「ヒカル」
「佐為?」
佐為と名人の対局が終わってしばらく、対局直後に見つけた名人の逆転手を話して以降、佐為は誰よりもヒカルとの対局を優先した。
再び現れた佐為が見せた一局は、相手が時の名人であり、国内最強とまで言われる存在だったからこそその力の証明となっていた。
事情があり表舞台に立てない謎の最強棋士。
その評価は揺るぎないものとして刻まれた。
塔矢名人の引退と引き換えに。
名人・王座・天元・碁聖の国内四冠棋士であった名人は、佐為との対局に負けたのち棋院に引退を宣言した。理由は年齢の衰えとタイトルのしがらみから抜け自由に碁を打つためだが、それが佐為と対局をセッティングしたときの条件であったことを知っているのはヒカルと佐為。そして俺だけ。
緒方やアキラから疑いの目をかけられあたふたしていたヒカルではあるが、やっと落ち着いた頃合いに。
「ヒカル。本因坊が話していたことは覚えていますか?」
「いつか消えるっていう......。もしかして!」
「ええ。塔矢名人との対局以降ヒカルと打つようにお願いをしていましたが、なんとなくです。なんとなくですが、今日が彼の言っていたサヨナラの日のような気がするのです」
「そう......、か」
まだ時間は昼前。春らしい暖かな光がカーテンの隙間からベッドの上に降り注ぎ、静かで優しい空気が進藤家を、この部屋を、二人を包んでいる。
「佐為。打とう」
「もちろんです。手加減などしませんよ?」
パチリと黒石を置けば、佐為が優しい声色で返しの手を示す。
交互に並べられる黒と白。ここは狭いと言わんばかりに広がるヒカルと佐為だけの宇宙は、お互いに優しい手を重ねていく。
「俺さ、佐為が憑りついてたの凄く嫌だったんだ。急に出てきて囲碁打てって」
爺臭い趣味としか思っていなかったつまらない遊びを無理やりやらされて、いやいやながら代わりに打って。それがどれだけ貴重なことだったか、今になっては理解しているけど、当時のクソガキだった俺にはわからなくて。
「あの時は訳も分からず打ってましたね。ヒカルは囲碁を知らず、棋界のことも知らず。おじいさまにもあかりちゃんにも私のことを秘密にして」
「そんな中初めて碁会所に行き、塔矢と出会った」
塔矢がどんな奴かも知らず佐為に打たせて、そこから俺のことを塔矢が追いかけるようになったんだ。俺じゃなくて、俺を通して見える佐為のことを。
「でもヒカルは囲碁を覚えた」
佐為が叩きつけた強烈な一手に手を止める。
そう。俺は塔矢に認められたくて囲碁を覚え、下手くそのまま大会に出た。失望された。突き放された。それでも塔矢のことを追いかけたのは一種の意地のようなものだったと思う。
「いい手ですよヒカル。本当に上手になりました」
「もう俺もプロだぜ? そりゃあ本因坊みたいに強い打ち方ができるわけじゃないけど、明らかな失着をするほど下手じゃなくなったさ」
「ふふ。そうですねヒカル」
佐為が示す手はやはり厳しいところを突いてくる。それでも何度も佐為と対局して教わって、その中で培われてきたものを見せつけるように石を置く。
「もう三年だぜ? そりゃあ千年成仏してない佐為からすればあっという間だろうけど、俺からしたらずっと一緒にいる。やっと本因坊が言ったことが分かったよ。大切な師匠であり、二人といない親友」
こぶしを膝の上で握りしめる。
クーラーの少しだけ冷たい風が、熱くなった心を冷まそうとする。それでも、ポタリと涙が手の甲に落ちる。
「おれ、まだ佐為と居たいよ!」
本因坊みたいに佐為とお別れをしたくない。成仏してほしくない。ずっと一緒にいて、対局の時は後ろで見守ってもらって、そして普段はくだらない話を横でする。
「まだ教えてもらってないことがいっぱいある! まだ初段になったばっかりなんだ! 本因坊を! お前のタイトルを取るところを見てもらわないとダメなんだって!」
心の叫びはどんどん大きくなり、抑えようと思っても涙が出続ける。
まぎれもない本心を浴びた佐為も、流れないはずの涙が頬に伝った気がした。
「私だって、まだあなたと居たい。ともに神の一手を極めるのです。私が教えあなたが育つ中で、あなたに引いてもらい私がついていく中で、もっと多くのことを学びたい! それでも、分かるのです」
お別れがいつ来るかもわからない。それでもそれがすぐ近くにいるということは分かっている。感覚で理解している。たとえそれを否定しようとも、迎えがやってきていることを知っている。
「さあ、次はヒカルの番です」
「で、でもさ......」
「打つのですヒカル。あなたは碁打ちです! 碁を打ち、盤上であなたの存在を知らしめるのです。自身の強さと誇りを見せるのがあなたの仕事です」
ごしごしと乱暴に涙を拭いて一手を置く。
佐為が扇子で次の手を示すのでそこに白石を置き、黒を再び一つ増やす。
「ヒカル! 起きてる!」
「起きてるよ! あ、母さんお茶~」
下の階から聞こえてきた声に返事をすれば、しばらく経ってお盆にお茶とコップを並べた母が部屋へ入ってくる。
「何、泣いてたの?」
「うん。今日が最後なんだ」
「最後って何が最後なのよ」
「ずっと一緒にいたんだけど、今日が最後なんだ。居なくなるから」
「そう。お母さんよくわからないけど、お別れは言えた?」
「ううん。まだ」
「なら早く言ってきなさい。悔いのない別れ方をしないと、ずっと後悔することになるわよ?」
母の言葉に少し笑う。
「急にどうしちゃったの。本当に変よ?」
どうしたもこうしたもない。母が言ってくれた言葉が、未来の自分の言葉と全く一緒だったら笑いたくもなる。
「ありがと」
「? まあいいけど。お昼はどうするの?」
「簡単に食べるからおにぎりとかで良いよ。多分集中してるから適当に持ってきてくれると嬉しい」
呆れたようにため息をついて返事をした母はそのまま部屋を出た。
「ヒカル?」
「ちゃんとサヨナラはしないとな。それに、俺と一緒じゃなくても誰か別の人のところに佐為は行くかもしれない。それに、もしちゃんと成仏出来たら囲碁の神様と打ってるかもしれない。そうなれば門出だ。めでたいことなんだ。なら、くよくよしてられないよな」
勢いよくぱちりと黒石を置いて大ヨセに入る。
この短い時間で少しでも佐為から技術を盗んでいかないといけない。佐為がいなくなったあと、佐為が俺を誇れるように。どこか遠くからでも俺の碁が光って見えるように。
佐為との攻防を続ける。
必死になって食らいつく俺に対して、佐為は突き放すように防ぎ続ける。
かといって防戦一方というわけではなくそのうち回しで的確に俺に急所をえぐり続ける。
「っだ~。足りねぇ! まだ! もう一局やろうぜ!」
「もちろんです。いくらでも打ちますよ!」
一局でも多く打つ。それが今の俺にできる佐為への恩返しだと思う。
だから負けた碁の検討や勉強は一旦置いておいて、次の一局の準備をする。
「そうだ! 天気も良いし窓開けようぜ! 風もあるし絶対気持ちよく打てるって!」
ベッドの上に乗り窓のカギを開けて開く。
入ってくる風は心地よく、思っていた通りとても安らかで優しい。ふわふわとカーテンが揺れる。
「さ、もう一局」
床にもう一度座ったヒカルは、もう一度黒の碁石をとり打ち込む。
胡坐をかいてリラックスした表情をするヒカルの向いで、佐為もこれまでの数年間を思い出す。
扇子で指し示さなくても打てるようになったヒカル。無邪気に笑い、時に落ち込み、それでも前に進むヒカルを見て、佐為も自分が成長しているのを自覚した。
そして何より、これほどまでに伸びる後進の育成に快感を覚えていた。
知識という栄養を与えれば与えるだけ成長する若葉のことを疎ましく思うものは居ない。ひたすらに愛おしく、伸びる枝葉が何処まで届くのか見てみたい。佐為は素直にそう思う。
だからこそ、伝える他ない。
「ヒカル」
「どうした?」
「ねぇヒカル? 私の声、届いてる?」
「聞こえてるぜ! お前の番だろ!」
「楽しかったです。本当に、本当に楽しかったですよ」
「ああ俺もだ! 佐為と一緒にいるの楽しいんだ!」
「もう私に残された時間はありません。この一局を完成させましょう。私の次の手はこちらです」
「ああ! ここだな。なら俺はこっちに伸びる! 次は! 次はどこに打つ佐為」
「焦らなくて良いですよ。こんな綺麗な碁です。きっと本因坊に見せたら泣いちゃいますね」
「ああ! 絶対泣くぜ本因坊! そこだな。なら次は......。ここだな」
ヒカルは佐為のことを確認しながらずっと声をかけ、佐為はそんなヒカルに笑みを浮かべる。
形勢はすでに黒が、ヒカルが悪いものの投了せず打ち続ける。
普段ならしないことであるが、今日ばかりは違う。ヒカルの行為を怒るものは居ない。
もうすぐ終局という場になっても、一秒でも長く佐為と打つ。
この局が終われば佐為が消えてしまうというのを感じるからこそ、終局まで完全な状態で終わらせる。
「俺、まだまだ下手だけど、頑張るよ」
「ええ」
「お前と一緒に居れてよかった。俺もお前と居るの楽しかった」
「私もです」
「俺が本因坊を取ったらちゃんと来いよ!」
「ええ。ずっとヒカルのことを見守っていますよ」
「俺、本因坊に比べたらへなちょこな弟子だけど、絶対すごくなるから。本因坊になって、雅号は絶対佐為にする」
「楽しみに待ってますね」
風が部屋に入る。佐為のことを攫うような風が部屋の中に入り、そして俺たちの周りに集まる。
「ヒカル」
「うん」
「さようならです。ヒカル」
「さ、佐為......。うん」
「ちゃんと言ってください! このまま挨拶もせず私が消えたら、後悔しますよ?」
「っ! そうだな......」
「これは門出だとあなたが言ったんですよ?」
「ああ! さよなら。佐為。お前の弟子で、本当に良かった」
「さようならヒカル。あなたが私の弟子で、本当に良かったです」
再び風が吹き、カーテンが揺れる。
窓の向こうには遠くまで広がる空があり、白い雲が気ままに流れている。
盤上に並べられた石たちはこれでもかという程輝いていて、俺と佐為がまだ騒がしく話してるようにも見える。でも、佐為の姿は見えない。
ちくたくと時計の音がする。通りを走る車や子供たちの遊び声が聞こえる。音があふれる。1階で母がテレビを見ている音だって聞こえている。それでも、佐為の声だけは聞こえない。
「本当に居なくなったんだ」
ぽたりと床にシミを作る。
ぽたりぽたりと広がっていく。
「あ、あぁ」
門出だから、悲しいことじゃないから。ちゃんとお別れをしたから泣いちゃいけない。そう思えば思う程涙が溢れ出す。
今日の出来事を本因坊に、未来の俺に伝えないと。
こんなにも俺たちを出した碁を俺が知らないのはだめだ。佐為が消えたことを、ちゃんとサヨナラを言えたことを。最後の最後まで佐為は碁打ちだったことを。心の底から楽しかったと言ってくれたことを伝えよう。
「母さん」
「どうしたのヒカル。そんなに泣いて…………。さようならはちゃんと伝えられたの?」
「うん」
「そう」
「囲碁の先輩に挨拶してくる。報告を待ってるから」
「わかったわ。晩御飯はどうするの?」
「多分泊まると思うけど、一応連絡する」
靴を履き、財布と携帯と鍵だけ握りしめ家を出た。
慣れた足取りで駅へと向かい、切符を買って改札を抜け、数分待って電車に乗る。目的地は棋院の近くのアパート。20分程ゆらゆらと揺られながら窓の外を見ておけば本因坊の家の最寄り駅に到着する。
「待ってたぜ?」
本因坊から預かっていたアパートの鍵を使い部屋に入れば、途中まで打たれた碁盤があった。
「これの続き、教えてくれるか?」
「もちろん」
盤面を見れば序盤も序盤。先ほどまで佐為と打っていた始まりの方。ちょうど佐為が俺に、楽しかったと言ってくれた時ぐらい。
「本因坊は、佐為の最後の言葉を聞けましたか?」
「......。聞けてない」
「佐為はこの手の時、俺に聞こえてるか聞いてきて、それで」
「それで?」
「楽しかったって。言ってくれました」
佐為が返した一手を打ち、そのままの流れを示していく。
本因坊はそれを静かに、どこか懐かしむような眼で見つめていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
佐為がヒカルの元から消えてしばらく。
新堂輝本因坊は倉田との防衛戦が始まった。
新進気鋭とも言うべき存在の倉田ではあるが、下馬評ではすでにこのタイトルを獲得して連続4期の防衛を誇る現本因坊を評価していた。
「やっとお前と対局できる」
鼻息荒くやる気十分な倉田さんに対して、ひどく冷静な本因坊。
記者としては良い構図だろう。圧倒的強者は強者らしく冷静に。挑戦者は挑戦者らしく果敢。
「やる気十分なところ悪いけど、俺、負けないから」
「もう勝った気でいるわけ?」
「違う違うよ」
佐為が消えた日の話はヒカルから聞いた。俺とは違ってしっかりとお別れのあいさつもでき、あの一局を完成してくれたことを教えてくれた。
「兄弟子として、見本を見せないといけないからさ」
「兄弟子? 門下に新しい人増えたの?」
「違うよ。こっちの話だから気にしないで。でもさ倉田さん」
俺は帯に挿していた白い舞扇子を手に持つ。
広げる必要はない。これはあるだけで力を貸してくれるから。
「せいぜい楽しませてね?」
この名前の戦いで俺が負けることは一門が負けるということ。その覚悟がこの扇子。負けることは許されない。だからこそ自分にプレッシャーをかけ、そして相手にぶつける。
「いいぜ。最強の本因坊。面白いことをしよう」
棋院のスタッフによってアナウンスされ、対局を始める。
二日に分けて行うこのタイトル戦はゆっくり対局が始まる。
「おねがいします」
「よろしくお願いします」
握った結果先手は俺。そのまま右上隅の小目に一手目を打ち対局が始まる。
止まる必要はない。歩み続ければ、進んだ道が佐為の存在証明になる。
ゆっくりとした碁を展開したものの、圧倒的な力差を見せた俺は一日目を優位に進め、二日目に入ってすぐに中押し勝ち。勢いそのままに4勝0敗の無敗でタイトル防衛を決める。
塔矢行洋が引退したことによって空位になっていた名人戦のタイトルを獲得して名人本因坊として二冠になると、年明けから始まった一柳棋聖とのタイトル戦に挑戦し、4勝2敗で三大タイトルを制覇する。
これで棋聖、名人、本因坊(5期)。
「これで三大タイトルを制覇となりましたが、今のお気持ちをお教えいただけますか?」
「俺に初めて囲碁を見せてくれた人はもうこの世にいないんですけど、桑原先生と出会って囲碁を本格的に初めて、同期のライバルも出来て、そんな中タイトルをいくつも獲得できるくらい強くなって。きっと今日の対局も楽しんでくれたと思います」
「初めて囲碁を見せてくれた人も喜んでくれていると思います。今後の展望はいかがでしょうか」
「緒方さんに畑中さん、塔矢アキラ。他にも関東関西問わず多くの有望な棋士たちが増えてる今、俺に与えられた仕事はきっと彼らの壁になることだと思います。まだまだ若いつもりだし、緒方さんの方が年上ですが、誰彼問わず上座に座れるよう精進していきます」
「ありがとうございます」
棋聖のタイトルを獲得した後、俺はタバコをふかしながら対局を思い浮かべる。鼻から飛び出した煙はふよふよと周りを漂い、目の前に置いてある碁盤の上に集まる。
煙る盤上。
煙越しに並べられた黒と白を見て、良い対局が出来たと心から思う。きっとこうやって足跡を残し、いつか誰かが超えていくのだろう。
それが進藤ヒカルなのか、塔矢アキラなのか、はたまた別の人間なのかはわからない。それでも良い。
「さて、言ってる間に本因坊戦始まるし、今年は緒方さんが上がってくるはずだから」
十段戦では負けた相手。今度は有無を言わさず倒そう。ただ暴力的に打つのではなく、囲碁を楽しみ、向かい合う相手に感謝し、真剣に、美しく、誇らしい囲碁を見せる。
「っし!」
新しいタバコに火を付けた俺は、検討もそこそこに直近の緒方さんの棋譜を取り出した。
これで終わり。蛇足があるかもしれんが。
この物語は、別人逆行したヒカルこと輝が、タバコぷかぷか吸いながら佐為とヒカルが正しくお別れさせる。がテーマなので。
佐為変えていこうの話どうしようかな