夕陽が西の空を茜色に染め始めた頃、カプセルコーポレーションの中庭に全員が集まっていた。ブルマの手に握られた装置が、先ほどから不気味に明滅を続けている。
「時空の歪みが安定してきたわ」ブルマが装置の画面を確認しながら呟いた。「でも、本当にこれで良いの?」
巌勝は静かに頷いた。この数ヶ月間で、彼の表情は劇的に変わっていた。鬼だった頃の冷酷さも、人間に戻った直後の迷いも消え、今は穏やかで、それでいて強い意志を宿した瞳になっていた。
ブルマが渡したのは、腕時計のような形状をした複雑な装置だった。
「これは、あたしが作った時空間移動装置よ。あんたがここに現れた時の空間の歪みを解析して、元いた時代と場所の座標は特定済み。でも…エネルギーは片道分だけ。つまり、元の世界に帰ったら、もう二度とこっちには戻って来れないわ。…本当に、帰るの?」
その問いに、集まった全員の視線が巌勝に注がれる。彼らの視線は、非難でも引き留めるものでもなく、ただ彼の決断を見守っていた。
巌勝は装置を受け取りながら、その重みを感じていた。それは単なる機械の重さではない。この装置は、彼がここで築いた全てとの決別を意味していた。
「私には…終わらせねばならぬ因縁がある」
その瞳には、かつての武への執着とは違う、静かで、しかし揺るぎない決意の光が宿っていた。この異世界での経験は、彼に新たな戦う理由を与えてくれたのだ。
悟空が一歩前に出た。
「巌勝、オラたちと一緒にいても良いんだぞ。ここにはもう、お前の居場所があるんだからな」
巌勝の心が一瞬揺らいだ。ここには確かに、生まれて初めて得た温かい居場所があった。だが、彼は首を振った。
「気持ちは嬉しい、悟空。だが、私が逃げてきた責任がある。鬼として犯した罪、弟への想いを整理せぬまま遺した言葉…全てに決着をつけねばならぬ」
彼は一人一人に向き直った。まず、クリリンと天津飯へ。
「お前たちから、私は『仲間』という意味を教わった。一人で頂を目指すだけが強さではない。友と切磋琢磨し、支え合う強さがあることを、この身に刻んだ。感謝する」
クリリンは「へへ、そんな大したことじゃねえよ」と照れくさそうに頭を掻いた。
次に、悟飯へと視線を移す。
「孫悟飯。お前の『優しき強さ』は、私が忘れていたものを思い出させてくれた。守るべき者のために振るう剣の尊さを、そして、私が捨て去った幸福の形を…。まるで、弟を見ているようだった」
「巌勝さん、僕からもありがとうございました。向こうでも頑張ってください!」
そして、ピッコロへと向き直る。
「ピッコロ。お前が言った言葉がなければ、私は己と向き合うことから逃げ続けていただろう。道を示してくれたこと、感謝する」
ピッコロは複雑な表情を浮かべていた。
「フン…お前自身が見つけ出した道だ」と短く返した。
「だが、お前がいなくなると、修行相手がいなくなるな」
巌勝も寂しそうに微笑んだ。
次に、巌勝はベジータの前に立った。二人の間には、他の誰とも違う、緊張感と共感が流れていた。
「ベジータ」
「…なんだ」
「貴様との手合わせ、そして言葉が、私の数百年にわたり凝り固まった魂を砕いてくれた。感謝している」
「フン、俺はただ気に食わん奴を叩きのめしただけだ」ベジータはそっぽを向く。だが、その視線は巌勝から外れていなかった。
巌勝は続けた。「貴様も、囚われているのだろう。私と同じ、超えるべき存在という名の亡霊に。だが、貴様は私と違い、守るべき者を得た。その強さを、見失うな」
ベジータの肩が、ピクリと動いた。彼は初めて巌勝を真っ直ぐに見据える。その瞳には、驚きと、ほんの少しの苛立ち、そして同類としての理解が入り混じっていた。
「…貴様に言われるまでもない」
それだけを吐き捨てると、ベジータは再び腕を組み、沈黙した。だが、二人の間には確かに、孤高の魂を持つ者同士の、言葉を超えた対話が成立していた。
「ベジータよ」巌勝は更に続けた。
「お前の誇りは、私が失いかけていたものを思い出させてくれた。戦士としての矜持を。だが、お前の誇りは今、愛する者のためにも輝いている。それが、私には眩しかった」
ベジータは何も言わなかったが、その拳がわずかに震えているのを巌勝は見逃さなかった。
そして、最後に悟空へと向き直る。
「孫悟空」
巌勝は、目の前の男を改めて見つめた。底抜けに明るく、それでいて武の深淵を覗き込む男。彼との出会いが、全ての始まりだった。
「貴様の底知れぬ強さが、私の驕りと、数百年の執着を完全に打ち砕いてくれた。貴様と出会わなければ、私は永遠に、弟の幻影を追い続けるだけの、空っぽの鬼のままだっただろう。心から、礼を言う」
巌勝は、生まれて初めてと言っていいほど、深く、真摯に頭を下げた。
悟空は、ぽん、と彼の肩を叩いた。
「おめえ、ここに来た時とは全然違う、いい顔になったな!」その笑顔に、邪気は一切ない。
「元の世界でも、しっかりやれよ」
「ああ」巌勝は顔を上げた。
ブルマが装置を見て呼びかけた。
「時空の歪みが最大になってる! もう時間よ!」
巌勝は時空間移動装置を腕に装着した。装置が青白い光を発し始める。
「皆よ、この数ヶ月は私の人生で最も輝かしい日々だった」
空間が歪み始める。巌勝の周りに光の渦が生まれた。
光が強くなり、巌勝の姿がぼやけ始める。
「さらばだ、友よ...!」
最後にそう叫び、彼の姿は光と共に掻き消えた。
後に残されたのは、穏やかな風と、彼を見送った Z 戦士たちだけだった。しばらくの間、誰も口を開かなかった。
「…行っちまったな」クリリンが寂しそうに呟く。
「ああ。だが、あの男はもう大丈夫だろう」とピッコロが応じた。
ベジータは、巌勝が消えた空間を睨みつけたまま、フン、と鼻を鳴らした。
「甘ったるいやつになりおって…だが、悪くない目つきだった」
悟空は、どこまでも青い空を見上げ、満足そうににっと笑った。
夜が静かに訪れ、星々が空に瞬き始めた。遥か彼方の別世界では、一人の元鬼が新しい人生を歩み始めようとしていた。彼がこの世界で得た光は、彼の故郷の闇を、きっとわずかでも照らすことになるだろう。