空にはオレンジ色と紫色、夕と夜の境目が浮かんでいる。
テニスコートに着くころには、夕日は校舎向こうに消えて辺りは薄暗くなっていた。
フェンス越しに見えるコートを覗いてみるが、人の気配はない。ということはテニス部員たちはいまごろ部室にいるのだろうが……俺はテニス部の部室を知らなかった。
「祐一だ! ひっさしぶり~」
まいったなぁ、と頭を抱えていると軽快な声が響いた。
視線を向けてみると、校舎から出てきた女子が手を振っている。校舎の影になる位置にいて顔の確認ができないが、紗由ではなかった。
「
「ちょっと会わないうちにあたしの顔忘れちゃったの?」
目を凝らすと、近づいてくる少女が口をへの字にしながら、むーっと不満げな顔であることが分かる。やはり亜希だった。
ウェーブのかかった長い髪、制服の上から羽織っていているオーバーサイズのパーカー、そして女性らしい体つきが合わさって、ふわりとしたシルエットが校舎を背に浮かんでいる。
俺や紗由、康斗と同じ中学出身である女友達、
端的に良い部分"だけ"を言えば、おしゃれでかわいい女の子。
「長い付き合いなのに、ひどいやつじゃんね」
「べつに忘れた訳じゃないからな」
「ふーん。そっかそっか~」
「てか、少し会わないうちに背、伸びたか?」
「話題逸らしちゃって」
「いいだろ別に。で、どうなんだ?」
「最近、成長期なんだよね。ま、流石にここまでは伸びそうにないけど」
亜希はおもむろにだぼだぼの袖から細い腕を伸ばすと、俺の頭を撫でてくる。
「いま身長いくつ?」
「179ぐらい」
「こんだけあればダンクシュートできるね」
「おれ漫研だぞ」
「えー、もったいなーい。中学のときみたいにバスケやりなよ、バスケ。こんないい体してるんだからさ」
そう言いつつ、ごく自然に俺の体を触りだした。
さすが中学校でのあだ名が『誤解野郎製造機』なだけあって距離が近い。中学の時はこういう行動に随分とドギマギさせられたものだ。
「せっかく同じ高校に進学したのにさ~、ぜんぜん会えなくて寂しかったんだよ?」
亜希の外見は入学式の時と比べて、ザ・陽キャ女子って感じに一段と垢抜けていた。見慣れた顔なのに、思わず可愛くなったなと見つめてしまうほどだ。
元々かわいい子ではあったけれど、前よりも校則が緩い分、アレンジした制服の着こなしとか、明るくなった髪色とか、全体的に魅せ方が一層上手くなったと感じる。
……って、だめだ、だめだ。真登瀬亜希に惑わされてはいけない。
俺には華恋さんがいるのだ。だから、亜希のことなんてぜんぜん気にならない。いやほんと、ぜんぜん、気にならない。キニナラナイ。
あれ、亜希の胸ってこんなに大きかったっけ。同じ女の子なのに紗由とは天と地の差──
「どこみてんの。えっち」
亜希は胸元を両腕で隠す。そのしぐさも、なんというか破壊力がすごい。
近くにいるだけで、
「見てない! 見てないぞ!」
「ふふっ。べつにいいよ」と腕をほどいて上目遣い。
その言葉に、動きに、不覚にも胸の奥がどよめくのを感じた。
このままだと絶対にマズイ、という焦燥が俺を襲う。
近くにいると雰囲気に飲まれてしまう。
うまく亜希から離れる口実を考えつつ、まずは後ろに一歩下がって距離を取ろうとしたが「せっかく会えたんだし、もっと話そ?」と同じだけ距離を詰められて失敗。
ダメだ逃げられねぇ。
「俺はあいつを迎えに来ただけだし。すぐ帰るよ」
「ふーん」
「それにこんなところ見られたら殺されるぞ。お互いに」
「えっなに、もしかして紗由と付き合い始めたの? あたし聞いてないんだけど」
「別にそういう訳じゃないけど」
「なにそれ。だったら一緒にいてもいいじゃんね」
「でもなぁ」
「紗由ってば幼馴染を束縛するの? 可愛い顔してひどいね。あたしが幼馴染ならそんな思いさせないのに」
亜希はどこかで聞いたことがあるような文句をいいながら、今度は俺の腕に絡みつこうとしてきたので慌てて振り解く。
「わ、祐一ったらひどい。見てたからサービスしてあげようとしたのに」
「だから見てねーって!」
「ほんとかなー?」と亜希はニヤニヤしている。
いやまあ、見てたけども。素直に言えるわけないだろ。
亜希は近づくと火傷どころでは済まない劇物のような少女だ。
友人だからと親しく話せば、とんでもない目──亜希に想いを寄せている怖い上級生に呼び出されるとか──に合うのが関の山(実体験)。
というか風の噂で聞いたが、三年生の彼氏いるらしいので現在進行形で危機的状況。
そこから変な噂を流されれば俺の高校生活が終わりかねないし、なんなら華恋さんの俺に対する印象がマイナスに振り切れてしまう。
逃げ出したい気持ちは山々だが、亜希は女子テニス部員だ。紗由が遅い理由も知っている可能性が高い。誰かに見られないうちに紗由の場所を聞き出して、さっさと逃げることにしよう。
ごほんとわざとらしい咳払いをして、話を切り替える。
「ところで、テニス部って今日なんかあったのか?」
「なんかって?」
「待ち合わせしてるんだけど、なかなか来ないから」
「あー。紗由が心配でここまで来たんだ。イイ男じゃんね~」
「散歩ついでだよ」
「祐一はいつも素直じゃないんだから。紗由なら、まだ着替え中じゃないかな。あたしよりも遅かったし」
「今日はいつもより遅くないか」
「試合が近いからみんな気合入ってるんよ~。時間ギリギリまで練習してたから、片付けるのが遅くなちゃって」
頷いてみせると、亜希は何かを思いついたようにポンと手を叩く。
「あ、そうだ。紗由のナマ着替え覗きに行く?」
「いかねぇよ!」
「じゃあ、あたしの見る?」
「み……みないが!?」
「見たいんだ~」
「ちがうから!」
俺が勢いよく言うと、亜希はケラケラと笑った。
完全にからかわれている。昔から亜希はこういう子なのでもう慣れっこではあるけど、それはそれとして俺の純情を弄ばないで欲しいものだ。
「亜希は変わらないな」
「そう? けっこー変わったと思うけど」と、亜希は急にしおらしくなると、もじもじとした様子で首を小さくかしげて「変化に気付けない男はモテないよ?」
「身長のこと気づいただろ」
「あれ嘘だし」
「嘘なの!?」
「はーあー。こんなに変わったのになぁ」
亜希はウェーブのかかった明るい毛先をくるくると指先でいじって、さりげなく変化をアピール。指摘して欲しかったのは身長じゃなくてそっちだったらしい。
もちろんその変化には気がついていたけれど、そういうのはちゃんと口に出すべきだったようだ。あぶないあぶない。華恋さんのときには気を付けないと。
「いやそもそも、変わらないってのは外見の話じゃなくてな……」
なんと伝えたらよいのかと逡巡しながらため息をつく。
「お前がどういう奴かはよく知ってるけどさ、彼氏できたんだろ? だから、あんまり他の男とベタベタするべきじゃないと思うぞ。俺も相手に申し訳ないし」
そう告げると、亜希は鳩が豆鉄砲を食ったようにぽかんと口を開けた。
「知ってたんだ。彼氏いるの」
「風の噂って奴だよ」
「ちゃんとそういうの考えられるなんて、祐一えらいじゃんね。ふつーの男なら彼氏とか関係なく下心丸出しで近づいてくるよ?」
俺だって男なんだから下心がない訳じゃないんだぞ。今はただ華恋さんが何よりも優先されているだけで……。
やきもきしていると、亜希は媚びるような視線を向けてくる。
「でもね、気にしなくて大丈夫だよ」
数秒間、ぴったりと視線を重ねて見つめ合う。やがて耐え切れずに目を逸らすと──亜希はその隙を突いて近づき、俺の耳元でささやいた。
「彼氏とはもう別れたの」
声と共に漏れ出す息遣いが耳殻をなぞるように触れてこそばゆい。
「だから、問題ないの。一緒にいても、もっと距離を近づけても」
「お、おい、亜希。これは流石に冗談が過ぎる……」
まてまてまて! えっ!? 急にどうしたの!? 冗談でもここまでするような奴じゃないだろ! 今日は一体なんなんだ! 急にモテ期でも来たってのか!?
「冗談だと思うなら……確かめてみる?」
顔だけでなく体の方も、まるで得物をじんわりと追い詰めるように、ゆっくりと近づいてくる。
お互いの体温が触れるくらいまで距離が近づいてきて、自然と心臓の脈動が早まる。
あと少し、あと少しで、あの、やらかい部分が俺の体に触れてしまう──。
まずい! これ以上は本当にまずい! 俺には華恋さんという想い人が居るんだ! でも正直言って、目の前にいる亜希の魅力に抗えない! たすけて紗由!
「──あら、そこのバカにちゃんと言わなくていいの? 別れたのは三人目の彼氏ですって」
頭が真っ白になりかけた瞬間……願いを叶える様に、声が俺たちの間に割り込んできた。
亜希はぎょっとした表情を浮かべて振り返る。
そして、その声の主を視認するや否や「げっー!」と大きな声を上げると、両手で勢いよく俺を突き飛ばした。
「いってぇ!」
完全な不意打ちでバランスを取る暇もなくすっころぶ。
背中をさすりながら上半身を起こすと、視界の先では近づいてくる紗由の姿が見えた。
「うちのバカ幼馴染にちょっかいかけるとはいい度胸ね。でも生憎、ソイツを四人目にする気はないから」
「四人目? 一体どういうことだ」
「そこの女は三人の男と付き合って全員と別れてるのよ」
「えーっと、はい? なんて?」
その意味が理解できずにいると、亜希はむすっとした表情で紗由に抗議する。
「ちょっと言い方悪くないかな。あたし別に三股とかしてないからね? ちゃんと別々の時期に付き合ってたからね?」
「いやまてまてまて。いま五月の暮れだぞ? 入学してから一か月と少しだぞ?? 確か中学の時は彼氏いなかったよな???」
困惑していると、「あたしモテちゃうから~」と飄々とした様子で肩をすくめてみせる。
心底呆れ切った顔の紗由はそんな亜希の横を通り過ぎると、俺の胸倉をつかんだ。
「で、アンタはなんで亜希のハニトラに引っかかりそうになってるのよ」
「引っかかってねーし!」
「えーっ、あたしたち結構いい感じだったよ? 絶対あと一押だった」
「そこ! 余計なこと言うんじゃない!」
亜希がいたずらっぽい笑みを浮かべながら言うので、紗由の視線がゴミムシでも見てるんじゃないかというぐらいに冷たくなる。このままだと死ぬ的な意味で高校生活が終わりそうだったので、その場で正座すると慌てて弁解を始めた。
「あーあー。いいトコで邪魔されちゃったなぁ~。ねぇ紗由。幼馴染だからって付き合ってもない男を束縛するのはよくないよ?」
「してないわよ」
「じゃあ祐一もらってもいい?」
「ダメ」
「なんで!」
「そもそも、そこのバカにはもう意中の相手がいるから別にアンタなんて……」
「えっ。祐一……好きな人いるの?」
「「あっ」」
紗由の大失言。その一言が出た瞬間に、亜希はきらりと瞳を輝かせる。
「いいこと聞いちゃった。ねえ、相手は誰なの? あたし手伝ってあげよっか。その手のことなら経験豊富だよ? この機会に異性との交流方法を上から下まで手取り足取り……」
「さーて、そろそろ帰るかぁ!」
「そ、そうね」
正座からすっと立ち上がり、極限まで無駄のない動きで亜希に背を向ける。
紗由も同じように背を向けると、それ以上何か声が掛かるよりも先に、二人揃ってまったく同時に駐輪場に駆け出していた。
「余計な奴に余計な事教えやがって!」
「うっさいわね! そもそもアンタが亜希と話してるのが悪いんでしょうが! なんで駐輪場から動いたのよ! 犬だって『待て』ぐらいできるのに!」
「それは……その。なんだっていいだろ!」
なんだよもう! 人が心配して迎えに行ってやったのに!
◇
それからしばらくの間いがみ合ったまま走り、駐輪場につき、自転車にのり、家の近所にあるコンビニに着くまで文句を言い合った。
流石にそこまで行くとお互いに言い合うことも無くなっていて、気がつけばコンビニで何を買うかという話に変わっていた。
「そろそろコンビニの肉まんも終わる時期だよな。今のうちに食っておきたいが……うーん、まるまる食うと晩飯がなぁ」
「だったら半分に分ける? 私も食べたい」
今日は別々に昼食を取ったにもかかわらず、どうにもお互いにご飯を食った気がしなかった点について共通しているようだった。
華恋さんと一緒に食べられたことは喜ばしいことだし、実際に嬉しかったのだが、どうにも落ち着かなかった。
対して、紗由と食う飯は良くも悪くも刺激が無くて味に集中できる。事実として、肉じゃがの味は一切感じなかったが、この肉まんは生地の甘味だって感じるほどだ。
きっと俺は、身の丈に合わない高級フレンチより、なじみのラーメンの方が美味く感じるたちなのだろう。もちろん、華恋さんと付き合えるような男になるには、このままじゃいけない。ただ憧れているだけでなく、その味を感じて美味しいと思えるほどに慣れなくてはいけない。
そう頭では理解しつつも、半分に割った肉まんを並んで食いながら他愛もない話を続ける現状に、今はただなんとも言えない安心感を憶えていた。
「うまいな」
「そうね」
こうして、俺たちの五月が終わろうとしていた。
高校一年生。新たな出会いや再会を経験して、何かが少しだけ変わり始めている。
もうすぐ梅雨が来る。そして、夏も近づいている。