翌朝。局の宿舎の食堂は、まだ朝日が昇りきらない時間帯だというのに騒がしかった。
金属製の椅子が擦れる音、皿にスプーンが当たる甲高い音、あちこちで交わされる新人たちの会話。
「なあなあ、昨日の任務、マジで意味なかったよな」
「だよなー。廃屋の中、埃しかなかったじゃん。俺の新しいブーツ真っ白だぜ」
「ハハッ、それ“戦果”ってことでいいんじゃね?」
笑い声が飛び交う。
僕は隅の席に腰を下ろし、黙々と冷めたパンをかじっていた。
視線がちら、とこちらをかすめる。
……それだけで胸が強張る。喉が閉じ、口の中のパンが紙屑みたいに味気なくなる。
(またや。別に声かけられたわけでもないのに……勝手に体が固まる。
これじゃあ、ただの無愛想にしか見えんのに)
心の中では言葉があふれている。
彼らの笑い声にツッコミだって山ほどある。
(埃で真っ白? 掃除のアルバイトやないんやぞ。
それに“意味ない”とかよう言うな。昨日見つけた痕跡、忘れてへんやろ?
僕の部屋より汚かったけど、血の跡は確かに残っとったんやから)
でも、声に出せない。
誰かと目が合った瞬間、舌が鉛みたいに重くなる。
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そこへ、班長が食堂の扉を乱暴に開けて入ってきた。
「おい、全員起きてるな。ちょうどいい」
班内がしんと静まる。
班長は手にした命令書を机に叩きつけた。
「昨日の廃屋群、もう一度調査だ」
「えっ、またっすか?」
「マジかよ、二度手間じゃん」
「どうせ何もねえだろ」
露骨な不満があちこちから漏れる。
班長は眉間に皺を寄せ、舌打ちを一つ。
「上の判断だ。文句言っても仕方ねえ。さっさと準備しろ」
その言葉と同時に、また僕に視線が集まる。
無言で座っているだけで、刺すような目線が突き刺さる。
(なんで僕に……いや、わかってる。昨日、何も言えんかったからや)
胸が焼けるように熱い。
言いたいことはある。昨日の痕跡について、ちゃんと話したい。
でも、喉が閉じて声にならない。
(違うんや……ほんまは僕、ちゃんと見てたんや。気づいてたんや……!)
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出発準備に取りかかる班員たち。
革鎧を調整し、剣の鞘を鳴らしながら軽口を飛ばす。
「今日も無駄足か〜。ま、早く終わらせて昼寝だな」
「ほんとそれ。こんな雑用ばっかじゃ、俺らいつまで経っても昇格できねえよ」
僕は荷物の中から一冊のノートをそっと取り出した。
昨夜、屋根の上で書き込んだ“観察記録”。
粉塵の散り方、壁の爪痕、床にこびりついた小さな血痕。
誰も気づかなかった異常の証拠が、そこに詰まっている。
ページを開きかけたところで——声が飛んできた。
「おい、加賀谷」
班長だ。
僕はびくりと肩を揺らす。
彼の眼光が突き刺さる。
「昨日の任務、お前、何か見てたんじゃねえのか」
喉が固まる。返事が出ない。
胸の奥では、必死に言葉が渦を巻いているのに。
(……言いたい。ノート見せたい。昨日、確かに痕跡があったんやって!)
けれど結局、僕は小さく頷くだけだった。
それが精一杯。
班長の眉がひくつく。
「チッ……ったく、ロクに喋れもしない役立たずめ」
鋭い舌打ちとともに背を向ける。
周囲から、また小さな笑いが漏れた。
(違う……ちゃうねん……! 僕は空気やあらへん!
ほんまは、全部見えてるんや!)
拳を握りしめながら、僕は静かにノートを胸に押し当てた。
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廃屋群は昨日と同じように沈黙していた。
昼間だというのに薄暗い。砕けた屋根から差す光は白く濁り、漂う粉塵が煙のように揺れている。
僕らは瓦礫を踏みしめて進んだ。昨日の足跡がまだ砂に残っている。
「ったく、二日連続とか嫌になるわ」
「どうせ何もないのに」
班員たちは口を揃えて愚痴をこぼす。
僕は胸の奥にずっと隠していたノートを取り出した。
昨夜、必死に書き込んだ観察記録。
爪痕の角度、粉塵の舞い方、血痕の大きさ。
あの時は声にできなかったけれど、確かにここには異常があると証明できる。
(今しかない……昨日の分も取り戻さなあかん。僕が、見逃してへんって示さな)
勇気を振り絞り、班長に差し出した。
「……っ」
言葉はやっぱり出ない。でも震える手でノートを押し出す。
班長は怪訝そうに受け取り、ぱらぱらとめくった。
最初は何の顔もしなかったが、次第に眉間に皺を寄せる。
「……おい」
低い声。空気が凍りついた。
班員たちが「何?」と顔を向ける。
班長はノートを突き返すように僕の胸に押し付けた。
「なに後出しで書いてんだよ」
その一言で、僕の心臓が鷲掴みにされる。
「てめえ、昨日これ気づいてたんだろ」
「……」声は出ない。
「なんでその場で言わねえんだよ! お前がちゃんと報告してりゃ、昨日の犠牲も出なかったかもしれねえんだぞ!」
怒鳴声が廃墟に響き渡った。
班員たちが一瞬押し黙る。
誰もが思い出す——昨日、倒壊した壁に巻き込まれた別班の新人。助かったが、骨折で長期離脱と聞かされた。
「お前のせいだよなあ?」班長は吐き捨てるように言った。
「……っ!」僕の胸が潰れそうになる。
(ちがう……僕は、気づいとった。ちゃんと。誰よりも見ててん。
でも……視線が刺さって、声が出えへんかってん……!)
心の中で必死に叫ぶ。
だが唇は震えるだけで、ひとつも言葉を外に押し出せなかった。
「はぁ……役立たずが。命かかってんだぞ、遊びじゃねえんだ」
班長は額に手を当て、深くため息をつく。
周囲の班員がくすくすと笑った。
「昨日の怪我、こいつのせいだったのか」
「やっぱ無口って迷惑だな」
「マジで空気以下だわ」
笑い声が皮膚を焼く。
僕はうつむき、唇を噛んだ。血の味がした。
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やがて班長は冷たく言い放った。
「おい加賀谷。お前は今日、一人で行動しろ」
「えっ……」班員たちが驚く声をあげる。
「どうせ俺たちと組んでも役立たねえんだろ。だったら一人でやれ。お前の“観察眼”とやらを存分に発揮してこいよ。留守番してても良いけどな」
それは事実上の突き放しだった。
僕は言い返すことができなかった。喉がひゅっと閉まり、心臓が重く沈む。
(なんやねん……結局、僕は……邪魔者か)
でも同時に、胸の奥でかすかに灯るものもあった。
(……せやけど、一人やったら僕は自由に喋れる。
誰も僕を見てへん。なら、ほんまの僕を出せる。
見とけよ。僕はただの役立たずやない。証明したる)
拳を握る。
その表情は、誰からも見られないように瓦礫の影に隠れていた。
班から外れた瞬間、世界が変わった。
背中にまとわりついていた視線が消え、空気が澄んでいく。
胸に張り付いていた鉛の板が剥がれ落ちるみたいに、喉が軽くなる。
「……ふぅ。やっと僕のターンやな」
声は、誰にも聞こえないほどの囁き。
でもその囁きは、影の中ではよく響く。
瓦礫の間を抜ける足取りは羽のように軽い。
靴底が粉塵を踏んでも、跡だけを残して音は立たない。
影から影へ、自然に溶け込むように移動する。
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「ほれ見てみ……壁のヒビ、昨日より広がっとる。湿気と振動やな。誰も気づいとらん」
「床んとこの粉塵も新しい。……踏んだやつがおる。昨日か、それより後や」
小さな声で、観察を言葉に変える。
それは報告用の記録。けれど僕にとっては、呼吸みたいなもんや。
言葉にすれば、恐怖は形を持つ。形を持った恐怖は、ただの情報に変わる。
「昨日の連中、絶対スルーしたやろなぁ。ほんまザルやで。」
肩をすくめ、微かに笑う。
笑い声は胸の奥にだけ響き、外には漏れない。
それでも十分や。僕の声は、僕に聞こえてればそれでええ。
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しゃがみ込み、床をそっとなぞる。
粉塵に刻まれた小さな線。
三本の爪跡と、擦った血の色。
「……子供サイズやな。けど、子供そのものやとは限らん」
背筋がぞわりとした。
血の跡は乾きかけ。昨日、いや、もっと新しい。
「やっぱり……ここにおるんや」
唇が自然に引き締まる。
軽口を挟みながらも、声の奥には熱が宿る。
ノートを取り出し、素早く記録する。
爪の角度、歩幅、血の乾き。
ペンの音だけが廃墟に小さく響く。
さらに奥へと足を進める。
床板の軋みを避け、崩れかけの柱の影を縫う。
空気の揺らぎ、風の音……一つひとつを拾いながら。
「子供型……いや、見かけだけや。餓者髑髏(がしゃどくろ)系の亜種やとしたら、不規則な動きする。……油断は死に直結やな」
声を出すことで、心拍数を整える。
舌は勝手に動く。
それが僕の“平常心の形”や。
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……風が切れた。
ひゅう、と、短い音。
廃屋の隅、影が揺れる。
床の割れ目から、小さな影がするりと這い出した。
「……出てきたか」
喉の奥で笑む。
呼吸を殺し、足を止める。
壁の影に半身を沈め、気配を完全に消す。
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赤い光点が、暗闇に浮かんだ。
骨ばった腕、軋む音。
小型のスリラー。
「はじめましてやな……小っこい悪夢さん」
囁きと同時に、ノートを閉じた。
次に必要なんは記録やない。行動や。
影の中で指先が静かに武器に触れる。
鼓動は早い。けれど震えはない。
(僕は……もう逃げへん)
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影が跳ねる。
赤い光点が、まっすぐこちらを射抜いた。
——気づかれた。
廃墟の空気が、張り詰める。
僕と小型スリラーの視線が、闇の中で交わった。
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