幼い日の約束   作:mairu_i

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6日目 - 前編 孤独のぬくもり

食卓の光景は昨日と寸分違わず、何一つ変わっていなかった。朝の光がテーブルの皿に淡い影を落としている。

 

「おはよう、お兄ちゃん」

「ああ、おはよう」

 

完璧な笑顔と完璧な挨拶。当たり障りのない天気の話。

薄氷の上を歩くような会話で、凪は昨日の約束を切り出せなかった。

 

今日、せつ菜さんと映画に行く。

その話題を出した瞬間に、またあのおぞましい悪寒に襲われるのではないか。目の前の、かろうじて保たれている妹の笑顔が、脆く崩れ落ちてしまうのではないか。

その恐怖が、凪の口を鉛のように封じた。

 

「ななは今日、友人たちと会う約束があるんだろう?」

 

凪はなんとか当たり障りのない質問を捻り出す。友人たちと過ごす時間が、今の彼女には何より必要なはずだ。

 

だが、ななの返事は彼の淡い期待を無慈悲に打ち砕いた。

 

「…ううん」

 

ななは静かに首を横に振る。

 

「今日も家にいることにしたの。約束、断っちゃった」

 

その言葉に、凪の心臓がどくんと重く、不快な音を立てた。

そうじゃない。

俺の望みは、ななは友人たちとの世界を広げ、自立への道を歩み始めるはずだった。なのに現実はどうだ。

彼女は俺が家を空ける日に、まるでそれに合わせるかのように、外の世界との繋がりを自ら断ち切っている。

 

「うたちゃん達に心配掛けないように、大丈夫ってもう一度連絡しておくね」

 

そう言って友人達にメッセージを送るななの姿は、やはり寂しげに見えてしまう。

 

自分の行動が、ななを良い方向ではなく、むしろ孤立へ追いやっているのではないか。

その恐ろしい可能性に、兄は気づき始めていた。

だがもう、後戻りはできなかった。

 

「…そうか。じゃあ、そろそろ行かないと」

 

凪は、これ以上この重たい空気の中にいることに耐えられなかった。彼はほとんど食事に手もつけないまま、席を立つ。約束の時間が迫っていた。

 

玄関で靴を履く。そのほんの短い時間ですら永遠のように感じられた。背後にはななが黙って立っている。その気配が彼の背中に突き刺さるようだった。

 

「…いってくる」

 

振り返らずに、それだけを言うのが精一杯だった。

 

「…うん。いってらっしゃい」

 

ななの、か細い声が追いかけてくる。

 

バタン、とドアを閉める。

その音でようやく、凪は息をすることができたような気がした。

 

外の夏の眩しい日差しが、今はひどく目に刺さる。

ななを一人、あの静まり返った家に置いてきた。自分の身勝手な行動で、彼女をどんどん追い詰めている。

その罪悪感を振り払うように、凪は駅へと向かう足を速めた。

 

ドアが閉まる。

兄の最後のためらいがちな足音が、遠ざかって聞こえなくなる。

 

家の中にななは一人、取り残された。

しいんと耳が痛くなるほどの静寂。

昨日まで当たり前のようにすぐそばにあった兄の気配が、跡形もなく消え去っていた。。

 

ななは、その場に立ち尽くす。

世界の終わりに一人置き去りにされたような、途方もない孤独がななを襲った。

何もする気が起きず、ななはふらふらとした足取りで自分の部屋へと戻った。そしてベッドに倒れ込むと、まるで現実から逃避するかのように、重たい眠りの中へと沈んでいった────

 

(…誰かの、声が、聞こえる)

(優しくて、懐かしい、お兄ちゃんの声…)

 

目の前にいるのは少しぶかぶかの学ランを着た、中学生になったばかりの兄。

そして自分はランドセルを背負っている。

 

場所は昔住んでいた家の近所の公園。

夕暮れのベンチに二人並んで座っている。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

幼いななが、こてんと兄の肩に頭を預けながら尋ねた。

「『けっこん』てね、世界で一番好きな人とするんだって。ほんと?」

 

「ああ、そうだよ」

兄は優しく、そしてどこか諭すように頷いた。

「世界で一番大切な人とする、特別なことなんだ」

 

その温かい肯定の言葉。

ななは、ぱっと顔を輝かせると、勢いよく顔を上げて、兄の瞳を真っ直ぐに見つめて宣言した。

 

「じゃあね、なな決めたの! 大きくなったら、お兄ちゃんと結婚する!」

 

無邪気で、そして真剣な告白。

兄は一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに今までで最も優しい微笑みを浮かべた。

 

「そうか。分かった」

彼はななの小さな手を取ると、自分の小指を絡ませてくる。

 

「お兄ちゃんはななのことが世界で一番好きだ。もしななが苦しむようなことがあれば、お兄ちゃんが命に代えてでもなのこと守ってあげるからな」

 

その力強い、指の感触。

そして絶対的な、約束の言葉。

幼いななは、それが世界の真実なのだと、何の疑いもなく信じていた。

 

そうだ。お兄ちゃんさえいれば、寂しくない。お兄ちゃんが、私の世界のすべてだから。

幼いななは、そんな絶対的な安心感に包まれていた。

 

ふと、ななは目を覚ました。

窓の外はもう昼過ぎの日差しに変わっている。

 

(…夢…)

 

世界で一番自分を好きでいてくれて、命に代えても守ってくれるはずだった兄は、今、どこにもいない。ただ、ひどく懐かしくて、残酷な夢だった。

 

ななはゆっくりと体を起こす。まだ少しだけ頭がぼんやりとしていた。

枕元に置いてあったスマートフォンが、通知ランプを点滅させていることに気づく。

手に取ると、うたとこころから心配のメッセージが届いていた。

 

ななは友人たちを心配させてしまったことに、少しだけ申し訳ない気持ちになりながら返信を打ち始める。

『ごめんね、二人とも。ちょっと寝ちゃってたみたい。私は大丈夫だよ』

そこから何往復か、友人たちと他愛のないメッセージのやり取りを続ける。

 

そのやり取りを終えた後、ななの頭に先ほどまで見ていた夢の内容が鮮明に蘇ってきた。

兄の大きな手。優しい声。絶対的な安心感。

 

(…お兄ちゃん…)

 

兄の温もりが、無性に恋しくてたまらなかった。

ななはまるで何かに導かれるようにベッドから出ると、ふらふらと自室のドアを開け、兄の部屋へと向かった。

 

兄の部屋のドアは、少しだけ開いていた。

その隙間から、ななはそろりと中へ入る。

そこは主のいない静かな空間だった。

机の上には、彼が昨日まで格闘していたであろう、難しい専門書がきちんと重ねられている。

 

そして部屋にはまだ、微かに兄の匂いが残っていた。

いつも自分の心を、絶対的に安心させてくれた、優しい匂い。

 

ななはその匂いを少しでも逃すまいとするかのように、ふらふらとベッドへと歩み寄った。

そこに無造作に脱ぎ捨てられていた、兄のパーカー。

 

ななはまるで、宝物でも扱うかのように、そっとそのパーカーを手に取った。

そして、その中に顔をうずめる。

 

まだ兄の温もりが、残っている気がした。

ななはそのパーカーをぎゅっと、強く強く抱きしめる。床にずるずると崩れ落ちながら、ただひたすらに。

 

そうでもしなければ、自分という存在が、この広すぎる静寂の中に溶けて消えてしまいそうだった。

 

兄のパーカーに顔をうずめたまま、ななはどれくらいの時間そうしていたのだろうか。

もう涙は出なかった。

悲しいとか寂しいとか、そんなはっきりとした感情すら、もう分からない。

ただ心にぽっかりと、大きな穴が開いてしまったようだった。

 

何をしてもその穴は埋まらない。

何を考えてもその穴に吸い込まれて消えていく。

 

ななはもう、ほぼ壊れかけていた。

自分を支えていた世界のすべてだった存在が、自分ではない誰かのものになってしまったという、絶望的な事実。

その重みに、彼女の脆い心は、耐えきれなくなっていた。

 

パーカーをさらに強く抱きしめる。

まるで縋るように。祈るように。

 

「…………お兄、ちゃん……」

 

誰に届くでもないか細い、微かな声。

主のいない静まり返った兄の部屋に、その悲痛な響きだけがぽつりと取り残された。

 

パーカーに残った、微かな温もりだけではもう、ななの凍えきった心を、温めることはできなかった。

 

ななはふらりと立ち上がる。

そして、まるで夢遊病者のように、兄のベッドへと向かった。

ひんやりとしたシーツの中に、パーカーよりも、もっとずっと深く、濃く、兄の匂いが、染みついている。

 

めくられたままの布団。そこに、ななはゆっくりと体を滑り込ませる。

兄がいつも眠っているはずの場所に、自分の体を、丸めるように横たえる。

彼の枕に、顔をうずめる。

布団を、首元までぎゅっと引き上げる。

 

まるで自分が、兄に後ろから、優しく抱きしめられているかのような、錯覚。

 

ななは目を閉じた。

そうでもしなければ、自分という存在が、完全に壊れてしまいそうだったから。

主のいない冷たいベッドの上で、ななはただ一人、兄の幻影に必死にしがみついていた。

 

兄の匂いに、満たされる。

目を閉じればそこはまだ、兄がいた優しい世界。

自分の背中に、兄の胸の温もりを感じる。自分を包み込む、大きな腕の感触がある。

 

(お兄ちゃん…)

 

その鮮明な幻影に包まれ、ななは自分の体に手を伸ばした。

兄に触れてほしい。

兄の温もりでこの胸に開いた、冷たくて暗い穴を埋めてほしい。

 

でも兄はいない。

だからこれは、兄の代わり。

 

ななは、自分自身の指先を、まるでそれが愛しい兄の指先であるかのように錯覚しながら。

一人での行為に、その身を沈めていった。

 

「…ぁ…お兄、ちゃん…」

 

掠れた、喘ぐような声が、静かな部屋に何度も、何度も繰り返される。

 

それは快楽を求めるものではなく、逃避だった。

ただ兄に拒絶され、捨てられてしまったという、耐えがたいほどの苦痛から逃れるための、必死の叫びだった。

目の前の現実から、目を背けるための、悲しい自己防衛だった。

 

やがて、ななのか細い体が、小さく震える。

その虚しい絶頂の後に訪れたのは、安らぎなどでは決してない。

 

さらに深く、そしてどうしようもなく膨張した虚無感だけだった。

 

疲労と虚無の黒い沼に、ななの意識は引きずり込まれ、途絶えた。

 

◇ ◇ ◇

 

どれくらいの時間が、経ったのだろうか。

ふと、ななの意識が、ゆっくりと、浮上してくる。

体が、鉛のように、重い。

 

(…ここ…)

 

目を開けるよりも先に、その匂いで、場所を理解した。

兄の匂い。

いつも自分を安心させてくれたはずのその香りが、今はななの罪悪感を容赦なく抉ってくる。

 

おそるおそる、瞼を持ち上げる。

目に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の白い天井ではなかった。

兄の本棚。兄の机。そして、兄のカーテンの隙間から差し込む朝の光。

 

その光景が、浅ましい行為の記憶を痛いほど蘇らせた。

 

「…っ、ぁ…」

 

声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。

ななは、まるでベッドが燃えているかのように、転がるようにしてそこから抜け出した。

 

シーツに残る、自分の痕跡。

それが、ひどく穢らわしく、忌まわしいものに思えた。

 

ななは、もつれる足で一目散に兄の部屋を飛び出すと、自室に逃げ込み、バタン、と大きな音を立ててドアを閉めた。

背中をドアに、強く押し付ける。

 

はぁ、はぁ、と荒い呼吸を繰り返しながら。

自分自身に刻み込まれてしまった、罪の記憶から逃れるように、ただ、その場にうずくまることしかできなかった。

 

ななは、自分がもう壊れてしまっているのかもしれないということを、ぼんやりとした頭で自覚し始めていた。正常ではない。普通ではない。でなければ、あんな行動を取るはずがない。

 

(…どうしよう)

 

兄の部屋に、ベッドに残してきてしまった、自分の汚らわしい痕跡。

どうすればいい?

頭では分かっている。兄に嫌われないために、軽蔑されないために、すぐに処理するべきだ。

彼が帰ってくる前に、何もなかったかのように、完璧に元通りにしなければならない。

 

だが、ななの体は動かなかった。

どうやって処理すればいいのか、という何かを考える余裕すらなかったのもある。

しかし、それ以上に彼女の心の中に、全く別の、そしてあまりにも身勝手な気持ちが、湧き上がってきていたのだ。

 

(…お兄ちゃんに、許してほしい)

 

昔から、自分は外面だけは優等生だった。誰にも迷惑をかけず、誰からも好かれるように、完璧な「良い子」を演じてきた。

だが唯一、兄の前でだけは違った。

兄にだけは、平気でわがままを言った。無理難題を吹っかけたことも、一度や二度ではない。

 

その度、兄は必死にそれを叶えようとしてくれた。

それでも、どうしても無理な時は、困ったように笑って、ただ優しく頭を撫でてくれた。

 

そんな古い思い出に浸るうちに、ななは意識を失っていた。

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