煙る盤上   作:義藤菊輝@惰眠を貪るの回?

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変わらない運命

 時間の移り変わりは早い。

 

 棋聖戦では挑戦者決定トーナメントまでは進んだものの振るわず、名人戦では惜しくも勝ちきれず挑戦者になることはできなかった。王座戦の挑戦者決定戦で塔矢名人に負け、今年の成績としては十段のタイトル獲得と本因坊の防衛以外大きな出来事はなかった。

 

 ヒカルは無事俺の時と同じでプロ試験に合格し、年を越す。

 

 正月休みが終わってしばらく。タイトルホルダーらしい仕事もひと段落が付き、桑原門下としての集まりも収まったころ。何をするでもなく資料室にノックの音が響いた。

 棋院の人かなと思い「どうぞ」と声をかければ、扉の向こうから聞こえてきたのはまだ幼い声色のヒカルだった。

 

「失礼、します......」

 

「ヒカルか。待ってたぜ?」

 

「すみません。わざわざあの時誘ってもらったりしてたのに年越しまで来れなくて」

 

「気にすんな。俺だって本因坊戦があったりリーグ戦があったりで忙しかったからな。座っていいぜ」

 

 ヒカルを正面に促すと、おどおどとした様子で椅子に座る。

 きょろきょろと棚を眺めてる様子から察するに、ここに来るのは初めてだったのだろう。

 

「ここは今までや今を生きる棋士たちの記録が集まってる。棋譜から著書。研究資料。かなり古いものもあるから取り扱いは要注意だぜ?」

 

「は、はい!」

 

 資料室である以上ここにあるものの取り扱いには注意が必要であり、歴史的に見ても貴重な書類だってある。簡単に注意点だけ伝えた俺は、ヒカルに碁笥を一つ渡す。

 

「若獅子戦は一回戦負けだったみたいだな。棋譜しか見てないから何とも言えないけど、相手はプロだったし多少気になる点はあったけど悪くはなかったぜ? 結果的にプロ試験も合格したわけだしな」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「もうすぐ新初段シリーズか。まあいいや、せっかくだし予行演習だと思って俺と打とうぜ!」

 

 新初段シリーズのルールに則り、俺が持つのは白色の碁石。そしてヒカル側に5目半のハンデがあることも伝える。

 

「本因坊と5目半差......」

 

「座間さんや一柳さんが相手なら、花を持たせるためにご祝儀として勝ちを譲ったりしてくれるんだけど、対局相手は決まってる?」

 

「......名人です」

 

 早速だが、碁盤を挟んでよろしくお願いいたします。とお辞儀をする。

 置き碁ではないので、一手目に打つのはヒカルから。

 

「名人の棋風と俺の棋風は真反対に近いから参考にはならないと思うけど、それでもトップ棋士と打てる機会は大切にした方が良いと思う」

 

 持ち時間の話はしていないので決まりはないが、それほど時間をかけず序盤を進めていく。

 俺としては逆コミの負債を0にするところから始まるので、好戦的な碁を打たないといけない以上少し攻めっ気を出しながら一手一手を返す。

 

 盤上を見つめるヒカルの眼は、とても真剣に見えた。

 別にプレッシャーをかけているつもりはない。それでもヒカルはまだそれほど進んでいない盤面に汗を流している。秒針が時間を刻む中、ぽたりと汗を落としたヒカルが一手を打つ。

 

 同じころの俺は、こうも真剣に碁と向き合っていたのだろうか。

 塔矢アキラに勝ちたい。認められたいっていう大きな原動力はあったけど、あの頃の俺は碁で一生食べていくような覚悟はできていなかった。そこに関してはヒカルもまだ持っていない覚悟だとは思う。

 

 進藤ヒカルが格上と戦うことは院生上位を除けば少なかった。

 あるとすれば森下先生の研究会に参加した時のプロ棋士たちか、佐為のどちらかしかない。

 

「若獅子戦やプロ試験の棋譜を見たけど、秀策流は誰かに教えてもらった?」

 

「あ、いや教わったというか......、自分で学んだ? 感じです。本屋にある秀策の棋譜とかを見て」

 

「師匠とかはいないんだっけ?」

 

「はい......。おかしい、ですよね」

 

「いや? 俺も似たようなもんだし」

 

 進藤ヒカルだったころは全く同じで佐為から囲碁を教わったし、今の新堂輝としても()()()()()()というおかしな状態から囲碁を始めている。

 ネットの海にsaiという存在がいる以上俺は佐為が存在しているということを信じているし、彼に教わり囲碁を覚えたヒカルのことも信じている。

 

「それってどういう」

 

 ヒカルの言葉を遮るように一手を打つ。

 序盤も良い頃合い。攻め始めても良いと判断して攻め始める。

 

「まずは碁に集中」

 

「は、はい!」

 

 パチリ、パチリと順番に石が置かれる。

 黒と白が交互に隙間を埋め、時にはなくなり、また盤上に数を増やす。

 

 すごく前向きな碁を打つな。なんて感じてしまうのは碁を打ち始めて時間がたったからだろう。

 30手前という年齢だが、年齢以上に老獪な手を打ってしまうのは、無意識のうちに相手を侮っていたり、自分の思考についてこれるかを試そうとしてしまっているからなんだろう。

 

 俺はいつからぎらぎらとした若さを生かした碁を打てなくなった?

 楽しみつつも傍若無人な後ろを見ない子供のような碁を打てなくなった?

 

 攻め返そうとするヒカルの手にカカッた方が手を封じ込めやすいか、それとも垂れて問答無用に押さえつける方が後につなげられるか。

 思案する間も、ヒカルは視線を盤面から動かさない。

 

 倉田さんを先輩として見たことで、碁の才能というものがどれほど恐ろしいかを知った今、進藤ヒカルの集中力と吸収力というものが現実離れしていることを再度認識する。

 もともと見抜く力は高かった。じゃなければ佐為と名人のあの対局であの手を見出すことはできなかったはずだから。1年どころか、10年かかるかもしれないほど隠された逆転の一手。

 

 あれを見つけるのはもう少し先だが、片鱗はある。誰よりも、佐為よりも新堂 輝(オレ)進藤 ヒカル(オレ)のことを理解しているからこそわかる。盤面を俯瞰してみることができるからこそ、無数の星が散らばった宇宙を見つめる様に思考できることを知っているからこそ、丁寧かつ大胆に攻める。

 

 一口お茶を口に含め、ヒカルの一手にノビる。

 俺の手は想定していたのだろう。俺の手が碁石から離れた瞬間に碁笥に手を入れ、少しの間も空くことなく返しの一手を打ってきた。

 

「良い手じゃん」

 

 思わず言葉が漏れてしまったが、それでもヒカルは視線を上げない。

 

 この年齢でここまで集中できていた棋士はどれくらいいるんだろうか。

 なぜだろう。思考がまとまらない。ヒカルが集中して打っているというのに、俺はどんどんいろんな違うことを思い浮かべてしまっている。

 

 でも、こういう時はきっと調子が良い時の証拠なんだと思う。

 邪魔なはずの思考が適度に緊張をほぐし、最終的な極限の思考へと行くための道しるべになっているような気がする。

 

「さあ、どうする? 逆込み見ても大体イーブンだぜ? このままいけば俺が勝つ。どうする?」

 

 左辺上部を攻めていた手からどんどんと繋げ下部まで俺の攻め手が侵食していく。

 早めに流れを切らなければこのまま一気に決着がつく。いなすか、攻め合うか、それとも守り切るか。

 

  ッ! ここから!」

 

 ヒカルが選んだのは攻め合うこと。諦めるのではなく、また耐え凌ぐことを選択するのではなく、殴り合うことを選んだ。

 

「良いじゃん!」

 

 どんどんと互いの一手によって盤上は大きく動く。ヒカルの打った碁の中に佐為の息吹が少し見えることで俺のテンションがどんどんと上がっていく。

 この手にはどうする? お前がそこに打つならここに打つ。お前はそう打つだろう? 知ってた。だから俺は次ここに打つ。どうだ? 苦しくなってきてないか? 俺はまだまだ行けるぞ?

 

 ヒカルの表情がどんどんと苦しくなるにつれて、目測ではあるが形勢はかなり俺に向く。もうヒカルは逆コミの貯金は吐き出しているし、着実に俺の方が地を作れている。

 

 忙しなく動くヒカルの目は戦える場所を探し何とか返そうと黒石を置くが、今度は俺がノータイムで打ち返す。

 

「......。参りました」

 

 絞り出したヒカルの声に合わせ、頭を下げる。

 逆コミとはいえかなりやり合えた一局だった。ここまで打ち合えるとは、抗えるとは思っていなかったから、素直に感動する。

 

「思っていたよりも強かった。あれだけ戦ったのに綺麗な碁になった」

 

 二色だけなのに、黒が大きく負けているのに素直に満足できる碁だった。

 

「この一局、お前はどう感じた?」

 

 盤上を見つめ続けるヒカルは言葉を発しない。

 棋院は基本的に静かな故、俺の耳に聞こえてくる音というのは俺とヒカルの呼吸音と、時計の音だけ。

 悔しいのか、悲しんでいるのか。それともうれしく感じているのか。

 

「最初は俺と同じって名前だから若獅子戦やプロ試験の棋譜を見せてもらっただけだった。そうすればお前の囲碁の中には秀策が隠れていた。少し挑戦的で、でも優しく包み込むような囲碁を、お前は打っていた。まるで弟弟子ができたように感じたんだ。同じ秀策に学んできたものとして、少しだけだけど力になってあげたいなって思ったんだ」

 

「もし、秀策が幽霊になって、俺に囲碁を教えたって言ったら、本因坊はどう思いますか?」

 

「どうとも思わない」

 

 やっとヒカルが顔を碁盤から動かした。

 

「だって俺は本因坊秀策の生まれ変わりらしいから。お前が秀策に教わってようが別の幽霊に指導してもらってようが、関係ない。すでに生まれ変わりが目の前にいるんだから、幽霊の秀策に教わってるって言うならそうなんだろ」

 

「でも......」

 

「じゃあお前が言った囲碁を秀策に教えてもらったっていうのは嘘か?」

 

「嘘じゃない! 佐為は俺の横にいる!」

 

 椅子を倒す勢いで立ち上がったヒカルは机に手を突く。あまりの勢いに碁石が跳ね盤上を揺らしたが、そんなこと気にも留めず声を荒げるように言う。

 

「俺は確かに囲碁なんか知らなくて、佐為に打たせれば良いだけって思ってたけど! 塔矢と出会って自分も打てるようになりたくなって! 蔵で佐為と出会った日から今日までも何もかも全部嘘じゃない!」

 

 そこまで言って、自分が秘密にしていた佐為の存在を口に出してしまったことに気づく。

 あわあわと顔色を悪くしている姿を見るに、佐為にも何か言われているのだろう。

 

「お前と佐為が一緒だったことは()()()()

 

「え? 知ってるって?」

 

「並行世界。パラレルワールドって言い方もあるけど、簡単に言うとだな、俺は別の世界で大人になったお前だ。テストの点数が悪くて小遣いを止められたから、じーちゃんの蔵のガラクタを売るために漁りに行ったら、血のシミが付いた碁盤を見つけた」

 

 ヒカルが聞いたのは、身に覚えのある物語。

 

 碁盤には千年前に帝に囲碁を指導していた幽霊が憑りついていたこと。

 ことあるごとに囲碁を打たせろとわがままをずっと言うこと。

 困った俺は駅の近くにある碁会所に行き、そこで同い年の男の子と出会い、幽霊に代わりに打たせたこと。

 子供の囲碁大会で口出ししてしまったときに塔矢名人と初めて出会ったこと。

 緒方さんに連れられて碁会所に行かされたこと。

 中学校の先輩と大会に出たり、少年との対局で失望されたりしたこと。

 

 駅前のインターネットカフェで佐為が佐為として対局できるようsaiという存在を作り出したこと。

 

「別の世界の俺の過去だから、お前が進んできたのとどれだけ違うかは知らない。でも、俺はお前のことを知っている。なら、俺はお前の話を信じる」

 

 だって、俺も佐為から囲碁を教わったから。

 

「本因坊が秀策流を使うのって......」

 

「単純な話だって。ラーメン屋でも言ったろ? 俺は、秀策の碁は俺の芯だから。佐為に囲碁を教わったからそれを使ってるってだけ。まあなんだ? 別の世界とは言え、俺はお前の兄弟子ってところかな?」

 

 へたりと力が抜け崩れ落ちたヒカルは、床にペタリと座り込んだ。

 

「な、なんだよそれ......」

 

「なかなかに変な話だよな。てっきりこの世界に進藤ヒカルは居ないと思ってたのに、ネット碁にsaiは現れるし、それに院生に俺がいる。まあ、別世界の俺だから今は佐為のことを見れないし声も聞こえないんだけどな」

 

 ヒカルの方へと回り椅子を置きなおし座らせる。

 力は相変わらず抜けているようではあるが、それでも少し笑顔が見えた。

 

「改めて聞くぜ? ちょっと盤上崩れたけど、この一局、お前はどう思った?」

 

「オレが目指す方向だって思った。こんなに綺麗で打っていて楽しい碁をもっと打ちたいって思った」

 

「なら、どんどん打とうぜ? 佐為の力も借りてだ」

 

 佐為や俺のようなトップレベルの棋士との対局は、それだけで大きな収穫になる。自分にはない発想や研究。うち回しの癖を知るだけでもスキルはどんどんと上がっていく。

 進藤ヒカルは今が成長期だ。いろんなことを吸収することができるスポンジのような状態。

 

「ついでだから俺にも佐為と打たせてくれよ?」

 

「もちろんです! 佐為もぜひ打ちたいって!」

 

 これ以上棋院の中で佐為を話題に出すのはまずいだろう。

 俺目当てで来る人がいつ扉を開けて入ってくるかはわからない。

 

「とりあえず、これが俺のメールアドレスと電話番号。何かあればかけてきて。んで、対局なり相談なりしたかったらいつでも来てくれればいい。俺の住所はこっちに書いてるから。棋院(ここ)でできないことをするときは場所を移動しよう」

 

「おっけ! わかった!」

 

「俺が言うのもなんだけど、元気だな」

 

「そりゃもう! 別世界のオレとか正直ピンと来てないけど、でもそれって、俺が成長すれば本因坊を獲得できるってことでしょ?」

 

「まあ目の前に本因坊がいるから、そうとも言えるな」

 

「なら、ちゃんと佐為と本因坊に教えてもらって行けば、塔矢にだって認められるくらい強くなれる。だから、もう一局お願いします!」

 

「ははっ。いいよ。どんどん打とう。でも、俺タバコ吸いたいから下に行こう。そっちならタバコも吸えるし、他の棋士がいれば何か教えてくれるかもしれないぜ? それに今打ったこれの検討を先にしよう。いいな?」

 

「はい!」

 

 ヒカルと佐為の時間は残り少ない。

 もし名人と佐為が対局をしないのであれば消滅しない世界もあるかもしれないが、おそらくそんなことはない。

 新初段シリーズで佐為はヒカルにわがままを言って打とうとするだろうし、そのリベンジのような形でネット碁をするだろう。

 

 そうなればヒカルは俺と同じくあの一手を見つけるだろうし、その一手の意味を知った佐為はヒカルとすれ違う。そうなれば5月のあの日にサヨナラも言えず別れることになる。それだけは阻止しないといけない。

 

「ヒカル。先に一つだけ伝えとかないといけない」

 

「え? 何?」

 

「俺がお前だった時、佐為はサヨナラも言えずに消滅した。いつもみたいに佐為のわがままを聞いて、囲碁を打って、窓から入ってきた風が気持ち良くて微睡んでたら、佐為は目の前から消えてた」

 

「それって、成仏したってこと?」

 

「さあな。何にも話せないまま、一生完成しない打掛の碁だけが残った」

 

 ヒカルが佐為とどういったお別れをするのかはわからない。それでも、名人との新初段シリーズが始まる前に伝えたかった。

 

「ヒカル。佐為との毎日を大切にしろ。大切な師匠との一局を。二人といない友達との一局を大切にするんだ。失って気づくなんてことはやめてくれ。俺と同じ思いだけはしないでくれ」

 

「佐為とは、ずっと会えなかった?」

 

「会いたくても会えなかった。虎次郎の墓にも行った。じーちゃんの蔵にも行ったし、京都のいろんなところにも行ったけど、佐為は居なかった。だから、悔いのない別れ方をしてくれ」

 

 佐為のことを見つめているのか、ヒカルが左側を見上げる。

 おそらくあのきれいな長髪を垂らした佐為が、ヒカルと何かを話しているのだろう。

 二人の会話を聞くことはできないが、それでもこの空間に佐為が確かに存在するというだけでうれしくなる。

 

「二人の中の話は、二人でしてくれれば良いよ。とりあえず降りようか」

 

「うん」

 

 

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「おお。お前さんも来たか」

 

「あれ? じーちゃんもヒカルの新初段見に来たの?」

 

「小僧とは一度すれ違っての。何かビビッと来たんじゃ」

 

「良い病院をお教えしましょうか?」

 

 桑原に辛辣な一言を返した緒方に思わず笑いそうになる。

 このとき、こんな感じだったのか。なんて、舞台の裏側を見るような気持ちになるが、それも仕方ない。

 

 俺に桑原九段。そして緒方さんに森下先生。ほかにも和谷たちもいる。

 誰も座っていなかったテレビ近くのパイプ椅子。塔矢アキラの向いに座り、検討の準備を始める。

 

「お前さん最近よくあの子と打って居ったじゃろ?」

 

「同姓同名で面白そうだったからね」

 

「お前から見てどうじゃ? まるで同じ師匠を持った兄弟弟子に見えたぞ」

 

「確かにヒカルも秀策をよく勉強している。いい勝負はすると思うよ」

 

「勝てるか?」

 

「うーん。良い対局にはなると思うけど、勝てないと思うよ」

 

 だって、打つのが佐為になるせいで15目差のハンデを無理やり抱える碁になる。

 理解して見ればオブラートに包んで良い対局と言えるが、何も知らずに見ればめちゃくちゃな碁だ。

 

「ならわしは小僧が勝つ方に賭けようかのう?」

 

 緒方を煽るように遊ぶじーちゃんに、まーたやってるよ。なんて思うが、一切無視。

 

「新堂本因坊から見て、進藤ヒカルはどうでしたか?」

 

「そうだね。まだ弱いし、芯もないけど、伸びしろは誰よりも大きいと思うよ。倉田さんと同じくらいのスピードで成長してる。師匠もいないまま、秀策の碁を勉強して2年とかでプロ入り。普通じゃできない。よっぽど囲碁の神様が気に入ったんだと......、来たね」

 

 ヒカルが対局室に入ったものの全く動かず、まだ対局もしていないのに汗を垂らす。

 構図だけ見れば、名人の放つオーラに気圧されたように見えるだろう。スタッフの一人もヒカルを座らせるために声をかける。

 

 塔矢名人と碁盤を挟んで向かい合うのは二度目。

 一度目は塔矢名人の碁会所に緒方によって連れられ、アキラが負けたという話を聞いた彼が実力を試そうとしたあの時以来。

 

「おいおい、進藤なにしてんだよ」

 

「打たないな......」

 

 対局が始まっても微動だにしないヒカルを見て検討室が少し騒がしくなる。

 まだヒカルと佐為の言い争いが続いているのだろう。相手のペースを崩すためとかでもなんでもなく、対局者が決まらないから動けないという状況を理解できるものは俺以外にいない。

 

「一手目にこんなに時間かけるか?」

 

「面食らったか?」

 

「違うよ。心の中にある熱が治まらないんだよ。冷静になれてないことに気づいてるから、落ち着くために動いてないだけだよ。ほら」

 

 覚悟を決めたように黒石を取ったヒカルが一手目を指した。

 動かなかった時間分思考したとは思えないほど普通な手から始まり、だんだんと攻め手が強くなる。

 盤上を荒らし、無理に差をつけようとする。

 

「進藤、なんでこんな奇妙な手を......。この手も、攻め急いでいるというか、まったくもってまとまりがない」

 

「ふむ。これは小僧が勝手にやってるのか?」

 

「俺はなんも指示してないよ。俺は対局相手になったし、いろいろ彼の研究を手伝ったりはしたけど、今日ヒカルが名人に勝てるように策を与えたわけじゃないからね」

 

「なるほどのぉ。なら、この賭けは負けたが、それでも面白いやつじゃ」

 

「どういう意味だ?」

 

「それが分からんから坊主と差が開くんじゃよ。緒方くん。そのままじゃ猫はずっと猫のままじゃぞ?」

 

  ッ!」

 

 盛大に煽る桑原。緒方さんのことをおもちゃの様に遊んでいるが、こっちに被害が出ると嫌なので静かにしておこう。

 

「本因坊はなぜ進藤がこんな碁を打つかわかるのですか?」

 

「負けて良い対局だからじゃない? 非公式戦で、なおかつ負けても良い対局。そんな中で試したい戦法を時の名人にできるなら俺も試すよ」

 

「試す? 父さんを相手に?」

 

「決して舐めてるわけじゃないと思う。でも、好奇心的なのが暴走したんだと思うよ」

 

 ヒカルじゃなくて、佐為の。

 

 取り出した煙草に火をつける。向かいに塔矢がいるから煙を横に吐き、息をつく。

 アキラにとって、ライバルだと思っているヒカルの碁は重要だが、俺にとっては佐為が消滅するきっかけの一つの碁。記憶にある通り展開が流れ、自ら破滅するような手を打ち続けるヒカルを見れば、思うことはあれど学べるものはほとんどない。

 

「どこに行く気だ新堂」

 

「休憩所。ここじゃ人も多いから落ち着いて煙草も吸えないし、緒方さんも苛ついてるから。じーちゃんも、緒方さんで遊ぶのもほどほどにね」

 

「この程度でへこたれるようなら、今年の本因坊挑戦者はわしじゃのう」

 

「じーちゃんは当分先がいいな。あんなにしんどいの嫌だし。今年は大穴で倉田さん」

 

「かっかっか!」

 

「おい新堂。俺より倉田の方が強いと言いたいのか?」

 

「総合力なら緒方さんだけど、面白いことに一直線になる倉田さんの方が緒方さんより戦ってみたい」

 

 こめかみに青筋を立てた緒方さんが俺に何かを言う前にさっさと退散する。

 この対局前にヒカルと接触をすれば運命が変わるかもしれないと思ったが、記憶通りに進む盤面を見て佐為が消えるということは変わらないのだと直感した。

 

 これ以上名人との対局を見ていたら辛くなる。

 そんな気がした俺は、しばらくして緒方さんが休憩室に来るまでの間、何も考えず、ただタバコに火を点け、呼吸だけをしていた。

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