紗由が泣いている。
それは、いつもお姉さんぶっていた幼馴染の見せた、初めての弱さだった。
随分と昔のことだ。それこそ、詳細がほとんど思い出せないぐらいに。でも、いつも気丈にふるまっていた紗由が泣き始めたものだから、すごくびっくりした感情だけは鮮明に残っている。
たしか……どこかで迷子になった時だったはず。親とはぐれてしまって、見知らぬ場所で二人きりになってしまった。最初、紗由は俺のことをなぐさめて、いつも通り手を引いてくれていたけど、だんだん不安になってしまい、ついには泣いてしまったのだ。
泣きじゃくる紗由を見て、俺の方は逆に涙がひっこんでいた。
俺は泣いてる場合じゃないと思った。「ぼくが紗由を守らないと」ってそう思ったのだ。
今になってそんな昔のことを思いだしたのは、きっと八奈見杏菜のせいだろう。あいつに指摘されたことは、何もかも図星だったから。
紗由はいつもあんな感じだけど、内側は意外と繊細な奴だ。
だから、俺が傍にいてやらないと……。
◇
ぶろろろん……と音を立てて家の前を通り過ぎる車の音で目が覚めた。
ぱっと夢が霧散して、記憶はいつの間にか消えていた。どんな夢を見ていたのかはよく思い出せない。けれど、なんだか胸の奥がモヤモヤする。もしかすると悪い夢だったのかもしれないが、なんだか忘れてはいけないことだった気がする。
もう一度寝れば思い出せるかも、なんて思って布団をかぶる。
少し経って、ぶろろろろろ……と、またしても家の前を通り過ぎる車の音。
我が家は、築年数は優に半世紀を超える瓦屋根をのっけた木造二階建て。防音なんてあったもんじゃなく、いつもこんな調子だ。伝統的で趣があるなんて言えば聞こえはいいけど、冬は寒いし夏は暑い。特に二階にある俺の部屋は外の環境音がダイレクトに鼓膜を揺らしてくる。
結局、二度寝には成功したが、夢を見ることはなかったし何かを思い出すこともなかった。
いつもならここから三度寝をキメるところだが、ここらへんで起きないとそろそろ不味いかもしれない。なにせ昨日、紗由に「試合を見に行く」と大見得を切ってしまったのだ。寝坊なんてしたら、マジで脚をへし折られる。
重い体を起こすと、枕元のスマホを引っ張り出して時間を確認。時間的にはもう少し寝られそうだけど、ここで布団をかぶったとして、どうせ車のエンジン音で起こされる天丼展開だろう。
眠気眼でそんなことを考えていると、また別のエンジン音が聞こえてきた。ただし、今度は通り過ぎるのではなく家の敷地に入ってきたようで、タイヤが砂利を踏みしめる音が響いている。
こんな休日の朝早くから客だろうか。
まもなく階下で玄関の引き戸が、ガラガラッ、ピシャッと音を立てていた。
「あら、
母さんの快活な話し声が響いてきて、あっという間に眠気は吹き飛んでいた。
下に居るのは紗由の父さんだ。仙台に単身赴任しているはずだけど、なぜここに?
「それは大変! そうなら
おじさんの低い声は二階までは届かないが、母さんのよく通る声は筒抜けになっていて、階下での会話の内容がここまで響いてくる。どうやら、何かしらの世間話をしているようだ。佳織おばさん──紗由の母さん──の名が出るあたり、浜松の件を話しているのだろうか。
「ええ。祐一なら上に居ますよ。祐一! 起きなさい! 紗由ちゃんのお父さんが来てるから、顔ぐらい出しなさい!!」
聞き耳を立てていると、名前を呼ばれてしまった。
しぶしぶ布団から這い出ると、すり足で部屋を出て階段を降りる。茶の間横の縁側を通り抜けて玄関に出ると、エプロン姿の母さんとスーツ姿の浩二おじさんが俺に視線を向けてきた。
「おはよう祐一君。早くから起こして悪かったね」
明らかに寝起きという感じの俺の姿を見つつ、浩二おじさんは人の良さそうな笑みを浮かべていた。母さんの方はだらしない姿の俺に物言いたげな視線を向けてくるが、おじさんの前と言うこともあって黙っている。
「おはようございます。おじさん、こっちに帰ってたんですね」
確か浩二おじさんと最後に会ったのは高校の入学式だから、顔を合わせるのは二か月ぶりぐらいだろうか。
「車で仙台から来たんですか?」
「ああ、ずっと運転して昨日の夜更けにようやくね。でも仙台でトラブルがあって今からとんぼ返りさ。本当に顔を見せに帰ってきただけになっちゃったよ」
おじさんは弱り切った顔で肩をすくめた。
よくよく見れば、顔には濃い疲労の色が滲んでいるように見える。東北から三河まで何時間も運転して、休む間もなくまた同じだけ戻るなんて、相当な苦労に違いない。
「ああ、そうだ。急ぎ足になってしまったけど、これ仙台のお土産ね」
そう言って、おじさんは置いてあったビニール袋を母さんに手渡す。
「真空パックの牛タンだから、今夜のおかずにでもしてよ」
「あら、悪いわね。そうだ。お母さんが居なくて紗由ちゃんも大変だろうし、今夜はウチで一緒に食べさせようかしら」
「そうしてもらえると助かるよ。最近は一人で食べていたそうだし、紗由も喜ぶんじゃないかな」
おじさんの視線が、同意を求めるように俺の方に向けられる。
『弱いところ見せたり、甘えたり、自分を優先してほしいって言ったりしてる?』
不意に八奈見の声が頭の中で反響した。
幼馴染だからといって、俺は紗由の全てを知っているわけじゃない。その実のところ紗由がどう思っているかは分からない。もしかしたら、案外まったく寂しがっていない可能性だってある。
でも、たとえ杞憂だったとしても、俺は紗由に寂しい思いをしてほしくなかった。
「俺からも言っておきます」
短く頷いて見せる。
紗由のことだし、誘ったところで「北見家に迷惑はかけられない」なんて遠慮するかもしれないが、今日ばかりは多少強引にでもウチの食卓へと連行してやろう。
「祐一君から言ってくれるなら安心だ」と、おじさんはホッとしたように目尻を下げる。「じゃあ、私はそろそろお暇させてもらおうかな」
車まで見送ろうと、俺は母さんに続いて外に出た。
寝起きの俺には、朝の日差しはまだ眩しかった。目を細めながら視線を家の敷地内に停まっている車の方にやる。そこに向かうおじさんの後ろ姿は、いつもよりも少し小さく見えた。
「あ、そうだ。祐一君」
「え? あ、はい」
「ほら、紗由は昔から変に意地っ張りで、何かと一人で抱え込んじゃうところがあるだろう? 君が側にいてくれて本当に助かるよ」
おじさんは運転席のドアに手をかけながら続ける。
「今日の試合も見に来てくれるんだってね。本当は私も行ってやりたかったんだけど……まあ、こんな状況だ。私の分も頼んだよ」
小さく笑みを浮かべたかと思うと、俺の返事も待たずに車に乗り込んでしまう。
そのまま、車はすぐにエンジン音を残して走り去ってしまった。
残された俺は、それを見送りながら頭の後ろをかいた。
ただのテニス観戦だったはずなのに、おじさんから直々に「代わり」を任されたことで、なんだか妙な責任感を帯びてしまった気がする。
……本当はもう少し家でごろごろするつもりだったけど、早めに出ることにしよう。
◇
ちゃっちゃと支度を済ませると、チャリを漕いで紗由の家に向かった。
梅雨という季節とは裏腹に、昨日に続いて豊橋の朝は眩しいほどの晴天だ。ニュースを見る限りでは天気が崩れることもないそうだし、今日の試合は大丈夫だろう。
そんなことを考えている内に、あっという間に有針家へ到着した。
正面のガレージに車はなく、当然ながら空っぽのまま。おじさんが単身赴任に出てからずっとこんな感じだったはずなのに、今日はなんだか寂しさを憶える。
紗由はパパっ子気質なところがあるし、父親がすぐに帰ってしまったことには流石の流石に少なからずショックを受けているんじゃあるまいか。
空っぽのガレージを見続けると、ついついそんなことを考えてしまう。
まあ、幼馴染って家族みたいなものだし、こういう時にこそ傍にいてやるものだよな。
もし落ち込んでいたら元気づけてやろう。そんなことを思いながら、チャリを停めて玄関に向かう。そんなタイミングで、キュルルルッ……とサッシの開く音がした。視線を向けてみるが、正面の窓は閉まったまま。どうやら裏庭の縁側に繋がっている窓が開いたらしい。
洗濯物でも干しているのだろうか。すれ違いになって外で待たされるのも面倒だ。裏まで回り込んで、そこに紗由がいたら直接声をかけることにしよう。
「お~い。幼馴染さまがきたぞ~ぉ。……お?」
ふざけながら裏庭を覗き込んだ瞬間──俺の脳内CPUは完全にフリーズした。
予想通り紗由は裏庭にいた。ウッドデッキには衣類の入った洗濯籠が置かれ、物干し竿では白いシーツがひらひらと揺れている。洗濯物を出している途中のようだが、当の本人は洗濯物そっちのけで芝生の方に下りて膝をついて四つん這いになっていた。
「ほら〜、ねこちゃん〜。ん~! かわいいでちゅね〜」
紗由は部屋着のままで、何やらうずくまっていた。何事かと思いきや、その手の中にはふてぶてしい顔をした一匹の黒猫が見える。紗由は身を小さくして顔を近づけながら、寝転がる黒猫の腹の辺りを指の先で、ぐりぐり、さわさわ、と弄んでいたのだ。
「きょう、がんばりまちゅからね~。試合に勝ってイイトコみせちゃいまちゅからね~」
誰の声か判別も付かないような──まあ分かってるんだけど──信じられないぐらい甘ったるい声が聞こえてくる。
紗由はいっそう前のめりになったかと思うと、顔を猫に擦り擦りつけた。
いわゆる猫吸いというやつだ。
しばらくそのままでいて、少し経つとぱっと顔を上げる。それで乱れた前髪など気にしておらず、満足そうなデレ顔を猫に向けていた。
おっとやべぇぞ。見てはいけないものを見てしまった。
万が一にもこんなところを覗き見ているなんて知られたら生きては帰れまい。幸い、紗由は猫に夢中でまだ俺のことに気が付いていない。逃げ出すなら今しかない。
抜き足差し足。そっと静かに足を引いて、来た道を戻る。
その時、唐突に「みゃあ~」と猫の鳴き声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には黒い影がするりと紗由の手を抜け出し、俺の方に勢いよく走って来るのが見えた。
はあ!? お前ッ! 馬鹿ッ!! 来るなッ!!!
悲痛な心の叫びも虚しく、猫は颯爽と俺の足元をくぐって敷地の外に消えていく。
慌てて紗由の方に視線を戻す。そこでは四つ這い状態の紗由が猫の動きにつられて、緩んだ顔のままで「も~、どこいくの~!」なんて声をあげながら、首を傾けて視線を俺の方へ向けていた。
そして、目が合う。
一秒。二秒。三秒。
少し固まった後、紗由はかっと目を見開いたかと思えば、次の瞬間には逆に眉間に深いしわを寄せていた。首から頬にかけての部分が、火山の噴火ばりの赤色で染め上がっている。同じ赤でも、昨日見たものとは違う。あの赤色は怒りの赤だ。
……紗由さん。女の子がしちゃいけない顔してますよ。
その瞳には、純度100%の殺意が宿っている。
紗由はぷるぷると身を震わせながら、手近なところにあったサンダルを掴んで立ち上がる。
「い、命だけは……」
「アンタ。いつから、そこに、いたの」
「え、えーと……。かわいいでちゅね〜、のあたりから……です」
「死ねっ! 覗き魔!」
顔にサンダルが直撃した。