幼い日の約束   作:mairu_i

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1日目 - 前編 二人だけの普通

ある日の夜、夕食後の片付けが終わり、家の中が落ち着いた空気に満たされる頃。

ななはスリッパの軽い足音を響かせ、二階の廊下を進む。目的の部屋の前で立ち止まり、控えめに、こつんと扉をノックした。

 

「お兄ちゃん、入るね」

 

小さな声でそう断ってから、ゆっくりとドアノブを回す。

 

部屋の中はデスクライトの柔らかい光に照らされていた。本棚には専門書がずらりと並び、その光の中に、兄である凪の背中が見えた。彼は静かに集中しながら、論文を読んでいたようだった。

 

ななの気配に気づくと、凪は読んでいた本から顔を上げた。集中の糸がふっと緩み、その表情に穏やかな笑みが浮かぶ。

 

「ああ、なな。おいで」

 

優しい声に迎えられ、ななは部屋に一歩足を踏み入れると、後ろ手でそっと扉を閉めた。外の世界から切り離されたかのような、二人だけの静かで安心できる時間が始まる。

 

ななは『おいで』という兄の声に頷き、慣れた様子でベッドの端に腰を下ろす。そこは彼女にとって、家の中で一番落ち着ける特等席だった。凪はデスクチェアを静かに回転させ、ななの方へ向き直る。その眼差しは、世界で一番大切な妹に向けた優しさに満ちていた。

 

「学校、どうだった? 今日も楽しかったかい」

 

凪が穏やかに尋ねる。ななはこくりと頷いた。

 

「うん。うたちゃんがね、休み時間にまた即興で歌を作ってて。それがすごく面白かったの。こころちゃんも、新しいダンスのステップができたって喜んでたよ」

 

親友たちの顔を思い浮かべ、ななの口元が自然とほころぶ。親友たちと過ごす日々の輝きは、何一つ変わらない大切な宝物だった。

 

「そうか。ななは本当に良い友達に恵まれているな。それが何よりだ」

 

「お兄ちゃんは? 大学の勉強、大変だった?」

 

「大変というより、今日は興味深い論文があってね。昔の哲学者が考えていた『幸福論』についての話だったんだけど」

 

凪は難しい内容をななにも分かるように、言葉を噛み砕いてゆっくりと語り始める。ななは目を輝かせながら、兄の話に聞き入った。学校のこと、友達のこと、兄の学ぶ知的な世界のこと。他愛のない会話が、窓の外の静かな夜に優しく溶けていく。兄と過ごすこの何気ない時間こそ、ななにとっては何よりの心の栄養だった。

 

兄の言葉にななは嬉しそうに微笑む。その笑顔を見ながら、凪はななの言葉の中にあった一つの名前に思いを巡らせた。

 

「さっき言ってた、こころちゃん。一つ下の後輩の子だよね。最近、特に仲が良いのかい?」

 

「うん」ななはこくりと頷く。「すごく真面目で、いい子なの。ダンスが本当に大好きで…見てると、こっちまで元気をもらえるような、一生懸命な踊りをするんだ」

 

ななは、後輩であり共に戦う仲間でもある少女の姿を思い浮かべた。ひたむきな彼女の情熱は、いつもななに良い刺激を与えてくれていた。

 

「私にはないものを持ってて、すごいなって。尊敬しちゃう」

 

素直な気持ちを口にすると、凪はななの頭を優しく撫でた。

 

(ななは他人の良いところを見つけるのが上手いな)

凪は続けて思う。

(他人の輝きを真っ直ぐに見つめて、それを自分のことのように喜べる。そういう素直さがななの美しさだ。その一方で、ななは自分自身が放つ輝きには、少し無頓着すぎるきらいがある。)

 

「ピアノを弾く時のななは、俺の目から見ても本当に輝いているよ」

 

その温かい言葉に、ななは顔を赤らめ、嬉しそうに「ありがとう」と呟いた。

 

凪は楽しそうに話す妹の顔を見ながら、ふと気づいたように言った。

 

「そういえば、最近ななは、そのうたちゃんとこころちゃんと三人でいることが多いんじゃないか? 学校から帰ってくる時も、時々見かけるよ。すごく楽しそうに話してる」

 

兄の言葉に、ななは少し驚いたように目を丸くする。自分たちのことをそんな風に見ていてくれたんだ、と。

 

「うん、そうかも。うたちゃんはいつも明るくて、こころちゃんは一生懸命で…。三人でいると、なんだかすごく自然体でいられるの。気づいたら、いつも一緒にいる感じ」

 

プリキュアとして共に戦うようになってから、三人の絆は急速に深まっていた。学校でも放課後でも、自然と三人で集まるのが当たり前になっていた。それは、言葉にしなくてもお互いを理解し支え合える、かけがえのない関係だった。

 

「そうか」と呟きながら凪は穏やかに微笑む。「良い友達ができて、兄さんも嬉しいよ。これからも仲良くできるといいな」

 

「うん」

 

ななは力強く頷いた。その胸には、親友たちへの温かい気持ちと、それを理解してくれる兄への感謝がじんわりと広がっていた。

 

ひとしきり話した後、凪はふと壁の時計に目をやった。

 

「さてと…。なな、そろそろ宿題の時間じゃないかい?」

 

兄に言われ、ななも時計を見てこくりと頷く。

「あ、ほんとだ。うん、教科書取ってくるね」

 

それが蒼風家のいつもの日課の合図だった。ななが自分の部屋へ教科書を取りに戻る短い時間に、凪は自分が読んでいた本に栞を挟み、デスクの片隅を彼女のために空けておく。

 

やがて、夏休みの課題であるワークやノートを抱えたななが戻ってきた。兄の隣、当たり前のように用意された席に座ると、彼女は「ありがとう」と小さく言って筆箱を開ける。

 

凪は再び自分の読書に意識を沈め、ななは数学の最初の問題に取り掛かる。デスクライトが落とす影の中で、カリカリという鉛筆の音と、時折ページをめくる乾いた音だけが部屋の静寂を満たしていく。わからない問題が出てきたら、隣にいる世界一信頼できる先生に質問すればいい。その安心感がななの集中力を一層高めてくれるのだった。

 

ななが二問目の問題に取り掛かっていた時、凪のデスクに置いてあったタブレットから、ピコンと軽やかな通知音が響いた。画面には、異国の国旗と共に登録された両親の名前が表示されている。

 

「あ、母さんたちからだ。なな、少し手を止めて」

「うん」

 

それが、月に数回の大切な家族の時間。

ななは鉛筆を置き、凪は慣れた手つきで通話ボタンをタップする。画面いっぱいに、時差を感じさせない明るい笑顔が二つ映し出された。背景に見えるのは、いかにもヨーロッパらしい石造りの美しいホテルの一室だ。

 

『ナギ! ナナ! 元気にしてる?』

 

画面の向こうで手を振るのは、世界的なピアニストである母だ。まだコンサートの興奮が冷めやらないのか、その声は弾んでいる。その隣で穏やかに微笑みながらタブレットを支えているのが父だった。

 

「お疲れさま、母さん、父さん。コンサート成功おめでとう」

凪が落ち着いた声で応じる。

 

『ええ、今日も満員御礼よ! あなたたちにも聴かせたかったわ!』

『二人とも変わりないか? なな、夏バテしてないかい?』

 

父の優しい声に、ななは「大丈夫だよ、お父さん」と少しはにかみながら答えた。母のステージのこと、現地の天気のこと、たわいもない会話が続く。遠く離れていても、愛情は確かに画面越しに伝わってくる。

 

『それで、ななは最近ピアノ弾いてる? またコンクールにも挑戦しなさいね!』

 

母の悪気のない一言に、ななの表情がわずかに曇ったのを、凪は見逃さなかった。彼はすかさず、ななの肩を軽く抱き寄せながら会話を引き取る。

 

「もちろん弾いてるよ。最近は、学校の友達と合わせるのが楽しいみたいだ。な、なな」

「え…? あ、うん!」

 

兄の優しいフォローに、ななは力強く頷く。

短いビデオ通話が終わり画面が暗くなると、部屋にはまた静寂が戻った。しかしその静けさは、先ほどまでのものとは少しだけ違う、寂しさと安堵が入り混じったような不思議な空気をまとっている。

 

凪は何も言わず、ななの頭をもう一度優しく撫でた。それだけで、ななの心は温かいもので満たされる。両親がいない寂しさも、偉大な母を持つプレッシャーも、この兄がいるだけで乗り越えていける気がした。

 

「さ、宿題の続きをしようか」

「うん」

 

ななはもう一度鉛筆を握り直し、問題用紙に向かった。

 

無事に最後の問題まで解き終え、ななは「できた…!」と小さく呟き、ぐっと背伸びをした。やり遂げた満足感と、少しの疲労感。しかし、ななの心はまだ兄との時間を求めていた。自分の部屋に戻るには、まだ少し早い気がしたのだ。

 

その気持ちを察したかのように、兄が読んでいた本を閉じ、ななの方へ向き直った。

 

「お疲れさま、なな。頑張ったな」

「うん。お兄ちゃんが教えてくれたから」

 

ななはそう言うと、宿題を片付けるでもなく、椅子に座ったまま兄の顔を見上げる。その瞳は「まだ話したい」と雄弁に語っていた。

凪はくすりと笑う。

「なんだ? まだ話し足りない、という顔をしてるぞ」

「…わかる?」

「当たり前だろ。兄さんを誰だと思ってるんだ」

 

彼はそう言って、ななの鼻を軽くつんとつついた。その子供扱いが、ななは少し照れくさくもあり、たまらなく嬉しかった。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

ななは、先ほどのビデオ通話で少しだけ胸につかえていたことを、ぽつりとこぼし始めた。

 

「母さん、またコンクールのこと言ってたね…」

「ああ…」

「私、母さんみたいにはなれないよ。あんなにすごいピアニストには…」

 

それはなながずっと抱えてきた小さなコンプレックスだった。偉大な母を持つ娘としての喜びと、そして重圧。

 

凪は妹の繊細な心の揺れを、いつものように静かに受け止める。

「ななは、母さんになる必要はないんだよ」

彼の声は、夜の静けさによく馴染む穏やかな響きを持っていた。

 

「ななには、ななのピアノがある。うたちゃんやこころちゃんが大好きだと言ってくれる、ななだけの音色が。俺はその音が世界で一番好きだ」

 

兄の真っ直ぐな言葉が、ななの心の隅々までじんわりと染み渡っていく。そうだ、自分は一人じゃない。自分の音を好きだと言ってくれる人が、すぐそばにいる。

 

「…ありがとう、お兄ちゃん」

 

ななの声は少しだけ震えていた。でも、その表情は先ほどよりもずっと晴れやかだった。

こうして兄と他愛のない言葉を交わすだけで、どんな不安も少しずつ溶けていく。蒼風家の夜は、そんな優しい時間と共に静かに更けていくのだった。

 

兄との会話に夢中になっていると、いつの間にか時計の針はお風呂の時間を示していた。

 

「おっと、もうこんな時間か。なな、先にお風呂に入っておいで。兄さんはもう少しだけ調べ物をしてからにするよ」

「ううん、私ももう少しここにいる。お兄ちゃんが先に入ってきていいよ」

 

ななはそう言って、兄のベッドにこてんと寝転がった。その様子に苦笑しながら、兄は「わかった。じゃあお言葉に甘えて」と部屋を出てバスルームへと向かっていった。

 

しばらくして、階下からシャワーの音が聞こえてくる。ななは天井を眺めながら、今日の出来事をぼんやりと思い返していた。うたちゃんのこと、こころちゃんのこと、そして優しい兄のこと。

 

シャワーの音が止み、湯船にお湯が張られる音が聞こえ始める。

ななはむくりと起き上がると、自分の部屋で着替えとタオルを手に取り、迷いのない足取りでバスルームへと向かった。

 

脱衣所で服を脱ぎ、そっと浴室のドアを開ける。湯気が立ち込める中、兄の背中が湯船に浸かっているのが見えた。

 

「お兄ちゃん」

 

ななが声をかけると、兄がゆっくりと振り返る。驚いた様子は全くない。

 

「ああ、ななか。やっぱり来たんだな」

 

その声は、全てを分かっているかのように穏やかだった。ななは「うん」と小さく頷くと、かけ湯をして、兄がスペースを空けてくれた湯船に、静かに入った。温かいお湯がじんわりと体を包み込んでいく。それは兄の優しさそのもののようだった。

 

ななが湯船に体を沈めると、ふぅ、と安堵のため息が自然と漏れた。じんわりと染み渡るお湯の熱が、一日の疲れだけでなく心の奥に残る小さなこわばりまで、ゆっくりと解きほぐしていく。

 

ちゃぷん、とお湯が立てる小さな音だけが湯気のこもったバスルームに響く。言葉はなかった。でも、それで十分だった。隣にいる兄の穏やかな気配、時折触れる肩のぬくもり。その一つ一つが、ななの心を深い安らぎで満たしていく。

 

(お兄ちゃんがいると、安心する…)

 

ななはそっと目を閉じた。

 

先ほどの兄の言葉が、お湯の熱と共に心に溶けていくようだった。『ななには、ななだけの音色がある』。その言葉が魔法のようにななを優しく包み込む。今はすべてを忘れて、ただの「なな」に戻れる時間。

 

この温かいお湯と、隣にいる兄の体温。

それがななが明日もまた頑張るための、誰にも言えない秘密のエネルギー源なのだった。

 

ふと隣で目を閉じるななの気配を感じながら、凪は思う。

 

客観的に見れば、これは不思議な光景なのかもしれない。年頃の妹が、大学生の兄と、当たり前のように一緒にお風呂に入っている。大学の友人が聞けば、きっと目を丸くして驚くだろう。思春期にもなれば、兄妹など互いに距離を取るのが普通だと。

 

(だが、余所は余所、うちはうちだ)

 

凪は心の中で静かに呟く。

 

両親が海外で活躍する道を選んでから、この家で自分たちは二人で支え合ってきた。自分が兄として、時には親の代わりとして、この子の心を守らなくてはならない。そう決意した日から、蒼風家の「普通」は世間の「普通」とは少しだけ違っている。

 

なながどれだけ繊細で、どれだけのものを背負っているか。その重圧と戦っているか。凪は誰よりも理解しているつもりだった。

 

だから、彼女がこうして兄を頼り、心の鎧をすべて脱ぎ捨てて無防備な姿を晒してくれるのなら。それを受け止め、彼女が心から安らげる場所であり続けることこそが、自分の役割なのだ。

 

隣で安心しきった寝息を立てる妹の横顔を見ていると、何もおかしいことなどないのだと凪は確信するのだった。

 

凪は、隣で無防備に身を預ける妹を見つめていた。

 

普段、学校やピアノ、そして彼女が口にしない何かと向き合い、一生懸命に頑張っている姿。そして今、自分の隣で、すべての鎧を脱ぎ捨てて、心の底から安心しきっている姿。その対比が、どうしようもない愛おしさを彼の胸に込み上げさせた。

 

目の前で、自分にすべてを預けてくれる、なな。

この子こそが、世界でたった一人の俺の妹。

俺がこの手で守り抜くと決めた、かけがえのない宝物だ。

 

彼女の温もりを、この無防備な信頼を、確かめずにはいられなかった。

凪はそっと腕を伸ばし、ななの華奢な肩を、祈るようにゆっくりと引き寄せた。お湯の抵抗を感じながら、彼女の体を優しく包み込む。

 

「…ん…」

 

ななの体がびくっと小さく震えたが、それが兄の腕だとわかると、すぐにその力を抜いた。何が起きたのかを問うでもなく、ただされるがままに。

 

兄の胸に、ななの背中がそっと触れる。どくん、どくんと彼の心臓の音が、お湯の熱と共に伝わってくるようだった。それはななが知っている、世界で一番安心できる音。

 

ななは再びゆっくりと目を閉じ、その温かい抱擁に、すべての身と心を預けた。

 

お風呂から上がり髪を乾かしたななは、少し眠そうに目をこすっていた。その様子を見て兄は優しく微笑む。

 

「なな、もう眠いだろう。今日は自分のベッドでゆっくりおやすみ」

「…うん。お兄ちゃん、おやすみなさい」

 

名残惜しそうにしながらも、ななはこくりと頷き、自分の部屋へと戻っていった。ぱたん、と閉まるドアの音を聞き届け、凪は一人、静かになった自室で息をつく。

 

 

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