幼い日の約束   作:mairu_i

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5日目 - 後編 薄氷の笑顔

一方その頃、凪は昨日と同じ時間、大学のテニスコートに立っていた。

二日続けて顔を出した彼を、仲間たちは少しだけ驚きながらも快く練習の輪に迎え入れる。

 

今日の練習メニューは、ストロークを中心とした基礎練習だった。

コートを挟んで、リズミカルにボールを打ち合う。自分の思考を、ラケットの一点に、ボールの軌道だけに、無理やり集中させる。そうでもしなければ、家のソファに一人で座り込んでいる妹の幻影に、心が引き戻されそうだった。

 

パンッ、パンッと心地よい打球音が続く。

もちろん、その練習のペアの相手は───

 

向かいのコートに立つ昨日と同じ、せつ菜だった。

彼女も、特に何かを話すわけではない。ただ、ひたむきな、真剣な眼差しで、凪の打つボールを、正確に、そして力強く打ち返してくる。

 

その、テニスだけに集中している純粋な時間が、今の凪にとっては、何よりの救いだった。

 

やがて、全体での基礎練習が一段落し、個別練習の時間へと移った。ゲームを始めるペアもいれば、休憩に入って談笑する仲間たちもいた。その中で凪は、せつ菜の要望に応え、彼女のフォームをより細かく見てやっていた。

 

「サーブの時、少しだけ左肩の開きが早いのかもしれない。もう少し体を捻る意識を…」

「はい…!」

 

凪は、ネットの向こう側から、せつ菜のいるコートへと移動する。

 

「すまない、少しだけ失礼」

 

彼はそう断ると、せつ菜の後ろに立ち、その腕をそっと取った。そして、ラケットの角度、体重移動のタイミングを、一つ一つ丁寧に確認させていく。

 

「インパクトの瞬間まで、左手はボールを指し示すように残すイメージで」

「なるほど…こう、ですか?」

 

せつ菜は、凪のアドバイスを、スポンジが水を吸うように素直に吸収していく。その瞳は、ただ純粋にテニスが上手くなりたいという、真剣な輝きに満ちていた。

 

誰かに何かを教え、それが相手の成長に繋がる。

その純粋な喜びに、凪はせつ菜との時間を心から楽しんだ。

 

◇ ◇ ◇

 

「はぁ…はぁ…! うた先輩、待ってください! 早いです…!」

 

喫茶グリッターを、文字通り飛び出してきたうた。その後ろを、こころは必死に、何とか遅れまいと付いていった。息を切らしながら、ようやくうたの隣に追いついた時、既にその場所は、昨日ななの時間が止まってしまった、あの大学のフェンスの前だった。

 

「うた、先輩…?」

 

うたは何も言わない。ただ、肩で大きく息をしながら、金網の向こう側を食い入るように見つめて、固まっている。

どうしたのだろうか。

こころもうたの視線の先を、息を整えながら注視する。

 

そして、言葉を失った。

 

目に入ってくる光景は───

 

夕暮れの静かな光に照らされたテニスコート。

そこに、ななの兄である、凪の姿があった。

そして、彼の前には昨日と同じ、あの息を呑むほど綺麗な、知らない女性が。

 

ななの兄とその女性との距離は、驚くほど近かった。

彼女の手に、自分の手を重ね、何かのアドバイスをしている様子だ。

 

二人の間には昨日ななが見た時よりも、もっとずっと近くて甘い空気が流れているように見えた。

 

「あ…」

 

こころの口から、か細い声が漏れる。

これが、ななをあそこまで追い詰めた原因。

これが、ななが隠していた、あまりにも残酷な、真実。

 

隣に立つうたの顔を、こころは恐る恐る見上げた。

うたの瞳には、驚きと、そして大切な友人を傷つけた「敵」に対する、静かで燃えるような、怒りの色が浮かんでいた。

 

「───行ってくる」

 

その一言と共に、うたはテニスコートの入り口ゲートへと、足を前に進めようとした。

 

「待ってください、うた先輩!」

 

だがその腕は後ろから、小さな、しかし驚くほど強い力で、ぐっと掴まれていた。

 

「離して、こころちゃん!」

うたが荒い声で叫ぶ。

 

「私、お兄さんに一言言ってやらないと気が済まない!ななちゃんを、あんなに苦しめて…!」

 

「ダメです!」

 

こころも叫び返す。言葉だけでは、今のうたは絶対に止まらない。こころは、うたの腕に自分の全体重を乗せるように、全力でしがみついた。

 

「今私たちが飛び出していって、何になるんですか!? 事情も知らないのに、大騒ぎして、なな先輩の立場をもっと悪くするだけです!」

「でも!」

「それに、なな先輩は、私たちに本当のことを話してくれていないんですよ!? 私たちが勝手な行動をしたら、もう二度と、私たちに心を開いてくれなくなるかもしれません!」

 

こころの必死で的確な言葉。それがようやく、怒りで燃え上がっていたうたの頭に、冷たい水を浴びせかけた。

 

「お願いします、うた先輩…! 今は、今はダメです…!」

 

こころの悲痛なほどの声。

うたは、振り払おうとしていた腕から、ゆっくりと力を抜いた。

 

「…じゃあ」

 

うたの声は怒りではなく、悔しさで震えていた。

 

「じゃあ、どうしろって言うのよ…。ななちゃん、一人で、泣いてるかもしれないのに…」

 

うたは、その場にがっくりと膝を付きそうになる。こころは、そんな彼女を離すまいと、ただ必死にその腕を掴み続けていた。

 

こころの必死の制止に、うたの荒々しい怒りが静かに萎んだ。

代わりに残ったのは、どうしようもない無力感と、自分の短絡的な行動への、深い自己嫌悪だった。

こころは、うたがもう走り出すことはないと分かると、掴んでいたその腕をそっと離した。

 

「………ごめん、こころちゃん」

 

うたは俯いたまま、消え入りそうな声でそう呟いた。

 

「私、カッとなっちゃって…。周りが、何も見えてなかった…。ななちゃんのこと助けたいのに、私が一番、ななちゃんを追い詰めるところだった…」

 

その後悔に満ちた声。

そして、うたはゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐにこころの瞳を見つめた。

 

「止めてくれて、ありがとう。こころちゃんがいなかったら、私、きっと、取り返しのつかないことをしてた」

 

その、素直な感謝の言葉に、こころは静かに、そして優しく首を横に振った。

 

「いえ…」

 

こころは、安心させるようにふわりと微笑む。

 

「うた先輩が、なな先輩を誰よりも大切に思っているからこその行動です。私、分かってます。…私も、気持ちは同じですから」

 

その言葉に、うたの目から堪えていた涙が、一筋だけぽろりとこぼれ落ちた。

うたは慌ててそれを乱暴に手の甲で拭う。

 

「…うん。…帰ろっか、こころちゃん」

「はい、うた先輩」

 

二人は、もう一度だけフェンスの向こう側に視線を向けた。

そこにいる、ななの兄とあの女性。

自分たちでは、まだどうすることもできない、大きすぎる問題。

 

今は一旦引くしかない。

二人は夕闇に包まれ始めた道を、肩を並べてゆっくり歩き始めた。

大切な友人を救う戦いは、まだ始まったばかりだ。

 

◇ ◇ ◇

 

うたとこころが去った後のコートにナイター照明が灯り、空の色が茜色から、深い藍色へと変わっていく。

ほとんどのサークル仲間は、もうとっくに引き上げていた。

だが、凪とせつ菜の二人は、時間の経過も忘れたかのように、ただ黙々とボールを打ち合っていた。

 

パンッ、パンッと静かになったコートに、心地よい打球音だけが響く。

 

(いつの間にか…)

 

凪はラリーを続けながら、ふと気づいていた。

 

(ななのことを、考えていなかった)

 

家の重たい空気。自分の醜い深層心理。妹との歪な関係性。

ここ数日、まるで呪いのように、彼の頭にこびりついて離れなかった、あのどろりとした思考。

それが、今この瞬間は綺麗に消え去っている。

 

代わりに、彼の心を占めているのは、目の前でひたむきにボールを追う、せつ菜の姿だった。

彼女の真剣な眼差し。正確なフォームから放たれる美しいショット。そして、良いプレーが決まった時にだけ見せる、あの屈託のない笑顔。

 

せつ菜と過ごす、このテニスだけの時間。

そこには、罪悪感も背徳感も、重すぎる責任もない。ただ、一つのことに打ち込む楽しさと、人と純粋に関わることの心地よさがあるだけだ。

 

凪は自覚していた。

この時間が、自分の中に占める割合が、ほんの数時間で急速に、そしてどんどん大きくなっていることを。

それは、彼にとって心地よい、救いのような時間だった。

 

練習が終わり、ラウンジでの談笑の時間。仲間たちとの軽口もそこそこに、凪は自然とせつ菜の隣に座っていた。今日の練習の反省点や、好きなプロ選手の話題。彼女との会話は、尽きることがなかった。

 

やがて、団らんの時間も終わり、それぞれが帰り支度を始める。凪も、ラケットバッグを肩にかけ、「お疲れ」と仲間たちに声をかけた。

 

その時だった。

 

「あの、凪さん」

 

背後からせつ菜の声がした。振り返ると、彼女は少しだけ、頬を赤らめながら、でも真っ直ぐな瞳で、凪を見つめていた。

 

「もし、明日、ご予定がなければ、なのですが…」

 

彼女は一度、ごくりと喉を鳴らす。

 

「駅前に新しくできた映画館で、観たい映画があって…。一人で行くのも、なんだか寂しいな、と…。一緒に行っていただけませんか?」

 

そのまっすぐな誘い。

凪の心臓が、どくん、と高く跳ねた。

 

(映画に…? 俺とせつ菜さんが…?)

 

それは、彼にとって、願ってもないことだった。

この、心地よい時間を、明日も彼女と共有できるという、抗いがたいほどの魅力的な提案。

 

罪悪感がなかったわけではない。妹が家で一人、待っている。

だが、今の彼にはこの誘いを断るという選択肢は、もはや存在しなかった。

 

「…ああ。もちろん、喜んで」

 

凪は、自分でも驚くほど穏やかで、そして、少しだけ浮き立った声でそう答えていた。

 

せつ菜と別れ、一人帰路に就く。

 

(明日、せつ菜さんと、映画に…)

 

その事実を反芻するだけで、自然と口元が緩んでしまう。明日という日が、ただやって来るだけの、いつもと同じ一日ではなく、待ち遠しい特別な一日に変わっていた。

彼女とどんな話をするだろうか。映画を見た後、少しお茶でもするのだろうか。そんな、ごく普通の大学生がするような想像が、今の凪には、ひどく新鮮で輝いて見えた。

 

やがて家の前に着く。

 

「ただいま」

 

案の定、ななの「おかえり」という声は、どこかよそよそしかった。

 

凪は、ななとの会話もそこそこに、汗を流すためすぐに風呂へと向かった。

湯船に浸かり、一人、天井を見上げる。

 

明日の、せつ菜さんとの楽しい時間。

その輝かしい光景を思い浮かべると同時に、家のリビングに一人きりでいるであろう、妹の小さな後ろ姿が、胸を締め付けた。

 

(これで、いいんだ)

 

彼は自分に言い聞かせる。

俺が外の世界に新しい関係を築くこと。それが巡り巡って、ななのためになる。そう信じるしかない。

 

結局、その日もななが風呂に入ってくることはなかった。

静かすぎるバスルームで、兄は明日への淡い期待と、妹への深い罪悪感との間で、ただ一人揺れ動いていた。

 

夕食の時間。

朝と同じように、二人は当たり障りのない会話を交わしながら、食卓に向かい合っていた。

 

「ななは、今日は一日家にいたのか?」

 

凪が尋ねると、ななは、こくりと頷いた。

 

「うん。たまには、こういう日もいいかなって。テレビを見たり、本を読んだり…」

 

そう言って、ななはへにゃりと笑う。

その笑顔は、昨日よりも少しだけ自然に見えた。だが、丸一日誰とも会わず、一人きりで、この重たい空気の家にいたのかと思うと、凪の胸がちくりと痛んだ。本当に大丈夫だったのだろうか。その小さな心配が、彼の心に影を落とす。

 

「…そうか。たまにはのんびりするのも、良いことだな」

 

凪は自分の不安を悟られまいと、そう言って話題を変えた。

 

「お兄ちゃんは、サークルどうだったの?」

「ああ。今日も、せつ菜さんにサーブを教えていたよ。彼女は、本当に熱心ですごいな」

 

凪はあえてその名前を口にした。昨日、この名前を出した瞬間に感じた、あのおぞましい悪寒。それが、本当に自分の幻覚だったのかを、確かめたいという気持ちがあったのかもしれない。

 

幸い、悪寒はなかった。

ななの表情も変わらない。ただ、「そうなんだ」と静かに相槌を打つだけだった。

 

ななの変わらない表情。それに凪はほんの少しだけ安堵していた。

このまま当たり障りのない会話を続ければ、今日の夕食も平穏に終えられるかもしれない。

だが、彼は首を振った。それでは意味がない。これはななのため、そして自分自身のための治療なのだから。

 

凪は一度、箸を置いた。

 

「…それで、なな」

 

改まった兄の口調に、なながきょとんとした顔でこちらを見る。

 

「明日なんだが…サークルはないんだが、その…せつ菜さんに、映画に誘われてな。少し、出かけてこようと思う」

 

彼は、努めて事務連絡のように淡々とそう告げた。

その言葉がななの耳に届いた、瞬間。

 

ピシリ、と。

ななの完璧な笑顔に、一本の亀裂が入った。

その表情から、すうっと、色が、感情が抜け落ちていく。

 

その亀裂から、冷たい何かが溢れ出すかのように。

凪の体の芯を、直接鷲掴みにされるかのような、暴力的で、絶対的な悪寒が襲った。

 

「…そう、なんだ」

 

ななの口から漏れたのは、感情というものが一切感じられない、ただの音の羅列だった。

 

「…よかったね、お兄ちゃん。楽しんできてね」

 

そう言って、ななは人形のような笑顔を浮かべ直した。

兄は微笑む妹と絶望的な悪寒との板挟みで、思考が崩れそうだった。

 

悪寒は、ゆっくりと、しかし確実に彼の体から引いていった。だが、その残滓が脳の奥に、べっとりとこびりついている。

 

凪は、目の前で完璧な笑顔を浮かべる妹から、目を逸らした。

 

(…まさか)

 

彼の頭の中に、一つの非現実的で、おぞましい仮説が芽生えていた。

コートで感じたあの悪寒。あの時もしかしたら、ななが近くにいて、見られていたのかもしれない。

今朝、サークルの話題を出した瞬間にも感じた、同様の気持ち悪さ。

そして、今、せつ菜との明日への約束を口にした瞬間に感じた、最大の、悪寒。

 

タイミングが合いすぎている。

まるで、ななの心が拒絶反応を示した瞬間に、呼応するようにこの現象は起きているのではないか。

 

この身を苛むほどの悪寒の正体は、ななが無意識に自分に向けて放っている、負の感情そのものなのではないか。

 

(…違う)

 

凪は、即座にその考えを心の奥底へと、無理やり押し込んだ。

そんな、馬鹿なことがあるはずがない。超能力やオカルトの類だ。ありえない。

俺が、疲れているだけだ。論文の読みすぎで、精神が過敏になっているだけなんだ。

 

そうだ。目の前のななは、笑顔で、「楽しんできてね」と、そう言ってくれたじゃないか。

これは、自分の幻覚なのだと。そう必死に、自分で自分を騙していた。

 

彼は、もう一度箸を取った。冷めた白米を、ただ機械的に口に運んだ。

もう、何も考えたくなかった。

 

夕食の片付けを、無言のまま機械的に終える。

ななも、何も言わずにそれを手伝っていた。

 

「…おやすみ、お兄ちゃん」

「ああ…おやすみ、なな」

 

最小限の言葉を交わし、二人はそれぞれの部屋へと引き上げた。

兄は、自室のドアを閉めると、そのまま、ずるずるとドアに背中を預けて座り込んだ。

 

(もう、ダメだ…)

 

考えたくない。何も。

ななのこと、論文のこと、あの悪夢のこと、そして、さっきから、彼の体を蝕み続ける、この訳の分からない感覚のこと。

 

明日は、せつ菜さんと会う約束がある。

こんな疲れ果てて思い詰めた顔を、見せるわけにはいかない。

 

彼は、悪寒に追われるように立ち上がった。

着替えを済ませると、電気も消し、いつもよりずっと早い時間にベッドへと潜り込む。

 

今はただ、この思考の地獄から逃げたかった。

強制的に意識をシャットダウンして、何も考えなくていい、無の世界へ。

 

凪は、固く目を閉じた。

幸いにも、彼の精神は、もう限界だったのだろう。数分もしないうちに、その意識は、深く、暗い、眠りの底へと、沈んでいった。

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