新堂輝本因坊の印象は?
そう聞かれると、ほとんどの棋士は「冷静なタイプの棋士」と言う。
対局中の心境を顔に出すことはほとんどなく、またインタビューなどでも多くを語ることはない。
他に意見として多いのは、本因坊秀策が好きな奴。オールラウンダーの棋風。資料室の主。突飛な手を時々放つ。現代の秀策。天才。
「そんなことはないんだけどな」
ローマ字でシンプルにTorajirouと言うアカウントを作成しネット碁を始めてしばらく経った。毎日最低でも一局以上打つ様にしており、またどの対局でも負けない。白星を積み上げ続けていれば会話の中でも話題になるもので、噂を聞きつけた棋士たちが棋譜を見て、打ち方が新堂と似通ってると気がつけば声をかけてくる。
なんでネット囲碁? と聞いてくれば、興味があったから。と答え、楽しい? と聞かれれば、勉強になる。と答える。アマチュアが多い性質上、定石の意図などを完全には理解していない故に出される突拍子もない一手を研究すれば、ほとんどが意味のないものであれど極稀に新しい発見につながる。
プロ同士の対局から得られるものはとても大きいが、囲碁として成立する以上アマチュアが打った一手にも価値はある。
そして何より、saiと打ってみたいとだけ言えば、ほとんどの棋士はそれ以上のことは言わない。
saiがログインや待機しているときに俺が対局をしていたりすることもあるので、うまい具合にsai=新堂輝説は下火になっている。
十段のタイトルを獲得したことで入った取材が終わった昼過ぎ。
応接室から出て棋院の1階へと行くとざわざわと少しうるさくなる。
ぞろぞろと出てきたのは院生の子たちで、三々五々好きに固まりながら一部は棋院から外に出ていく。
おそらく目的は昼飯だろう。
そう思って視線を子供たちに向けてみれば、集団の一部に知っている顔がいる。少し年齢が高い伊角に少し明るい髪の和谷。それに、前髪だけ色が抜けたこの世界での進藤ヒカル。
視界に入れた瞬間に分かってしまうことがある。
「 ッ。居ない、か」
佐為の姿を、俺が、新堂輝が見れないということ。
「は、ははっ。そうか......。そう、だよな」
何となく想像はついていた。
佐為とのつながりは進藤ヒカルとのものであって、俺がじいちゃんの蔵に行って碁盤を見に行ったところで血のシミは見えなかっただろうし、佐為が俺に語り掛けてくることもなかっただろう。
頭では理解している。理解してはいるが、それでもどこか悲しく、悔しい。
自分が進藤ヒカルではないことを明らかにされているようで。お前は偽物だと言われているようで。
足元が底なし沼のようにゆがんだように感じた。引き込まれるように思考が澱んでいく。
もうほとんど思い出せない進藤ヒカルだった頃の記憶。
棋譜だけは覚えているが、佐為と話したことがほとんど記憶から消えてしまった。遠い昔の夢のような記憶。
「あの、どうかしましたか? 新堂本因坊......」
「えっ!?」
一人で勝手に期待をして、一人で勝手に悲しんでいたところに、聞き馴染みのある声が飛んできたことで驚いて視線を上げる。
「和谷、この人って誰?」
「誰って進藤! 本因坊だよ! 前に話しただろお前と同姓同名のプロ棋士」
「この人が!?」
「コラ失礼だろ進藤! すみません。なんか」
そこにいたのは伊角・和谷・進藤の三人。自分が最後に記憶している彼らよりも背が低く、また若い姿。
「ほ、ほんとすみません! こいつ全然囲碁界のこと知らなくて、急いで教えてはいるんですけど」
「いいよいいよ。えっと? 髪が明るいのが俺と同じ名前の子?」
「はい。こいつが進藤ヒカルです。僕が伊角、本因坊に声をかけたのが和谷といいます」
「あー。伊角くんと和谷くんと、進藤でもヒカルでも名前が被るな……。まあいいか。よろしくね。新堂輝です。一応本因坊」
一応だなんて! と伊角や和谷が慌てふためく中、じーっとヒカルが俺のことを見つめてくる。何かいるのかなと思い周囲に目を向けてみるが、他にもいた院生の子たちはとっくの前にいなくなっており、いるのはここの4人だけ。
「ど、どうした?」
「いや、何でもない。です」
きっと佐為が何かヒカルに話したのだろう、顔色がころころと変わっている。
俺と打ちたいと言い始めたのかなんなのか。姿も声も俺には認識できないからどんな話をしているのか分からないが。
「本因坊はどうされましたか? 体調不良とか」
「いやいや大丈夫だから気にしないで。さっきまで取材を受けてて少し疲れてただけ。それより、君たちこの時間に棋院にいるってことは院生だよね? お昼?」
「はい。休憩時間なので近くで食べようかと思って」
「せっかくの縁だし、奢るよ。同姓同名の子が同じ囲碁を打つ仲間なら嬉しいし」
「わ、悪いですよ! そんなの」
「大丈夫大丈夫。気にしちゃダメ。大人の言うことを聞けとは言わないけど、利があるなら従った方がいいよ? おいしいご飯が食べれるとか、研究相手になってくれるとかね」
「ちなみにどこに行くんですか?」
「近くのラーメン屋。穴場のおいしい店があるんだよね」
「ラーメン!? 行くよ! 行く行く!」
「おいこら進藤! なんて言い方なんだ!」
年上の伊角に怒られるヒカルを見て笑う。
なくなったはずのものが目の前で起きていて、どこか嬉しい気持ちと寂しい気持ちが芽生えてくる。
「よし、とりあえずここに居続けても他の人たちの迷惑になるから。行こうか」
半ば強引に彼らの背中を押し棋院を出た俺は、彼たちに話を聞く。
「俺外部からプロ入りしてて院生じゃなかったから知らないんだけど、あれだよね、たしか院生って2クラス制だよね?」
「そうです。俺たち全員1組なんです」
「3人とも? すごいじゃん。順位とかあるんだよね? 聞いても良い?」
「はい。伊角さんが1位で、俺が7位。進藤は18位です」
「へぇ。ヒカル君は1組に上がったばっかりとか?」
そうです! と勢いよく返事するヒカルにつられて思わず笑顔になる。
「結構上位の子たち? プロ試験の予選免除とかあるんだよね。緒方さんが言ってた」
「確か本因坊は外部からの受験で全勝ですよね?」
「そうそう。桑原のじーちゃん。俺の先生に当たる人なんだけど、じーちゃんと相談して院生にはならずにプロ入りしたんだよね」
「本因坊はいつから囲碁を始めたんですか?」
「皆には千年って言ってる」
「せっ!?」
ごまかされたと思ったのか伊角や和谷は笑っているが、ヒカルだけは驚いた表情で俺を見る。そんな視線には気づいているが、目的のラーメン屋に着いたので気にしないふりをしてガラガラと引き戸を引く。店員の案内に従い目についた空いている席に4人で座った。
「千年ってどういうこと?」
「いやいや。本当なわけないじゃん。ふざけて言ってるだけ。実際に囲碁を打ち始めたのは小学校入ってからだからそんなに小さい頃からじゃないよ」
人によっては3歳くらいから囲碁は打っている。そんな子たちと比べれば俺は遅い方だ。倉田さんなんかは高校生くらいとか話していたはずだから、そんなレアケースに比べればまだ早いが、棋士の全体で見れば平均より少し遅いくらいだとは思う。
「何食べる? ちなみに俺はこのネギ醤油がおすすめだからこれを頼む」
「じゃあ俺もそれで!」
「塩とみそもあるんですね」
「味噌も結構おすすめ」
「なら俺も」
「僕も味噌にします」
全員の注文を店員さんに伝えれば、始まるのは質問攻めの時間。
例えば普段の研究方法についてや打ち回しについて。他にもヒカルがアキラについて質問をしていたことから彼の実力を本因坊である新堂から見てどう思うかなど。
「本因坊はどれくらいすごいの?」
「お前なに聞いてるんだよ。ちょっとおかしいぜ?」
「そうだって進藤。本因坊は俺たちからしたら雲の上の存在だぞ!? 本因坊秀策の生まれ変わりだなんていわれてるくらいの方になんてことを聞いてるんだよ」
「秀策の、生まれ変わり......」
「はい、ネギ醤油とネギみそ2つずつです」
話を止める様に店員さんがラーメンを卓上に並べる。これで話も流れたかな? と思ったが、そうはならない。
「本因坊は、秀策のことをどう思いますか?」
「秀策ねぇ」
割り箸を割り、ずるずると麺をすする。
口の中に広がるしょうゆベースのスープと麺。そして大量の細ネギ。普段は美味しく感じる味だが、どこか冷たく感じるような気がするのはヒカルが俺のことをロックオンしているからだろう。
「進藤マジでやめろよ。本因坊と言えば棋界一の秀策流の使い手だぞ? 桑原先生との師弟対決になったタイトル戦で秀策と同じ打ちまわしをして勝つような方だぞ!」
「同じ打ちまわし? どういうこと?」
「別にその話は良いよ。俺が個人的に秀策を尊敬しているからしたことだし。秀策になった気分で桑原のじーちゃんと打ったってだけ。勝手にみんなが俺の碁に秀策を重ねただけだから。それで秀策に関して言うと、答えはシンプルだよ。俺が棋士であることの芯。秀策の碁を見て囲碁の魅力に取りつかれたし、秀策の碁を知ってプロになろうと思ったから」
「秀策が、芯?」
「そ。俺の何を知りたいのかは知らないけどそういうこと。俺は秀策に魅せられてこの世界に入ったから。秀策が作り上げたものを基本にして碁を打つし、秀策に誇れるような碁を打つ。そして俺の後の時代に生きる棋士たちが秀策のことを学べるような礎になる。囲碁を打つ理由は何でも良いし、きっかけだってなんでも良い。プロになりたい。タイトルを取ってみたい。ライバルに勝ちたい。祖父や父が喜ぶから。なんでも。俺の場合はたまたま秀策の囲碁を知って、秀策に認められるような碁を打ってみたい」
ズルズルと普段以上に音を立てて麺をすすることで会話を途切れさせる。
このころの俺は本因坊秀作の凄さを。佐為の凄さを理解していないころ。本当に佐為の凄さを理解したのは、佐為がいなくなって、資料室で佐為の存在を見つけた時期だ。
「本因坊は、秀策と打てるってなったら、打ちたい?」
「あれか? ネット碁のsaiのこと?」
「うん」
「まあ、打ちたいか打ちたくないかで言えばもちろん打ちたい。本当に本因坊秀策の生まれ変わりなら、誰しも打ちたいと思うよ。俺も噂を聞きつけてTorajirouっていうアカウント作ったくらいだし」
「Torajirouって、最近話題のネット棋士! 新堂本因坊じゃないかって噂されてましたけど本当だったんですね!」
まあ、自身の打ち方を変えているわけじゃないし隠しているわけでもないからバレてはいるだろう。
「虎次郎って、秀策の幼名だよね」
「そう。最初は
スープを飲み、チャーシューを食らい、麺をすすっていればどんぶりの中はカラになるもので、俺だけでなくみんな殆ど食べきってる。
「あ、あの! おれzeldaって名前でネット碁をやってるので、良かったら対局していただけますか?」
「いいよ。タイミングが合えば。基本的に夕方以降で打ってるし、ログインだけしてる時もあるからチャットしてもらったら、できる時ならしてあげるよ。あ、でもお師匠さんには伝えた方が良いか?」
「し、師匠なら森下九段です! 俺、院生上位だから予選免除とかあるのになかなかプロ試験合格できなくて」
「抜け駆けするなよ和谷! 俺もずっと院生1位なんですけど、本番に弱いというか中々試験を通過できなくて。そろそろ院生で居られる期間も終わるので、対局してほしいです!」
「いいよいいよ。さっきも言ったけどせっかくの縁だし。俺ってさ、棋院の上の階にある資料室にいることが多いんだよね。俺が居る時に来てもらえれば打てるから」
注意事項として、常にいるわけじゃないことや、他の棋士たちが遊びに来ていることもあって先約があれば打つことができないことも伝える。特にタイトル前になれば自分も勉強があるから、息抜きがてら彼らと打つことはできない。
「それでも! ありがとうございます!」
「いいよいいよ。それじゃあ戻るか」
三人それぞれが元気よく返事をしてくれたので、水を一口飲んで会計を行う。
そこでもおごってもらうのは。と止められたが、必殺の今万札しかないから払うよ戦法で切り抜けた。
ヒカルにアカウント名を教えたからこれでヒカルと佐為側からコンタクトを取ってくるだろう。
そうすれば佐為とも打てる。ヒカルに自分がよくいる場所も伝えた。佐為の性格を考えれば資料室に突撃してくる可能性もある。そうすればヒカルを通して直接話すことだってできる。
「お昼ご飯ありがとうございました。対局の約束も」
「いいよいいよ。俺がやりたくてやってることだし。それじゃあ午後も頑張って」
棋院に戻って三人を送り出し、俺自身は資料室へと向かう。
「これで良い。これで良いんだ」
自分に言い聞かせるように小さく呟いて、エレベーターに乗り込んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「佐為。今日会ったあの本因坊、どう思う?」
院生研修が終わり、みんなと別れ家に着いた。
佐為と一緒に検討をし始めたが、気になるのは今日出会った自分と同姓同名のプロ棋士のこと。
『
「そんなこと普通出来る? 自分じゃない打ち方を完璧にするって」
『普通であれば絶対に無理ですね。その人の打ち方はその人だけにできるものです。ヒカルの棋風が私に似ても、まったく同じようには打てないのと同じです』
「だよな~」
和谷から見せてもらった棋譜は、俺自身でも佐為が打ったんじゃないのかと思うようなものだった。
身長はあまり高くなく、顔は俺に似て少し丸い顔。
雰囲気は塔矢名人や緒方さんのように怖い雰囲気ではなく、院生のみんなのように柔らかい雰囲気を持った人物。俺と同じラーメン好きな彼。対局や指導碁はしていないから聞いた以上のことはわからないが。
「家にパソコンがあれば本因坊のこと調べられるんだけどなぁ」
『ぱそこんとは囲碁を打つためのものじゃないのですか?』
「違うよ。っていっても佐為とパソコン触るときは囲碁しかしてないから分からないよな......。一応、パソコンは世界中とつながっていて、手紙みたいなやり取りができたり、知りたいことを調べることができたり。なんだろうな。江戸時代にも書店があったと思うんだけど、手紙とか書店で調べ物をすることができる箱。って考えるのが良いのか?」
『手紙と調べもの。ですか』
「まあそれができるのがインターネット。ってやつで、それを使える人や会社が俺たちがやってるネット碁なんかを作ってるってわけ」
『そういえばあの者は虎次郎という名前でネット碁をしていると......』
「ただなぁ。せっかくなら打ってみたいけど、タイミングが難しいよな」
今は四月。もうすぐ若獅子戦がある。
となると、本因坊と打てればすごく大きな糧になることはわかっているが、わざわざネットカフェに行き対局ができるかわからない相手と佐為の対局を観戦するよりも、一局でも多く佐為と打つべきだと思う。
佐為もそれを理解してくれているからか、普段であれば打ちたいとせがんでくるのにそれをしない。
「実際に資料室? に行けば会えるんだろうけど、それって打てるのは俺だから佐為は打てないし」
俺も打ちたい。佐為も打ちたい。だがなかなか良い方法が思いつかず頭を悩ませる。
すでに時刻は夜であり、そろそろ母から食卓へ呼ばれるだろう。
ご飯を食べても風呂に入ってもおそらく良い案は浮かばない。
「どうしたもんか」
『どうしましょうかねぇ』
碁盤に並べられた今日の手合いを見てもやはり良い方法は浮かばない。
「本因坊に突撃して、信用できそうなら対局する。とかしかないかな?」
『とはいえ、ヒカルと共に私がいるということを彼の者は信じますか? それならネット碁をする方が良いと思いますが』
「どこか一日だけ試してみるか? 多分棋院の人に話してみたら本因坊の簡単な予定はわかると思うけど」
『良い方法が思いつかない以上それしか手段はないように思いますがどうしますか?』
「ヒカルー! ご飯できたわよ! 降りてらっしゃい!」
うーんとうなっていれば予想通り母から声を掛けられる。
これ以上は考えている暇はない。今日の検討も中途半端になっているし、このままでは何も手につかない。
「よし。棋院の人に聞いて空いてそうな日にちにネット碁をしよう。本因坊と佐為の対局はそれで良い?」
『もちろんです! 生まれ変わった私と呼ばれる相手との対局。心が躍ります!』
「はは。俺は直接資料室に行ってみて、対局をしてもらえるようお願いしてみる」
『そうですね』
同じ名前で遥か高みにいる棋士に自分はどこまで戦えるのか。そして佐為とはどんな碁を打つのか。
楽しみでもあり恐ろしくもある。想像をするだけでワクワクとゾクゾクがあふれるような気持ちになる。
「ヒカルー?」
「今行くよ!」
『お母さまを待たせても良くありませんし、とりあえず下に行きましょうか』
「だな」
翌週。自身が本因坊と同じ名前だとか、同じく本因坊秀作のファンだとか棋院の事務員に何とか伝え、新堂本因坊の簡単なイベントスケジュールを確保した。
本因坊と十段を持つプロ棋士のため対局がかなり多い予定表。棋聖戦のリーグが始まったころであり、名人戦の予選だってある。そしてなにより本因坊戦の対局だって間近に控えている。
「でも、研究会というか本因坊は一人で研究するタイプだから、取材とか諸々がある日に行けば会えると思うよ。もし資料室に行ってもいなかったら休憩室にいると思う。彼ああ見えて結構タバコ吸うから」
「わかった! ありがとう!」
予定表を畳んでポッケに入れた俺は、午後の対局に向かう。
別に今日が無理でも森下先生の研究会に行かせてもらったときの帰りとかにも顔を出してみれば良い。
まずは若獅子戦。順位を上げないと出場ができない以上、目の前の一局に集中しないといけない。
『ヒカルならやれます!』
佐為の目を見て頷いた俺は碁盤の前に座り、次の相手が来るまで目を閉じて集中を始めた。
(多分この対局はうまくいく気がする)
『ええ。自信をもって打ちましょう。ヒカルは着実に成長してますから』
(おう!)