城が眠りについた深夜。
廊下を歩く足音が二つあった。
透明マントを肩に羽織ったハリー。
そして、図書室からこっそり戻る途中だったセレナ。
暗闇の中で鉢合わせた二人は、互いに小さく息を呑んだ。
「……セレナ?」
「ハリー?」
気まずい沈黙が落ちる。
だがその直後、廊下の奥に不思議な光が揺れているのを見つけ、二人は自然と足を運んだ。
そこにあったのは、大きな鏡。
金色の枠には奇妙な文字が刻まれ、冷たい石の床に堂々と立っていた。
ハリーは思わず鏡を覗き込む。
その瞳に広がったのは、見たこともない光景──両親の姿だった。
母が微笑み、父が肩に手を置いている。
ハリーはその場に釘付けになり、胸の奥から何かが溢れ出すのを感じていた。
隣でセレナも鏡を見つめる。
そこに映ったのは──
自分と…黒衣の影が寄り添っている。
セレナは息を呑み、唇を押さえる。
(……そんなはず、ない。あの人が私の隣に立つなんて……)
けれど、鏡は嘘をつかない。
心の奥底で願うものを映し出すのだと、直感で理解してしまった。
「これは──」
背後から、穏やかな声が響いた。
二人が振り返ると、そこに立っていたのはアルバス・ダンブルドアだった。
深い蒼の瞳に、全てを知っているような光を宿している。
「この鏡はな……見る者の心の奥底を、そのまま映すのじゃ」
ダンブルドアは、ゆっくりとした口調で語った。
「人は皆……最も強く望むものを、ここに見ることになる。じゃが……それは現実ではないのじゃよ」
その言葉は、ハリーに、そしてセレナに重く響いた。
ハリーは両親の姿から視線を逸らせず、セレナは映る影を必死に否定しようとした。
アルバスはゆっくりと二人を見渡し、柔らかく続ける。
「フロスト嬢……お主の瞳にも、きっと大切な人が映っておるのじゃろう。
じゃがのぅ──望みに囚われすぎれば……今を生きる力を失ってしまうのじゃ」
「……!」
セレナは驚いて目を見開いた。
けれどアルバスの瞳は、責めるのではなく包み込むように優しかった。
「気をつけなさい。信じることは時に力を与えるが、時に弱さを晒す。
それでもなお信じたいと思うのなら──それは本物の絆となる」
セレナは唇を結び、鏡から目を逸らした。
胸の奥に宿る影の姿が、強く心を締めつけていた。
「さあ……もう休みなさい。クリスマスには、夢を見るだけで十分じゃ」
翌日
夕闇が石窓を群青に染めるころ、セレナはフクロウ便で届いた短い呼び出し状を手に、校長室の石段を上っていた。
扉が静かに開くと、銀の計測器が小さく唸り、赤い鳥が翼を休めている。フォークスだ。燭台の炎が、部屋の奥をあたたかく照らしていた。
「来てくれて、礼を言うぞい」
アルバス・ダンブルドアは机の向こうで微笑んだ。
「菓子は好きかの? ……うむ、今は遠慮しておく顔じゃな」
セレナは小さく会釈し、胸の鼓動を整える。校長は、彼女が言葉を探すより先に、窓の雪を眺めて穏やかに続けた。
「鏡の夜は……寒うなかったかのぅ」
柔らかな声が灯の揺らぎに溶ける。
「心は、ときに冬じゃ。凍みるほど澄んで、美しくも脆い」
セレナは唇を結ぶ。「……私は、まだ答えが出せません」
「答えというものはの、急ぐほど遠のくことがある」
ダンブルドアは椅子から立ち、セレナの横に並ぶ。
「お主の胸の奥には“信じたい誰か”が芽吹いておる。じゃがのぅ──信じることは目隠しではない。よう見て、確かめて、なお選ぶのじゃ」
セレナの喉がきゅっと鳴った。黒衣の横顔が脳裏に浮かぶ。厳しい眼差し、時折の熱、そして不器用な言葉。
「……先生は、私を——」
言いかけて、声がほどける。
校長は目を細めた。
「闇を知る者ほど、光にぎこちないものじゃ。手にした灯を隠したがる。やけどが怖いからのぅ」
一拍置いて、低くやさしく付け足す。
「それでも守ろうとするなら……その不器用は、悪くはない」
フォークスが小さく喉を鳴らし、火の粉のような声が天井へ散った。
セレナはその音に励まされるように、問いをもう一つ投げる。
「私は……どうすればいいでしょう」
「二つ、覚えておくのじゃ」
ダンブルドアは指を二本、ゆるやかに立てる。
「一つ。恐れからではなく、誓いから選ぶのじゃ。恐れは目を曇らせるが、誓いは歩幅を整えてくれる」
「もう一つ。秘密は剣ではなく鞘じゃ。命を守るためにある。……必要なときが来るまで、抜かぬがよい」
彼は机の引き出しから小さな金属製のオルゴールを取り出し、掌にのせた。
「土産じゃ。たいした魔法道具ではないが、静かな音は心を落ち着かせる。……ときに、獣も眠るのぅ」
意味ありげに、しかし多くを語らず、微笑むだけ。
セレナは両手でそれを受け取る。冷たかった指先に、ぬくもりが宿った。
「……ありがとうございます」
「礼には及ばんよ」
ダンブルドアは、彼女の目線に合わせるように姿勢を少し下げた。
「さあ、今夜は休むのじゃ。雪の夜は、若者の心に余計な影を連れてくる。灯りを消す前に——自分の声を、ひとつだけ信じるのじゃ」
セレナは深く頷いた。
扉を出る直前、振り返る。校長は「よい夢を見なさい」と目で言い、フォークスが柔らかな一声で送り出した。
石段を下りながら胸に手を当てる。
不器用な灯は、確かにここにある。恐れではなく、誓いで抱くべき灯——自分が選ぶべき“特別”が、ゆっくりと形を取り始めていた。
ーそしてー
校長室を出て、石段を下りきったときだった。
長い廊下の向こう、灯の影に黒いローブが揺れる。
セレナの胸の鼓動がわずかに跳ねた。
「……フロスト」
低く鋭い声。
振り返れば、セブルス・スネイプが廊下の奥に立っていた。炎の明かりに縁取られた横顔は、冷たい美しさを帯びている。
彼はゆっくりと歩み寄り、無駄な音ひとつ立てなかった。
「こんな時間に、どこへ行っていた?」
問いかけは叱責めいているが、その視線はどこか探るようだった。
セレナは胸に抱えた小さなオルゴールをぎゅっと握りしめる。
「……校長先生に呼ばれていました」
わずかに眉が動いた。
「校長に、か」
沈黙が降りる。重い空気が張りつめる。
やがてスネイプは小さく息を吐き、目を伏せた。
「……あの男は、お前に余計なことを吹き込む」
言葉は冷ややかだが、声の奥にはかすかな苛立ちと……心配が滲んでいた。
セレナは思わず問い返す。
「先生……どうして、そこまで私を気にするんですか」
廊下に漂う炎の揺らぎが、二人の間に影を刻む。
スネイプは一歩だけ近づいた。その瞳の奥に、誰にも見せぬ葛藤がのぞいた。
「……我輩が、お前を特別扱いしているとでも?」
皮肉な響きに包みながらも、その言葉は鋭く胸に刺さった。
セレナは一瞬だけ息を呑む。
校長の言葉が脳裏をかすめる──「闇を知る者ほど、光にぎこちないものじゃ」。
「……特別かどうかは、分かりません」
青い瞳でまっすぐに見上げながら、彼女は答える。
「ただ……あなたの言葉には、時々、温かさが混じっている気がします」
スネイプの表情がかすかに揺れる。
だがすぐに、冷たさを装った面差しに戻した。
「……錯覚だ」
短く言い放つと、ローブを翻して背を向ける。
「部屋に戻れ。遅い時間だ」
彼の背中が炎に消える。
残された廊下に、オルゴールを握るセレナの静かな吐息だけが響いていた。
──錯覚、と言い切った声の震えを、セレナは確かに聞いていた。
ホグワーツの廊下は月明かりに青白く染められていた。
窓から射す光は石床に冷たい模様を描き、息をひそめるような静けさが漂っている。
セレナ・フロストは、薬草学の資料を返しに図書室へ向かっていた。
だが──背後にまとわりつくような視線を感じて足を止める。
(……誰かがついてきている)
杖を握る手に力が入る。
柳の杖がかすかに熱を帯び、危険を知らせるように震えていた。
廊下の角を曲がった瞬間、冷たい風のような声が背を撫でた。
「……フロストの娘……」
振り返った先、暗がりに立っていたのはクィリナス・クィレル。
ターバンに包まれた頭が月光に不気味に浮かび、怯えた教師の顔ではなく、どこか空洞めいた影をまとっていた。
セレナは杖を構え、低く声を張る。
「誰ですか」
クィレルの口元が微かに動く。だが、その声音は彼自身のものではなかった。
「その血は……力を呼ぶ……闇の主の望む……唯一の鍵……」
ぞっとする冷気が廊下を満たす。セレナの背筋を氷が走った。
心臓が高鳴り、今にも杖を振ろうとしたその時──。
ローブの裾が翻り、黒い影が二人の間に割り込んだ。
「──離れろ」
鋭い声。
セブルス・スネイプだった。
彼の黒い瞳がクィレルを射抜き、杖をわずかに振る。
目に見えぬ圧が空気を裂き、クィレルの影が後ずさる。
「セブルス……ち、ちが…!」
震える声が響くが、その裏で別の囁きが絡みつく。
「…だ……やがてこの娘も……闇に呑まれる……」
その瞬間、スネイプの瞳がわずかに揺れた。
だがすぐに表情を固め、低く呪文を放つ。
「──エクスペルサームス!」
杖から閃光が走り、クィレルの手から魔力の糸が断ち切られる。
闇の気配がたちまち薄れ、男は慌ててローブを翻して闇に逃げ込んだ。
静寂が戻る。
セレナは震える手で杖を下ろした。
スネイプが振り返り、冷酷な声を投げる。
「お前は……狙われている」
青い瞳が揺れる。
彼女の喉が、問いを求めて震えた。
「……先生。なぜ、私なんですか」
スネイプの瞳に、答えきれぬ色が宿る。
唇が動きかけ、だが言葉は途切れた。
「部屋へ戻れ」
短い一言で切り捨てると、彼は闇に身を消した。
残されたセレナは、胸に響いた囁きを反芻していた。
「──その血は、闇の主の鍵」
柳の杖が、かすかに震えていた。
石造りの回廊をひとり歩く黒衣の背。
セブルス・スネイプは、先ほどの出来事を反芻していた。
──フロストの娘は狙われている。
あのクィリナスの震える声、その裏から滲んだ“主”の囁き。
闇の魔法の気配は紛れもなく、かつて己が従った存在のものだった。
(また、あの声を聞くことになろうとは……)
スネイプは歯を食いしばる。
脳裏に蘇るのは過去の過ち、暗黒の印を刻んだ夜。
そして、己を裏切り者としながらもなお託された誓い。
(……。あの娘は、お前の子ではない。だが……同じように守ると誓ったはずだ)
だが違う。
あの青い瞳に映るのは、ただの「守護」では済まぬものだった。
セレナ・フロスト。
冷たい外見の奥に潜む真っ直ぐな心。
「努力を否定しない」という静かな声。
そして、自分の言葉にだけ敏感に揺れるあの眼差し。
(我輩は……なぜ、あの娘を特別視する)
認めるまいとしても、嫉妬が己を裏切る。
ハリー・ポッターが彼女と並ぶだけで、苛立ちが胸を焼く。
ドラコが親しげに話しかけるとき、冷静を装いながら心がざわめく。
「……くだらん」
吐き捨てるように呟くが、声はかすかに震えていた。
スネイプは立ち止まり、月光の射す窓辺に手をついた。
冷たい石の感触が、熱に浮かされた心を抑え込む。
(我輩は弱い……。嫉妬に呑まれるとは、闇を知る者として最も愚かだ)
だが思考の底で、どうしようもない事実が息づいていた。
(……それでも。あの娘の瞳に映る自分だけは、見失いたくない)
闇を知る男の胸の奥に芽生えたもの。
それは愛と呼ぶにはあまりに不器用で、
守護と呼ぶにはあまりに熱を帯びていた。
スネイプはローブを翻し、再び夜の回廊を歩き出す。
誰にも告げぬまま、自らの心の影と共に。