空は高く、冷たい陽光がスタンドの旗を踊らせていた。
緑と銀、赤と金が渦を巻き、リー・ジョーダンの軽快な実況がマイクに弾む。
セレナはスリザリン側の席に座っていたが、青い瞳は相手側の小柄なシーカー──ハリー・ポッターを追い続けていた。
合図とともに箒が一斉に浮き上がる。風がスタンドの石段を洗い、喉の奥がすっと冷える。
彼女はマフラーの陰で指先を合わせ、柳の杖にそっと触れた。滑らかな木肌が体温を吸う。
──セストラルの尾の毛が、命の際にだけかすかに脈動する、と家に伝わる古い言い伝え。
今は、静かだ。
隣でドラコ・マルフォイが双眼鏡を上げ、勝ち誇った笑みを見せる。
「見ろよ、ポッターの動き。経験が違う。すぐに──」
そのときだった。
空中の一本の箒が、糸の切れた凧のようにぶれた。
ぐん、と右、次に左。ハリーの体がむごく揺さぶられる。
セレナの瞳が、ぱちりと細まる。
(……風ではない。力の“織り目”が乱れている)
観客席の教職員席に視線を滑らせる。
漆黒のローブ、動かぬ姿勢、細く動く唇──セブルス・スネイプ。
その少し離れ、ターバンの男が萎れた影のように座り、わずかに身を揺らしながら囁いている。
クィリナス・クィレル。
セレナの耳には届かない。だが、魔力の“糸”だけは、確かに空を横切っていた。
(二重……ひとつは断ち、ひとつは縫い留める)
胸の奥がざわめく。柳の杖が指に馴染み、細い震えを吸い取った。
セレナはマフラーの陰で、ほとんど動かない手つきで囁く。
「──プロテゴ・ミヌティオラ」
ぱん、と見えない薄膜が張るような感触。
微細な盾が、ハリーの肩先を包む。吹き飛ばされる力を“すべて止めはしない”。けれど、ほんの針一本ぶんは弱める。
セストラルの繊維が、命綱のようにかすかに脈を打った。
箒はなお暴れる。ハリーが必死に鞍を掴む。
スタンドの反対側で、栗毛の少女が立ち上がった。ハーマイオニーだ。
ドラコの「見ろ、スネイプが──!」という囁きを背に、彼女は一直線に教職員席へ走る。
次の瞬間、スネイプのローブの裾に小さな炎が灯った。
ざわめきが沸き起こる。
スネイプが立ち上がる。振り払う。視線が、一瞬だけ切れる。
その瞬間、クィレルの唇の動きが途切れ、空の“糸”がほどけた。
セレナは息を吐いた。
防御の膜を解く。柳の杖が熱を手に返し、鼓動が静まる。
空では、赤金の点が矢のように伸び、金の閃きが弧を描いた。
──歓声。ハリーがスニッチを掴んだのだ。
旗が揺れ、スタンドが沸き立つ。
セレナは掌を握り開き、ゆっくりと立ち上がった。
遠く、教職員席。炎を払い終えた男が、群衆の渦の向こうからこちらを一瞥する。
氷のような黒い瞳。だが、その底に、かすかな問いと確かめるような色。
セレナは、ほんのわずかに首を傾けて応えた。
(──ええ、見ていました。あなたも)
試合後の回廊は、人の波と歓声の余熱で温かかった。
セレナが脇の通路に入ると、陰がひとつ、壁から剥がれる。
「……無駄な魔法は使うな」
低い声が落ちる。スネイプだった。
彼は誰にも見えない角度で、セレナと距離を取る。
ローブの焦げ跡が、わずかに香ばしい匂いを残していた。
「無駄ではありません」
セレナは静かに返す。「落ちそうだった」
「我輩が見ていた」
刃のように冷たい言い回し。けれど、次の語が一瞬だけ喉で揺れる。
「──わた、……我輩が対処していた」
黒い瞳が、彼女の柳の杖へと落ちる。
セレナはマフラーの陰で、指を解いた。
「……すみません」
それは詫びというより、了解の合図だった。
スネイプはわずかに目を細める。
「よろしい。次は我輩の目の届く範囲で、必要なことだけをやれ」
踵を返しかけ──ふと立ち止まる。
群衆の喧噪が遠のいた一拍の隙間に、極めて小さな声が落ちた。
「……よく、持ちこたえた」
セレナは返事をしない。代わりに、青い瞳でその背を見送った。
柳の杖が、手の中でぬくもりを帯びる。
命の際にだけ震える繊維は、まだ微かに脈打っている──彼女の選択が、誰かの命綱であったことを告げるように。
― 影を追う影
ホグワーツの石造りの廊下は、夜更けになると独特の静けさに包まれる。
壁の松明の火が小さく揺らめき、吹き抜けからは風が低く鳴っていた。
セレナ・フロストは眠れずに寮を抜け出していた。
理由は自分でもわからない。ただ、あのクィディッチ試合以来、胸の奥にざわめきが残っているのだ。
角を曲がった瞬間、黒衣の影が音もなく進んでいくのが見えた。
──セブルス・スネイプ。
その少し前方には、ターバンを巻いた男の姿。
クィリナス・クィレル。
(教授が……クィレルを追っている?)
セレナは息を殺し、石壁に身を寄せながら、二人の後をつけた。
やがて辿り着いたのは中庭。
月明かりに二人の影が落ち、冷たい空気に声が響く。
「……我輩の目を誤魔化せると思うな」
鋭い声。スネイプだ。
クィレルが身をすくめる。
「な、何をおっしゃるのか……わ、私はただ……」
怯えた声。だが、その奥に何かを隠しているのは明らかだった。
「おまえが何を探っているか、我輩は承知している。次に妙な真似をすれば……我輩は見逃さん」
その一言に、クィレルの顔から血の気が引く。
セレナは固唾を呑み、杖を握りしめた。
そのとき──。
近くの廊下の陰で、小さな物音がした。
そっと視線を動かすと、柱の陰から三つの影が息を潜めているのが見えた。
ハリー、ロン、ハーマイオニー。
彼らもまた、好奇心と不安に突き動かされて、スネイプの後を追っていたのだ。
セレナと目が合うことはなかった。
だが、同じ光景を、別々の心で見ていた。
やがてスネイプはローブを翻して立ち去り、クィレルはその場に崩れ落ちるようにして残された。
そのターバンの奥で、一瞬、別の影が笑ったように見えた。
セレナは背筋に氷を這わせながら、ゆっくりと後ずさった。
(あれは……ただの臆病な教師じゃない。何かが……潜んでる)
同じ恐怖を、ハリーもまた、仲間と共有していた。
──けれど、互いがそれを「見た」と気づくのは、もう少し先のことだった。
夜更けの出来事から二日後。
魔法薬学の授業を終えた後、セレナはスネイプに呼び止められた。
「フロスト。残れ」
短く冷ややかな声。生徒たちが出て行くと、石造りの教室に二人きりが残った。
窓から差し込む薄明かりが、薬瓶の影を床に落としている。
スネイプは机に片手を置き、黒い瞳をまっすぐに向けた。
「……お前は、あの夜を見ていたな」
セレナの心臓が跳ねた。
ごまかす余地はない。
彼の目はすべてを見抜いている。
「……はい」
かすかな声で答える。
スネイプはわずかに目を細める。
「軽率な真似だ。好奇心で首を突っ込めば──闇に呑まれるのはお前だ」
叱責の調子だったが、その奥に揺れるのは焦りにも似た感情だった。
セレナは思わず言葉を返す。
「……でも、あの人は危険です。クィレルは、普通の教師じゃない」
スネイプの表情に一瞬、影が走った。
だが次の瞬間には冷たい仮面を戻し、低く告げる。
「余計なことは考えるな。お前の役割はただ──学び、生き延びることだ」
教室に沈黙が落ちる。
セレナを射抜く漆黒の瞳が、ふいにわずかに揺らいだ。
「……分かるな、セレナ」
低い声が、空気を震わせる。
「私にとって──お前は特別だ」
その一言は刃のように鋭く、同時に誰よりも脆い響きを持っていた。
普段の「我輩」ではなく、感情を押し隠せぬ「私」。
それはセブルス・スネイプという孤独な男が、初めて心をさらけ出した証だった。
セレナは息を呑んだ。
胸が熱くなる。だが、その熱に自分がどう応えればいいのか分からない。
教師と生徒。
冷酷な薬学教授と、まだ学び始めた少女。
その境界を越える言葉に、心が追いつかない。
「……せ、先生……私は……」
言葉は途切れ、唇が震える。
スネイプはそんな彼女の動揺を読み取り、瞬時に表情を引き締めた。
「忘れろ」
短く、鋭く。
「今のは聞かなかったことにしろ。いいな」
ローブを翻す彼の背中に、拒絶の冷たさと同時に、どうしようもない後悔が滲んでいた。
残されたセレナは、胸の奥がざわめいて仕方なかった。
あれは何だったのか。
本当に“告白”だったのか。
──答えは出せない。
だが、あの言葉は確かに心に刻まれた。
そして彼女は気づくだろう。
いつか、あの人こそが自分にとってかけがえのない存在なのだと。
守られるだけの少女ではなく、共に歩むべき“唯一の人”なのだと。
静まり返った図書室の奥。
羽根ペンの擦れる音と、時折めくる羊皮紙の音だけが響いていた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは机を囲み、顔を寄せ合っている。
その声は小さかったが、近くの席にいたセレナの耳には届いていた。
「やっぱりスネイプだと思うんだ」
ハリーが声を潜めながら言う。
「クィレル先生のことを狙ってるのも、魔法薬学で僕を目の敵にするのも……怪しすぎる」
ロンが頷く。
「ポッターに嫌がらせするのは趣味だろうけどな。あいつ、絶対なんか隠してる」
ハーマイオニーは眉をひそめた。
「でも……証拠はないわ。教師を疑うなんて、本来ならありえないことよ。けど……あの行動は確かに不自然ね」
“スネイプが怪しい”
その囁きを聞いた瞬間、セレナの胸が小さく揺れた。
彼が怪しい──確かに、そう思う者は多いだろう。
冷酷な眼差し、他人を寄せつけぬ態度。
闇に生きてきた男。
だが、セレナの脳裏に蘇るのは別の姿だった。
母が命をかけて託した夜、娘を見捨てなかった彼の背中。
魔法薬学の個別指導で、不器用に投げかけられた「努力は……無駄ではない」という言葉。
そして、ドラコやハリーと自分が笑い合うとき、ほんの一瞬だけ浮かぶ苛立ちの色──。
(……先生は、嫉妬している?)
その考えが再び胸を締めつける。
もし彼が怪しいと疑われるのなら、誰も見たことのない“もう一つの顔”を知っているのは、自分だけかもしれない。
セレナは机の上の本を閉じ、静かに立ち上がった。
青い瞳の奥で揺れていたのは、冷静な光と、説明のつかない温かな痛み。
図書室を出たセレナは、冷たい石造りの廊下をゆっくりと歩いていた。
本を抱えた腕に力が入る。
頭の中では、先ほど聞いたハリーたちの声がまだこだましている。
「──スネイプが怪しい」
胸の奥で、その言葉が刺のように引っかかる。
だが同時に浮かぶのは、あの人が見せたごく短い“素顔”だった。
(先生は……本当に怪しいの?
それとも、誰にも知られないまま……孤独に戦っているだけ?)
そんな思考を巡らせた瞬間、角を曲がった先に黒い影が現れた。
黒衣の裾を翻し、険しい表情で歩くスネイプ。
人通りのない廊下で、彼と真正面から出会う形になった。
セレナは反射的に立ち止まる。
青い瞳と、黒い瞳がぶつかった。
一瞬、彼の眉がわずかに動いた。
無表情を装っているが、その奥に小さな動揺が揺らめいたのを、セレナは見逃さなかった。
「……こんな時間に、図書室か」
低い声。冷たい響き。
だが、その視線は彼女の抱える本に一瞬だけ留まり、すぐに逸らされる。
「はい、先生」
セレナは静かに答える。
けれど胸の鼓動は早まり、先ほど図書室で浮かんだ考えが再び疼いた。
(……やっぱり。あの瞳の奥には、冷たさだけじゃない。
もし、嫉妬があるとしたら──)
その思いを振り払うように、彼女は視線を落とした。
スネイプは何も言わずに歩み去る。
すれ違いざま、黒衣がわずかにセレナの腕に触れた。
その微かな感触が、彼女の胸に熱を残す。
背中を見送りながら、セレナは唇を結んだ。
図書室で聞いた「怪しい」という声と、今の自分が感じた「熱」の狭間で、彼女の心は揺れ続けていた。