食卓の光景は昨日と寸分違わず、何一つ変わっていなかった。朝の光がテーブルの皿に淡い影を落としている。
「おはよう、お兄ちゃん」
「ああ、おはよう」
完璧な笑顔と完璧な挨拶。当たり障りのない天気の話。
薄氷の上を歩くような会話で、凪は昨日の約束を切り出せなかった。
今日、せつ菜さんと映画に行く。
その話題を出した瞬間に、またあのおぞましい悪寒に襲われるのではないか。目の前の、かろうじて保たれている妹の笑顔が、脆く崩れ落ちてしまうのではないか。
その恐怖が、凪の口を鉛のように封じた。
「ななは今日、友人たちと会う約束があるんだろう?」
凪はなんとか当たり障りのない質問を捻り出す。友人たちと過ごす時間が、今の彼女には何より必要なはずだ。
だが、ななの返事は彼の淡い期待を無慈悲に打ち砕いた。
「…ううん」
ななは静かに首を横に振る。
「今日も家にいることにしたの。約束、断っちゃった」
その言葉に、凪の心臓がどくんと重く、不快な音を立てた。
そうじゃない。
俺の望みは、ななは友人たちとの世界を広げ、自立への道を歩み始めるはずだった。なのに現実はどうだ。
彼女は俺が家を空ける日に、まるでそれに合わせるかのように、外の世界との繋がりを自ら断ち切っている。
「うたちゃん達に心配掛けないように、大丈夫ってもう一度連絡しておくね」
そう言って友人達にメッセージを送るななの姿は、やはり寂しげに見えてしまう。
自分の行動が、ななを良い方向ではなく、むしろ孤立へ追いやっているのではないか。
その恐ろしい可能性に、兄は気づき始めていた。
だがもう、後戻りはできなかった。
「…そうか。じゃあ、そろそろ行かないと」
凪は、これ以上この重たい空気の中にいることに耐えられなかった。彼はほとんど食事に手もつけないまま、席を立つ。約束の時間が迫っていた。
玄関で靴を履く。そのほんの短い時間ですら永遠のように感じられた。背後にはななが黙って立っている。その気配が彼の背中に突き刺さるようだった。
「…いってくる」
振り返らずに、それだけを言うのが精一杯だった。
「…うん。いってらっしゃい」
ななの、か細い声が追いかけてくる。
バタン、とドアを閉める。
その音でようやく、凪は息をすることができたような気がした。
外の夏の眩しい日差しが、今はひどく目に刺さる。
ななを一人、あの静まり返った家に置いてきた。自分の身勝手な行動で、彼女をどんどん追い詰めている。
その罪悪感を振り払うように、凪は駅へと向かう足を速めた。
ドアが閉まる。
兄の最後のためらいがちな足音が、遠ざかって聞こえなくなる。
家の中にななは一人、取り残された。
しいんと耳が痛くなるほどの静寂。
昨日まで当たり前のようにすぐそばにあった兄の気配が、跡形もなく消え去っていた。。
ななは、その場に立ち尽くす。
世界の終わりに一人置き去りにされたような、途方もない孤独がななを襲った。
何もする気が起きず、ななはふらふらとした足取りで自分の部屋へと戻った。そしてベッドに倒れ込むと、まるで現実から逃避するかのように、重たい眠りの中へと沈んでいった────
(…誰かの、声が、聞こえる)
(優しくて、懐かしい、お兄ちゃんの声…)
目の前にいるのは少しぶかぶかの学ランを着た、中学生になったばかりの兄。
そして自分はランドセルを背負っている。
場所は昔住んでいた家の近所の公園。
夕暮れのベンチに二人並んで座っている。
「ねえ、お兄ちゃん」
幼いななが、こてんと兄の肩に頭を預けながら尋ねた。
「『けっこん』てね、世界で一番好きな人とするんだって。ほんと?」
「ああ、そうだよ」
兄は優しく、そしてどこか諭すように頷いた。
「世界で一番大切な人とする、特別なことなんだ」
その温かい肯定の言葉。
ななは、ぱっと顔を輝かせると、勢いよく顔を上げて、兄の瞳を真っ直ぐに見つめて宣言した。
「じゃあね、なな決めたの! 大きくなったら、お兄ちゃんと結婚する!」
無邪気で、そして真剣な告白。
兄は一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに今までで最も優しい微笑みを浮かべた。
「そうか。分かった」
彼はななの小さな手を取ると、自分の小指を絡ませてくる。
「お兄ちゃんはななのことが世界で一番好きだ。もしななが苦しむようなことがあれば、お兄ちゃんが命に代えてでもなのこと守ってあげるからな」
その力強い、指の感触。
そして絶対的な、約束の言葉。
幼いななは、それが世界の真実なのだと、何の疑いもなく信じていた。
そうだ。お兄ちゃんさえいれば、寂しくない。お兄ちゃんが、私の世界のすべてだから。
幼いななは、そんな絶対的な安心感に包まれていた。
ふと、ななは目を覚ました。
窓の外はもう昼過ぎの日差しに変わっている。
(…夢…)
世界で一番自分を好きでいてくれて、命に代えても守ってくれるはずだった兄は、今、どこにもいない。ただ、ひどく懐かしくて、残酷な夢だった。
ななはゆっくりと体を起こす。まだ少しだけ頭がぼんやりとしていた。
枕元に置いてあったスマートフォンが、通知ランプを点滅させていることに気づく。
手に取ると、うたとこころから心配のメッセージが届いていた。
ななは友人たちを心配させてしまったことに、少しだけ申し訳ない気持ちになりながら返信を打ち始める。
『ごめんね、二人とも。ちょっと寝ちゃってたみたい。私は大丈夫だよ』
そこから何往復か、友人たちと他愛のないメッセージのやり取りを続ける。
そのやり取りを終えた後、ななの頭に先ほどまで見ていた夢の内容が鮮明に蘇ってきた。
兄の大きな手。優しい声。絶対的な安心感。
(…お兄ちゃん…)
兄の温もりが、無性に恋しくてたまらなかった。
ななはまるで何かに導かれるようにベッドから出ると、ふらふらと自室のドアを開け、兄の部屋へと向かった。
兄の部屋のドアは、少しだけ開いていた。
その隙間から、ななはそろりと中へ入る。
そこは主のいない静かな空間だった。
机の上には、彼が昨日まで格闘していたであろう、難しい専門書がきちんと重ねられている。
そして部屋にはまだ、微かに兄の匂いが残っていた。
いつも自分の心を、絶対的に安心させてくれた、優しい匂い。
ななはその匂いを少しでも逃すまいとするかのように、ふらふらとベッドへと歩み寄った。
そこに無造作に脱ぎ捨てられていた、兄のパーカー。
ななはまるで、宝物でも扱うかのように、そっとそのパーカーを手に取った。
そして、その中に顔をうずめる。
まだ兄の温もりが、残っている気がした。
ななはそのパーカーをぎゅっと、強く強く抱きしめる。床にずるずると崩れ落ちながら、ただひたすらに。
そうでもしなければ、自分という存在が、この広すぎる静寂の中に溶けて消えてしまいそうだった。
兄のパーカーに顔をうずめたまま、ななはどれくらいの時間そうしていたのだろうか。
もう涙は出なかった。
悲しいとか寂しいとか、そんなはっきりとした感情すら、もう分からない。
ただ心にぽっかりと、大きな穴が開いてしまったようだった。
何をしてもその穴は埋まらない。
何を考えてもその穴に吸い込まれて消えていく。
ななはもう、ほぼ壊れかけていた。
自分を支えていた世界のすべてだった存在が、自分ではない誰かのものになってしまったという、絶望的な事実。
その重みに、彼女の脆い心は、耐えきれなくなっていた。
パーカーをさらに強く抱きしめる。
まるで縋るように。祈るように。
「…………お兄、ちゃん……」
誰に届くでもないか細い、微かな声。
主のいない静まり返った兄の部屋に、その悲痛な響きだけがぽつりと取り残された。
パーカーに残った、微かな温もりだけではもう、ななの凍えきった心を、温めることはできなかった。
ななはふらりと立ち上がる。
そして、まるで夢遊病者のように、兄のベッドへと向かった。
ひんやりとしたシーツの中に、パーカーよりも、もっとずっと深く、濃く、兄の匂いが、染みついている。
めくられたままの布団。そこに、ななはゆっくりと体を滑り込ませる。
兄がいつも眠っているはずの場所に、自分の体を、丸めるように横たえる。
彼の枕に、顔をうずめる。
布団を、首元までぎゅっと引き上げる。
まるで自分が、兄に後ろから、優しく抱きしめられているかのような、錯覚。
ななは目を閉じた。
そうでもしなければ、自分という存在が、完全に壊れてしまいそうだったから。
主のいない冷たいベッドの上で、ななはただ一人、兄の幻影に必死にしがみついていた。
兄の匂いに、満たされる。
目を閉じればそこはまだ、兄がいた優しい世界。
自分の背中に、兄の胸の温もりを感じる。自分を包み込む、大きな腕の感触がある。
(お兄ちゃん…)
その鮮明な幻影に包まれ、ななは自分の体に手を伸ばした。
兄に触れてほしい。
兄の温もりでこの胸に開いた、冷たくて暗い穴を埋めてほしい。
でも兄はいない。
だからこれは、兄の代わり。
ななは、自分自身の指先を、まるでそれが愛しい兄の指先であるかのように錯覚しながら。
一人での行為に、その身を沈めていった。
「…ぁ…お兄、ちゃん…」
掠れた、喘ぐような声が、静かな部屋に何度も、何度も繰り返される。
それは快楽を求めるものではなく、逃避だった。
ただ兄に拒絶され、捨てられてしまったという、耐えがたいほどの苦痛から逃れるための、必死の叫びだった。
目の前の現実から、目を背けるための、悲しい自己防衛だった。
やがて、ななのか細い体が、小さく震える。
その虚しい絶頂の後に訪れたのは、安らぎなどでは決してない。
さらに深く、そしてどうしようもなく膨張した虚無感だけだった。
疲労と虚無の黒い沼に、ななの意識は引きずり込まれ、途絶えた。
◇ ◇ ◇
どれくらいの時間が、経ったのだろうか。
ふと、ななの意識が、ゆっくりと、浮上してくる。
体が、鉛のように、重い。
(…ここ…)
目を開けるよりも先に、その匂いで、場所を理解した。
兄の匂い。
いつも自分を安心させてくれたはずのその香りが、今はななの罪悪感を容赦なく抉ってくる。
おそるおそる、瞼を持ち上げる。
目に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の白い天井ではなかった。
兄の本棚。兄の机。そして、兄のカーテンの隙間から差し込む朝の光。
その光景が、浅ましい行為の記憶を痛いほど蘇らせた。
「…っ、ぁ…」
声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。
ななは、まるでベッドが燃えているかのように、転がるようにしてそこから抜け出した。
シーツに残る、自分の痕跡。
それが、ひどく穢らわしく、忌まわしいものに思えた。
ななは、もつれる足で一目散に兄の部屋を飛び出すと、自室に逃げ込み、バタン、と大きな音を立ててドアを閉めた。
背中をドアに、強く押し付ける。
はぁ、はぁ、と荒い呼吸を繰り返しながら。
自分自身に刻み込まれてしまった、罪の記憶から逃れるように、ただ、その場にうずくまることしかできなかった。
ななは、自分がもう壊れてしまっているのかもしれないということを、ぼんやりとした頭で自覚し始めていた。正常ではない。普通ではない。でなければ、あんな行動を取るはずがない。
(…どうしよう)
兄の部屋に、ベッドに残してきてしまった、自分の汚らわしい痕跡。
どうすればいい?
頭では分かっている。兄に嫌われないために、軽蔑されないために、すぐに処理するべきだ。
彼が帰ってくる前に、何もなかったかのように、完璧に元通りにしなければならない。
だが、ななの体は動かなかった。
どうやって処理すればいいのか、という何かを考える余裕すらなかったのもある。
しかし、それ以上に彼女の心の中に、全く別の、そしてあまりにも身勝手な気持ちが、湧き上がってきていたのだ。
(…お兄ちゃんに、許してほしい)
昔から、自分は外面だけは優等生だった。誰にも迷惑をかけず、誰からも好かれるように、完璧な「良い子」を演じてきた。
だが唯一、兄の前でだけは違った。
兄にだけは、平気でわがままを言った。無理難題を吹っかけたことも、一度や二度ではない。
その度、兄は必死にそれを叶えようとしてくれた。
それでも、どうしても無理な時は、困ったように笑って、ただ優しく頭を撫でてくれた。
そんな古い思い出に浸るうちに、ななは意識を失っていた。