。フェイントをかけ、反対に駆け出す。体がトップスピードに乗る目前で、亜希の体が入り込んできた。
「やっぱこの距離じゃ打たないんだ」
向かい合って対峙していると、挑発するような声が聞こえた。
「下手だもんね、シュート」
そんな安い挑発に乗ると思うなよ。
シュートが下手なのは俺が一番知っていることだ。ここで打てば亜希の思うツボ。
俺の決め手は身長を生かしたレイアップ。亜希を抜いてゴール下まで行くのが得策。
床を強く蹴り右に駆け出すが、亜希も付いてくる。
ダメだ抜けない──刹那、ガクッと足がもつれた。
態勢を立て直そうとするが、体が上手くついてこない。
高くバウンドするボール。
キュッと靴の擦れる音がして、亜希が飛び込んでくる。
「隙あり!」
バシッ、と乾いた音がして、俺の手からボールが離れた。亜希に奪われたのだ。
◇
「いくよ祐一!」
オフェンス側になった亜希はまっすぐ駆け出し、俺の懐まで飛び込んでくる。
動きに合わせてブロックするが、重い体と体格差が不利に働いている。足も肩も俊敏な亜希に追いつかない。
キュッ、キュッ。
床が鳴るたび、右、左、左、右──とサイドステップを踏んでは急停止を繰り返す。
しつこいぐらいフェイント。反応が遅れるのを待っているんだ。
負けじと腕が届く距離まで詰めてプレッシャーをかける。
「さぁ、どっちでしょーかっ」
合わせて亜希はドライブをかけ、俺の右脇を縫った。
追いながら、腕を伸ばしてシュートを牽制。亜希が止まり、シュート姿勢を取る。
これなら弾けると思った刹那、再びドライブ姿勢で飛び込んできた。
「……しまっ」
腕を伸ばしていたので脇はガラ空き。振り返るころには、亜希はもうリングの下で跳んでいた。
ネットが揺れ、ボールが床に落ちる。
呆然としていると、亜希はニカっと悪戯っぽく笑いかけた。
「はい一本! 遅いじゃんね」
「嘘だろ……」
あっけないほど簡単に奪われた一点だった。
亜希の動きに反応が追いつかない。まずい、まずいぞ、これ。
ボールが俺に渡り、攻守交代。すでに一度攻撃に失敗している。同じ轍は踏めない。
速度で勝てないなら、リーチと高さで勝負するしかない。
ゴールへ向かおうとした瞬間、亜希がぴたりと体を寄せてきた。
「通さないよ」
ディフェンスとは思えないぐらいの距離感まで詰めてくる。
覆いかぶさるような距離で、下手に動けば触れそうになる。
「ちょっ、近いって! これファウルだろ!」
「えー? セルフジャッジだしー、まだ当たってないし―」
亜希は悪びれもせずグイグイ近づいてくる。
ボールを取るわけでもなく、本当にただ距離を詰めてくるだけ。
亜希は余裕そうな笑みを浮かべている。まるで「体に触りたければどうぞ」とでも言いたいみたいで、明らかに俺の動揺を誘っている。
「どーよ。攻めづらいでしょ」
そういうのやめて、ほんと集中できないから。
早くここから抜け出さないとジリ貧だ。考えろ、考えろ、考えろ。
ふと、スカートの下、亜希の足元に視界が移る。仁王立ちして俺の動きを封じる亜希。その脚は、無防備なほどに大きく開かれていた。
……ここボール通りそうじゃね?
そんな一か八かの閃きに従って、ボールを低く叩く。
「あっ、ちょっと!」
亜希が脚を閉じるより前にボールが抜けた。
俺は唖然とする亜希の横をすり抜けると、転がるボールを回収し、そのままゴールへ進む。
亜希も追いついてくるが、ここまで来れば必要なのは高さだけ。俺のレイアップに合わせて亜希も飛ぶが、高さが違いすぎる。
伸びた白い腕よりも上からボールを滑り込ませ、ネットを揺らした。
これで一対一だ。
ほっと息をついていると、亜希が肩を叩いてくる。
「スカート見ながら勝機を作るなんて、祐一ったらいやらしー」
「ちがうからな!?」
なんだかんだ言いながらも、亜希は満足げな面持ちを浮かべていた。
ようやくまともな試合相手になってくれたと、そういう期待が表情からにじみ出ている。
「それで、体の方は温まってきた? ……あ、下ネタじゃないよ」
その一言は余計だって。
「こっから決めてやるから、覚悟しとけよ」
「大口叩いちゃって。まだまだ動きはあたし以下じゃんね」
「次は速度も抜いてやる」
「やれるもんならやってみな」
軽口を言い合いながら、それぞれのポジションに戻る。
ていうか待てよ。今、俺は亜希と互角の勝負をしている。
仮にこのまま負けたらどうなるんだ?
元バスケ部がテニス部の女子に負けるとかいうクソダサい構図が完成するだけじゃないか?
◇
それから俺は……あっさり点を奪われた。フラグというか、即落ち二コマと言うか。
亜希は俺のブランクを突いてスピードで翻弄、一切の手加減もなく本気で点を取りに来た。俺も腐っても元経験者としての意地で、高さとリーチで強引に押し込んだりして、何とか追いすがる。
そんな、泥臭い攻防が続き──気が付けば、スコアは二対二。
互いにあと一本取れば勝利というマッチポイント。ボールは俺の手にあった。
汗をぬぐい、荒くなった息を整えながら顔を上げる。そろそろ体力が限界に近づいている。この機会を逃せば次は無い。
これで負けたら末代までの恥だぞ。
やっぱこいつ……俺をハメようとしてんのか?
亜希は、ふっと笑みを消すと、静かに一歩だけ距離を取った。
それは挑発というよりは、覚悟を決めた顔。腕も伸ばさない。踏み込んでくる気配もない。その場で俺を観察するように、ただ突っ立っているだけ。
ここで打て……ってことか。
まさかこれが亜希の用意した「見せ場」だっていうのか?
その場でドリブルを続ける。にらみ合いを続けても、やはり亜希が動く気配はない。
ここからシュートを打てば、亜希はたぶん止められない。
そして、止める気もない。
考えなくても分かる。打て。打つべきだ。
周りのバスケ部だって皆、思っているはずだ。
なんでアイツはシュートを打たないの?
分かっている。
でも、ボールが出ない。
練習で何度も打ってきた位置。何度も外した距離。
ボードに当たって、少し低く跳ね返るボール。落胆の声。
脳裏にこびりついた記憶が、俺の身体を縛り付ける。
『あいつデカいだけで不器用なんだよなぁ』
『マジでセンスないな。あの身長がもったいねぇ』
亜希は少しだけ肩を落とした。
空気が変わった。俺が打たないと分かったことへの失望。
「来ないんだ」
低い落胆の声。亜希が陣取ったのは、レイアップを防ぐためだけのゴール下。シュートに対しては全く無防備な位置だった。
「ねえ、せっかくの見せ場だよ。カッコいいところ見せたいんでしょ? 気になるあの子に」
「うるせぇ」
「ねえ。また逃げるの?」
亜希はまっすぐ俺を見みて呟く。
その挑発がまともに効いて、頭に血が上るのを感じた。
亜希と正面からぶつかり合う。足元では鋭く床が鳴る。
「……お前が一番知ってるくせに。俺がバスケ部でどんなだったか」
「知ってるよ。たくさん練習してたのも知ってる」
亜希の言葉に、心臓が跳ねた。
「だから、戻ってほしいの。あの頃の祐一、カッコよかったから」
ドリブルをする手に力が入り、ボールが床へと強く打ち付けられる。
亜希の言葉は俺の過去を肯定している。でも同時に、今の俺を否定していた。
「なんだよそれ。今の俺はダサいってことか」
ハルもそうだ。バスケしてる俺が見たいなんて言っていた。
なんだよ、みんなして。
そもそも昔の俺だって、大したもんじゃなかっただろ。
ずっとベンチで、練習しても上手くならなくて、期待されるどころか、むしろ気まずそうな視線を浴びて。
みじめだった。期待の重さに潰された。それが嫌で逃げ出した。
……なのに、どうして今さら昔の話を持ち出す。
「努力してる人ってかっこいいんだよ。下手でも、ボロボロでも、あの時の祐一はちゃんと前向いてた。あの時の祐一はかっこよかった」
ちくしょう。こんなことならコートに立つんじゃなかった。
初めから分かっていたはずだ。ここに立てば嫌な事ばかり思い出すことぐらい。
「ねえ、祐一。アンタが袴田くんだったら、どうすると思う?」
「は?」
亜希が静かに口を開いた。挑発と言うよりは、淡々と事実を述べるような声音。
「彼は逃げるかな。言い訳して立ち尽くすかな。それが、祐一と袴田くんとの間にある距離なんじゃない?」
考えるまでもない。
あいつなら、絶対に打つ。涼しい顔をして打つ。
例え苦手でも、入るかどうかわからなくても、何も気にせず、やるべきことをやる。
……それが、俺との違い。
「あの子……姫宮さんが見たいのは、そういう人じゃない?」
「うるさい!」
自分でも予想外なほど、強い言葉が口をついて出ていた。
しかし、亜希が動じる様子はない。
「ねえ、見せて。一番かっこいい北見祐一を。あたしに……姫宮さんに」
臆病者のままじゃ、あいつには勝てない。華恋さんの隣になんて立てない。
こんな思いするなら、最初から触らなきゃよかったんだ。こんなボール、握らなきゃよかった。
手にきつく力を籠める。亜希への怒りでなく、情けない自分自身への怒りを込めて。
地面を蹴った。フォームなんてどうでもいい。入らなくていい。
ただ、この重苦しい感情ごと、ボールを投げ捨ててしまいたかった。
でも、俺の身体が、俺の意思を裏切った。
高く跳んだ瞬間、右腕が勝手に引き絞られる。
視界がスローモーションのようになって、リングの奥にある「
今の俺にあるのは、二つ。あいつに負けたくない。あの人の隣に立ちたい。
一度は逃げた。期待から逃げた。
だから、もう逃げたくない。
声を振り切る。過去を振り切る。
入れる。
左手がボールを支える。何百回、何千回とやった反復練習。
身体に染みついた動きで、指先を弾いていた。
ボールは狙った位置を正確に叩き、その角度のままリングへと吸い込まれた。
白く乾いたネットが鳴る。静まり返った体育館にその音だけが残る。
自分でも予想外なほどに、教科書通りのシュートだった。
「ずっと……それが見たかったの」