「遅刻しちゃうー!」
赤信号の横断歩道。私はその前に立ち、忙しなく足踏みをしていた。
はやる気持ちを抑えていると信号が青に変わる。私は足を前に出して、すぐに走り出した。
転校初日、五月の青く広がる空。
私は初めて通る通学路を全力疾走で進み続ける。
ちゃんと予習したはずなのに、どうしてこんなことになったんだろう。
思えば、原因は電車を乗り間違えてしまったことだった。
本当なら豊橋鉄道の渥美線に乗らなくちゃいけなかったのに、私は思い込みで路面電車である市内線の方に乗ってしまったのだ。
やがて、乗っていた路面電車は目的地とはぜんぜん違う方に進んでびっくり──というのが、ほんの三十分ほど前に起きたこと。
予定よりもだいぶ遅く駅に降りた私は、学校まで全力ダッシュの真っ最中だった。
目指すはツワブキ高校。今日から私の通う学校だ。
駅から学校までは、事前に地図で何度も確認しているから、道は分かっている。
記憶によれば、幹線道路に沿って進むよりも、住宅地を突っ切った方が早く着くはずだ。
時間はない。なら、全速力でそっちの道を走るしかない!
「間に合ってー!」
私は鞄を抱え直し、さらに速度を上げた。
細い住宅街の道を進んでいくと、少し先に自然豊かな学校の敷地が見えてきた。
校門の辺りには、まだ生徒たちの姿がたくさん見える。よかった。どうやら遅刻という最悪の事態だけは避けられそうだ。
……まあ、転校生は早めに登校するように、と言われていたんだけど。そこはほら、事情を説明すれば、なんとかなるはず!
そんなことを考えていた私は、ろくに確認しないまま曲がり角に飛び出してしまった。
「うおっ!?」
すると──目の前に、人がいた。
短めの黒い髪。白いシャツとブレザー。少し日に焼けた健康的な肌。
そして、こちらを見て驚いている男子の顔。
……って、そんなこと観察してる場合じゃない!
「どいてどいてー!?」
私は叫んだが、勢いのついた体は止まらない。
「きゃああっ!」
「うわっ!」
避ける暇もなく、私たちは衝突した。
「う、うぅ……」
視界がぐるぐると回っている。何が起きたのか分からなかったが、転んだせいで背中が痛かった。あと、なんだか身体が重たい。
「大丈夫か?」
体の上から、男の人の声がした。
……男の人?
恐る恐る目を開ける。
最初に見えたのは、太陽を背にした真っ白な制服。
その次に見えたのは、男の子の爽やかな顔だった。
「……」
この人、どうして私の上にいるの……?
そう思った次の瞬間、胸元に妙な感触があることに気が付いた。
視線を体に落としてみると、男の子の手が私の胸に触れて、もにゅもにゅと形を変えている。
「……え?」
一瞬、頭が真っ白になる。
胸を揉まれている。しかも、ものすごくしっかりと。
「っ──きゃあああああああっ!」
次の瞬間、私の悲鳴が五月の青空に響き渡った。
「うわっ!?」
男の子が慌てて飛び退く。
私は上半身を起こすと、とっさに両腕で胸元を隠しながら彼を睨みつけた。
「な、なにしてるの!?」
「違う! 事故だ! 俺はただ、受け止めようとして──」
「事故で胸を触る人がどこにいるの!? あんなにがっつり!」
「いや、だから事故なんだって!」
男の子は慌てたように両手を上げる。
「そもそも俺に突っ込んできたの、そっちだろ!」
「それは……!」
言われてみれば、その通りだった。
確かに私がちゃんと確認せずに飛び出してしまったのが悪い。
「だ、だからって人の胸を触っていい理由にはならないでしょ!?」
私は恥ずかしいやら何やらで、混乱しっぱなしの頭を整理しつつ、勢いよく立ち上がった。
「と、とにかく! 今のことは忘れて!」
私は新品のスカートについた埃を払って鞄を拾い上げると、男の子の返事も待たずに学校へ向かって走り出した。
やがて説明やら、何やらを経て、担任の甘夏先生と一緒に教室に入った。
「んじゃー、お前らー、転校生を紹介するぞー」
季節外れの転校生を前にしたクラスメイトたちのざわめき。
その中で甘夏先生の気の抜けた声が響く。
季節外れの転校だから、少しだけ緊張している。
でも、それ以上に楽しみだった。
これからここで、どんな友達ができるんだろう。どんな毎日が始まるんだろう……って。
紹介を受けた私は一歩前に出る。
そして、その場でゆっくりと時間をかけながら、これから一年間を共にする1年C組の仲間たちに視線を巡らせていった。
みんな私に興味津々という感じだけど、私だってみんなに興味津々だ。
なんだかお互いに観察し合っているみたいで、少しおかしくなって笑みが漏れた。
「姫宮華恋です! 皆さん、今日からよろしくお願いし……ま……」
自己紹介をしながら、私の視線が教室の真ん中まで動いた時、そこには見覚えのある顔があった。その男の子は私を見て、「げっ」とでも言いたげに口を大きく開けて固まっている。
彼の顔を見た瞬間、つい今朝の記憶が鮮明に蘇ってきて、顔がどんどん熱くなる。
私は、思わず指を突きつけた。
「あーっ! あんたはあの時の痴漢男っ!」
◇
六月の月曜日。雲が目立つ空の下を、私は杏菜と並んで二人で歩いていた。
「ほんとに草介はだらしないんだから。華恋ちゃんもそう思うでしょ?」
「草介君って、意外と朝に弱いんだ」
「うーん。そういうわけじゃないんだけど、なんか夜更かしすることが多いみたいなの」
ツワブキ高校に向かう通学路。転校から一か月が経って、今ではすっかり慣れた道だ。
いつもなら、ここに草介君も加わった三人で歩くことが多い。けれど今朝は、彼が寝坊してしまったせいで、杏菜は一人でここまで来ていた。
なんでも、いくら起こしても彼はベッドから出てこなかったんだとか。
そのせいで、私の親友は朝からすっかり幼馴染にご立腹中だ。
杏菜はさらっと言っているけど、女の子が男の子の部屋に上がり込んで、ベッドから叩き起こす……なんて、少し前の私なら、「えっ、そんなことするの!?」とびっくりしていたと思う。
でも、最近はもう慣れてしまって、あっさりと受け入れられていた。
どうやら幼馴染の男女というのは、当たり前にそういうことをするものらしいのだ。
……我ながら、慣れって怖い。
今の私は、むしろ草介君が夜更かしをした、という話の方が気になっているぐらいだ。彼はスポーツ好きで、健康志向な人という印象があったから、夜更かしというのはなんだか意外だ。
「お勉強でもしてたのかな。彼、真面目な人だし」
「それが違うんだよ華恋ちゃん!」
杏菜はぶんぶんと首を振る。
「草介ね、なんか海外のサッカーをよく見てるの」
「サッカー?」
「うん。えーっと、なんていったっけ。バーコードリーダー? みたいな奴! 時差があるから夜中にやってるらしいんだよね」
杏菜の言うバーコードリーダーが何を指しているかは分からない。
たぶんどこかのサッカーリーグのことだろう。たぶん。
「それでお寝坊なんだ~」
草介君がスポーツ全般好きなことは知っていたけれど、その中で特にサッカーに熱中していることは初めて知った。
さすがは幼馴染。彼のことは何でも知っているらしい。
「サッカー観戦で夜更かしなんて、ほんと子供なんだから。夜中にやってるんなら録画でもすればいいのにさ」
「でも、ライブで見るから面白いんじゃないかな?」
「あーっ。華恋ちゃんは草介の肩を持つの!」
「そういうわけじゃないけど」
くすりと笑うと、杏菜は頬を膨らませながら草介君への不満を述べ続ける。
「それでね、草介が──」
そのまま会話に相槌を打ちながら、私の意識はサッカー好きのお寝坊さんから、コンビニで買った惣菜パンをもぐもぐし続けている杏菜の方に移っていった。
転校したばかりで、右も左も分からなかった私に誰よりも親切に接してくれたのが杏菜だった。
今では、彼女は私にとって大切な親友だ。
誰にでも分け隔てなく接することのできる、とってもいい子。ちょっと食いしん坊なのが玉に瑕だけれど、幸せそうにご飯を食べる姿は、見ているこっちまで嬉しくなってくる。
だから私は、杏菜に何か食べ物を分けてあげるのが好きだ。
お弁当のおかずとか、お菓子とか。そういうのを分けてあげると、杏菜はとっても喜ぶのだ。その顔を見ているとこっちまで幸せになってくる。
……まあ、そのせいで今の状況が生まれているわけだけど。
私は杏菜がご飯を食べる姿を見るのが好きだ。
でも、今日ばかりは心を鬼にしなくてはいけない。
なにしろこの子、つい昨日私に痩せたいと相談してきたばかりなのだ。
それなのに、朝からカロリーの高そうな惣菜パンをスナック感覚で食べている。しかも、話を聞く限りでは家でもちゃんと朝ご飯を食べてきたらしいし、これはいけない。
思わずため息が漏れそうになるが、ぐっと我慢する。
呆れている場合ではない。ここは親友として、ちゃんと指摘してあげるべきだ。
普通の友達には言えないことを、ズバッと言ってあげる。それでこそ親友なのだから。
……よし。
私は勇気を振り絞ると、大きく声を上げた。
「ねえ、ちょっと杏菜」
「ふぇ? なに? 華恋ちゃん……?」
突然のことに驚いたようで、杏菜は呆然と顔を上げた。ほっぺにはパンに挟まっていたソースが付いたままだ。
それを拭いてあげてから、私は「ごほん」とわざとらしく息をついた。
「自分がいま、なにやってるか分かるかな」
なんだか、お説教みたいな口調になってしまった。
別にそこまで強く言うつもりはない。私はただ、自分で気が付いてほしいだけだ。
少しの間じっと見つめていると、足を止めた杏菜はハッと顔を上げた。
「ち、ちがうよ? 華恋ちゃん!」
激しく首を横に振って、焦るようにあわあわしながら続けた。
「これは草介の悪口とかじゃないの。ただ、いつもだらしないから、幼馴染として、少しぐらい言ってもいいかなって……」
どうやら、私の言いたいこととは違う方向に話が進んでいるらしい。
しゅんと落ち込むように肩を落とすと、そのままぱくりっと、惣菜パンをさらにひとかじり。
そっちじゃない。そっちじゃないのよ、杏菜……。
このままでは埒が明かなそうなので、今度はちゃんと正面から指摘することにした。
「ねえ、杏菜。昨日の話、ちゃんと覚えてる?」
「昨日? もちろん覚えてるよ! 新しい水着の話だよね。いつ買いに行こっか」
「その話もしたけど……。そっちじゃなくて! そのために痩せるって話の方だよっ!」
言い切ると、がしゃーん、と頭上に雷でも落ちたかのごとく杏菜は目を丸くした。
「それなのに朝からそんなもの食べちゃって。杏菜、本当に痩せる気あるのかな」
杏菜は目を丸くしたまま、自分の手に握られている惣菜パンの袋を眺める。
それからしばらくの間、比較するように、右、左、右、左……と惣菜パンと私の顔との間で視線を交互に移動させていた。
私って、あの惣菜パンと比較できちゃう存在なのだろうか……。
「ごめん、華恋ちゃん」
待っていると、ようやく短い呟きが聞こえてきた。
よかった、分かってくれたらしい。
「分かってくれたなら、それでよかったの。私、杏菜のこと応援してるんだから──」
「私ね、食べ物を粗末にはできないの。だから、怒るならこの惣菜パンじゃなくて、私の方を怒って!」
「えぇ!? 杏菜!?」
杏菜は悲しい表情を見せたかと思うと、袋を握りしめると惣菜パンを一気に食べきった。
私の大切な親友……八奈見杏菜。
彼女が新しい水着を着られる日は、まだまだ遠そうだ。
◇
杏菜はずっと悲しそうだった。鞄の中に隠していたもう一つの惣菜パンを私が没収したからだ。
悲しむ姿を見るのはつらい。つらいけれど、私は心を鬼にしたまま我慢する。
そうして、ツワブキ高校まであと少しというところに差し掛かると、不意に背中側から声が響いてきた。
その音はだんだん大きくなって、環境音の中でも言葉が意味をなしてくる。
「……! 杏菜!」
声は杏菜の名前を呼んでいた。
私たちが一緒に振り返ると、そこでは一人の青年がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
彼は、少し着崩した制服の白いシャツを乱しながら、額には汗をにじませている。
「草介!?」
その姿を見て、杏菜は思わず声を上げていた。
私たちのところまでやって来た草介君は、膝に手をついて、ぜーぜーと荒い息を吐いている。
どうやら、ここまで本気で走ってきたらしい。
呼吸を整えるのもそこそこに、彼は顔を上げると汗を拭って杏菜に向き直った。
「杏菜! さっきはマジで悪かった!」
「ちょ、ちょっと草介! 顔を上げてよ! 人前だし……それにほら、華恋ちゃんだっているし!」
大胆で真っ直ぐすぎる謝罪を受けた杏菜は、すっかりタジタジだった。
「……もう、今回は許してあげるけど、次はちゃんと起きてよ?」
「分かったよ。ほんと悪かった」
杏菜は少しだけ怒るような素振りを見せたけれど、最後には草介君のことを許していた。
さすがに、彼のド直球な謝罪には勝てなかったらしい。
どんなことにも真面目で、全力で、真っ直ぐで。少年みたいな純粋さがあるのに、こういうところではちゃんと相手の気持ちを考えている。
そういうところが、草介君の魅力なんだと思う。
意図してやっているわけではないにしろ、彼はちょっとずるい人だ。
幼馴染の男の子に、あんなふうに真正面から謝られてしまったら、誰だって──私だって──あっさり許してしまうだろう。
許された草介君は、ほっとしたように息を吐くと、爽やかにはにかんだ。
「でも昨日の試合はデア・クラシカーって言って、本当に大事な一戦でさ……」
「ほんとに反省してるの!?」
一段落したかと思えば、未練たらしく草介君が付け加え、杏菜はそれに声を上げる。
その光景があんまりにも微笑ましくて、私は少し離れたところから二人の様子を眺めていた。
たまに喧嘩をして、怒って、それでもこうして追いかけてきてくれて、丸く収まる。
二人はそんな関係なのだ。
……本当に、仲が良いんだなぁ。
ふと、そんなことを思った。
そして、ほんの少しだけ。本当に少しだけ。羨ましく思った。
杏菜は気が付いていないみたいだけれど、自分を全力で追いかけてくれる相手がいる。
それって、傍から見ればすごいことだ。
◇
月曜の学校は、気だるさと賑やかさの二つが混ざり合って、独特な空気を出していた。
「あ、姫宮さん! おはよう!」
「華恋ちゃんおはよう~」
「姫宮さんじゃん。おっはー」
廊下を歩いていると、あちこちから声が飛んでくる。
「おはよう!」
「おはよー!」
「またあとでね!」
私も負けじと、沢山の挨拶を返す。
転校してきてまだそんなに経っていないのに、こうしてたくさんの人が声をかけてくれる。
なんだか、ちょっと嬉しい。最初の頃は学校の中でおろおろしていたけど、廊下を歩くだけでこんなに挨拶をもらえるのだ。私はちゃんとこの学校に受け入れられている……。
友達って、いいなぁ。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと周囲から届く別の視線にも気が付いた。
……うん。めちゃくちゃ見られてる。
我ながら、学校の中ではちょっと目立っている自覚がある。
なにせ私は季節外れの転校生。そのうえ、学校でも有名な杏菜と草介君と一緒に歩いているのだから、目立つのも仕方ない。
「華恋は人気者だな」
隣を歩いていた草介君が、そんなことを言って笑う。
友達に恵まれているのは嬉しいことだけど、彼に人気者とまで言われるとさすがに恥ずかしい。
「ほら、あっちの男子も、華恋のこと見てるぜ」
「朝から注目を集めちゃうなんて、華恋ちゃんはすっかり学校のアイドルだね」
「もう、杏菜ったら」
確かに、たまに男子からじーっと見られていることはある。
もちろん、友達が増えるきっかけにもなるし、別に嫌というわけじゃない。
でも、あの熱い視線だけはどうにも落ち着かないというか、なんというか……。
ううん。考えないでおこう。
そんなことを思っていると──ぎゅっ、と不意に杏菜が私の腕に掴まってきた。
「むっ、あっちの男子、なんだか目がヤラシイ。ほら、草介、ガードして、ガード!」
はいはい、と草介君が一歩前に出て、私の前に立つような形になる。
腕にくっつく杏菜もぎろっと周りの男子に目を光らせて、文字通り睨みを利かせてくれる。
すると、男子たちは「あー……」とでも言いたげな顔をして、ため息交じりに散っていった。
まったく、この子は本当に優しいんだから。
「ありがとう、二人とも」
「気にすんな」
「どういたしまして」
二人が一緒にいてくれると、とっても心強い。私は二人のエスコートを受けながら階段を上り切って、一年生の教室が並ぶ廊下へと足を踏み入れた。
私たちが廊下に出るのと同じタイミングで、1-C教室から二人の少女が出てくるのが見えた。二人は何やらキャッキャと話しながら、向かい側にあるもう一つの階段へと早足で進んでいる。
「ごっちんとネギちゃんだ」
その後ろ姿を見て、杏菜が声を上げた。
一瞬しか見えなかったが、あの二人は杏菜と仲の良い友達である根岸さんと呉さんのようだ。
二人の向かったのは生徒玄関から遠い方の階段。朝の時間、そちらはあまり使われていないので私は不思議に思う。
杏菜も同じだったようで、「あっち行ってみようよ!」と言い出し、私たちは教室に入る前に二人を追いかけることになった。
そうして向こうの階段まで行ってみると、根岸さんと呉さんは踊り場に立っていた。二人そろって、なぜか下の階を覗き込んでいる。
「私、学校でアレをする勇気はないかなぁ」
「だねぇ。いや、彼氏に頼めばワンチャン……いや、流石にないか」
根岸さんは隣の呉さんと口々に言い続けている。
その様子を前に、私たちは顔を見合わせると訳も分からず首をかしげた。
「ごっちん~、ネギちゃん~。そこで何やってるの?」
「あっ。杏菜ちゃん」
杏菜が親しげに声をかけると、根岸さんはそれに反応して一度顔を上げたが、すぐにまた視線を下の階に戻してしまった。
「こっち来た!」
続けて、呉さんが嬉々とした声を上げると、二人してテクテクと小走りで階段を上ってくる。
その足で私たちの隣につくと、何かを待つようにまた下の階を見始めた。
つられて、私たちも下の階を見てしまう。
「そういえば、八奈見、あの二人と仲いいよね」
「そうそう。杏菜ちゃんだけじゃなくて、華恋ちゃんと、草介君も」
二人の視線が、杏菜、草介君、そして私へと順番に移っていく。
「もしかして知ってた?」
「ちょっと、ごっちん! ぜんっぜん、話が見えてこないんだけど!?」
杏菜がしびれを切らした、その時だった。
下の階から、何やら騒がしい声が聞こえてきたのだ。
「いい加減下ろしなさいって!」
「暴れるなって! 階段で落ちたらどうすんだよ! あと踊り場だけだから!」
それは普通の話し声ではなく、むしろ口論とか、喧嘩に近いものだった。声の主は、男と女で──まもなく、一つの影が階段を上って踊り場に現れた。
「えっ」
声が漏れた。
そこに現れたのは、小柄な女の子を腕の中で抱きかかえる背の高い青年の姿だった。
お姫様抱っこ。本物のお姫様抱っこだ。
しかも抱かれているのは──
「紗由ちゃん!?」
私は叫んでしまった。腕の中の紗由ちゃんは、暴れる猫みたいにじたばたしている。
「ほら、もう着くぞ──あっ」
紗由ちゃんを抱えていた祐一君は、腕の中で暴れる少女から視線を上の階層に向ける。
彼の体は踊り場のところでぴたりと固まった。それで異変に気が付いた紗由ちゃんも、視線を彼の顔から私たちの方に向けた。
そうして、お姫様抱っこ真っ最中の二人と、待ち構えていた私たちの目が合うことになった。
「わぁあ」
隣の杏菜が口を大きく開けて、呆然とした感じに声を上げた。
うん。私も同じ気持ちだ。
わぁ……。幼馴染って、ここまでやるものなんだ。
杏菜と草介君も十分距離が近いと思っていたけれど、こっちはさらに一段上だった。
学校でお姫様抱っこ。しかも、抱かれている紗由ちゃんは顔を真っ赤にしている。
すごい。なんだか少女漫画のワンシーンみたいだ。
「おいおい北見、朝から見せつけてくれるなぁ」
隣にいた草介君が面白そうに吹き出す。
「は、袴田!? 華恋さん!? なんでここに!?」
「私もいるけど……」
と言った杏菜の声は、祐一君に届いていない。
「違うからね!? 誤解だから!」
紗由ちゃんはそう叫ぶと──次の瞬間には、祐一君の頬に鋭い拳を食らわせた。
ごすっ、と女子高生のパンチらしからぬ鈍い打撃音が踊り場に響き渡る。
「「あっ」」
私たち五人は一斉に声を上げる。
「いってぇ!」
祐一君はよろめきながらも、しっかりと体を抱きかかえたまま姿勢を維持する。
「おまっ、落ちたらどうすんだよ!」
「むしろ今すぐ落としなさい! 変な所で耐久力発揮すんじゃないわよ!」
「運んでやってるのに理不尽すぎるだろ!?」
「その親切心で死ぬほど恥ずかしい目に遭ってるんだけど!?」
腕の中で必死にもがく紗由ちゃんは、彼に文句を言い合い続けている。
なんというか、夫婦喧嘩レベルMAXって感じだ。
「夫婦喧嘩みたい……」
呉さんも同じ感想だったようで、思わずという感じにぼそっと口に出す。
「「夫婦じゃない!」」
すると、二人の声が息ぴったりに重なった。
その様子にすっかり圧倒されていたけれど、ふと紗由ちゃんの足元に目が留まった。
彼女の足首にはテーピングが巻かれていたのだ。
「ね、ねえ、紗由ちゃん……もしかして怪我してるの?」
私はおずおずと声を上げると、みんなの視線が一斉にそこへ集まった。
「なんだ有針が怪我して運んでたのか。北見は優しいな。俺はてっきり人気のない階段でいちゃついてるのかと思ったぜ」
草介君が納得したように頷く。
「いちゃついてねぇ!」
「いちゃついてないから!」
草介君が冗談っぽく言うと、二人はやっぱり息ぴったりに叫んだ。
とりあえず、それで紗由ちゃんの言うところの「誤解」は解消した。
祐一君は紗由ちゃんを抱きかかえたまま、慎重に階段を上って私たちのいる廊下まで出てくると、壁際のところで体をそっと下ろす。口ではさんざん文句を言っていたのに、まるで壊れ物でも扱うような、とても丁寧で優しいものだった。
口ではいつも紗由ちゃんと喧嘩しているのに、こういうところではちゃんと相手のことを考えている。やっぱり祐一君は、素直じゃないけれど、とっても優しい人だ。
お姫様抱っこ騒動も一段落して、私たちは教室に足を向け直した。
杏菜と草介君の後ろに続く形で廊下を進んで行くと、背後からは祐一君と紗由ちゃんの話し声が僅かに聞こえてくる。
「朝から殴るなよ」
「アンタがヘンな運び方するからでしょ。おんぶでいいって言ったのに」
「無理させないようにしたかったんだよ。部活復帰に時間が掛かったらマズイだろ?」
そこまで聞こえて、二人の会話がぴたりと止まる。
どうしたのだろう、気になって振り返ってみると、そこでは少し痛そうに頬をさする祐一君と、壁に寄り添いながらそっぽを向いている紗由ちゃんが見えた。
「……殴るのはやりすぎた。ごめん」
紗由ちゃんは小さく俯きながらつぶやく。
「別に痛くないし」
祐一君はぶっきらぼうに言って、長い腕を彼女の方に伸ばした。
「んなことより、肩、貸すか?」
「うん。ありがと」
紗由ちゃんの小さな声が聞こえると、二人は体を寄せ合って壁伝いに歩き出す。
喧嘩にはならず、なんだかんだ丸く収まったらしい。
そんな二人の姿からは、素直じゃないけれど、積み重ねてきた確かな信頼と気遣いが見え隠れしていた。
二人そろって不器用さんなんだから。
ひとまず胸をなでおろし、私は視線を前に戻した。
少し先では、草介君と杏菜が並んで歩き、何やら冗談を言って笑い合う姿が見える。
草介君と杏菜。祐一君と紗由ちゃん。
形は全然違うけれど、どちらも長い時間を一緒に過ごしてきた。お互いのことをよく知っていて、困ったときには当たり前のように隣にいる関係──幼馴染。
……いいなぁ。
私は小さく息を吐いた。
「華恋ちゃん?」
そのため息が聞こえたのか、杏菜が振り返って訊ねてくる。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
私は笑みを浮かべながら努めて明るく言うと、早足で彼女と草介君の隣まで進んでいった。
「ね、二人で何の話してたの──」
◇
杏菜の隣には草介君がいて。紗由ちゃんの隣には祐一君がいる。
二人にとっては、それが当たり前なのだろう。
あまりにも当たり前だから、自分たちがどれだけ恵まれているのかなんて、きっと考えたこともないはずだ。
羨ましいと思いつつも、仕方のないことだって私は諦めていた。
私がいまさらどうしたって、二人が長く過ごしてきた時間に追いつくことはできないのだから。
……でも、もしも。
私のために、あんなふうに必死になってくれる人がいたら。
困ったときには、当たり前みたいに隣にいてくれる人がいたら。
想像しただけなのに、顔がじんわりと熱くなった。
私がこれから積み上げていくものは、既に築かれた関係に勝つことができるのだろうか?
不意に、心臓がどくんと音を立てた。
……勝つ?
私ったら、いったい何を考えているんだろう。まるで誰かと競争をしているみたいだ。
私は「幼馴染」みたいな関係が羨ましかっただけのはず。そんな特別な存在が、私にもいたらいいなと憧れていただけのはず。
それなのに……まっすぐな彼と、不器用な彼。二人のことを否応なく意識してしまう。
心臓がどくんと大きく鳴った。
違う違う! べつに、これはそういうんじゃない!
そういう特別な存在が、私にもいたらいいなって思っただけで……。
考えれば考えるほど、頭がごちゃごちゃしてくる。
こんなことを考えるの、本当はよくないことだ。
幼馴染という出来上がった関係に、私が横から入っていくなんて。そんなことをしたら、きっと誰かを傷つけてしまう。
これはただの憧れ。
そういうことにしておきたいのに──胸の奥に生まれてしまったこの気持ちを、今更なかったことにもできずにいた。
……私は、ちょっとだけ悪い子なのかもしれない。