キングズ・クロス駅、九と四分の三番線。蒸気を吐き出す真紅の機関車が、魔法界への扉を開いていた。
セレナ・フロストはトランクを引きながら、静かにホームへ足を踏み入れる。周囲の喧騒にも表情を崩さず、ただ透き通るような青い瞳で列車を見上げていた。
その時、視線の端を黒髪の少年が通り過ぎた。痩せた体に大きなトランク、そして額の稲妻の傷。
ハリー・ポッター。
二人の瞳が一瞬だけ交錯する。
だが言葉を交わすことはなく、少年はロン・ウィーズリーと共に列車に乗り込んでいった。
セレナはほんのわずか、心の奥に引っかかるものを覚える。
(あの人も……普通の子じゃない)
列車の奥の個室。
セレナ・フロストは一人きりで窓辺に腰掛け、動き出した風景を眺めていた。
けれど、その青い瞳はただ景色を映してはいない。
耳の奥に、母の声が蘇っていた。
「──闇を知る人間だからこそ……導けるのは、あなたしかいない」
その言葉は、まだ幼い心には重すぎるほどの響きを持っていた。
母の指す“闇を知る人間”とは、あの黒衣の男──セブルス・スネイプ。
彼の眼差しは冷酷だった。
けれども、あの夜、彼は確かにセレナを拒まなかった。
むしろ、試すように、そして見極めるように少女を見据えていた。
セレナは窓の外に流れる景色に、知らず小さく呟いていた。
「……どうして、あの人は私を見捨てなかったの……?」
ただの任務?
それとも……母の言葉が言うように、本当に“導こう”としてくれているのだろうか。
思い返せば、あの書斎の夜。
薬棚の前で自分が放った言葉に、スネイプの瞳が一瞬だけ揺れた。
冷たい氷のようなその目が──一瞬だけ、人の温度を帯びたように。
セレナは胸の奥で得体の知れない感覚を覚えていた。
安心と、不安と、そして……ほんのかすかな期待。
窓に映る自分の横顔を見つめながら、少女は小さく笑った。
その笑みはまだ幼いが、どこか凛とした光を帯びている。
「……もし、あの人が本当に“導いてくれる”のなら……」
声は汽笛にかき消され、誰にも届かない。
ただ少女の心にだけ、その決意の欠片が刻まれた。
その頃、駅の片隅。
黒衣の影が、石壁に紛れるように立っていた。
セブルス・スネイプは腕を組み、喧騒の中で一瞬だけ視線を上げる。
赤い蒸気機関車の窓。その一つに、青い瞳の少女が見えた。
物静かに窓外を見つめる横顔は、子供らしいあどけなさと、時折ぞくりとするほどの冷静さを併せ持っていた。
彼はわずかに目を細め、そして──ふっと視線を逸らす。
誰にも気づかれぬように。
ただ、ほんの刹那、胸の奥に冷ややかなはずの心が揺らいだ。
(……あの娘の目は、リリーのそれとは違う。だが……)
スネイプは舌打ちを堪えた。
思考が過去に触れようとするたび、無理やり自分を冷徹さへと引き戻す。
だが、その目に映った青の光は、確かに彼の心を刺激していた。
恐怖でも、同情でもない。
理解できぬ直感──あの娘は“闇に飲まれぬ力”を持っている。
彼は低く呟いた。
「……行け。選ばれた血の娘よ」
その声は、誰にも届かない。
彼自身にすら届いていないのかもしれなかった。
ただ、わずかな安堵と、抗いようのない“特別”が芽生えていたのは確かだった。
我輩と呼ぶ冷酷な男の胸に、少女の名は静かに刻まれ始めていた。
列車が動き出し、蒸気がホームを覆った。
セレナは個室の窓際に座り、遠ざかっていく駅を静かに眺めていた。
トランクの上には、一冊の魔法書が開かれている。ページを指でなぞりながら、彼女の瞳は景色よりも「理論」に向けられていた。
ガラリ、とドアが開く音。
金髪の少年が勢いよく顔を出した。後ろには丸顔の取り巻きが二人。
「へえ……一人で座ってるのか。珍しいな」
ドラコ・マルフォイ。
その灰色の瞳が、セレナを品定めするように見た。
「僕はドラコ・マルフォイ。お前は?」
「……セレナ・フロスト」
名を告げただけで、セレナは再び本へ視線を落とした。
その態度に、ドラコは一瞬むっとしたが、すぐに興味を引かれるように口元を歪める。
「フロスト? 聞いたことがあるな。古い家系じゃなかったか?」
「……知っているのなら、それ以上は言わない方がいいわ」
静かな声音。
だがその瞳の青は、冷たくドラコを射抜いていた。
取り巻きが小声で「すげえな」と囁く。
ドラコは一瞬口をつぐんだが、次第に好奇心を滲ませるように笑った。
「……面白い。気に入った。スリザリンに来たら、悪くない仲間になれるかもな」
そう言い残し、彼は取り巻きを連れて去っていった。
再び静寂。
セレナが視線を戻した窓の外を、別の個室の中から少年が歩いていく姿が映った。
黒髪に丸眼鏡、そして額には稲妻の傷。隣には赤毛の少年。
──ハリー・ポッター。
二人の視線は交わらない。
ただ、すれ違いざまに、セレナの胸に言葉にならないざわめきが生まれた。
自分と同じく、「何かに選ばれてしまった者」──そんな直感が、少女の心をかすかに震わせた。
列車が停まり、夜風の吹き込む駅に生徒たちがぞろぞろと降り立った。
霧の中から現れたのは、巨大な影──ルビウス・ハグリッドだった。
「一年生はこっちじゃ! 船に乗って湖を渡るんじゃぞ!」
その声は朗らかで大きく、緊張していた子供たちの心を少し和らげた。
セレナも他の一年生たちに混じって歩き出す。
ハグリッドは長い歩幅で歩きながら、ふと後ろを振り返った。
青い瞳をした黒髪の少女が、騒ぐこともなく静かに行列の中にいるのが目に留まる。
「……おや、お前さん……えらく落ち着いとるな」
ハグリッドの低い声に、生徒たちがざわつく。
セレナは小さく瞬きをして答えた。
「……怖がる理由がないから」
「はは、そうか。大した度胸じゃな。名前は?」
「セレナ・フロストです」
ハグリッドは大きな顎鬚を撫で、しばらく彼女を見つめた。
そして、にかっと笑う。
「……不思議な子じゃな。けどな、怖がらんのは強い証拠じゃ。ホグワーツはきっと、お前さんに合っとるわい」
セレナはわずかに口元を緩めた。
それは他の生徒たちには気づかれないほどの小さな笑み。
その様子を、暗がりの影から見ている男がいた。
黒衣をまとい、物陰に佇むセブルス・スネイプ。
ハグリッドが笑い飛ばすのを横目に、スネイプは一瞬だけ青い瞳の少女を見やった。
冷ややかな光を宿したまま、だが心の奥には安堵が揺れる。
(……やはり)
誰も気づかぬところで、彼はふっと目を伏せる。
少女はまだ知らない。
──その影が、ずっと自分を見守っていることを。