私と呼ぶときだけ   作:パレット24

9 / 13
第8章 ― 風切る銀翼

 

空は高く、冷たい陽光がスタンドの旗を踊らせていた。

 緑と銀、赤と金が渦を巻き、リー・ジョーダンの軽快な実況がマイクに弾む。

 セレナはスリザリン側の席に座っていたが、青い瞳は相手側の小柄なシーカー──ハリー・ポッターを追い続けていた。

 合図とともに箒が一斉に浮き上がる。風がスタンドの石段を洗い、喉の奥がすっと冷える。

 彼女はマフラーの陰で指先を合わせ、柳の杖にそっと触れた。滑らかな木肌が体温を吸う。

 ──セストラルの尾の毛が、命の際にだけかすかに脈動する、と家に伝わる古い言い伝え。

 今は、静かだ。

 隣でドラコ・マルフォイが双眼鏡を上げ、勝ち誇った笑みを見せる。

「見ろよ、ポッターの動き。経験が違う。すぐに──」

 そのときだった。

 空中の一本の箒が、糸の切れた凧のようにぶれた。

 ぐん、と右、次に左。ハリーの体がむごく揺さぶられる。

 セレナの瞳が、ぱちりと細まる。

(……風ではない。力の“織り目”が乱れている)

 観客席の教職員席に視線を滑らせる。

 漆黒のローブ、動かぬ姿勢、細く動く唇──セブルス・スネイプ。

 その少し離れ、ターバンの男が萎れた影のように座り、わずかに身を揺らしながら囁いている。

 クィリナス・クィレル。

 セレナの耳には届かない。だが、魔力の“糸”だけは、確かに空を横切っていた。

(二重……ひとつは断ち、ひとつは縫い留める)

 胸の奥がざわめく。柳の杖が指に馴染み、細い震えを吸い取った。

 セレナはマフラーの陰で、ほとんど動かない手つきで囁く。

 

「──プロテゴ・ミヌティオラ」

 

 ぱん、と見えない薄膜が張るような感触。

 微細な盾が、ハリーの肩先を包む。吹き飛ばされる力を“すべて止めはしない”。けれど、ほんの針一本ぶんは弱める。

 セストラルの繊維が、命綱のようにかすかに脈を打った。

 箒はなお暴れる。ハリーが必死に鞍を掴む。

 スタンドの反対側で、栗毛の少女が立ち上がった。ハーマイオニーだ。

 ドラコの「見ろ、スネイプが──!」という囁きを背に、彼女は一直線に教職員席へ走る。

 次の瞬間、スネイプのローブの裾に小さな炎が灯った。

 ざわめきが沸き起こる。

 スネイプが立ち上がる。振り払う。視線が、一瞬だけ切れる。

 その瞬間、クィレルの唇の動きが途切れ、空の“糸”がほどけた。

 セレナは息を吐いた。

 防御の膜を解く。柳の杖が熱を手に返し、鼓動が静まる。

 空では、赤金の点が矢のように伸び、金の閃きが弧を描いた。

 ──歓声。ハリーがスニッチを掴んだのだ。

 旗が揺れ、スタンドが沸き立つ。

 セレナは掌を握り開き、ゆっくりと立ち上がった。

 遠く、教職員席。炎を払い終えた男が、群衆の渦の向こうからこちらを一瞥する。

 氷のような黒い瞳。だが、その底に、かすかな問いと確かめるような色。

 セレナは、ほんのわずかに首を傾けて応えた。

 

(──ええ、見ていました。あなたも)

 

 

 試合後の回廊は、人の波と歓声の余熱で温かかった。

 セレナが脇の通路に入ると、陰がひとつ、壁から剥がれる。

「……無駄な魔法は使うな」

 低い声が落ちる。スネイプだった。

 彼は誰にも見えない角度で、セレナと距離を取る。

 ローブの焦げ跡が、わずかに香ばしい匂いを残していた。

「無駄ではありません」

 セレナは静かに返す。「落ちそうだった」

「我輩が見ていた」

 刃のように冷たい言い回し。けれど、次の語が一瞬だけ喉で揺れる。

「──わた、……我輩が対処していた」

 黒い瞳が、彼女の柳の杖へと落ちる。

 セレナはマフラーの陰で、指を解いた。

「……すみません」

 それは詫びというより、了解の合図だった。

 スネイプはわずかに目を細める。

「よろしい。次は我輩の目の届く範囲で、必要なことだけをやれ」

 踵を返しかけ──ふと立ち止まる。

 群衆の喧噪が遠のいた一拍の隙間に、極めて小さな声が落ちた。

「……よく、持ちこたえた」

 セレナは返事をしない。代わりに、青い瞳でその背を見送った。

 柳の杖が、手の中でぬくもりを帯びる。

 命の際にだけ震える繊維は、まだ微かに脈打っている──彼女の選択が、誰かの命綱であったことを告げるように。

 

 

― 影を追う影

 ホグワーツの石造りの廊下は、夜更けになると独特の静けさに包まれる。

 壁の松明の火が小さく揺らめき、吹き抜けからは風が低く鳴っていた。

 セレナ・フロストは眠れずに寮を抜け出していた。

 理由は自分でもわからない。ただ、あのクィディッチ試合以来、胸の奥にざわめきが残っているのだ。

 

 角を曲がった瞬間、黒衣の影が音もなく進んでいくのが見えた。

 ──セブルス・スネイプ。

 その少し前方には、ターバンを巻いた男の姿。

 クィリナス・クィレル。

(教授が……クィレルを追っている?)

 セレナは息を殺し、石壁に身を寄せながら、二人の後をつけた。

 

 やがて辿り着いたのは中庭。

 月明かりに二人の影が落ち、冷たい空気に声が響く。

「……我輩の目を誤魔化せると思うな」

 鋭い声。スネイプだ。

 クィレルが身をすくめる。

「な、何をおっしゃるのか……わ、私はただ……」

 怯えた声。だが、その奥に何かを隠しているのは明らかだった。

「おまえが何を探っているか、我輩は承知している。次に妙な真似をすれば……我輩は見逃さん」

 その一言に、クィレルの顔から血の気が引く。

 

 セレナは固唾を呑み、杖を握りしめた。

 そのとき──。

 近くの廊下の陰で、小さな物音がした。

 そっと視線を動かすと、柱の陰から三つの影が息を潜めているのが見えた。

 ハリー、ロン、ハーマイオニー。

 彼らもまた、好奇心と不安に突き動かされて、スネイプの後を追っていたのだ。

 セレナと目が合うことはなかった。

 だが、同じ光景を、別々の心で見ていた。

 

 やがてスネイプはローブを翻して立ち去り、クィレルはその場に崩れ落ちるようにして残された。

 そのターバンの奥で、一瞬、別の影が笑ったように見えた。

 セレナは背筋に氷を這わせながら、ゆっくりと後ずさった。

(あれは……ただの臆病な教師じゃない。何かが……潜んでる)

 同じ恐怖を、ハリーもまた、仲間と共有していた。

 ──けれど、互いがそれを「見た」と気づくのは、もう少し先のことだった。

 

 

夜更けの出来事から二日後。

 魔法薬学の授業を終えた後、セレナはスネイプに呼び止められた。

「フロスト。残れ」

 短く冷ややかな声。生徒たちが出て行くと、石造りの教室に二人きりが残った。

 窓から差し込む薄明かりが、薬瓶の影を床に落としている。

 スネイプは机に片手を置き、黒い瞳をまっすぐに向けた。

「……お前は、あの夜を見ていたな」

 セレナの心臓が跳ねた。

 ごまかす余地はない。

 彼の目はすべてを見抜いている。

「……はい」

 かすかな声で答える。

 

 スネイプはわずかに目を細める。

「軽率な真似だ。好奇心で首を突っ込めば──闇に呑まれるのはお前だ」

 叱責の調子だったが、その奥に揺れるのは焦りにも似た感情だった。

 セレナは思わず言葉を返す。

「……でも、あの人は危険です。クィレルは、普通の教師じゃない」

 スネイプの表情に一瞬、影が走った。

 だが次の瞬間には冷たい仮面を戻し、低く告げる。

「余計なことは考えるな。お前の役割はただ──学び、生き延びることだ」

 

教室に沈黙が落ちる。

 セレナを射抜く漆黒の瞳が、ふいにわずかに揺らいだ。

「……分かるな、セレナ」

 低い声が、空気を震わせる。

「私にとって──お前は特別だ」

 その一言は刃のように鋭く、同時に誰よりも脆い響きを持っていた。

 普段の「我輩」ではなく、感情を押し隠せぬ「私」。

 それはセブルス・スネイプという孤独な男が、初めて心をさらけ出した証だった。

 

 セレナは息を呑んだ。

 胸が熱くなる。だが、その熱に自分がどう応えればいいのか分からない。

 教師と生徒。

 冷酷な薬学教授と、まだ学び始めた少女。

 その境界を越える言葉に、心が追いつかない。

「……せ、先生……私は……」

 言葉は途切れ、唇が震える。

 スネイプはそんな彼女の動揺を読み取り、瞬時に表情を引き締めた。

「忘れろ」

 短く、鋭く。

「今のは聞かなかったことにしろ。いいな」

 ローブを翻す彼の背中に、拒絶の冷たさと同時に、どうしようもない後悔が滲んでいた。

 

 残されたセレナは、胸の奥がざわめいて仕方なかった。

 あれは何だったのか。

 本当に“告白”だったのか。

 ──答えは出せない。

 だが、あの言葉は確かに心に刻まれた。

 そして彼女は気づくだろう。

 いつか、あの人こそが自分にとってかけがえのない存在なのだと。

 守られるだけの少女ではなく、共に歩むべき“唯一の人”なのだと。

 

静まり返った図書室の奥。

 羽根ペンの擦れる音と、時折めくる羊皮紙の音だけが響いていた。

 ハリー、ロン、ハーマイオニーは机を囲み、顔を寄せ合っている。

 その声は小さかったが、近くの席にいたセレナの耳には届いていた。

「やっぱりスネイプだと思うんだ」

 ハリーが声を潜めながら言う。

「クィレル先生のことを狙ってるのも、魔法薬学で僕を目の敵にするのも……怪しすぎる」

 ロンが頷く。

「ポッターに嫌がらせするのは趣味だろうけどな。あいつ、絶対なんか隠してる」

 ハーマイオニーは眉をひそめた。

「でも……証拠はないわ。教師を疑うなんて、本来ならありえないことよ。けど……あの行動は確かに不自然ね」

 

 “スネイプが怪しい”

 その囁きを聞いた瞬間、セレナの胸が小さく揺れた。

 彼が怪しい──確かに、そう思う者は多いだろう。

 冷酷な眼差し、他人を寄せつけぬ態度。

 闇に生きてきた男。

 だが、セレナの脳裏に蘇るのは別の姿だった。

 母が命をかけて託した夜、娘を見捨てなかった彼の背中。

 魔法薬学の個別指導で、不器用に投げかけられた「努力は……無駄ではない」という言葉。

 そして、ドラコやハリーと自分が笑い合うとき、ほんの一瞬だけ浮かぶ苛立ちの色──。

(……先生は、嫉妬している?)

 その考えが再び胸を締めつける。

 もし彼が怪しいと疑われるのなら、誰も見たことのない“もう一つの顔”を知っているのは、自分だけかもしれない。

 

 セレナは机の上の本を閉じ、静かに立ち上がった。

 青い瞳の奥で揺れていたのは、冷静な光と、説明のつかない温かな痛み。

 図書室を出たセレナは、冷たい石造りの廊下をゆっくりと歩いていた。

 本を抱えた腕に力が入る。

 頭の中では、先ほど聞いたハリーたちの声がまだこだましている。

「──スネイプが怪しい」

 胸の奥で、その言葉が刺のように引っかかる。

 だが同時に浮かぶのは、あの人が見せたごく短い“素顔”だった。

(先生は……本当に怪しいの?

 それとも、誰にも知られないまま……孤独に戦っているだけ?)

 そんな思考を巡らせた瞬間、角を曲がった先に黒い影が現れた。

 

 黒衣の裾を翻し、険しい表情で歩くスネイプ。

 人通りのない廊下で、彼と真正面から出会う形になった。

 セレナは反射的に立ち止まる。

 青い瞳と、黒い瞳がぶつかった。

 一瞬、彼の眉がわずかに動いた。

 無表情を装っているが、その奥に小さな動揺が揺らめいたのを、セレナは見逃さなかった。

 

「……こんな時間に、図書室か」

 低い声。冷たい響き。

 だが、その視線は彼女の抱える本に一瞬だけ留まり、すぐに逸らされる。

「はい、先生」

 セレナは静かに答える。

 けれど胸の鼓動は早まり、先ほど図書室で浮かんだ考えが再び疼いた。

(……やっぱり。あの瞳の奥には、冷たさだけじゃない。

 もし、嫉妬があるとしたら──)

 その思いを振り払うように、彼女は視線を落とした。

 

 スネイプは何も言わずに歩み去る。

 すれ違いざま、黒衣がわずかにセレナの腕に触れた。

 その微かな感触が、彼女の胸に熱を残す。

 背中を見送りながら、セレナは唇を結んだ。

 図書室で聞いた「怪しい」という声と、今の自分が感じた「熱」の狭間で、彼女の心は揺れ続けていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。