なんてことのない火曜日の放課後。
紗由と共に教室に残っていた俺は、灰色の雲と雨粒が広がる窓を眺めていた。
今朝から続く雨足は午後になりいよいよ強まっている。
「部活、今日は休みだって」
自分の席に座ったままの紗由がそう呟いた。
今日は見学と言う形でテニス部に顔を出す予定だったらしい。
「だと思った。この雨じゃコート使えないだろ」
「テニス部だって毎日テニスしてるだけじゃないの。座学とかもやってるんだから」
紗由はぐちぐちと言いながら、苦々しげな面持ちで視線を窓の外に向けた。よほどテニス部に行きたかったのだろう。こいつのテニス部に対する熱心さというのには感心を通り越して呆れてしまう。怪我人なんだから、おとなしく休んでおけばいいのに。
「んじゃ帰るか」
「何アンタまで帰ろうとしてんのよ。漫研あるでしょ」
「康斗も事情は知ってるし大丈夫だよ。それにほら、お前は傘を持たんといけないし、荷物持ちが必要だろ?」
「気にしなくていいって」
「途中で転んだりしたら寝覚めが悪いだろ」
俺は有無を言わせないために紗由のスクールバッグを手に取る。ほぼ同時に紗由の細い指先が持ち手に伸びてきたが、俺が引かないのを見ると唇を尖らせながら手を引っ込めた。
「それ、責任もって家まで持ちなさいよ」
紗由は諦めたようにため息をつき、机の端に体重を預けながらゆっくりと立ち上がる。
俺たちは登校時と同じようにバス停を目指して学校を出た。
口にこそ出さなかったが、実のところ俺は紗由のことが心配だった。
今日ばかりは割とガチ目の心配だ。
俺や紗由の家がある鷹胡台地区は、台地だが日常生活に不自由を感じる程の高低差はない。しかし、雨の日だけは別だ。土砂降りで濡れた坂道はすっかり滑りやすくなっている。慣れた道でも、これほどの土砂降りだとあっさり足を取られることが珍しくない。
ただでさえ紗由は足首を怪我しているのだから、到底安全な帰り道とは言えなかった。
紗由の足を気にしながらゆっくり進んで、ようやく県道沿いまで来た。
ツワブキ高校から鷹胡台まではアクセスが最悪だ。そもそも、家の近くまで走っているバスに乗るには、学校から十分以上歩いて行って県道沿いまで出なくてはいけない。
そんなわけで、ここまで遥々歩いて来たのだが直近のバスは既に出たあとのようだった。
「歩いて帰る?」
「おとなしく待ってればいいだろ……」
隣から顔を出した紗由がそんな提案をしてくるので、本当に呆れるしかない。バス停には小さな屋根とベンチがあったのでそこに避難して次の便を待つことにした。それほど頻繁に出ている便でもないので、少しの間ここにいることになりそうだ。雨宿りできるだけ幸いと言うべきだろう。
「ほれ、座れ座れ」
「うん。ありが……と」
小さく言って、ちょこんと腰を掛ける。
「あ? どうかしたか?」
「……ねえ、立ったままもなんだし、あんたも座れば?」
一瞬、俯いたかと思うと紗由は不気味な程にっこりと優しい笑みを浮かべ、自分の隣をぽんぽんと叩いて座るように促してきた。
どうした急に。昨日からなんかおかしいとは思っていたが、俺の知る有針紗由はそんなことをしない奴だ。テニスの禁断症状でいよいよおかしくなったか。
訝し気に紗由を見つめるが、返ってくるのは張り付いたようにわざとらしい微笑みだけだ。
ま、まあ、純粋な心遣いである可能性も1パーセントぐらいは否定はできない。
俺は日曜から献身的に介抱してやってるわけだし、その恩返しとか。
しかし、俺が無駄にデカいせいでもあるけどベンチは二人分の肩幅でぎりぎりのサイズしかなかった。俺が座ると紗由が窮屈になるのは目に見えている。
怪我人を押しのけるというのもどうなのだろう。
バスを待つ時間だってそう長いワケでもないし、俺が無理して座るほどのことでも……。
考えながら視線をベンチに落とす。よくよく見てみると、座面はずぶ濡れだった。
「……冷たくないか?」
「何が」
「尻」
「バカ」
紗由はぷいっと横を向いて雨の県道に視線を逃がした。
コイツ、自分のスカートが濡れたから俺も道連れにするつもりだったらしい。なんて奴だ。
しかし、ここまで座らないのもなんだか負けた気がしたので、俺も諦めてベンチに腰を下ろした。
冷たくなった俺のケツについては諦めるとして、やはり並んで座ると紗由の肩と俺の腕が触れ合ってお互いに押しのけるような形になっている。やっぱり窮屈だ。
「もっと詰めれないの」
「こっちだって限界なんだ。てか、座れって言ったのはお前だろ」
しばらく二人でスペースを取り合っていたが、そのうち押し合うよりも互いに少しだけ体重を預け合うのが一番楽だと分かって、その体勢で落ち着いた。
じっとしていると濡れた肩を通して紗由の生暖かい体温がじんわりと広がってくるのを感じる。
なんとなくそれを意識することが気まずくなって、俺はスマホを取り出してそちらに集中することにした。
◇
じゃぶじゃぶと注ぐ雨音を聞きながら、スマホの画面をスクロールする。
天気予報によれば明日までは雨が続くらしい。今日一日はずっとこの調子の土砂降りだろう。
県道沿いの歩道は学生で溢れていた。ちょうど、あちこちの中学や高校の下校時間と重なっていることもあって、色とりどりの傘がさながら山脈のように連なっている。
時折、そうした傘の群れに意識を向けていると、前を通りかかった三人組のうち、一人が突然足を止めた。
「あれ……。やっぱり、紗由ちゃんと北見君じゃん」
声に引かれて顔を上げてみると、傾げられた傘の影から湿気でいつもより膨らんだモフモフ頭がぴょこんと顔を覗かせた。
「八奈見? どうしてこんなところに」
その隣には黒い傘を差した華恋さんと、片手をポケットに突っ込みながらビニール傘を差した袴田の姿もある。
とっくに下校したはずの三人、しかも通学路とはまったく違う県道沿いを歩いている姿に遭遇したのだから、俺も紗由も驚いてすぐには声が出なかった。
……事情を聞けば、期末テストが近いから県道沿いにあるカフェで勉強会をしようとここまで来たらしい。
「でも、この天気でしょ? それで混んでて、三人じゃ入れなかったの……」
肩を落としながら説明をしてくれた。ありがとう八奈見。おかげで事情はばっちり把握できた。し・か・し、華恋さんがいる勉強会に俺を誘わなかったことについては、少し怒っているからな。こんどしっかり問い詰めてやる。
袴田も袴田で「俺は杏菜に連行されただけだぞ」とでも言いたげな顔しやがって。羨ましい!
「北見は部活無かったのか」
「俺はサボりだ。こいつの荷物持ちもあるし」
膝の上に置いてあった紗由のスクールバッグを軽く持ち上げてみせる。隣の紗由は「……別に頼んでない」と小さく呟き、気まずそうに自分の膝の上で指を絡ませて視線を落とした。
袴田は掲げられたスクールバッグと俺たちを順番に見てから、「男前だな」と少しだけ目を細めて声を漏らしている。
ふふーん、たまにはこれぐらいやる男なんだ。という心の中のドヤ顔を押し殺して、俺はこんなの当たり前ですよ、といういかにも平然な顔を装った。
「二人はこれからバスで帰るところ?」
「うん。見ての通り」
続いた華恋さんの問いかけには、俺よりも早く紗由が答えていた。
同時に、紗由の肩がぐっと俺の腕に押し付けられ、預け合っていた身体の重みが急に増した。足を庇って座り直したのか、それとも俺への無言の圧力か。
意図を理解しかねていると眼前の華恋さんは傘の柄を握ったまま少し前屈みになって、ふわりと上体を倒してきた。
「祐一君、ちゃんと紗由ちゃんのこと送ってあげるんだね。えらいえらい」
ベンチから見上げる格好になった俺の視界のど真ん中に、至近距離で眩しい笑顔が飛び込んでくる。湿気に混じった甘いフローラル系の香りがふわりと舞って、薄手のシャツに包まれた圧倒的な質量が、重力に従ってゆるやかに零れ落ちそうになるのが見えた。
おぉ、下から見上げる華恋さんの破壊力も中々……。
男子高校生としての本能が視線を釘付けにした瞬間──ぎゅっ、と不意に脇腹に鋭い激痛が走った。
「いっ!?」
思わず悲鳴が漏れると、きょとんと目を丸くした華恋さんは上体を起こした。
ああ、俺の楽園が遠ざかっていく……。
「大丈夫?」
「あ、や、うん。平気平気」
冷や汗を流しながら愛想笑いを浮かべ、痛む脇腹をさする。横へ視線をやると、犯人はすでにそっぽを向いていた。
ぶるるっと手元のスマホが震えてLINEの通知を知らせる。画面上には『紗由:鼻の下、伸びてる』という短いメッセージ。
余計なお世話だ! 今いいとこだったのに!
「でもさぁ、ほんとついてないよ。せっかくいいお店見つけたのに……。あーあー、お腹減ったなぁ」
八奈見がだらしなく口を開けて天を仰いだ。そのまま雨水を飲んで腹を満たしそうな勢いだ。
「仕方ないよ。駅の方まで行けばお店あるかもだし、とりあえずお腹空いたからって私の腕を噛もうとするのやめようね、杏菜」
「だって華恋ちゃん、美味しそうな匂いするんだもん……」
「華恋は食い物じゃないぞ。そんなにお腹減ってるなら途中のコンビニで何か買うか?」
袴田が苦笑を浮かべながらフォローすると、八奈見は「そうじゃないの!」と首を振って、湿気を含んだ毛先を重たく揺らす。
「今日はカフェのふわふわパンケーキを食べながら、優雅に英単語を頭に流し込む予定だったんだよ!」
「杏菜、それ勉強じゃなくてパンケーキが目的になってないか?」
「両方とも目的だったの! 一石二鳥だよ!」
どちらかと言えば、二兎を追う者は一兎をも得ず、の間違いではなかろうか。
「うぅ~。どこでもいいから座ってお菓子食べたい……」
よほどお腹が減っているらしい八奈見は嘆きながら体を揺らして、そのまま後ろから華恋さんに抱き着いた。
「んじゃあ、そろそろ行こうぜ」
話を切り上げたのは袴田だった。この調子では、バス停の前でいつまでもグダグダと会話を続けてしまうだろうから、流石の判断だ。
しかし、この雨の中を駅まで歩くのは大変そうだ。
……万が一にでもこれ以上濡れて、華恋さんの制服が透けて、あんな姿やこんな姿を袴田の前に晒す可能性があるだなんて考えただけで、うらやま──じゃない、心配でたまらない。
「なあ、帰宅するついでに誰かんちで勉強するって選択肢はなかったのか?」
何気なく尋ねると、袴田は重く首を横に振った。
「俺んちは姉貴が友達を連れてきてるからダメなんだ」
「私の家もダメ。今はちょっとリビングが現代アートの展示場みたいになってるから」
「どういうこと?」
首をかしげると、八奈見は自分の家のことなのに説明に困るという感じで眉をひそめた。
「お父さんの仕事の関係でね、素人じゃあ足すら踏み入れられない領域になってるの。とても人を呼べないよ」
「お前の親父さんはどんな仕事をしてるんだ」
困惑していると、華恋さんも「私の家も……」と申し訳なさそうに眉を下げた。
沈黙の中で、三人の視線が一斉に俺へと向いた。
言わんとすることは分かる。人に聞いておいて、そういうお前の家はどうなんだ、ってことだろう。
「うちもダメだ。そもそも俺、これから紗由んちに行くし」
「えっ、紗由ちゃんの家に?」
八奈見が食いついた。しまった、余計なことを言ったかもしれない。
「いや、晩飯を作ってやろうと思って。ほら、コイツは怪我してるし、いまは親もいないし……」
「そうなの? 紗由ちゃん、ご両親は?」
「お父さんは単身赴任中で、お母さんも今はおばあちゃんの家に行ってるの」
「えっ、じゃあ、二人きりって……こと?」
華恋さんは目を瞬かせると、俺と紗由の顔を交互に見てから、ぱっと視線を逸らした。
まずい。いくら幼馴染とはいえ、親のいない女子の家に通っていると知られるのは不味すぎる。
「そ、れ、だぁぁぁっ!!」
どうにか誤解を解くべく頭をフル回転させていると、不意に八奈見の絶叫が響き渡り、思考がすべて真っ白に吹き飛んだ。
「紗由ちゃんの家で勉強会しようよ!」
「えっ、うち!?」
「北見君だけに紗由ちゃんを任せておくのは正直心配だし! 勉強会兼お見舞い会ってことで完璧じゃん!」
いや、俺だってちゃんと介抱してるからな!?
思わずつっこみかけて言葉を飲み込む。
……待てよ。この流れに乗れば、さっきの失言も有耶無耶にできるのでは? ついでに華恋さんとも一緒にいられるし、一石二鳥じゃないか!
これはもう乗るしかないと思って、すぐに賛同した。
「そうだな。よし、じゃあせっかくだしみんなで行くか」
「えっ、ちょっと、アンタまで……」
紗由が信じられないものを見るような目で俺を見上げていた。怒っている、というのとは少し違う呆然とした顔だ。
我ながら家主の意見も聞かずに調子のいいことを言った自覚はあるので、てっきり怒ったり脇腹をつねられると思ったのだが、予想外に大人しい反応だった。
「……まあ、いいよ。べつに」
小さな声でそう言うと、紗由は弱々しく眉尻を下げた。その調子のまま、俺の膝上に置いてあったスクールバッグを無言でぐいっと引っ張って自分の膝へと移動させる。くっついていた肩も離れ、紗由は自分の鞄を胸の前で抱え込むようにして小さく俯いてしまった。
そんなに嫌だったのだろうか……?
声をかけようとしたその時、重たいディーゼルエンジンの唸りがバス停に近づいて来て、俺と紗由は引き寄せられるように視線を向けた。
雨のカーテンの向こう側には、ぼんやりとバスの電光が照らし出されているのが見える。
あのバスは鷹胡台行きのバスだ。
俺がそちらに気を取られている隙に、八奈見がすっと紗由の背中に手を回した。
「あっ、このバスに乗るの? 紗由ちゃん、足元に気をつけて! ほら肩貸すよ!」
「大丈夫! 大丈夫だから!」
抵抗する暇もなく紗由は、八奈見によって停車したバスの中に連行されていった。