意識が、深い水底から浮上するようにゆっくりと戻ってくる。
最初に感じたのは、柔らかな弾力だった。背中に当たるそれは、土でも草でもなく、まるで雲の上にでも横たわっているかのような、信じがたいほどの心地よさで身体を受け止めている。次元の裂け目に吸い込まれる際に全身を襲った、肉が引き裂かれ骨が砕けるような激痛は、嘘のように跡形もなく消え失せていた。鬼としての驚異的な再生能力とも違う、もっと根本的な治癒。まるで、最初から何もなかったかのような完璧な状態に、黒死牟はまず言いようのない違和感を覚えた。
六つの瞳が、重い瞼を押し上げるようにゆっくりと開かれる。
視界に映ったのは、見慣れた夜の森ではなく、継ぎ目一つない滑らかな白で統一された天井だった。簡素でありながら、どこか洗練された意匠。部屋には、温かくも強い陽の光が満ちていた。その光が肌を焼かないことに気づき、黒死牟は全身に戦慄が走るのを感じた。
(…陽光? なぜだ…? なぜ私は塵と化さぬ? 私は死んだのか…? いや、この肉体の感覚、漲る力は紛れもなく鬼としてのもの。ならば、この陽光が偽りか、あるいは…この世界の理そのものが違うというのか…)
疑念と驚愕に駆られ、彼はゆっくりと身体を起こす。寝台のシーツは絹よりも滑らかで、触れたことのない不思議な感触だった。部屋を見渡せば、調度品は少ないながらも、そのどれもが彼の知る技術体系からはかけ離れている。硝子(ガラス)でできた壁の向こうには、目に痛いほど青々とした芝生の庭が広がり、球体や角ばった形状の奇妙な建物が点在していた。そして、空には馬も牛もいない鉄の馬車が、音もなく滑るように飛び交っている。ここは、己の知る日本のどの土地とも、いや、どの国とも似ていなかった。
その時だった。階下から、まるで祭りのような賑やかな声と、陽気で軽快な音楽、そして様々な食材が焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。人の気配が数多くある。だが、その気配の質が異常だった。弱々しい常人のそれに混じり、明らかに常軌を逸した強大な「気」を持つ者たちが何人もいる。そのどれもが、今まで対峙してきた鬼殺隊の柱たちを赤子のように思わせるほどの、桁違いの圧を放っていた。
(…何者だ、この者たちは。この気配…一人一人が、まるで天災そのもの。まるで、この世の理から外れた化け物の集まりではないか…)
中でも、ひときわ大きく明るく、それでいて底が見えない太陽のような気。それと対をなすように、鋭く尖り、研ぎ澄まされた誇りのような気。そして、静謐でありながら、どこまでも深く研ぎ澄まされた古木のような気。それらが混ざり合い、この異様な空間を形成していた。
黒死牟は静かに寝台から降り立つ。警戒を最大に解き放ち、音もなく部屋を出て、気配の源へと向かった。長い廊下を進み、大きく開かれた扉の先に見えた光景に、彼は思わず足を止めた。
広大な庭園に、数多の人間が集い、宴を開いている。色とりどりの料理が山と積まれ、子供たちの屈託のない笑い声が響き渡る。その光景自体は、彼が人間だった頃に見たかもしれない、平和そのものの情景だった。
だが、そこにいる者たちの風貌が、その平和を異質なものに変えていた。
青い髪の女、額に奇妙な紋様を持つ小柄な男、緑色の肌に尖った耳を持つ大男。そして、金髪を逆立てた二人の子供が、楽しげに空中を飛び回っている。
黒死牟の六つの瞳は、その中でも一際鋭く、苛烈な気を放つ一人の男――ベジータを捉え、そしてその隣で、全てを包み込むような巨大な気を放ちながらも、のんきに食事を頬張る男――孫悟空を捉えた。
(…なんだ、この者たちは。人か? 妖か? そして、なぜ私をここに?)
敵意は感じられない。彼らは黒死牟の存在に気づいてすらいないようだった。だが、この異様な空間と、そこに集う規格外の者たちは、黒死牟の数百年以上にわたる経験をもってしても理解の範疇を超えていた。
彼は柱の影に身を潜め、刀の柄にそっと手を添える。縁壱を失い、武の頂点という目的を見失った今、この未知の世界で己は何を為すべきなのか。
静かな殺意と深い戸惑いが、彼の内で渦を巻いていた。六つの瞳が、新たな獲物を定めるかのように、庭園の強者たちを冷ややかに見据える。まだ、誰も彼の存在に気づいてはいない。