月と樹と写輪眼 ─もう一人のうちは─ 作:琴葉つきね
止まっていた時間が今、動き出す。
湿り気を帯びた潮風が、頬を撫で続けている。
海沿いの道は、いつしか道と呼ぶにはあまりにも頼りないものへと変わっていた。崩れた家屋の残骸。海風に晒され、赤錆に覆われた鉄屑。風雨に削られた石壁。
傾きかけた陽が、それらの影を長く地面へ引き伸ばしていた。
香燐は何度か立ち止まりそうになる足を必死に動かし、サスケの背中を追っていた。
ふと、サスケが足を止める。
彼の視線の先──荒涼とした風景の中に、一筋の細い煙が立ち昇っていた。その煙を視界に捉えた瞬間、香燐の表情が険しく歪む。
「香燐」
「……分かってるよ」
香燐はサスケを見ることなく、吐き捨てるように答えて再び歩き出す。
忘れるはずがない、近づくほどに濃くなるあの気配へと──
パチパチと薪が弾ける音。その前で一人の老人が冷えた手をかざしている。以前会った時と変わらぬ姿。しかし、今のサスケには違って見えた。
老人は両手を擦り合わせながらゆっくりと顔を上げ、サスケを見る。
「……また来たか」
「聞きたいことがある」
「そうか……」
老人はそれだけ言って、焚き火へと視線を戻した。まるで彼らがここへ来ることを知っていたような反応だった。
「あんたは、うずまきツヅリだな」
「……」
沈黙──サスケは老人を見下ろしたまま続ける。
「白蓮という術を知っているな。解術の方法を教えろ」
ツヅリは、答えの代わりに香燐を見た。面影の残るその顔を見つめたまま、枯れた声を落とす。
「すまない……」
「……いまさらどーでもいい。さっさと解術の方法を教えろ」
怒りを帯びた香燐の声が響く。
「シグレとキリコが……白蓮を使ったのか」
サスケの眉が動く。なぜ彼がミズノの祖父母の名前を知っているのか。
「何故、あんたがその名を知っている」
「昔……自分たちの思い出の樹の中で、安らかに生を終わらせられる封印術を作って欲しいと……私の元へやってきた」
揺らぐ炎が、ツヅリの深い皺の刻まれた顔を赤く照らし出している。
「……」
サスケの脳裏には、あの日のミズノの姿が蘇っていた。ツヅリを見つめる瞳に力がこもる。
「誰にも暴かれぬように……二人は、解く方法を残さぬことを望んだ。白蓮を解く術(すべ)はない」
「なんだと?」
「解ける術など……そんな価値のないものを、その時の私も作りたくはなかった」
──ガッ!
鈍い音。ツヅリの頬に香燐の拳がめり込み、老いた身体がもろくも地面に崩れ落ちた。
「ふざけんな!!てめーのそのクソみたいな考えのせいで全部なくなっちまったんだろーが!!」
「やめろ香燐」
目を血走らせ、追撃しようとする香燐の肩をサスケが右手で制す。
「守るためだと……自分に言い聞かせていた」
ツヅリは、口元を手の甲で拭いながらポツリと呟いた。
「だが現実は……どれほどの力を持っていようと、守りたいものを守ることなどできん」
血の滲んだ唇からこぼれたその言葉が、サスケの胸の奥を抉った。しかし、サスケの黒い瞳は一切の揺らぎを見せず、地に伏したツヅリを冷たく見下ろす。
「……あんたは逃げているだけだ」
「何……?」
サスケの言葉にツヅリが眉を寄せる。
「若造が……お前に私の何が分かる」
「なら、なぜあの時俺に“話した”」
「──!」
ツヅリの唇が微かに開き、そのまま止まった。答えを返せない。
陽はいつの間にか海の向こうへ沈み、炎の明かりだけが三人の影を揺らしている。
サスケは、自身の傍らで肩を震わせる香燐へと視線を向けた。
ツヅリの視線が香燐へと移る。彼女は力任せに振るった拳を握り込み、一筋の涙をこぼしていた。
「……」
ツヅリは目を伏せた。強大すぎる力を持った己のせいで滅んだ故郷。守れなかった大切な者達。そして今、目の前で涙を流す彼女──
ツヅリはよろめきながら、静かに立ち上がった。
「……私は自分を許すつもりはない」
ツヅリがそう呟くと、海から吹きつける冷たい風が無数の火の粉を夜空へと舞い上げた。その向こうには、月明かりを反射した波が寄せては返し、同じ場所を何度も濡らし続けている。
絶え間ない波音は、まるで過ぎ去った年月のすべてを重ね合わせるように、ツヅリの鼓膜を打ちつけていた。
あの頃──幼い香燐は、いつも興味深そうに自分の手元を覗き込んでいた。
「じいちゃん、これなに?」
「私が新しく考えた術だ」
「そうなんだ!やっぱりじいちゃんはすごいね!」
「ああ……ありがとう」
そう答えると、香燐は目を輝かせて笑った。その無邪気な笑顔が何よりもツヅリの心に熱を灯していた。何も知らない幼い彼女にとって、自分は誰よりも誇れる存在なのだと信じていた。
国を守る為、幾多の封印術を生み出し、誰もがその才を認める天才忍──
幼い香燐の目には、そんな偉大な祖父の姿が映っていた。
「……そんなの、当たり前だろ」
香燐の小さな声が、記憶の底から現実へとツヅリを引き戻す。
香燐は俯き、小さく肩を震わせていた。先ほどまでの激しい怒りの代わりに溢れ出したのは、記憶の奥底へ押し込めていた大きな悲しみ。
「許されるわけない」
香燐がゆっくりと顔を上げる。涙で濡れた瞳が、真っ直ぐにツヅリを捉えた。
「ウチの自慢だった。お前が作る術は、みんなを守るものなんだって……ずっと信じてた」
唇を噛み締めながら紡がれる香燐の言葉が、ツヅリの胸の奥へと深く重く沈んでいく──
一族を、大切な者達を守るため。そう信じて、術を作り続けた。一つ作れば、また一つ。もっと強く、もっと優れたものを求められるがままに。
作り上げた術は、とうに自分でも数えきれないほどになっていた。しかし、手を止める事はなかった。求められる事こそが、自分の存在価値なのだと思い込んでいたからだ。
だが、強大すぎる力はそれを持たぬ者にとってはただの“恐怖”でしかなかった。その恐怖はやがて明確な敵意へと変わる。
そして、故郷は滅ぼされた。失った故郷の代わりに、残された者たちでどうにか築いた居場所さえも奪われた。気がついた時には、守るために生み出したものが、全てを失う理由になっていたのだ。
ツヅリの喉が小さく鳴る。
長い年月をかけて閉じ込めていたものが、今になって少しずつ崩れていく。全てを失ったあと、何度も死を考えた。しかし、それでも生き続けた。罪の重さを思えば、死ぬことすら自分には許されないと思ったからだ。
だからここにいる。故郷の海を眺め、誰とも関わらず、ただ罪を抱えたまま──それが自分の道なのだと、そう決めていたはずなのに。
『救う為だ』
あの日そう答えた青年に、気がつけば道を示していた。
(……私は、待っていたのか)
──この罪に汚れた手が、誰かを救える日を。
「全部、お前のせいなんだよ!!」
香燐の悲痛な声に、弾かれたようにツヅリは顔を上げた。
ツヅリは反論することも否定することもしなかった。ただ、目の前に立つ彼女を見つめている。自分を憎んでいるのは当然だ。けれど彼女に生きて会えたことへの喜び。それと同時に込み上げる途方もない罪悪感。相反する感情が胸の中で絡まり合い、老いた身体を締めつけている。
「香燐……お前を、何度夢に見たかわからん」
絞り出された声に、香燐の瞳が更に大きく揺れる。
皺の刻まれたツヅリの手が、ゆっくりと握られた。
──ここで朽ちるつもりだった。ただ、生きていることを罪として抱えながら。
焚き火の燃える音だけが、しばらく三人の間に流れていた。そして──言葉のない時間を、サスケの声が静かに終わらせる。
「……解けない術などない。方法は必ずあるはずだ」
「何を言われようと……白蓮を解く術(すべ)はない」
苛立ちを滲ませたツヅリの言葉に、サスケは眉をひそめた。返す言葉の代わりに、懐から巻物を取り出す。それをツヅリの足元へ投げると、巻物はバサリと音を立てて広がった。そこには、複雑な術式が隙間なく記されている。
「……これは」
「渦潮の跡地の地下に、あんたが残した物だ」
ツヅリが目を見張る中、サスケは静かに告げた。
「解く術(すべ)がないなら、今から作ればいい」
「何……?」
不可能だと言われて引き下がるつもりなど毛頭ない。力ずくでも道をこじ開ける──サスケのその眼差しには強い意志が宿っている。だが、ツヅリは広げられた巻物に目を落とすと、首を振った。
「無理だ。白蓮は完璧だ。“隙”など、どこにも存在せん」
天才と謳われた己のすべてを注ぎ込んで作った、絶対の檻。それを誰よりも理解しているのは他ならぬツヅリ自身だった。
「これ……」
不意に、小さな声が落ちた。先ほどまで嗚咽を漏らしていた香燐が、いつの間にか巻物の傍らに膝をついている。涙に濡れた瞳で、ある一点を食い入るように見つめていた。
懐かしい墨の匂いと、確かな温もり。そして──
香燐の脳内で散らばっていた記憶の断片が、目の前の光景とピタリと重なり合う。香燐の指が、巻物の中心からそのすぐ脇を真っ直ぐに指し示した。サスケとツヅリがその指を辿る。
「……!?」
完璧に組み上げられた術式を崩すように、いびつで小さな渦がひとつ、ひっそりと描かれていた。歳月に滲んだそれは、ただの染みにしか見えない。大蛇丸でさえ見過ごした小さな綻び。その箇所を見た瞬間、ツヅリは息を呑んだ。巻物に這いつくばるように顔を近づけ、香燐が指差したその“綻び”を凝視する。
ツヅリの姿を横目に、香燐が思い出していたのは、完成した術に見よう見まねで墨を描き足した記憶。褒められたくて、近づきたくて。幼い指が筆を握り、祖父の背を追いかけて描いたうずまき一族の家紋。
「この綻びに気付かぬほど……己の力を過信していたか……」
ツヅリ自らが完璧だと信じていた、その唯一の弱点を作っていたのは、逃げ続けていた“現実”。
ツヅリはゆっくりと顔を上げる。
「……この綻びから、強引に破壊することなら出来る」
──止まっていた時間が今、確かに動き出そうとしていた。
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