薄暗い通路だった。
何処とも知れぬ、出口も入り口も見えない、まともな光源の無い道をひたすら走っている。
とにかく捕まってはならない、その一心でひたすらに光明無き道を走り続けていた。
暫く走っていると、こじんまりとした扉が見えてきた。これで逃げ切れる、一瞬の安堵を感じて扉を開け放つも、その瞬間待ち望んだ希望は絶望にすり替わった。
「ようこそ五飛、待ってたぜ……」
扉の先に待ち構えていたのは、嘗て共に戦った筈の仲間であった。
この五人が一堂に会するというのは滅多にない機会であるが、とても穏やかな雰囲気では無い。
「ちっ、誘導されていたというわけか……!」
「カトルが操っている警備システムからそう簡単に逃れられるわけないだろ」
カトルの指揮能力の高さは実際に同じ戦場に立った事で分かっていたが、それよりも五飛は気になることがあった。
おおよそ他の面子に賛同するとは思えない人物までその輪の中に居た事である。
「ヒイロ……お前まで敵に回るとはな」
「お前の味方はもう此処にはいない、大人しくするんだ」
突飛と思える言動が多くとも、それは全て彼なりに目的を遂行するための布石である事は知っている。
だが今回ばかりはヒイロのその心中が五飛には全く予想出来ないでいた。
「何故だ。お前に俺と敵対する理由があるとは思えんが」
「何故、か……それは俺にも分からない、ただそうしたいと思っただけだ。俺は俺の感情に従ったに過ぎん」
普段は冷徹に任務を遂行する優秀なエージェントなのだが、時折こういう人間臭さを見せるのがヒイロである。
恐らくはこれが彼本来の性格なのであろうが、その為にこんな危険に晒される身としては堪った物では無い。
「お前達、揃いも揃って一体何を考えている!」
「それはないんじゃねえの? 俺達はただお前と話がしたいだけだぜ?」
「ここまで人を追い掛け回しておいてよく言う……」
「お前が協力的じゃないからだよ。素直に吐いてくれりゃあ、こんな手荒な真似はせずに済んだんだ」
激昂する五飛とは対照的に、肩を竦めた素振りをしながらそう答えるデュオ。
「五飛、これ以上抵抗は止めてください。僕達は本当は君を傷付けたくはないんです」
「俺達であっても情報を漏らす事に抵抗は有るかも知れんが、大人しく話してしまった方がいい」
本来ならば無用な戦いを嫌うカトルとトロワですらデュオの側に付き、畳み掛ける様に五飛を言いくるめようとして来る。
カトルとトロワが漂わせる優しさと穏やかさが、彼らの言い分に説得力を増したかのような錯覚すら受けた。
だが五飛の答えなど最初から決まっている。
「例え何と言われようと……嫌なものは嫌だ」
何とも言い様の無い沈黙が五人を包んだ。
「……んにゃぁああんもうこの石頭! どうしてそうなんだお前は!」
その沈黙を打ち破ったのは、先程までの張り詰めた口調とはうって変わって甲高い声を上げたデュオであった。
それまでの張り詰めた空気から一転、心なしか部屋自体も明るくなった気がした。
「俺達はな、ちょっとお前と中国のお嬢さんがどんな関係なのかなーって聞いてるだけじゃねえか! 青少年の素直な好奇心だろう!?」
「何故俺がお前たちの好奇心を満たさなくてはならんのだ!」
そう、この四人はその為だけにわざわざ警備システムをフル稼働させたのだった。
目的は只一つ、五飛と凰鈴音の仲がどういったものなのか、若しくはどこまで進んでいるのかを本人の口から聞きたいが為だけに。
「冷たい事言うなよー俺達親友だろー?」
「何時そんな物になった……!」
「んもーぅ、ごひのい・け・ず」
肩を組んでくるデュオをあしらう五飛。
他の四人はそこまで饒舌というわけでもなく、寡黙といっていい者が半分以上を占めるこの中にあって何故デュオだけがこうもお喋りなのだろうか。
「そもそも何故ヒイロまでがこの輪の中に居るのだ。もう少しまともな男だと思っていたが、俺の買い被りだったようだな」
「さっきも言っただろう、感情で動く事は人間として自然な行動だ」
「そう言ってやるなよ、きっとお前の話を聞いてリリーナ嬢との参考にするつもりなんだろうさ」
「デュオ、それ以上喋ればお前を殺す」
ちなみにヒイロがこう言って本当に殺した相手は居ない。
逆を言えばヒイロが殺すと言った相手は十中八九今も存命している。その事を知っていてか睨みを利かされたデュオも口笛を吹いてどこ吹く風である。
「御免なさい五飛、でもやっぱり気になっちゃって。こんな手段でも取らないと君は教えてくれないでしょう?」
「しかし本当の所はどうなんだ。正直に言ってしまえばこれ以上煩わされる事もないぞ」
「……っ……」
カトルとトロワの問いに思わず言葉を詰まらせてしまった五飛。その原因は、そういわれて思い浮かべた鈴の姿がよりにもよって『あの瞬間』だからであった。
「黙っているという事は……言えない程進展した関係だという事か……?」
「ち、違う! 俺は別にそんな事はしていない!」
「そんな事ぉ~? そんな事ってどんな事だよ~? 吐いちまえば楽になるぜ~」
「うおおおっ!?」
四人ににじり寄られて視界が塞がれた所で、五飛の意識は闇に落ちた。
----------------
ベッドから跳ね起きた五飛の視界に最初に飛び込んで来たのは、唖然とした一夏の顔であった。
まさかの悪夢である。しかもとんでもなくふざけた内容の。
「あー……大丈夫か五飛? いやしかし五飛が悪夢にうなされるなんて、五飛にも怖いものってあるんだな」
「……俺とて木石から生まれたわけでは無い……」
邪念を振り払うように首を振る五飛。
先のプール以来鈴は多少は大人しくなったと感じるが、今度は逆に一夏と五飛が特にする事も無い夏休み、日がな一日思い思いの行動をするか訓練に明け暮れるかのどちらかという、籠りがちな日々を送っていた。
「……少し外に出てくる」
「夕飯までには帰ってこいよー」
払拭する為にも、じっとしているよりはマシと思い立ち外出の意を決する五飛に対し、遊びに出かける子供を見送る母親の様な声を掛ける一夏だった。
五飛は疲れていた。肉体的にでは無く、精神的な面で疲労が蓄積されていた。
精神疲労に加えて、「あのような物」を目の当たりにしてしまっては、悪夢を見るのも致し方ないと心の中で言い訳をしていた。
あのような物扱いされた鈴が聞けば怒る話ではあるが。
しかし外に出たものの、五飛に外出の当てなど無かった。まともに街を歩くのは臨海学校の準備以来であり、別段欲しい物があったわけでもない。
加えて着の身着のまま、居た堪れない気持ちから飛び出してきてしまっていたので服装は制服姿、街中では良くも悪くも目立ってしまう装いだった。
ふと五飛がある飲食店の前で足を止めた。その店は龍鳴軒と書かれた看板と外観の装いから、中華系の飲食店であることが伺える。
IS学園とモノレールで直結している駅であるこの場所は、IS学園生徒とその関係者の為に各国の本格的な飲食衣料店が揃っており、この店もその内の一軒なのだろう。
たまには故郷の空気と味を思い出すのも悪くない。そんな軽い気持ちで店内に足を踏み入れたのだったが、結果としてこれが更なる疲労の原因となる事を知る由は無かった。
「欢迎光临! いらっしゃいま……せいッッ!」
煌びやかな刺繍の入った、深めのスリットが眩しいチャイナドレスを着た従業員の女性が中国語を交えた挨拶で五飛を出迎えた。
だが五飛の顔を見るが早いが、なぜか挨拶と共に崩拳を繰り出して来たのであった。
「……この店は客が入ってきたら突きを繰り出すのか」
「いや、その、あ、あははは……」
不意打ちにも関わらず、顔面に向けて繰り出された拳を掴み防いだ五飛はこの無礼な振る舞いに眉一つ動かさなかった。
何故ならば、顔を真っ赤にしながら突きを繰り出し、深めのスリットを申し訳程度に手で覆い隠そうとしている従業員は、凰鈴音その人であったから。
----------------
注文を待っている間、周囲の客を観察している五飛だったがここでもやはりあのテンションに当てられていた。
「おい同志、今すぐ龍鳴軒に来い! なう!」
「鈴ちゃんだ、あれは鈴ちゃんの花なんだよ!」
「アイエエエ?! ナンデ? 鈴ちゃんナンデ!?」
一部の客はプールに居たのと同様に妙に高いテンションを見せており、ここに居ないであろう仲間にしきりに連絡を取っている姿が見受けられる。
新たに来店した客の中にも、鈴の存在に気付いて混乱と同時にテンションを上げる客も少なからず存在した。
だが決して粗野な振る舞いはせず、まさに夢心地のような表情で鈴の対応を眺めては茶を飲んでいるだけなので、他の客にとってもそれだけの話であった。
「はーいプーアル茶と点心お待ちどうさまーと同時にちょっと休憩っと」
盆にティーポットと小さな蒸籠を五飛の席に運んでくる鈴。それと同時に勝手になのか規定通りなのか休憩を宣言し、五飛の対面の席にどっかと座った。
「随分と馴れた動きだな」
「まあ昔は両親のお店も手伝ってたし、あたしもこのお店結構気に入ってるから困ったときはお互い様の精神って事で」
鈴の話に耳を傾けながら茶を飲み始める五飛。確かにこの店の茶は中々の上物であった。
中国本土で消費される中国茶には大きく六種類に分けられ、プーアル茶はこの六種類中唯一、微生物による発酵が施された黒茶という種類に分類される。
他の五種とは異なり、新鮮なものではなく長期に亘って発酵させたものが珍重され、存期間は長いもので数十年、ワイン並みのビンテージも存在するという。
「ところでどう? どう? これ見て何か言う事があるんじゃないの?」
すっくと立ち上がり、その場で裾を翻しながら一回転して見せる。
出会い頭に恥じらいはみせたものの、服装そのものはどうやら気に入っている様であった。
「……似合っているんじゃないか」
「でしょー♪ 目に焼き付けておきなさい、こんな恰好普段はまず見れないんだから」
だったら最初にかましてきた突きは何だったのだと言いたくなった五飛であったが、周囲の羨望とも嫉妬とも取れる視線が針の筵の如く突き刺さっている手前、店内の平穏を保つ為にも五飛は迂闊に言葉を続けなかった。
暫し他愛もない会話のやり取りを続け、再び仕事に戻ろうと鈴が席を立った、その時。
「全員動くんじゃねえ!」
入り口の扉を破らんばかりに三人の男がなだれ込んできて怒号を発した。
店内に居た客の殆どは、何が起こったのか即時理解出来ていない様子だったが、三人の内一人が手に持った拳銃を天井に向けて威嚇射撃を行った。
乾いた発砲音が響くと同時に天井の蛍光灯が割られ、途端に悲鳴を上げ始める。
「騒ぐんじゃねえ! 静かにしろ!」
男達の容貌は中肉中背、この暑い中それだけで一種異様な揃えの黒のジャンパーにジーパン、顔は覆面で隠し、手には銃が握られている。
背中に背負ったバッグからは紙幣の束が飛び出して見えている。明らかに犯行直後の強盗団である。
「犯人に告ぐ。君達は既に包囲されている、大人しく投降しなさい。抵抗は無意味だ」
だが駅前の一等地だけに警察機関の対応も素早く、既に道路の封鎖と店の周囲を取り囲む機動隊員達が包囲網を作っていた。
拡声器を通した説得が周囲に響き渡り、三人の内の一人が明らかに動揺を見せている。
「ど、どうします兄貴、このままじゃ俺達……」
「狼狽えるんじゃあない! 強盗は狼狽えないっ! おい警官共、人質を無事に返して欲しけりゃ車を用意しろ! 当然発信機なんかつけたら……」
手下風の男が狼狽えるもそれを一喝し、リーダー格の男は扉から半身だけ外に乗り出し拳銃を突きつけながら叫んだ。
言葉を途切れさせ、停めてあったパトカーのフロントガラスに向けて発砲した事で周囲の野次馬もパニックに陥っている。
五飛は頭を抱え盛大に溜息をついていた。一夏といい鈴といい、一緒に居ると何故こうもトラブルに巻き込まれるのだろうか。
一瞬だけ己の不運を呪ったが、次の瞬間にはこの事態に対処すべく即座に思考を切り替えていた。
勿論この事態に対処しようとしているのは鈴も同じであるが、彼女もまた五飛とは別のベクトルで己の不運を嘆いていた。
誰にも告げていない、むしろ突発的に請け負う事になった今日のアルバイト。そこにまさか五飛が現れるとは思ってもみておらず、この衣装で会うという事にちょっとした恥ずかしさはあったが偶然にも同じ空間に居れる事が純粋に嬉しかった。
五飛にとっては特に何もする事が無いという理由だけで店に長居していたのだが、鈴にとっては五飛のその姿が「彼女のバイト上がりを待つ彼氏」のような感覚に映っており、周囲の男たちに負けず劣らず夢心地だったのだ。
たとえ現実は程遠くとも、そのような甘い妄想の一時を邪魔されたのだ。自然と笑顔の裏には修羅が生まれていた。
「何だお前ら、座っていろと言ったのが聞こえなかったのか」
戦々恐々としてる店内にあって、身じろぎもせずに立っている男女に気付く強盗の男。どちらもごく自然体といった様子でその場に立っている。
ただ二人とも違うのは、五飛は目が合っただけで斬られてしまうのではないかと思えるような刃を連想させる鋭く冷たい視線、方や鈴は何故かニコニコと満面の笑みを浮かべているが、底にはうすら寒い冷気を感じさせる程の怒りを隠している。
この時強盗が犯した過ちは、五飛と鈴の存在を知らずこの店を籠城先に選んだ事と、あれだけ報道されていた五飛の顔を知らなかった世情の疎さである。
「おい聞こえないのか! それとも日本語が通じないのか!」
段々と怒気を孕んだ言葉になり、右手に持った拳銃を振りかざすリーダー格の男。
「まあまあいいじゃないすか兄貴、どうせ時間はたっぷりあるんだからこの子に接客して貰いましょうよ」
「お前は何を言っているんだ」
「だってホラ! すっげーかわ……い……」
リーダーの一喝により調子を取り戻した手下らしき男が、リーダー格の男をなだめつつ鈴に視線を向ける。
まず鈴の足元に視線を向け、段々と顔に近づくにつれていったのだが、何故か徐々に言葉を失っていった。
「おいどうした、そんなに見とれる程の女か? まだガキじゃねえか」
「……う……」
「う?」
「うわあああああ鈴ちゃんだあああああ!!」
突如として手下風の男の一人がそう叫んだ。 仲間の突然の奇行に驚き呆気に取られる二人は、当然隙だらけの死に体を晒す事になる。
鈴は瞬時に非固定浮遊武装のみを部分展開させ、出力を最低レベルまで落とした龍咆を強盗のリーダーらしき男に向けて放った。
出力を落としてあるとはいえ第三世代IS兵器、当然男は衝撃砲を防ぐ術も無く、ガラスを盛大にぶち破って店の外に吹き飛ばされた。
死にはしないであろう力に留めてはあるが、運が悪ければ肋骨に皹くらいは入っているだろう。
何が起こったか分からないのは外も同じで、機動隊は一瞬呆気に取られたが男の手から拳銃が離れているのを確認すると即座に取り押さえに向かっている。
「あっ兄貴っ!?」
リーダー格の男性が吹き飛ばされ、二人居た手下格の男の残り一人が咄嗟に吹き飛ばされたリーダー格の男へと顔を向けた。
こちらも五飛や鈴がIS専用機の搭乗者である事を知らないのか、何が起こったのかすら分からず、状況を判断できていないようだ。その隙を五飛が見逃す筈は無い。
テーブルを踏み台に跳ね、天井を蹴った勢いから跳び蹴りを繰り出す。不意を突かれた事に加えて、屋内ではおよそ予想し得ない視界上空からの急襲。
男が五飛に気付いて五飛に向き直るも時既に遅し、足刀は強盗の顎に吸い込まれるように刺さり、男は膝を伸ばしたまま立位体前屈をするかのように頭から床へと沈んで行った。
意識を刈り取られた者の特徴、絶対に起き上がれない倒れ方である。
「この程度の状況でISを使わねばならんとはまだまだだな……さて」
「ふんだ、あたしみたいにか弱い女の子とあんたを一緒にするんじゃないわよ……残りは」
二人が同時に奇声を上げた男の方を振り向くが、そちらは既に対処の必要は無かった。
「降参、降参します!」
「ありゃ?」
不思議な事にこちらが何か動く前から既に敗北宣言をしていた。 手に持っていた銃も床に捨て、その両手を天高く突き上げている。
だが次に男の口から紡がれた言葉は、少なくとも鈴の怒りを爆発させるには十分な台詞であった。
「あのー……降参しますから代わりに鈴ちゃんのサインを……」
両手を上げ、どちらが人質だったのか分からない姿を維持したまま、この場にそぐわない余りにも間抜けな発言。
場違い且つ己の立場を弁えない強盗の一人に、呆れと怒りを覚えた鈴の返答は。
「……ふん!」
「ありがとうございましたばっ!!」
無抵抗の男への顔面に跳び蹴りをかます事だった。
蹴られたというのに礼を述べる男も奇妙であったが、その顔には確かに鈴の靴跡がくっきりと印鑑を押されたように残っていた。
「……み、緑……」
謎の言葉を残して、強盗の最後の一人が冷たい床へ沈んだ。
その言葉の意味を理解出来たのは、その一言を聞いて顔を赤くした鈴とその傍らに居た五飛のみであった。
----------------
「あああああー! 鈴ちゃーん!」
「暴れんなよ! 暴れんな! 大人しく乗れ!」
「何でこいつこんなに鈴ちゃん好きなの!?」
突入してきた警察に捕えられた強盗一味だが、例の鈴にサインを強請った者は最後までパトカーに乗せられるのに抵抗して鈴の名を叫び続けていた。
先日もそうであったが、この国の代表候補生ファンはその人格を問わず一様に同じ行動を取るのが不思議である。
その滑稽な姿を店の中から遠巻きに見つめていた、この事件を解決した立役者はと言うと。
「……帰るぞ、これ以上留まっていては面倒な事になる」
「そうね……日給パーになっちゃうけど面倒は御免だしね。むしろガラス割っちゃったから弁償だわあたし……」
警察の居合わせた人間への事情聴取が始まる前にそそくさとその場を離れていった。
IS学園の生徒と言うだけでも扱いが難しくなるし、特に鈴は緊急時だったとはいえ、指定区域外で無許可にISを起動させてしまっているのでこの事が学園に知られると千冬から何を言われるか分かったものでは無かった。
----------------
「そういえば今日、駅前で立てこもり事件があったんだってな」
その日の夜、何時もの様に五飛と一夏の部屋に転がり込んでいる鈴を交えて寛いでいる最中、一夏が思い出した様に口を開いた。
五飛はページをめくろうとした本を読む手を一瞬止め、鈴はベッドの上で雑誌を読みながらパタパタと動かしていた両脚をぴたりと止めた。
「五飛は巻き込まれなくてツイてたなあ、駅前に行ったんだろ?」
「……ああ、俺は特にそういう事件には遭遇しなかったな」
本を読む手を再開させつつ、努めて平静にそう答えた。
「しかも話じゃあチャイナドレス来た女性が犯人をぶっ飛ばしたんだってさ、映画とかドラマみたいな事ってあるんだな」
「事実は小説より奇なりってやつねー」
話はそこで途切れ、再び思い思いの行動に戻る。
五飛は制服を着ていた自分が話題に上っていない事に、鈴は話が伝播して行く過程で誇張が混じった事により自分が特定されていない事に心中で安堵していた。
立秋を過ぎ、夏も漸く折り返しに近づいている。