煙る盤上
「ッチ」
日本棋院で行われていたイベントの休憩時間。
しばしの休息と思い煙草を吸いに休憩室へと入るなり、会いたくない同期の姿を見て思わず舌打ちが出た。
部屋の外からは音がしなかったため人はいないと思っていたが、そうではなかった。
「なんでいるんだ新堂」
「なんでも何も、タバコ吸うためだよ緒方さん。それとも何? 自分はヘビースモーカーの癖に他人が喫煙所にいたら文句言うタイプ?」
「黙れ」
同じ年にプロ入りした桑原元本因坊の門下の男であり、おととし長年本因坊の座に座り続けていた師匠の桑原からタイトルを奪ったことで、メディアからは囲碁界の未来と言われている男。
「お前はイベントに呼ばれてなかっただろ」
「まあね。さっきまで資料室に居たんだよ」
「また秀策の研究か? 物好きだな」
「研究? というか、確認というか。物好きであることは否定しないけど」
新堂はよく棋院の上にある資料室に籠っている。
過去のタイトル戦から歴史的資料も含めて保管されている場所だが、基本的に研究を資料室で行っている新堂の知識はかなりのもので、棋院のスタッフに話を聞くよりも新堂に直接聞いた方が詳しいほど。
気になって新堂が一人で研究しているときに顔を出してみたが、碁盤で棋譜を並べていたり、過去の棋譜を読んでいたりと特に不思議な点はなかった。
ただ一貫しているのは、資料室に居る時はそのほとんどの時間で本因坊秀策関連のものに触れているということ。しまいには初挑戦となったおととしの本因坊のタイトル戦第一局で当時の本因坊であった桑原に対して本因坊秀策と同じ打ち方をする始末。
「呆れた奴だ」
「何が?」
「何でもない」
手前にあったパイプ椅子にどかりと座りこむと、少し離れた灰皿に手を伸ばす。
新堂の前にある灰皿にはもう十本ほど吸い殻がある。ある程度長い時間ここにいたのだろう。その割には碁盤に触れている様子はないから、彼が言う通り本当にただ煙草を吸いに来ただけなんだろう。
緒方自身もイベントの休憩のために来ただけだから、こいつと変わりはない。そう思って胸ポケットに入れていた煙草を取り出し、一本口に咥える。
「最近はどう?」
「どうも何も、お前をどうやって引き摺り落とすかしか考えてないさ」
「はは。言うと思った」
ライターを取り出して、ッチ、ッチ、と火をつけようとするがなかなか点火しない。
新堂と同じ空間にいることがただでさえ嫌なのに。そう思いながらも数回試すが、普段は言うことを聞くライターが、今この瞬間だけは言うことを聞いてくれず火が付かない。
面倒な。とは思うが机を見渡してもあるのは碁盤が碁笥が3組ほど。それと数個の灰皿のみ。灰皿を置くならマッチのひと箱ぐらい置いてあると思ったが、どう見渡しても見当たらない。
「ほら」
見かねた新堂がジッポライターを取り出し、それを受け取る。
施しを受けたようでやはり苛立つが、それを抑えるためにも煙草は吸いたい以上文句も言えない。
ピンっと気持ちの良い音を立てて蓋を開きそのまま火をつける。金色のケースからゆらゆらと独特のオイルの匂いをまとった火が上がり、煙草につけ、再び音を立てて閉める。
「助かった」
煙と共に長い長い溜息をつくと、机の上にライターを置いて新堂に返す。
沈黙。俺と新堂が交互に灰を灰皿に落とす。
「新堂、お前いつからそれを吸ってる」
「え? 成人して桑原のじーちゃんに誘われてからだから……、多分5年くらい? 家族全員吸わないんだけどね」
新堂の前に置かれた赤い山形がトレードマークのソフトケースを見て尋ねる。
俺と同じでヘビースモーカーのイメージがある新堂だが、以前タバコを吸っていた時は俺と同じ茶色の丸が目印の銘柄を吸っていたと記憶している。
「ずっとそれか?」
「え? まあ、桑原のじーちゃんから最初貰ったのがこれだから、もらったタバコとか売り切れじゃないときは基本これだね」
「お前今いくつだ」
「25。緒方さん28だっけ」
「25には見えんな。童顔だ」
「これでもマシになってんのに……」
「マシって言うが、ガキだろ」
「ヤクザがなんか言ってらぁ。これでも3期連続で本因坊なんだけど?」
タイトルでマウントを取りやがってこのクソガキが。と思うのも新堂が童顔だからだろう。
そんな見た目のくせに相手は自分よりも既に実績を出している。若獅子戦の優勝と昨年のTV杯では準優勝。そして何より、本因坊位の獲得。去年の棋聖戦ではタイトル挑戦者にまでなっている。名人戦でもいいところまで行っている。
それに対して自分はどうだ。まだTV杯でも準決勝にたどり着いたことはなく、七大タイトルだと碁聖戦の挑戦者決定戦には出られたが、新堂の師匠である桑原にしてやられた。そのほかの大会で決勝に行けたことはない。リーグ入りは何度かしたが、師匠である塔矢名人たちトップクラスには敵わず、二番手集団に手が届くかギリギリの実力。燻っていると言われても仕方がない成績がここ数年続いている。
「さっき、資料室では確認をしてるって言ってたな」
「うん」
「何を確認してるんだ」
「何って……。自分の芯がズレていないか?」
新堂の返答は要領を得ないふわっとしたものだった。
芯。桑原先生から指導していただいた棋風とか、心構えとか、そういった類のもののことを新堂は言っているのかと思うものの、噂だが新堂は桑原門下ではあるものの指導は受けておらず、名義貸しのような形で門下にいると聞いたことがある。
「芯?」
「そ。俺たち碁打ちは、遥か昔から積み上げられた数多くの対局や研究の上にいて、遥か未来の碁打ちたちの礎を作り続けてる。自分の碁がちゃんと過去の碁打ちから受け継いだものなのか。未来の後輩たちに誇れる碁を打てているかっていうのを確認してる」
俺は人と違うから。と新堂は悲しそうに呟いた。
「お前の場合は桑原先生じゃないのか?」
「違うよ。確かに俺はじーちゃんの門下だけど、師匠は秀策だと思ってる。じーちゃんが祖父に指導碁打ってたのがきっかけでつながりはできたけど、囲碁にはまったきっかけは秀策の碁を見てだし、秀策の碁を見てプロ棋士になったから。俺の芯は昔から、秀策にいつ見られても誇れる囲碁を打つってだけ」
「ガキのくせに考えてるんだな」
「さっきもだけど、俺と緒方さん3つくらいしか変わらないじゃん」
灰皿に吸いかけの煙草を置くと、新堂が横にあった碁盤と碁笥を取った。
どうやら取った碁笥は黒石が入っていたようで、じゃらじゃらと音を鳴らして手を突っ込む。
棋士が二人いて、目の前でそこまでされればこちらとしてもやることは一つしかない。
俺も白石が入った碁笥に手を入れる。
新堂がニギった黒石は二つ。
コトリと碁盤の上に置かれたのを見て、俺は白石を碁盤に置き数を数える。
「どう打つんだ?」
「何でも良いんじゃない? 手合いとか研究会じゃないし。雑談というか暇つぶしというか。試したいこと試しながら話そうよ」
「他にやることはないがあまり時間はないぞ。お前と違って俺はイベントの休憩中だからな」
壁にかかった時計と、記憶にあるイベントのスケジュールを思い浮かべれば、新堂に使える時間は多くて30分前後だろう。話しながらというのであれば早碁にはならないだろうし開戦したくらいの中盤で対局は終わるだろう。
「打てても30分くらいが限度だぞ」
「まあ結果途中で終わってもいいよ。話しながらだし」
数えた白石の数は11。つまりは奇数のため新堂と碁笥を交換し先手を譲る。
お互いに礼を行えば対局が始まり、新堂が右上の星に打つ。
「未来っていう話なら、名人の息子、アキラ君だっけ? プロ試験受かったって?」
石を一つ置く。
「ああ。不戦敗で一つ星を落としたようだが、相手がsaiなら仕方ない。それ以外は問題なく全勝だ」
「sai......」
「お前の打ち方に似た秀策流のネット棋士だ。お前とは打ち方が違うが」
少し前から噂されていた突如ネットの海に現れた不敗のネット棋士。どこか新堂と通ずるうち回しをするネット棋士。はじめは新堂が遊びでやり始めたのではないか? と思ったが、新堂自体はネット碁をしないという話なのでおそらくは違うのだろう。
「秀策流ね。打てるなら打ってみたいよ」
「お前もネット碁をすれば良いじゃないか。パソコン自体はお前の家にもあるんだろう?」
「アカウントも作ったことはあるけど、棋譜の記録とかにするのにしか使ってない」
運が良ければ打てる。俺自身は運がないのかまだ打てていない。
「もしsaiと対局することになれば連絡しろ。俺も観戦する」
「そんなに執着する? たかがネットの棋士だろ?」
「たかがネットではあるが、saiはアマチュアとは違う。初めてプロ試験でお前と対局したときのような、すべてを見透かされたようなうち筋。遙か高みから打たれるような感覚。棋譜を見ているだけだが、そう思うくらいには恐ろしい存在だよ」
交互に石を置き、展開が進む。
序盤はある程度決まっている。新堂は星を繋げる宇宙流。対して俺は地が甘くなる新堂に攻められるよう手を打っていく。
「そんな時期か......」
「なんか言ったか?」
「いや。にしてもsaiねぇ。最近桑原門下の別の人にも聞かれたよ。でも、そんなすごい棋士がプロとして表舞台に出てこないなら、出てこれない事情があるんじゃない? 入院しているとかそういう身体的な」
「だが、一柳先生にも勝てるようなアマチュアがいるか? 囲碁は麻雀のように運で勝てるようなものじゃないぞ? そこに置くか......」
新堂の左辺に置いた一手を見て手を止める。
「もしくは、秀策が生まれ変わったんじゃない?」
秀策の生まれ変わり。
時折新堂が呼ばれることがある通り名のようなもの。現代ではあまり利がなく使われなくなった秀策流をプロ入り後多くの対局で使っており、あまりにも華麗に使いこなすことからトップ棋士が言い始めた通り名。
「オカルトの類は信じない」
「この世界には科学で納得できないことだってあるよ。記憶や心だってそう。なら幽霊や生まれ変わりが居てもおかしくないさ」
どこか確信めいたように話す彼に違和感を覚える。
自身が体験したような口ぶりだ。碁笥に入れていた手を抜き、加えていたタバコを取って灰を落とす。
「それは勘か?」
まあね。なんて答えながら俺の手にノータイムで手を返す。
時間がないことを理解しているからか展開は早い。先ほど止まった手も何事もなかったかのように盤上は進んでいく。気が付けば様子見もそこそこ。どちらが先に相手に攻めるかという段階の盤面。
「お前の勘は当たるからな。ならそうなんだろう」
「そんな頼りになる? 俺の勘」
新堂が左辺を荒らしに来たことでついに開戦する。
早打ちらしく一気に削りに来るような打ち方。それに対して早い流れでも見誤らないよう丁寧に合わせる。
一度崩れるとそこを厳しく突かれる。新堂は比較的攻めっ気の強い碁を打つことの方が多い。相手の様子を伺うよりも自分のしたいことを押しつけるタイプ。
認めたくないが、やはり実力は新堂の方が上だなと思う。
「当たるよ。お前の勘は。賭ける気にもならん」
「賭け事は良くないよ。じーちゃんは良くしてるけど。ってかそのsaiの話良くない? 俺じゃないし」
「今度俺がまとめた棋譜を渡してやるよ」
「いや、良いよ。そこまで有名になってるならネットでもなんでも転がってると思うし。そもそも何の話だっけ?」
「アキラのプロ入りの話だ。そうだ、アキラと新初段シリーズで打ってみたらどうだ?」
「あ~。いや、面倒」
「面倒でもやれ。そろそろ囲碁界も世代交代をしていかないといけない。本因坊がお前に奪われたんだ。棋聖も名人も何もかも俺たちが奪っていかないといけない」
「それって俺が生贄じゃん。旗印ってことでしょ?」
「それぐらいやれ。ったく、熱いのか冷たいのか分からん奴だ。そこでノビられると痛いな」
最年少で本因坊となった新堂にかかる囲碁界の期待はとても高い。
ほかにも芹澤さんや緒方自身もそうであり、まだ段位は低いものの若獅子戦を優勝した倉田も囲碁界の新しい風というべき存在である。
「別に仕事だから好き嫌いで打つ訳じゃないけどさ......。俺よりも歴の長い人が打つべきだよ。座間さんとか一柳さんとか」
一手打てば煙草を吸い、相手が打つ合間にさらに吸い、そしてまた打つ。
「灰皿いっぱいじゃん。あっちの取ってよ」
「ったく......」
離れた位置にある灰皿を取るよう頼まれ、なんで俺がと思いながら椅子から立つ。
考えるのは碁盤に広がる白と黒。
「こことこっちでどうだ? 俺的には展開的に逆転が厳しいが、それでも可能性のあるこっちに置きたいが」
「いいんじゃない? そうなると、ちょっと待って? 考える」
新堂が考えている間に灰皿を取り、また一本火をつける。
盤上の隅々に目をやる新堂を見て長くなりそうだと感じた俺は、新堂と同じく盤面を俯瞰して見直した。
左辺はかなり厳しい。あの時の新堂にノビられたのが痛手だった。右辺は新堂の三連星をある程度荒せたから上側である程度取り返せたものの、それでも全体的な差は縮まっていない。
早打ちだから完全にできるとは思っていなかったが、中央から全体を御すことができる形にまで持って行けなかった。このスピードでの戦いでそれができるほど、俺自身にその技量はまだない。
「桑原九段は引退するのか?」
「しないと思うよ。だってじーちゃん妖怪だし。来年対局するのはじーちゃんか名人じゃない? もしくは座間王座かな」
「俺の可能性もあるぞ」
「緒方さんが? 緒方さんはね。多分4年後じゃないかな?」
「それも勘か?」
「そうだね。勘かな」
「なら、俺がお前の言う4年より早く先に挑戦権を手に入れるには何が足りない?」
「そうだなぁ。でも多分4年っていうのは一番遅い想定だから。緒方さんは楽しく打つっていうよりも勝ち負けをはっきりさせる碁を打つ人だから、何が何でも勝ちたいと思える相手が出てきて、執着をし始めたら多分すぐだと思う」
「お前じゃなくてか?」
「俺じゃない。それこそsaiじゃないけど、現代に蘇った本因坊秀策みたいなのが現れたら執着するんじゃない? 実際にそんなのが出てきたら、真っ先に俺が飛びつくけどさ」
「それはお前じゃないのか?」
「俺は秀策じゃないよ。自称秀策の弟子だけど、俺は秀策にはなれない。秀策は俺よりも囲碁のことを愛してるから。俺も囲碁は好きだけど、秀策ほどじゃない」
地を奪おうと荒らす一手を打ってみたが、新堂は難なくかわす。
少しでも荒らして目を奪い、また新堂のかわし方を学ぼうと食らいつくためにどんどんと手を打つ。
「今度お前の棋譜を研究する話が塔矢門下で出ているんだが、来るか?」
「どの棋譜?」
「お前が本因坊秀策になりきって打った、桑原九段との第一戦」
「絶対にヤダ」
「だろうな」
あまりにも秀策に似た手を打ったことで、名人や座間王座たちからは秀策が現代に蘇ったとまで称されたほど美しい一局。秀策の打ち方で本因坊であった桑原先生と対峙し、そのまま勝ち切る。秀策の小スミから始まり、全体にバランスを保ちつつ、相手をいなし弱い部分を攻め込む戦い方。
ただ研究をしているだけじゃ打てない碁だった。あの一局で新堂は、秀策の碁を実際に見たかのように打ち続けていた。
「まだ打ちたいが時間的にここらあたりで止めるか」
対局中の盤面は、悲しいがすべてが中途半端と言う他ない状態。
ある程度まとまりはあるが局所的であり、全体が効果的にまとまっていない。
時間制限のせいでじっくり考えて打てなかったのも原因。新堂の打ちたい方向に流れていったのも原因。
まとまりをもった盤面にしたかったが、途中でも感じた通り今の棋力ではまだできない。
「何かつかめるものはあったか? 本因坊サマ」
「いや、大きくは無かったかな。難しいっていう感想だけ。緒方さんは良くも悪くも重厚な棋風だから、こういう突飛なことになりがちなのは向かないね」
「お前がやらせたんだろ」
新堂が中央を制するために動き、俺はそれを止めることが出来なかった。それが今の盤面。
「でも、何が何でも相手に勝ちたくて相手が想像していないことをしようと思ったら、これぐらいのことをしないとダメだよね。よかったんじゃない? 一回経験できたんだから」
新堂の言い分に一理あると思ったものの、肯定するのは癪に障るので黙る。
持ち帰って一から検討をしよう。そして手合いでこいつにあったら全力で倒す。
「どこかでまた続きする?」
「いやいい。それよりも腰を据えてじっくりと打ちたいな」
「なら、また資料室に来なよ。基本俺あそこにいるし」
「わかった。今度の水曜日塔矢門下の研究会がある。それ終わりに顔を出す」
「了解。にしても面と向き合って一緒に研究するって初めてじゃん。うわぁ~」
「嫌なら良い」
「やる! やるよ! 緒方さんと試したいこといっぱいあるんだよね」
目を輝かせて俺を見てくる新堂。そういうところがガキくさいというのに、おそらく理解していないのだろう。
普段人前に出るときは静かで冷たい印象を与える癖に、自身の心のテリトリーに入れた途端態度が180度変わる。
「それじゃあ」
「ん」
最後の煙草を灰皿に押し付けて火を消し、座っていた椅子を直す。
「片づけは頼んで良いか?」
「え? オッケー。そうだ、今日のイベントって何なの?」
「小学生たちの囲碁大会だ。そういえばだいぶ前の大会で、男の子が難しめの死活問題に口出しして運営に怒られてたよ」
少し前の出来事だが、なぜか強く記憶に残っていたことを伝えた俺は休憩室を出た。
プロでも一瞬考えるような盤面を、少し見ただけで答えてしまった男の子。前髪だけ色素が抜けた特徴的な容姿だったため妙に印象に残っていたが、大会のこともよくわかっていない不思議な子だった。
だが、そんなことよりも先ほどの盤面だ。
展開的にするべきだったのは左辺の補強か右辺上部をもう少し荒らすことだったか。
もう少し荒らすことができれば、中央からもある程度効果が出たようにも思うが、今この場で修正するべきポイントを探すには時間がない。
「勝ち負けの碁。か」
確かに重厚な碁が自分の持ち味だと思う。それは師匠である塔矢行洋の持ち味であり、俺が彼から教えられたもの。ころころと棋風を変えられるほど俺は器用じゃないと自覚している。新堂のように相手をいなすような棋風でも、碁聖戦の挑戦者決定戦で負けた桑原のような相手を試し嫌がらせをするような棋風ではない。
そんな器用な碁を俺は打てない。
「何が何でも勝ちたい相手、か......」
真っ先に浮かぶのは新堂なのだが、あいつが言っていた「現代に蘇った本因坊秀策」が現れるというのならそうなんだろう。きっと新堂に似た打ちまわしと棋風を持った、saiのような何か。
「あ! 緒方先生! もうすぐイベント再開しますので早く来てください!」
「すみません。すぐ行きます」
襟元を正した俺は、頭に浮かんでいた同期の顔を無視してイベント会場へと戻った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「にしても、もうそんな時期か」
新堂輝は逆行者である。
かつては音は同じの「進藤ヒカル」として生まれ、碁打ちとして生きた記憶を持っている。
いつ死んだのかみたいなことは覚えていないが、塔矢や和谷、社たちと切磋琢磨して本因坊やほかのタイトルを獲得できるところまで棋力を磨いた記憶はある。
ついぞ神の一手は打てなかったが。
生まれた年も場所も。音は同じでも名前も違う中、そんな記憶に混乱したまたま桑原のじーちゃんと出会い、再び碁打ちとして生きている。
「それにしても、佐為がいるんだな......」
saiというネットの中に潜む姿のない棋士がいる。そういう話はすでに聞いていた。自身がそうではないかと尋ねられたことももちろんある。
それほどまでに俺とsaiの打ち回しは似ている。それはそうだ。saiは俺に囲碁を教えた張本人だから。
改めて緒方からそんな話を聞いて、やはり衝撃はあった。
自身を棋士にした存在。進藤ヒカルという棋士の根幹であり、新堂輝となった今も自身の芯となっている存在。
「今の俺に見えるかな......」
佐為が消えてからあまりにも時間が経った。
進藤ヒカルとして成人し、本因坊やその他タイトルも獲得するほどの実力をつけた。本因坊の雅号も佐為にした。結婚はしなかったから子供もいなかったが、その代わりに数名だけ弟子を取り、院生時代の仲間を中心に研究会をするようになった。
前世? を含めて半世紀以上経ってしまっている。
今の自分の実力なら佐為と互角に打てる自信はある。佐為の知らない未来の定石を知っている。でも、大前提として今の俺は進藤ヒカルとは違う存在。
「見れたら良いけど、見えなくてもせめて打ちたいよな」
かつてとは何もかもが違っている。
名前が違う。年齢も違う。出身地も違えば家族構成や環境も違う。酒も飲むようになったしタバコも吸う。まさか自分がここまでヘビースモーカーになるとは思ってなかったけど、タバコを吸い始めて「息を吐くこと」がどれだけ大切なのかを知った。
かつて同期だった和谷や世話になった伊角とは年齢が離れすぎているし、同期は佐為を追い続けていたあの緒方。北斗杯でお世話になった倉田さんは今じゃ後輩にあたる。
「緒方さん。俺が同期なせいかわからないけど、昔のこの時期よりも絶対強いんだよな」
塔矢名人たちトッププロもそうだが、未来の知識を持つ自分と打つ相手が自分のことを研究するから、俺がかつて知っていたこのころよりも全体的な棋力が上がっている。
「色々と違うのに、進藤ヒカルは変わらないんだな。あの話もそのまま俺だし」
塔矢がプロ入りしたということは、冬になれば進藤ヒカルが院生になる。その時も緒方に目をかけられる。
「こんなところにおったか。てっきり資料室かと思って行ったらいなかったから驚いたわい」
「わりーわりー。あそこタバコダメだから降りてきてたんだよ。じーちゃんならどうせタバコ吸いにここ来ると思ったし」
「まあ良いか。ん? これは?」
まだ片付けていなかった碁盤を見た桑原の質問に俺はつい先ほどまで緒方さんがいたことを伝えた。
「さっきまで緒方さんがいたから、喋りながらね。時間もなかったし中途半端になったけど」
「そうかそうか。緒方くんのぉ。もう少し牙を見せられるようになったら面白いが、まだお前さんと比べれば可愛いもんよ」
お主が虎なら奴は猫じゃ。なんて笑いながら言う彼に俺も同意する。
4年後、初めて緒方さんがじーちゃんに挑戦したときと今とでは、囲碁に対する姿勢や意気込みがまるっきり違うから。それを知っているからこそ俺も笑う。
「お前さん最近わしの研究会に来とらんが、近々来るか?」
「いや、ちょっとやること出来たんだよね」
「やることとな?」
「そう。ちょっと、世界中の人と対局するよ」
saiも現れた以上、俺がネット碁をやり始めても良い頃になる。そうなれば、saiは俺じゃないことになるし、同じ打ち方をする俺を見たら何か佐為やヒカル側から接触しようとするだろう。
「何をする気じゃ」
「インターネットで囲碁を打つよ。勉強というよりかは遊びに近くなるけど、一柳先生とか一部のプロもしてるから」
「わしとしては、お前さんが好きに打てるなら何でも良いわい。師匠ではなく保護者の立場じゃからな」
「いつも感謝してるよ。俺のわがまま聞いてもらってるし」
「ほっほっほっ。なら少しは恩返しをしてもらいたいのぉ」
「んじゃあ飯でも食べに行く?」
「お前さんと飯に行ってもラーメンばかりじゃからのぉ、遠慮しておこうかのぉ」
「んじゃ無理だね」
とりあえず今度の休日でパソコンを買いに行こう。過去の記憶のおかげで最低限環境は整えられるだろう。
アカウント名はどうしようか。もちろんsaiの名前は使えないが、hikaruみたいなそのままの名前は使いたくない。
「さて、そろそろ出る? なんか用事あるんでしょう?」
「そうじゃったそうじゃった。これからわしら2人で取材があるんじゃ」
「えー。取材とか嫌なんだけど」
囲碁の話を聞かれるのは良い。囲碁を広めるのは佐為が求めたことの一つだから。でも、自分の私生活とかを聞かれるのは面倒臭い。彼女とか作る気はない。好きなタイプや女性のことを聞かれたところで答えられるものはないから。
「そんなこと言うでない。今日は天野君が相手じゃから、お前さんが嫌がることは聞かんじゃろ」
「へーへー。行きますよ」
じゃらじゃらと碁石をそれぞれの碁笥にしまった俺は席を立つ。
「そうだ、虎次郎で良いじゃん」
「何がじゃ?」
「インターネットで囲碁する時の名前」
佐為ならこれでわかるだろう。なんて言ったって秀策の幼名だし、その名前を見たら絶対興味を持つはずだから。
「良いこと思いついたなぁ。俺」
最後のタバコの火を消した俺は休憩室を出る。
その頃にはもうヒカルの様な明るさはなく、新堂として冷たく、冷静な雰囲気を纏って。