ピッコロとの対話以来、黒死牟の心は静かな嵐に見舞われていた。守るべき者のために振るう力。その言葉が、彼の内なる価値観を揺さぶり続けていた。そんなある日の午後、彼はカプセルコーポレーションの広大な書斎で、一人の青年に出会った。
学者然とした穏やかな風貌の青年――孫悟飯。彼は分厚い本を片手に、黒死牟の存在に気づくと、少し驚いたように、しかし穏やかに微笑みかけた。
「こんにちは。あなたが父さんが連れてきた…黒死牟さん、でしたっけ」
その佇まいは、戦士のそれとは思えなかった。だが、黒死牟の六つの瞳は、悟飯の内に秘められた計り知れない潜在能力を感じ取っていた。悟空やベジータとは質の違う、静かで、それでいて底知れない力。
(この男…あの小僧の息子か。ピッコロが言っていた…)
黒死牟は警戒を解かずに悟飯を観察する。悟飯は彼の視線を意に介さず、柔和な口調で続けた。
「父が、あなたの剣はすごいと言っていました。見てみたかったです」
「…戯言を。貴様たちの前では、児戯に等しい」
黒死牟は自嘲気味に吐き捨てる。すると悟飯は困ったように眉を下げた。
「そんなことないですよ。強さの形は人それぞれです。父さんは戦うことが大好きですけど、僕は…できれば戦いたくないんです。大切な人たちと、平和に暮らしたい。そのために、守る力が必要な時だけ戦うんです」
その言葉に、黒死牟は息を呑んだ。
大切な人たちと、平和に暮らしたい。
その純粋な願い。そして、そのために振るわれる力。
その在り方は、黒死牟が何よりも憎み、そして心の底では焦がれていた一人の男の姿と、奇妙に重なって見えた。
そう、継国縁壱。
あの男もまた、最強の力を持ちながら、それを誇示することはなかった。ただ、愛する妻、そして鬼に脅かされる人々を守るためだけに、その日輪の如き剣を振るっていた。彼の強さは、常に優しさと共存していた。
「貴様は…なぜだ」黒死牟は、気づけば問いかけていた。「その力を持ちながら、なぜ頂点を目指さぬ。なぜ、強さを求め続けぬ。それは強者としての怠慢ではないのか」
それは、かつて縁壱に問いかけたかった言葉そのものだった。
悟飯は少し考え込むと、静かに答えた。
「僕にとっての本当の強さは、誰かを打ち負かすことじゃないんです。誰かを守り、支え、共に生きていくこと。そのために学ぶことも、働くことも、全部が僕にとっての『強くなる』ということなんです」
悟飯の瞳は、どこまでも澄んでいた。その真っ直ぐな眼差しに、黒死牟はたじろいだ。
縁壱と同じだ。この男も、縁壱と同じ種類の人間なのだ。圧倒的な力を持ちながら、それに溺れることなく、己の幸せを、そして他者の幸せを願う。そのために、その力を使う。
(…これが、優しき強さ…)
黒死牟は、数百年の時を経て、ようやく弟が立っていた場所の一端に触れた気がした。縁壱は、ただ強かったのではない。優しかったからこそ、強かったのだ。その事実に気づいた時、黒死牟の胸に、憎しみでも嫉妬でもない、これまで感じたことのない温かいような、それでいてひどく切ない感情が込み上げてきた。
六つの瞳が、わずかに揺らぐ。
自分が切り捨てた人間性。自分が目を背けてきた幸福の形。
それが今、目の前の青年の姿を通して、鮮やかに浮かび上がっていた。