北棟・奥室。
滞留域の入口に立てた白煙が、静かに天井の抜け目へと吸い込まれていく。
湿った空気は昨日より濃く、床の粉塵は、人が通った直後のようにうっすら流れ模様を作っていた。
「確認。ここが巣だ」
矢場班長——いや、もう「矢場」と呼んだ方が早い——が顎をしゃくる。
奥室は、崩れかけた壁面と、骨と木片と布切れが層になって固まった“巣材”が円形を形づくっている。
巣材の穴から、小さな骨の指のようなものが、節ごとにのたうっては引っ込んだ。
「このサイズなら俺たちだけで余裕だな。——突入する。お前らやるぞ」
「了解!」
「うおっしゃ!」
「行くぞ!」
(待てや。四班連動、側面封鎖と工兵の投入を合わせて——って段取りやったやろ)
喉まで出かかったが、当然声にはならない。
矢場は白煙管に靴先で触れただけで奥へ踏み込み、赤煙(封鎖)も上げずに巣材を蹴り崩しはじめた。
「巣の芯を砕け! 小型なんざ掃除で十分だ!」
巣が鳴った。
骨の擦れる、嫌な音。
巣材の隙間から、小型のスリラーがぞろぞろと湧いた。骨片の腕、空洞の眼窩、赤い微光。
数は——五、六、いや、もっと。
「数は多いが雑魚だけだ! 前衛、押し潰せ!」
斧が唸り、棍と剣が骨の群れを薙ぐ。
序盤、優勢。
骨は砕け、巣材はばらけ、班員たちは勝利の空気を吸い込みはじめる。
「なんだよ、ほんとに雑魚じゃん!」
「隊長の読み、当たりっすね!」
「封鎖は後続にやらせりゃ——」
巣の奥で、何かが割れた。
乾いた膜が破れるような音。
次の瞬間、床下の割れ目から、細い骨脚の束が蜘蛛みたいに這い出してきた。
「うわ、数増えてる!」
「右! 右だ、押されるぞ!」
矢場が舌打ちし、前に躍り出る。「退くな! 小型だ、潰せば終わる!」
(“小型”やから、数で押してくんねん。巣が“生む”段階や)
喉の奥で短く息を切り、僕は影に溶けた。
人の目の正面から、そっと輪郭を落とす。
スリラーの赤い光点がこちらを撫でても、すべり落ちる。
——僕は、居るのに、居ない。
「前っ! 正面が薄い、押せ押せ——ぐっ!」
班員のひとりが膝をついた。骨脚が脛に喰いついている。
別のひとりが腕を切られ、血が飛ぶ。「いってぇ! ちょ、待——」
瞬く間に優勢がしぼみ、巣の口からあふれる数にラインが押し返される。
(矢場、赤煙を——封鎖合図を先に)
矢場は聞かない。聞こえない。僕の声は“届かん”。
彼は前に出る。大斧で骨を粉砕し、豪腕で通路を確保する。
確かに、強い。
けど、巣は“数”で応える。
「くっそ、距離詰めろ! 押し負けるな!」
「足が、足が絡まって——!」
「左、左! うわ、まだ出てくる!」
僕は巣材の縁に膝を落とし、微かな囁きで数える。
「いーち……」
短剣がひとつ、骨の付け根を“音のない角度”で切り裂く。
赤い光点がふっと萎み、体が崩れる。
「にー……」
巣の影に潜る個体の首根を、背後から針で刺す。
視認の直前に、認識を滑らせる。
——目の前で“消えた”と相手は思う。
背で矢場の怒号が跳ねる。
「何してやがる、加勢しろ! ……あ?」
(“見えてない”んや、僕が。前にいても)
骨の腕が班員の肩に引っかかる。
僕は斜め前に回り込み、節目をこそぐように断つ。
肩が解放され、班員は何かに助けられたように前へ転がる。
「い、今の何だ——!」
「いいから下がれ! 立て直すぞ!」矢場が押し返す。足元は血と粉塵で滑りやすい。
巣の奥から、さらに膜の破れる音が近づく。
——まだ孵る。まだ出る。
「白煙は上がっている。側面と工兵が来るまで持たせろ!」
誰かが叫ぶ。
矢場は歯噛みし、「持たせろ」が「押し切れ」に変わる寸前で舌を飲み込む。
「っ……前列、半歩下げ! 狭めろ! 細い口で潰す!」
判断自体は悪くない。
けれど負傷者が出始めた隊列は、命令を“半拍”遅らせる。
その半拍に、小型が三体、四体、割り込む。
悲鳴が混じる。
血の匂いが濃くなる。
(——三)
僕は巣材の裏側、骨と布の層の“空洞”を這う。
核の力で輪郭を落とすと、相手の“聴き耳”もこちらを素通りする。
骨の爪が僕の頬の前を掠めても、触れない。
短剣は刺さず、滑らせる。
骨の関節は、刺すよりも“外す”方が速い。
「四……」
巣の縁から飛び出そうとした個体の“膝”を払う。
崩れた体が前列にぶつかり、矢場の棍の一撃で粉砕される。
——誰にも、僕の手は見えない。
(五)
巣の奥から這い出る別個体の“首輪”を切る。
赤光がたちまち弱る。
巣そのものの呼吸が、浅く不規則になっていく。
矢場の肩に骨の爪が当たった。
鎧の上からとはいえ、布の帯が裂ける鋭い音。
「っ、ご、っ——来いよオラァ!」
矢場は笑った。笑って、敵を粉砕し、班員に怒鳴る。
「下がれ! 負傷者は後退、立てるやつは右に寄れ、右! ——クソ、数が減らねえ!」
(減っとる。けど、巣が“生む速度”のがいまは勝っとる)
僕は影の中で、針を短剣に戻す。
巣材の中央、布と骨の層のさらに下。
——“核嚢”。
小型をまとめて養う、薄皮の袋。
工兵が封鎖材を流し込めば乾いて固まり、巣の“呼吸”は止まる。
でも、今は。
(僕ひとりでは、届かん)
前で班員が滑って倒れ、足首に骨が食いついた。
「や、やめ、離れろ——ッ!」
矢場が飛び込むより先に、僕は横から“見えないまま”腕を差し入れる。
骨の関節を外し、足首から引きはがす。
刹那、班員の目が僕の影を掠めた気がした。
彼は、何かが助けてくれた顔で、這いながら退く。
「い、今の……誰、っ」
矢場は答えない。気づいていない。
彼の視界では、彼自身が巧みにさばいたことになっている。
「遅いぞ! もっと速く下がれ!」
巣口の小型が、ひと呼吸分だけ弱る。
——僕が五つ、六つ、静かに“消した”からだ。
けれど、巣がまた鳴く。
骨膜の奥で、ぬらり、と新しい影が波打つ。
矢場の顔に初めて躊躇が浮かぶ。
視線が白煙の立ち上る隙間から外をかすめ、まだ合流してこない他班の位置を測る。
「……チッ」
彼は大斧の柄で前を押し払い、短く叫んだ。
「撤退だ! 黒煙、上げろ! 側面と合流して仕切り直す!」
後列の一人が黒の煙管に火を入れようとして、手を震わせる。
火打金が滑る。矢場が奪い取り、力任せに火花を散らす。
黒い煙が、低く、重く、天井へ。
合図は明確に——撤退。
「引け! 崩れるな、間隔詰めろ! 負傷者は死ぬ気で走れ、押される前に角を曲がれ!」
矢場の采配は速い。声も通る。
——ただ、遅かった。
序盤の優勢が作った余裕が、今は足を絡める重りになっている。
(退き際を細く、短く。狭い口一路線)
僕は巣材の縁を逆走し、口に滑り込む個体の“膝”を片っ端から外していく。
倒れた骨が詰まり、後続をせき止める。
矢場と班員がその“偶然の楔”を利用して角まで退く。
彼らの背中がいくつも壁に消える。
最後のひとりが角を抜けた瞬間、僕は巣口に針を残して跳ぶ。
針の尾に結んでおいた麻糸が、通路に細い線を引いた。
(封鎖導線——この位置に封材)
角を曲がる。
側面の班の旗が見えた。
矢場が肩で息をしながら、次の指示を飛ばす。「合流完了! 巡回班は側面、フォローに回れ! 工兵、準備急げよ!神殿隊、手当て頼む」
彼はちらりとも僕を見ない。
——いや、見えない。僕の輪郭はまだ“薄い”から。
「ちっ……加賀谷はどこだ。あいつ、逃げやがったか」
矢場の舌打ちが背に落ちる。
「真面目にやってりゃ俺たちだけで殲滅できたのに。使えねえ奴だ」
(……あほか。見えとらんのは、そっちや)
喉の奥で笑って、すぐ飲み込む。
今は返す言葉も、姿も要らない。
僕の仕事は、“線”を引いて、“薄める”ことや。
黒煙は上がった。
後は、赤を——
「工兵、封材準備! 側面から流し込む! 神殿、後退線の結界を二枚!」
矢場の声が、ようやく“正しい段取り”を呼び戻す。
彼の足元の粉塵に、僕の麻糸が一本、静かに混じっている。
封鎖材が流れるべき細い溝。
誰の名前も書かれていない導線。
——でも、それが、巣の呼吸を止める。
僕は影のまま、通路の最奥に貼りつく。
巣口の唸りが、一瞬、遅くなる。
赤い煙管に手を触れる。
時機——今。
指先で火床を弾き、床に赤を落とす。
細く、短く、真っ直ぐに。
封鎖合図、赤煙が、巣の口へ向かって伸びた。
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