喫茶グリッターの二階、うたの部屋。
テーブルの上には、三人分のお菓子とジュースが丁寧に並べられていた。今日は三人で夏休みの宿題の残りを片付けてしまおうと、そう約束していた日だった。
だが、そこにななの姿はなかった。
「…ななちゃん、どうしたんだろうね」
うたがスマートフォンを握りしめ、ぽつりと呟いた。約束の時間はもうとっくに過ぎている。
すると、うたのその言葉に応えるかのように、彼女のスマートフォンが軽やかな受信音を立てた。ななからのメッセージだった。
『ごめん、ちょっと気分が…。今日は行けない...』
その短い文章を、うたとこころは二人並んで、画面を覗き込むように読んだ。
「…やっぱりおかしいよ」うたが低い声で言う。「昨日のあの後からずっとだよ。ななちゃん、絶対に無理してる。一人で、何か抱え込んでるんだ」
「はい…」こころも不安そうに唇を噛み締める。
「…うた先輩」こころが意を決したように顔を上げた。「私たち、これからなな先輩のお家に行ってみませんか?」
「…うん」うたは、こころのその提案に力強く頷いた。「そうだね。じっとしてるなんて、無理だもん。行こう、こころちゃん!」
いてもたってもいられない。ななは大丈夫だろうか。
その共通の、切実な心配だけが二人を突き動かしていた。二人は、テーブルの上に手付かずのまま残されたお菓子とジュースには目もくれず、急いで部屋を飛び出した。
ななの家は、もう目と鼻の先だった。二人が逸る気持ちを抑えながら角を曲がろうとしたその時、こころのスマートフォンが震えた。ななからの追加のメッセージだった。
『二人とも、心配かけて本当にごめんね。でも、本当に大丈夫だから。ちょっと、考え事をしてただけだから、そっとしておいてくれると嬉しいな。また、明日連絡するね』
その理路整然とした文面に、二人は思わず顔を見合わせた。
「…大丈夫、なのかな」
「はい…。文面からは取り乱しているような様子は感じられませんでしたが…」
なながそう言うのなら、今はそっとしておくべきなのかもしれない。二人の足が自然と止まる。だが、もう家のすぐそこまで来てしまっていた。
「…とりあえず、家の前まで行ってみない?」うたが提案する。「インターホンは押さないから。ただ、家の様子を見るだけ」
「…そうですね。はい」
二人は、木陰に身を隠しながらななの家の前までたどり着いた。静かな住宅街に佇む、綺麗で大きな一軒家。
と、その時だった。カチャリとななの家の玄関のドアが、内側から開かれたのだ。
「…っ!」
咄嗟に二人はすぐそばにあった生垣の影へと身を隠す。心臓がどきどきと大きく音を立てた。
ドアから出てきたのは、ななの兄だった。だがその格好は、昨日二人が遠目で見たテニスサークルへ行くようなスポーティーなものではない。落ち着いた色のシャツとパンツ、まるで誰かと会うかのような、少しだけ改まった私服姿。
彼は一度だけ空を仰ぐと、何か決意を固めたかのように、駅の方向へとゆっくりと歩き始めた。
生垣の影で、うたとこころは息を殺し、兄の姿を見送った。
ななからの、あの落ち着いた内容のメール。それによって彼女への切迫した心配は、確かに少しだけ軽くなっていた。だが、そのほんの束の間の安堵は、目の前の光景によって、全く別の種類の疑念へと変わってしまう。
「…ねえ、こころちゃん」ななの兄の後ろ姿が、道の向こうに小さくなっていくのを見送りながら、うたが低い声で囁いた。「ななちゃん、今日私たちとの約束キャンセルしたよね」
「は、はい…」
「そして、お兄さんはテニスに行くわけでもないのに、一人でどこかへ出かけていく…」
うたの瞳が、まるで名探偵のようにキラリと光る。
「これは絶対に何かあるよ!」うたはそう断言すると、こころの手をぐっと掴んだ。
「決めた! 私たち、今からあのお兄さんを追いかけるよ!」
「お、追いかけるんですか!?」こころが素っ頓狂な声を上げる。
「だ、ダメですうた先輩! それはプライバシーの侵害です! それにもし見つかったら…!」
「大丈夫だって!」うたは、こころの至極もっともな反論を、得意のポジティブさで一蹴する。「ななちゃんをあんな風にした原因だよ!? 放っておけるわけないじゃん! 絶対目の前に出ていかないって、約束するから! お願いこころちゃん!」
うたはそう言うと、有無を言わさずこころの手を引いた。強引に、しかし慎重に足音を忍ばせながら、凪の後ろ姿を、一定の距離を保ちながら追いかけ始める。
「…うた先輩」歩きながら、こころが不安げに呟いた。「でも、なな先輩が家で一人で…。心配です」
「分かってる!」うたは、前方を警戒しながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。「だから、今、メッセージ送った! 『ななちゃん、大丈夫? 何かあったら、すぐ連絡してね!』って!」
こころは、心の中で大きなため息をつきながらも、今はもう、この情熱と行動力の塊であるリーダーに従うしか選択肢は残されていなかった。こうして、二人の危険でそして無謀な追跡劇が始まってしまったのである。
◇ ◇ ◇
凪は駅前に到着したところだ。スマートフォンの時計が示す時刻は、約束の10分前。
大学生の、ましてや夏休みの約束にしては、少し気合が入りすぎているかもしれない。
(…少し、早すぎたか)
そう思い辺りを見回したその時だった。待ち合わせ場所の大きなポスターの前に、見慣れた、それでいて見慣れない姿を見つけ、凪は思わず息を呑んだ。
せつ菜だった。
普段の機能的な練習着とは全く違う、白い清楚なワンピース姿。いつもはポニーテールにまとめている髪も、今日はおろしているせいか、その雰囲気はどこか大人びて、柔らかく見えた。。
「…せつ菜さん」凪が、少しだけ緊張しながら声をかける。「すまない、待たせたか?」
「あ、凪さん!」せつ菜は、ぱっと花が咲くような笑顔で、こちらを振り返った。「いえ、私も今来たところです。凪さんこそ早いんですね」
「ああ。待たせては申し訳ないと思って」
当たり障りのないぎこちない会話。だが、その「普通」のやり取りが、今の凪には心地よかった。2人はそんなやり取りを済ませ、ランチへと向かう。
◇ ◇ ◇
うたとこころの危険な追跡劇が始まって、既に15分ほどが経過していた。
「…うた先輩、少し近すぎます!」
「えぇ!? だって、見失っちゃうじゃん!」
電信柱の影からこっそりと様子を窺いながら、二人はひそひそと言い争う。
ななの兄、凪はただまっすぐ駅の方向へと向かっているようだった。時折、彼がふと何かを考えるように空を見上げたりすると、二人は心臓が止まるような思いで物陰へと身を隠した。
やがて、凪は駅前の賑やかなロータリーへとたどり着いた。行き交う大勢の人々。うたとこころは、一度彼を見失いそうになる。
「あっ、あそこです!」
こころの小さな指が指し示した先。凪は駅前の大きなポスターを目標にするかのように歩いていく。そして、大きなポスターの前で立ち止まった彼のその視線の先に。
(やっぱり…そうなんだ…)
一人の女性が立っていた。昨日、フェンスの向こう側から垣間見た、あの息を呑むほど綺麗な、大人びた女性。
彼女が凪に気づくと、ぱっと花が咲くような笑顔を向けた。
うたの悪い予感は、最悪の形で的中していた。物陰でそれを見ていたうたとこころは、ただ言葉もなく立ち尽くす。
ななが家に閉じこもって、一人で辛い思いをしている、まさにその時間に。彼女の兄は、ここでこの女性と、デートをしようとしているのだ。
「…っ…!」
うたの小さな肩が、わなわなと怒りに震えていた。
今にも、「ななちゃんという子がいながら、よくも他の女と!」と叫びながら飛び出していきそうだ。
だが、その爆発の寸前。
「うた先輩」隣から、こころが冷静な、しかし有無を言わさない強い口調で、うたの名前を呼んだ。そして、ぎゅっとその手を握る。「…気持ちは分かります。私も同じです。でも、ここで私たちが騒いでも、なな先輩のためにはなりません。今は、堪えてください」
先手を取られた。こころの真っ直ぐな瞳に見つめられ、うたは燃え上がりかけていた怒りの炎を、なんとか心の奥底へと押し戻した。
「………うん。ごめん」
やがて、凪とせつ菜の二人が楽しそうに言葉を交わしながら、カフェの方向へと歩き出す。
「…ランチ、だね」うたが低い声で言う。
「どうしましょうか…?」こころが尋ねるよりも早く、うたは決断していた。
「行こう!」
◇ ◇ ◇
せつ菜が事前に調べておいてくれたらしい、おしゃれなカフェ。大きな窓から柔らかな日差しが差し込む、開放的な空間だった。
「ここのパンケーキ、すごく美味しいって評判なんです」メニューを指差しながらせつ菜が嬉そうに言う。その、テニスをしている時とはまた少し違う、年相応の無邪気な表情。彼は、そのギャップに新鮮な魅力を感じていた。
「じゃあ、それにしようか」
注文を終えると、二人の間には少しだけぎこちない沈黙が流れる。だが、それも束の間だった。
「凪さんは、普段映画とかよく観るんですか?」
「いや、あまり…。どちらかというと、家で本を読んでいることの方が多いな」
「あ、分かります! 私も読書好きです! 特にミステリーが…!」
好きな作家の話、大学の講義の話、サークルの仲間たちの面白い噂話。話せば話すほどせつ菜という女性が、いかに聡明で、そして努力家で、それでいてユーモアのセンスも持ち合わせているか、ということがよく分かった。
なにより、彼女との会話はどこまでも健全だった。ただ、目の前の楽しい時間を共有する。
彼は自分が心の底から笑っていることに気づいた。そのことに少しだけ罪悪感を覚えながらも、彼はこの心地よい時間から、抜け出すことができずにいた。
◇ ◇ ◇
うたは、先ほど万が一のためにと雑貨屋で買っておいた大きな伊達メガネを、こころに無理やりかけさせた。自分も、髪を結んでいたシュシュをほどき印象を変える。
「よし、これで完璧! あの二人、おしゃれなカフェに入ったよ! 私たちも同じ店でお昼を食べるの!」
「ええっ!? でも、さすがにそれは…!」
「大丈夫! あわよくば、二人がどんな話をしてるか聞けるかもしれないじゃん!」
こころの抵抗も虚しく、うたは完全に探偵ごっこにスイッチが入っていた。彼女は、こころの手を強引に引っ張ると、まるで特殊任務にでも挑むかのように、真剣な顔つきで同じカフェの中へと侵入していくのだった。
おしゃれなカフェの少し奥まった席。うたはメニューで顔を隠しながら、凪とせつ菜が座っているテーブルを横目でじっと観察していた。
「…うた先輩、近すぎますって…」こころが小声で囁く。二人が座ったのは、凪たちのテーブルから一つだけ席を空けた、斜め後ろの絶妙な位置だった。
「大丈夫、大丈夫! これくらいじゃないと、聞こえないでしょ!」
その時、うたのポケットの中でスマートフォンが短く震えた。彼女ははっとした顔で画面を確認する。
「こころちゃん! ななちゃんから、返信来た!」
画面に表示されていたのは、1時間程前に送った、うたのメッセージに対する、ななからの返信だった。
『ごめんね、二人とも。ちょっと寝ちゃってたみたい。私は大丈夫だよ』
(寝ちゃってた…? 昨日の夜、ちゃんと眠れなかったのかな…)
二人は顔を見合わせる。兄のことで思い悩んで、寝付けなかったのかもしれない。
うたはすぐさま返信する。
『そっか! 疲れてたんだね! 本当に大丈夫?』
『うん、大丈夫だよ! 夢を見てただけだから』
『そっか! なら良かった!』
何往復かやり取りを終え、ななが落ち着いているらしいことに、二人はひとまず胸を撫でおろした。
やがて、店員が凪たちのテーブルへと向かう。
「あ、パンケーキ頼んでる…。美味しそう…」うたがごくりと喉を鳴らす。そして、自分たちのテーブルにやってきた店員に、満面の笑みでこう言った。
「すいませーん! あのパンケーキ二つください!」
「え、うた先輩!? 私の分まで勝手に…!」こころの小さな抗議は、完全に無視された。
注文を終えると、うたは再びメニューを盾にしながら、全神経を凪たちの会話へと集中させる。こころも観念したように、小さなため息を一つついてそれに倣った。
聞こえてくるのは、大学の講義の話や、サークルの仲間たちの噂話。その平和で楽しげな会話。
ななが、家で一人苦しんでいることなど、まるで知らないかのような、その穏やかな空気。うたは、ぎり、と奥歯を噛み締める。こころは、ただ悲しそうに目を伏せた。
うたたちのテーブルに、ふわふわのパンケーキが二つ運ばれてくる。甘いメープルシロップの香りが、二人の鼻腔をくすぐった。
「…ねえ、こころちゃん」うたは早速パンケーキにフォークを突き刺しながら、ひそひそ声でこころに話しかけた。「お兄さんさ…。昨日もあの女の人と一緒にいたけど、今日もなんか、すごく楽しそうだね…」
「はい…」こころも、小さな口でパンケーキを頬張りながら、頷く。「なな先輩には、あんな顔見せないんでしょうか…。昨日なな先輩が言っていた通りです…。なんだか、私まで少し悲しくなってきました…」
「うん…」うたは、もぐもぐとパンケーキを咀嚼しながら、凪の横顔をじっと観察する。
その甘さとは裏腹に、うたの心の中はどんどん苦い気持ちで満たされていった。
ななちゃんは今、家で一人で泣いてるかもしれないのに。この人は、ここで他の女の人と笑ってる。
その残酷なコントラストに、ぎりと奥歯を噛み締めた。
凪とせつ菜が席を立つ。伝票を手に、レジへと向かうその背中。
「やばい、行っちゃう!」
うたは、その動きを見逃さなかった。彼女は、まだ半分近く残っていた自分のパンケーキを、信じられないほどのスピードで口の中へとかき込み始めた。
「う、うた先輩!? そんなに急いで食べたら…!」こころが心配するのも構わず、うたはあっという間に皿の上を空にする。そして、まだゆっくりと味わっていたこころの分のパンケーキまで、ひょいと、一口つまみ食いした。
「もぐもぐ…よし、行くよ、こころちゃん!」口の周りにクリームを少しだけつけながら、うたはこころの手を再び掴む。
「ちょ、まだ食べ終わって…!」
「いいから、いいから! 見失っちゃう!」
うたは、テーブルの上に代金を置くと、こころを引っ張ってカフェを飛び出した。二人が次に向かうのは、映画館のようだ。こうして、うたとこころのドタバタで、少しだけ甘い香りのする追跡劇の第二幕が始まろうとしていた。