卒業証書の入った筒を左手に持ち替え、右手でプレハブ倉庫の扉のドアノブに手を掛ける。
昨日蝶番に油を差したばかりの扉は軋むことなくスムーズに開いた。
「こんなに変わるならもっと早く手入れしとくべきだったな」
そもそも卒業式前日に大慌てで倉庫の片付けや整理をするというのもどうかとは思うが。
そのおかげもあってか、倉庫の中は今までにないぐらいに片付いている。
まるで、初めてこの倉庫に立ち入った時と同じように。
「……きっとタカハシ先輩も同じように片付けたんだろうな」
倉庫の奥に置かれている椅子に腰掛け、倉庫内を見回す。
随分とスッキリしてしまったが、俺たちがここにいた痕跡が全く残っていないというわけでもない。
俺は木製の机に残された小さな凹みを指でなぞる。
確かこれは六花がささらの誕生日会の飾りを天井につけようとした時に手を滑らせ、金槌を落とした時に出来た凹みだ。
その時の六花ときたらそのままバランスを崩して俺の上に落ちてきたんだったか。
あの時はお互い頭をぶつけてたんこぶを作ったっけ。
俺は椅子から立ち上がり、棚に置かれている写真立てを手に取る。
そこには色も形もチグハグなバイクが四台、道沿いに並べられた写真が収められている。
修学旅行をボイコットして四人で行った長野ツーリングの時のものだ。
「確かつづみのカメラで撮ったんだっけ」
写真に写っているのはそれぞれのバイクだけで、そこに俺たちの姿はない。
「これなんでバイクだけ撮ったんだっけ?」
「三脚が無かったんだよ」
不意に後ろから声を掛けられる。
倉庫の扉は軋むので、誰かが入ってきたらわかるはずと思ったが、そういえば油を差して軋まなくなったんだったか。
「三脚?」
「そ。三脚がないと、誰かが写真を撮らないといけないでしょ。それだと一人だけ仲間外れになっちゃうし」
倉庫に入ってきたのは六花だった。
六花は俺の手から写真立てを奪うと、裏のカバーを外し写真を取り出す。
そしてその写真を写真立ての置かれていた棚と壁の隙間に滑り込ませた。
「あ、こら何を──」
「いいの! みんなスマホの中には保存してるんだし」
「まあ、そうだけどさぁ」
六花が何をしたかったのかいまいちわからない。
六花は卒業証書の入った筒を片手にクスクスと笑うと、その筒で俺の頭をぽこんと叩いた。
「痛ッ、何すんだよ」
「なんとなく! あはは!」
「なんだよ、相変わらずよくわからないやつだな」
俺は空になった写真立てを棚の引き出しに仕舞い込み、椅子に座り直す。
六花も俺と対面の位置の椅子に腰掛け、頬杖を突いて窓の外に顔を向けた。
「終わっちゃったね」
六花がぼそりと呟く。
表情は見えない。
俺も、六花につられるように窓の外に視線を向ける。
倉庫の横に立っている桜の木は満開になっており、俺たちのバイクの上に花びらを散らしていた。
「終わっちゃったね」
六花が繰り返す。
俺は、「ああ」と一言、窓の外を見つめながら相槌を打った。
俺と六花の間に沈黙が流れる。
倉庫に掛けられた時計が奏でるカチリ、コチリという音が今日に限って妙に腹立たしい。
俺は視線を窓の外から六花に向ける。
いつもより丁寧に整えられた髪。
十八になってなお幼さを感じさせる顔立ち。
だが、今に限って言えば年相応か、それ以上に見えてしまう雰囲気を漂わせている。
今日で終わり。
この事実が、俺の胸をざわつかせる。
本当に、このまま終わりでいいのか?
勿論、この先も俺の人生は続いていく。
短い春休みの間に下宿先へ引越し、四月には新生活が待っている。
六花も実家の酒屋を継ぐために小樽へと帰る予定だそうだ。
あくまで予定だと強調していたが、受験も就活もしていない六花が取れる進路は多くはない。
浪人するにしろ実家の小樽へと帰るのは確定事項だろう。
「ねえ」
六花が窓の外から視線をこちらに向ける。
不意に目が合い、俺は少し照れ臭くて視線を泳がせた。
「な、なんだよ」
「あ、その……」
六花の頬に赤みが刺す。
六花はモジリと両手の指を絡めると、ガタリと椅子から立ち上がった。
「ちょ、ちょっと奥の方に忘れ物しちゃって! と、取ってくるねー」
六花はそう言って倉庫の奥へと続く扉へと走っていく。
机の上には、六花の卒業証書入れと、クマのレザーキーホルダーが付けられた鍵が残された。
この鍵は六花の愛車であるCBR250Rの鍵だ。
「たっく、なんなんだか」
俺は頭の後ろで手を組み、天井を見上げる。
倉庫の天井は非常に簡素な作りになっていて、年季が入っているためか全体的に錆も酷い。
「これで最後……か」
俺はそんな現実から目を背けるように静かに目を閉じた。
夢を見た。
教会の講壇へと続く通路を白いドレスを着た女性が歩いていく。
俺の横には、白いハンカチ片手に涙ぐんでいるささら。
壁際にはスーツ姿でゴツいカメラを構えているつづみの姿もある。
きっと誰かの結婚式だ。
いつもの四人組で誰かの結婚式に参加しているのだろう。
俺は咄嗟に六花の姿を探す。
ささらは俺の横にいる。
つづみは壁際でカメラマンだ。
だとしたら、六花は?
ふと、俺の横をウエディングドレス姿の女性が通り過ぎる。
その人物は一瞬こちらに顔を向けると、いつもの天真爛漫な笑顔とは異なる奥ゆかしい笑顔で俺に手を──
ガタンという大きな物音に俺の意識が覚醒する。
咄嗟に目を開けると、目の前につづみが立っていた。
顔は窓の方へ向いている。
そして、そんなつづみの手には六花のバイクの鍵が握られていた。
「ん? 何してんだ」
俺はそのまま視線を窓へと向ける。
そこには建て付けの悪い窓に手を掛けているささら、そしてその向こうにはヘルメット姿のタカハシ先輩。
「つづみちゃん!」
ささらがそう叫んだ瞬間、俺の横に立つつづみが六花のバイクの鍵を窓の外へと投擲する。
野球部顔負けの速度で投げられた六花のバイクの鍵は見事にタカハシ先輩の手の中に収まり、次の瞬間には聞き慣れた250単気筒のエンジンサウンドが倉庫と校舎の間のスペースに反響した。
「にっげろー!!」
ささらが窓の外に拳を突き出す。
それと同時にエンジンの回転数が一気に上がり、けたたましいエンジン音を響かせて六花のCBRのフロントが持ち上がる。
タカハシ先輩はフロントを浮かせたままバイクを加速させ、校舎の角を曲がって消えていった。
「何!? ナニゴト!?」
騒ぎを聞きつけ、倉庫の奥から六花が駆けてくる。
そんな六花につづみはいつもの調子で言った。
「あなたのバイクが盗まれたわ。タカハシに」
「どうぇえええ?!?!? なんで!?」
「急いで追わなきゃ! 急げ急げ!」
ささらが六花に駆け寄り、すっぽりとヘルメットを被せる。
俺は卒業証書を机の上に投げ出すと、大急ぎで倉庫の外に出る。
倉庫の横には先ほど盗まれた六花のCBRは勿論のこと、ささらのベスパやつづみのWRもない。
そこにあるのは俺のスーフォアだけだ。
「なんかよくわからんが追うぞ!」
「う、うん!」
俺はバイクのミラーに掛けていたヘルメットを被り、バイクに跨ってエンジンを掛ける。
六花はタンデムシートに飛び乗ると、タンデムステップを足で蹴飛ばして展開させた。
「掴まってろ!」
「うん!」
正直タカハシ先輩やささらやつづみが何を考えているかはわからない。
わからないが、何をさせたいのかはうっすらと理解できる。
俺はスーフォアのエンジンを吹かすと、乱暴にクラッチを繋いでバイクを発進させた。
「いやはや、世話が焼けますなぁ」
「全くですなぁ」
倉庫に二人残されたささらとつづみは、ほぼ同時に卒業証書の入れ物の蓋を引っこ抜き、ポンと音を鳴らした。
「くっそ、マジで速ぇ。ほんとなんなんだあの先輩」
六花を後ろに乗せたまま、俺はタカハシ先輩の駆るCBRを追いかける。
タカハシ先輩は信号のない道を器用に選びながら、まるで自分の手足のようにCBRを操り逃げている。
こっちは後ろに六花を乗せているとはいえ、スーフォアと六花のCBRじゃパワーに天と地の差があるはずなのだ。
それなのに一向に追いつく気配がない。
それどころか少しずつ離されている気すらしてくる。
『私のCBRってあんなに早かったっけ!?』
「なんだよ、俺が遅いって言いたいのか!」
『でも実際追いつけてないじゃん!』
インカムを通してスピーカー越しに六花の叫び声がヘルメット内に響く。
そう言っているうちに俺たちは夕日に照らされた堤防へと上がる。
そこにはもうタカハシ先輩の姿はなかった。
途方に暮れた俺たちはフラフラとバイクを堤防の隅に駐車し、バイクから降りる。
ヘルメットを脱ぐと、春先だというのに自分も六花も額に若干汗が浮かんでいた。
「早すぎだろ……本当に六花のRかよ」
ヘルメットをミラーに引っ掛け、バイクの横に腰を下ろす。
六花は脱いだヘルメットをお腹に抱えると、俺の横に座り込んだ。
沈みかけている太陽が俺たち二人の顔を赤く照らす。
まあタカハシ先輩のことだ。
俺たちが学校に戻る頃には元あった通りにバイクを戻していることだろう。
春先のまだ少し冷たい風が横にいる六花の髪を揺らす。
俺はそんな六花の顔を横目で見ながら、先ほど見た夢を思い出していた。
「ねぇ」
六花は先ほどまで被っていたヘルメットを手で撫でる。
そして、軽く首を振り、にこやかな笑顔をこちらに向けた。
「ううん、なんでもな──」
「好きだ」
胸の内に秘めていた思いが口から溢れ出し、言の葉になって空気を震わす。
六花は何を言われたのか理解できていないかのように、目をパチクリさせた。
ああ、この顔は分かってない。
理解していないなら、理解できるまで繰り返すだけだ。
「六花、俺はお前のことが好きだ」
「す、は……──え!?」
俺は六花の瞳をジッと見つめる。
六花はそんな俺の目を見つめ返し、数秒後には夕日に照らされていてもわかるほど顔を赤くした。
「な……あの……ほんと?」
「嘘じゃない。冗談でもない」
「あはは、そっか。参ったな……」
六花は顔を伏せ、もじりと体を捩る。
そんな六花の姿を見て、俺は急に我に返った。
やってしまった。
つい勢いに任せて告白してしまった。
俺は恥ずかしさを誤魔化すように立ち上がり、ヘルメットを手に取る。
そして手慣れた動作でキーを回し、スーフォアのエンジンをかけた。
「そ、そろそろ学校に帰るか。あんなことした馬鹿三人組をとっちめてやらないと」
ヘルメットを被り、スクリーンを下ろす。
それに合わせるように、六花もヘルメットを被って俺の後ろに跨った。
『実は私も……ずっと恋してた』
インカムを通して六花の声がヘルメット内に響く。
『あの……えっとね……うん、愛してるよ。大好き』
俺はそっと上を向き、自分のヘルメットを六花のヘルメットに軽く打ち付ける。
俺たちの青春が終わろうとしている。
だが、俺たちの人生はまだ始まったばかりだ。
俺はスーフォアのアクセルを豪快に開けると、クラッチをスムーズに繋ぐ。
そしてVTECサウンドを響かせながら堤防道路を加速した。
これが最後の分岐点。今まで踏み出すことができなかった小さな一歩。