ある日の晩、大寛は一人月夜の下人里を歩いていた。
目的などまるで無い。彼は昔からこうして夜の道を歩く事を好んでいる節があった。
夜の人里とは言え夕食の時間ならいざ知らず、こうも夜が更けた今ならば人など到底出歩いているはずもなく。
人々も、砂埃すら眠った夜の風は安らかで落ち着いている。
彼が夜道を歩く事を好む理由は、何も無く誰も居ない普段とは違う顔を見せる風景を楽しむために他ならない。
『この風景を父や母が見たら何と言うだろうか。』
そう考えて歩いていた。外の世界、所謂“現代”に馴染みきった五感には、この昔の様な建築物が並ぶ風景はある種異様な光景であった。
ふと森に目が入る。
「森は妖怪の住まう場所」
そう聞いていた。
幾ら亡者と言えど争う術を持たぬ大寛は、他者に仇なす存在が闊歩する場所には立ち入らぬよう妖夢や霊夢から強く念を押されていた。
しかしこの解放感に晒された彼の胸内は、確かにこの森への興味を抱いていた。
理性では行ってはならないと理解しながらも、足は確かに歩を進めている。
やがて彼は静かに森の中へ消えていった。
。。。
森の中は薄暗く、月明かりすら疎に地面を照らす程度で視界を確保するのは至難の業だ。
じき夜目にも慣れて来ると、ようやっと歩を進められるようになってくる。
人里に吹く風とは違い、何処かおどろおどろしさを感じさせる風に大寛は時折周囲を見渡しながら歩く。何か異常はないかと感覚を研ぎ澄ませた。
それだけ歩いたかは分からないが、
ふと視界の端に小川が流れているのが見える。
少し立ち寄って休んだら帰ろう考え、今まで入れっぱなしだった肩の力を緩める。
力を抜く。その油断した瞬間と言うのが一番無防備になる時。
だが無防備である瞬間が、皮肉にも異変に気が付く瞬間でもあるのだ。
生暖かい風が違和感を乗せて彼の顔を、耳を、鼓膜を揺さぶる。
そのおかげで、眼前に異変がある事に気が付くことができた。
川音が聞こえない。
小川と認識出来る目の前のそれは確かに流れている。結構な水量があるのか、周囲に水滴を飛ばしながら流れている。
そこまでの勢いがありながら一切音が聞こえないのは不自然だ。ましてや、此処は山中。時たま風で草木が揺れる音がする程度で、音はほぼしないに等しい。
直後。
「おぉ、そこに誰か居るのか?」
「助けて。体が、体が痛いのよ。」
「俺の体も痛いんだ。助けてくれよお。」
声だ。それも一人じゃない。
川が、喋っている。
声は出さず、薄目で再び川を見る。そしてその異様な光景に目を見開いた。
白い波に赤い水。
あれは川ではない。
白い波は確かに波打ってこそいるが、くっきりと形を残す波は川から飛び出し周囲に飛び散る。
赤い水は不自然なまでにベチャベチャと音を立てて水滴を飛ばしていた。
いや、血とでも言うべきか。
何かがおかしい。
急いで帰ろうとして振り返る。しかし彼は、そんな時に限って不用心なままだった。
―――――――パキッ
枝を踏み折る音が響き渡る。
冷や汗が止まらない。心臓が早鐘を打つ。
背後から聞こえたけたたましく、夥しい量の人の悲鳴と何かを引き摺る音が聞こえ、大寛は反射的に、勢いよく空を飛んだ。
パニック状態であるため態勢を上手く整えられず、何度か木々に頭を打ち、肌を擦る葉は刃のように鋭く切りつける。
その時、彼は月明かりに照らされる“それ”を見た。
人の顔を体中に浮かび上がらせた、ミミズの様な大きく脈動する肉塊を。
。。。
「と言う事があったんですが。」
「あれは、妖怪だったんでしょうか。」
明くる日の朝、大寛は博麗神社を訪ね霊夢に昨晩の事を話した。
彼女は何も言わず、ただ腕を組み眉間に皺を寄せ話を聞いている。
「…。」
「博麗様?」
「このっ、馬鹿!!」
怒声が境内に響く。
眼前の少女は目を釣り上げ、激しく大寛に詰め寄る。
「アンタ、私が言った事忘れてんの!?」
「す、すみません。浅慮でした…!」
「浅慮どころの話じゃ無いっての!」
「異変が起きたら誰が解決するの!里に被害が出たらどう責任取るつもり!」
「大体、今の立ち位置分かってるわけ!?」
「アンタは外側の世界で死んだままこっちに流れて来た存在で、私も紫も何か変なことが起きてないか確認してる所なのよ!」
「分かったら安全だって分かるまで白玉楼でジッとしてなさい!」
一息に捲し立てたからか顔を真っ赤にして肩で息をする霊夢。
その言葉と様子に事の深刻さを理解した大寛は、深く頭を下げるしかなかった。
確かに彼が変に行動した事が原因で被害を被るのは彼女たち幻想郷の住人たちだ。
今一度自分の立場を理解して自重するべきだろうと、彼は神社を後にしようとした。
丁度その時だった。
霊夢の背後の空間が捩れ、パックリと大穴が開く。
中から出て来たのは八雲紫だった。
彼女は今までの事のあらましを霊夢から聞くと彼女を諌め口を開いた。
「どうやら、彼が動かなくても異変は兆候を見せていたようだわ。」