月光が、しんと静まり返った竹林を青白く照らし出す。その中心に、六つの瞳を持つ鬼、黒死牟は静かに佇んでいた。彼の足元には、かつて最強の剣士と謳われ、そして今、老いさらばえた亡骸となった双子の弟、継国縁壱が横たわっている。
「……醜い」
吐き捨てた言葉は、誰に聞かせるでもなく夜の空気に溶けた。六十年という歳月を経てなお、この男は己の前に現れた。皺だらけの顔、痩せ細った手足。だが、その死の間際に見せた一閃は、紛れもなく全盛期の鋭さを宿していた。もし縁壱がその一太刀を振り抜く前に寿命で絶命していなければ、今頃、己の頸は地に落ちていただろう。
黒死牟は腰に差した己の刀身から作り出した鬼の刀に手をかける。縁壱が最期まで懐に抱いていた笛を拾い上げ、指先で砕こうとして、やめた。代わりに、怒りと虚しさを込めて、弟の亡骸を袈裟懸けに斬り裂いた。
これで縁壱という執着は消え去った。
そう思うことで、黒死牟は己の心の空白を埋めようとした。
それから、二百年以上の歳月が流れた。
黒死牟は、ただひたすらに己の剣技を磨き続けた。上弦の壱として、幾人もの柱を葬り、血戦を挑んでくる鬼たちを返り討ちにしてきた。彼の剣はもはや鬼殺隊最強の剣士ですら触れること能わぬ領域に達し、その存在は鬼舞辻無惨に次ぐ恐怖の象徴となっていた。
しかし、彼の心は満たされることがなかった。縁壱が死んだあの日から、彼の時間は止まったままだ。どれだけ強くなろうと、どれだけ鬼を喰らい力を増そうと、あの太陽のような輝きを持つ好敵手はもういない。武の頂を目指す道は、いつしか果てのない荒野を一人で彷徨うような、虚しいものへと変わっていた。
その夜も、黒死牟は人気のない山中で一人、刀を振るっていた。月光を浴びた刃が、空気を切り裂く音だけが響く。鍛錬というよりも、それは心を蝕む虚無から逃れるための、儀式のような行為だった。
その時だった。
ザザ…、と空気が鳴るような異音が響く。黒死牟が六つの瞳で見上げると、月を隠すように夜空が裂けていた。それは傷口のように赤黒く脈動し、この世の理とは全く異なる異質な気配を放っている。鬼としての永い生をもってしても、感じたことのない未知の圧力。彼の本能が、経験したことのない危機を告げていた。
「…何だ、これは。血鬼術の類か…?」
警戒を最大に高め、全集中の呼吸で己の状態を研ぎ澄ます。だが、次元の裂け目は彼の常識を嘲笑うかのように、凄まじい引力で周囲の空間を歪ませ始めた。木々は根元からしなり、地面の岩が砕けて渦を巻きながら吸い込まれていく。
「くっ…!」
黒死牟は両足を地に深くめり込ませ、その場に踏みとどまろうとする。月の呼吸で斬撃を放つも、裂け目は揺らぐことなく、むしろその引力を増していく。それは、鬼の力も、呼吸の技も通用しない、世界の理そのものが覆るような絶対的な力だった。
抗う術はない。強靭な鬼の肉体が、まるで紙屑のように宙へと引きずり上げられる。視界が反転し、肉を削ぎ、骨を砕くような激痛が全身を襲う。
意識が遠のく中、彼の脳裏に最後に浮かんだのは、二百年以上も前に斬り捨てたはずの、双子の弟の姿だった。
太陽のように輝いていた、あの男。
(縁壱…貴様は…死してなお、私を弄ぶというのか…)
それが、この世界で抱いた最後の思いだった。漆黒の闇が六つの瞳を覆い尽くし、黒死牟の意識は完全に途絶えた。