自動ドアはもう動かん。ガラスは抜け、枠だけが口を開けてる。
僕は影に身を沈めたまま、エントランスの空気の継ぎ目をまたぐ。外の街音がふっと遠のき、代わりにビルの中の息が耳に絡みついた。
「……ほな、一階から。凪さんのかくれんぼ講座、開幕や」
昔はテナントが並んでたんやろな。消えかけの案内板——「カラオケ」「旅行社」「保険代理店」。床は剝がれたタイルとカーペットの継ぎ接ぎで、柱の陰には店舗用の棚が積み上げられている。
——子どもが本気で隠れたら、半日見つからんタイプの迷路や。
足音を落とし、まずはロビーの外周を時計回り。
粉塵の波目、風の向き、匂いの層……ぜんぶ胸の奥で地図に変換する。
チョークで足元の割れ目に小さく白い点、柱の根元に麻糸を結んで導線の起点を作る。
印は、外から目立たん高さと角度で。工兵が見れば一秒で分かるやつ。
「……はい、一つ目の“匂い”」
カウンター裏の影、鉄の匂いに混じってぬめっとした冷え。恐怖の残痕——“薄息(うすいき)”。
メモに〈一階・カウンター裏/薄息:微〉と書き、壁際の低いところへ**∥(冷却帯)**のチョーク線を引く。ここから封材を通せば、息の通り道を絞れる。
次は店舗跡。ガラスのないウィンドウから中を覗く。
床に小さな靴底の跡、サイズは子ども。横に、斜めに引きずったライン——転びかけた跡。
あかん、胸が急く。焦るな。焦ったら線が歪む。
しゃがんで、棚の下に腕を差し込む。
「……出た」
ガチャのカプセルの底。中は空っぽやけど、指にうっすら甘い匂いがついた。最近や。
薄板に貼って、位置と向きを記す。〈店舗A・北窓際/カプセル底/匂い:甘〉
店の奥、非常口の扉は外れて斜めに立てかけてある。
ヒンジ側の壁に、三本爪の細い擦り傷。高さは子どもの膝。
(ふむ……こっちから**“入った”か、ここで“待った”**か)
同じ高さに小さな血の点。乾きは浅い——48時間以内。
「二つ目、三つ目……導線はここで折る」
麻糸を柱に二重に回し、床の割れ目に**▶(投入口)**の小印。
誰も見てへんけど、凡例どおりに。線は消さへん。
廊下を渡って反対側へ。
張り紙が風で揺れた。「募金のお願い」——恐怖災害以前のまま色褪せたまま残ってる。
トイレの入り口で立ち止まり、鼻だけで嗅ぐ。
カビ、石鹸、紙。……紙の下に、鉄。
個室の扉を一枚ずつ、音を立てずに開く。
最後の個室、タンクの上に写真の切れ端。
昨日拾ったやつと同じ紙質、同じ年代の焼き。裏のペン字は〈な……〉まで。
(“な”で始まる名前……同じ子かもしれん)
薄板に貼って、〈一階トイレ・最奥/写真片②〉。
廊下の奥は、音の抜けが急に悪くなる。
“風が曲がる穴”の向こうに、冷たさの溜まり。
照明はとっくに死んでるけど、目は慣れてる。
埃の舞い方が「そこに何か立ってた」形で割れている。
僕は輪郭をもう一段落とし、影から影へ。
「おーし、凪。ええぞ。ここまでで“息”二本、“手掛かり”二つ。上出来や」
小声の自分煽り。心の中は相変わらず火柱。
けど、手は静かに。線は細く、確かに。
サービス通路の扉。鍵は壊れて、少しだけ開いている。
耳を当てると、金属の向こうで骨の擦れるかすかな音。二……いや、三。
(今、開けたら二は落とせる。けど今日は哨戒。殲滅は段取りのあとや)
扉の脇に**×(脆弱部)**。メモに〈一階・サービス通路前/薄息:微〜中/小型2〜3〉。
通路に戻る途中、壁の低い位置にシールが貼られているのを見つけた。
キャラクターの目は剥げてるけど、貼ってからまだ間がない。埃がシールの縁で止まっている。
(貼ったの、子どもや。——ここで“待ってた”んか、“連れてかれた”んか)
胸の内側が冷たくなる。言葉にして、温度を芯に変える。
「生きとれよ。——必ず、線で帰す」
受付に渡す用の小袋に、見つけた物を順に収める。
カプセル底、写真片、青い布の袖口の糸、シールの破片。
それぞれの場所と角度を、紙に置いた線で正確に結ぶ。
ロビーへ戻る前に、エレベーターホールで立ち止まる。
鏡のように曇ったステンレスの扉が、歪んだ自分を映す。
目は合わん。合わんままでええ。
僕は扉の隙間に耳を寄せ、底のほうから上がる冷たい吐息の層を測った。
「……はい、ここ“薄息:中”。二階へ上がる導線、決まり」
扉脇の柱に麻糸を結び、**∥を二本重ねる。
工兵が来たらすぐわかるように、床の目地に▶**をひとつだけ落とす。
最後に、エントランスの外へ一歩だけ戻って、空を一度見上げた。
朝の光は薄い。けど、ちゃんと差してる。
ポケットの受理票が、かさ、と鳴った。
「——一階、捜索完了。息と手掛かり、取れた。次は二階や」
囁きを飲み込んで、僕は再び影へ溶ける。
見つからんまま、見つけて、残す。
このビルの白地図を、消えない線で埋めていくために。
二階。
階段室の空気は一階より冷たく、エレベーターホールの前で風がいっぺん曲がった。
埃の粒立ち、足跡の向き——子どもの靴底と、三本爪が交互に重なっている。
(追われて、逃げて、隠れた。……間に合う距離や)
非常灯の死んだ廊下を、影から影へ。
コピー機の残骸と自販機の間を抜けたとき、かすかなしゃくりあげが耳に引っかかった。
僕は床に膝をつき、機械の下に指を滑らせる。
粉にまみれたアメの包み紙。甘い匂いは新しい。
「……おるな。大丈夫や」
囁きを、風の音と同じ高さに落とす。
旧会議室のドアは、内側から椅子でつっかえていた。
ノックはしない。音を立てずに蝶番をずらし、隙間から空気だけを先に通す。
中は暗い。机を縦に倒して作った即席のバリケードの奥、プリンターカートの陰で二人が身を寄せていた。
痩せた腕。擦り傷。乾いた涙の跡。
目が、僕を捉えた。
じっと、まっすぐ。
胸が、きゅっと縮む。
「……こ、こっち見んな」
反射で出た。最悪のひと言。
年長の子がびくりと肩を震わせ、年下の子の手がすとんと落ちる。
唇が小さく結ばれて、目に光がたまった。
(やってもうた、バカ。何言うてんねん僕)
慌てて、手の平を見せる。
ゆっくり、しゃがんで、机の縁に額が当たらん高さまで落とす。
「ごめん。兄ちゃんな、人から見られるん、ちょい苦手なんや。怖がらせるつもりはゼロ。すまん。——な、ちょっとだけ目、つぶっててくれへん? 次に開けるとき、外や。ほんまや」
沈黙のあと、年長の子(多分小四くらい)が、年下の子の耳元で何か囁く。
二人とも、ぎゅっと目を閉じた。小さな顎が、決意みたいに上がる。
「えらい。ええ子や」
止血符を手のひらサイズに裂き、膝と肘の切り傷に一枚ずつ当てていく。
乾パンをひとかけ、口に入れやすいよう指で割る。水は少しずつ。
目は閉じたままでも、二人とも素直に従う。喉が鳴って、息が少しずつ深くなる。
「名前、聞いてええ?」
目を閉じたまま、年長の子が答えた。
「……ナツミ」
(“な”——写真の切れ端の字と、繋がった)
「おれ、レン」年下の子が小さく。
「僕は凪(なぎ)。加賀谷凪。救済局の人間や。二日前から、ここに?」
ナツミがこくり。
「追いかけられて……入って、机、倒して……」
「追いかけたん、どんなやつ?」
レンが、息を詰めるみたいに早口になった。
「人のかたち。骨でもなくて、ねばってて、でも人みたいで。歩くの、カクカクしてた。声、出してた。『みつけた』って。しゃべった」
ナツミが続ける。
「足音は軽かった。だけど、引っかく音がずっとついてきた。ドアのすき間も覗いてた。目は……赤じゃなくて、白っぽい光」
(人型……擬態系か。声を真似るタイプ。赤じゃなく白い光点——“模写(もしゃ)”寄りやな)
喉の奥で短く息を抜き、頭の中の地図に新しい層を足す。
〈二階・人型小型/声真似/白光点/行動:探索・追跡〉
危険度は“息”が薄い分、中程度。でも子どもには致命的。
「よう隠れたな。ここ、選んだん賢いわ。風の逃げ道が二本ある。気配が割れる」
僕は机の縁に指を当て、麻糸を一本、子どもらの手首に輪っかにしてかけた。
「これ、兄ちゃんのベルト代わり。目つぶったまま、これだけぎゅっと握っといて。レンは僕の外套の裾。ナツミはこの糸。いいな?」
二人が、こくん。
「よっしゃ、ゲームな。百まで頭ん中で数えて。百になったら、外や。……もし途中で怖くなったら、三十でも四十でも『いったん休憩』って心の中で言う。そしたら僕が止まる。ええか?」
年下のレンが、うん、と声を出した。
僕は輪郭を一段落とし、ドアの隙間に耳を配る。
廊下の右、遠くで擦過音。左は静か。
先に見つけた導線(麻糸)をなぞって、冷却帯(∥)の上を選んで進む。
「いっせーの——いち」
二人の手が、僕の糸と裾をきゅっと握る。
机をそっと戻し、椅子の足を音なく転がす。
廊下へ一歩。
息は浅く。足は短く。影から影へ。
「に、さん、し……」
レンの声が、喉の奥で小さく跳ねる。
(ええぞ、その調子や)
角に差しかかったとき、左手の会議室の内側でコツンと何かが落ちた。
二人の肩が同時にぴくり。
僕はその場で止まり、糸を軽く引いて「止まる」の合図。
ドアの下に白い粉——古い石灰。足跡は入ってない。
息をまた落とし、右へ。
「ごー、ろく、なな……」
エレベーターホール。ステンレスの隙間から、冷たい吐息。
ここは×。近寄らん。
階段室まで、あと十五歩。
(人型が戻ってきても、今の線なら視界から滑る。焦るな、焦るな)
「はち、きゅう、じゅう——」
踊り場。
手すりの下に僕が先に引いた麻糸の“橋”。
ナツミの手をそっと導く。レンの指が、外套の裾を小さく摘まむ。
階段を下り始めたとき、背中でかすかな声真似が鳴った。
「……みつけた」
人の声に似ている。けど、息の混ぜ方が下手だ。
僕は二人の肩を糸越しに一回、ぽんと叩く(だいじょうぶの合図)。
足を速めず、段鼻を外し、踊り場で一回だけ休む。
“視られる”角度を全部、外す。
「……きゅうじゅう、きゅう」
レンの数えが少し迷子になる。
(ええよ、ええよ。百は“気持ちの百”でええ)
最後の一段。
エントランスの風が、二人の髪を撫でた。
日向の匂い。
外。
「ひゃく」
ナツミの声。
僕は糸をそっと解き、二人の前に回る。
「——目、開けてええよ」
ぱちり。
外の光が一気に二人の瞳に差して、細い笑いがこぼれる。
レンが、思わず僕の外套をぎゅっともう一度握った。
僕はうなずき、できるだけ顔を上げずに言う。
「助かったのは、君らが隠れるの上手やったからや。……ナツミ、レン。えらい」
二人は顔を見合わせ、同時に小さく笑った。
「ありがとう、凪兄ちゃん」
胸が熱くなる。けど、喉はもう固まってない。
「人型のスリラーの話、もう一回、外で聞かせて。声の出し方とか、歩き方とか。——そいつ、次は僕が追いかける番や」
遠くで、手旗の赤が振られる。
巡回の隊員がこちらに気づいた。
僕は二人の背を軽く押し、光のほうへと歩き出した。
影から出るのは苦手やけど、今はええ。
外に出した。それで十分や。次は——狩りの番や。
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