ランチを終え、二人は目的の映画館の中へと足を進めた。館内は週末の賑わいで、多くのカップルやグループが楽しげに談笑していた。その平和で楽しげな雰囲気に、凪は少し胸がざわついた。
シアターの照明がゆっくり落ち、暗闇が広がった。隣に座るせつ菜の気配を、暗闇の中ですぐそばに感じる。ふわりと彼女の髪からシャンプーの香りが漂い、凪の鼻をくすぐった。
映画のタイトルは、凪には馴染みのないものだった。だが、物語が始まって数十分も経つ頃には、彼はその主題が何であるかを、はっきりと理解していた。
(…恋愛映画か)
画面の中では、主人公の少年とヒロインの少女がすれ違い傷つきながらも、不器用なまでにひたむきにお互いへの純粋な想いを育んでいく。それは誰もが美しいと感動する、王道のラブストーリーだった。
だが、凪の心に真っ直ぐな物語がガラスの破片のように刺さった。
(純粋な恋愛…)
画面の中の主人公たちが手に入れようとしている、その輝かしい感情。それが、今の自分には決して手の届かない、遠い世界のおとぎ話のように思えた。
ちらりとせつ菜の横顔を窺うと、彼女は物語に引き込まれていた。その大きな瞳をキラキラと輝かせながら、食い入るようにスクリーンを見つめている。
あまりにも純粋な横顔。その光が強ければ強いほど、自分自身の心の歪みが濃い影となって浮かび上がるようだった。凪は、彼女と自分の間にある、決して越えられない壁の存在を痛感し、もう物語に集中することができなかった。
◇ ◇ ◇
映画館の薄暗いロビー。うたとこころは、大きなポップコーンのオブジェの影から、チケットカウンターに並ぶ凪とせつ菜の様子を、息を殺して窺っていた。
「…なんか、アニメの映画みたいだね」うたが二人の会話の断片を聞き取り、そう呟く。
やがて、二人がチケットを購入し、シアターの入り口へと向かっていく。その背中を見送ると、うたはこころの手を引いて、同じチケットカウンターへと、駆け寄った。
「すいませーん! 今のお兄さんたちが買った映画のチケット、大人二枚ください!」
「え、うた先輩!? 私たち、中学生なので子供料金では…」
「いいの、いいの! こういうのは、経費で落ちるんだから!」
訳の分からないことを言いながら、うたは有無を言わさず二枚分のチケットを購入する。
シアターの中は、既にほとんど照明が落ちていた。
「…あそこじゃない?」うたが指さした先。中央より少し後ろのブロックに、二人のシルエットらしきものが見える。うたはこころの手を引き、彼らより一列後ろで、そして少しだけ横にずれた、絶好の監視ポジションを確保した。
うたとこころは、最初のうちこそ本来の目的を忘れてはいなかった。チラリ、チラリと前の席に座る凪とせつ菜の様子を窺う。
だが、そんなことを考えていたのも束の間。うたとこころもまた、気づけば目の前のスクリーンが紡ぎ出す世界に、完全に心を奪われていた。
主人公とヒロインの、不器用でもどかしい恋の行方。二人を引き裂こうとする残酷な運命。そして、それを乗り越えようとするひたむきな想い。
物語が終盤に差し掛かる頃には、もう二人の頭の中から「尾行」とか「監視」とか、そんな言葉は綺麗さっぱり消え失せていた。
そして、ラストシーン。すべての困難を乗り越えた主人公が、ヒロインに想いを告げる感動的なクライマックス。
「…うっ…ぐすっ…」
「…ひっく…」
うたの瞳からもこころの瞳からも、ぼろぼろと大粒の感動の涙が溢れ出していた。鼻をすする音を隠そうともしない。
やがてエンドロールが流れ始め、場内がゆっくりと明るくなっていく。うたとこころは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を見合わせると、少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。
スクリーンが完全に明るくなり、場内には退場の案内が流れ始める。二人は涙で濡れた目元を手の甲でごしごしと擦りながら、興奮冷めやらぬ、といった様子で顔を見合わせた。
「こころちゃん…! よかったね…! 超感動した!」
「はい、うた先輩…! まさかあそこで、あんな展開が待っているなんて…!」
しばし映画の感想を小声で言い合う二人。その時、前の席に座っていた凪とせつ菜が立ち上がり、シアターの出口へと向かっていくのが見えた。
そこでようやく、二人は本来の目的を思い出した。
「…って、そうじゃなかった!」うたは、はっと我に返ると、わざとらしくぷん、と頬を膨らませ、こころをじろりと睨んだ。「こころちゃん! 何映画に見入っちゃってるの! 私たちは任務中だったんでしょ!」
内心では冗談だと分かりきっている、作った怒りの表情。それにこころもむっとした顔で言い返す。
「それを言うなら、うた先輩だって、一番号泣してたじゃないですか!」
「な、なんですってー!」
そんなコントのようなやり取りをしている間にも、凪たちの姿は、もうシアターの出口の向こう側へと消えかかっている。
「やばい、行っちゃう!」
うたは再びこころの手を掴むと、慌てて席を立った。こうして、涙の跡も乾かぬまま、二人のドタバタな追跡劇は終盤へと突入していくのだった。
◇ ◇ ◇
映画館の明るいロビーへと戻ってきた時、凪はまるで深い海の底から引き上げられたかのような感覚に陥っていた。隣を歩くせつ菜の興奮冷めやらぬ弾んだ声が、彼の意識をゆっくりと現実へと引き戻していく。
「凪さん、どうでしたか!? すごく良かったですよね…!」
近くのカフェに入り席について開口一番、せつ菜はキラキラとした目でそう言った。
「主人公の、不器用だけどまっすぐなところとか…。ヒロインを守りたいっていう強い気持ちとか…。わたし、もう途中から涙が止まらなくて…!」
キャラクターの心情に完全に自分を重ね合わせている。その素直な姿が、凪にはとても眩しく思えた。
「ああ…。そうだな。主人公は格好良かった」凪はコーヒーカップを持ち上げながら、当たり障りのない返事をすることしかできない。物語の後半の記憶など、ほとんどないに等しかった。
「特に、最後のシーンが…!」せつ菜は、身振り手振りを交えながら、映画のクライマックスについて熱っぽく語り続ける。
完璧な聞き役。完璧な「デートの相手」。
だが、その完璧な仮面の下で彼の心は、先ほどスクリーンに映し出された純粋な「恋愛」という概念に焼かれ続けていた。彼女が「素敵だ」と語る主人公の、誰かを守りたいというそのひたむきな想い。自分も同じはずだった。ななを守りたい。ただそれだけだったはずなのに。
いつから自分は、こんなにも歪んでしまったのだろうか。
「…さん? 凪さん?」
「え…? ああ、すまない。少し考え事を…」
せつ菜に不審に思われないように。凪は必死に笑顔を顔に貼り付けた。
せつ菜のあまりにも楽しそうな横顔を見ていると、凪の歪んだ心も、不思議と少しだけ癒されていくようだった。
(…来てよかったな)
たとえ自分が心から映画を楽しめなかったとしても。彼女にこんなにも喜んでもらえた。それだけで、今日家を出てきた価値はあったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
シアターを出た凪とせつ菜の後を、うたとこころはまるで忍者のように、足音を殺してついていく。二人が入っていったのは、先ほどのランチの店とはまた別の、落ち着いた雰囲気のおしゃれなカフェだった。
うたとこころも、少しだけ時間を置いてから店に入る。そして、入り口に一番近い窓際の席から、再び監視任務を再開した。
どうやら映画の感想を語り合っているようだ。特にあのせつ菜という女性の方が、とても饒舌だった。
「最後のシーンの、あの主人公の台詞! 原作にはなかったアニメオリジナルの台詞なんですけど、あれは本当に解釈一致というか、制作陣の愛を感じますよね!」
「キャラクターデザインも、原作の繊細なタッチを見事に再現しつつ、アニメならではの躍動感もあって…!」
身振り手振りを交えながら、熱っぽく、そしてどこまでも楽しそうに語り続ける彼女。うたとこころは、その姿をただ呆然と眺めていた。
あれだけ綺麗で大人びていて完璧に見えるあの人が。自分たちと何ら変わらない、ただのアニメ好きの女の子のように、目をキラキラと輝かせている。
そのあまりにも意外なギャップ。
(…なんか、すごい楽しそう…)うたは思わずそう呟いていた。
(はい…。自分の「好き」という気持ちに、あんなに真っ直ぐでいられるなんて…)こころも同意するように頷く。(…同性である私たちから見ても、なんだかすごく素敵だなって…)
ふと、そう思えてしまった。
自分たちの大切な友人を苦しめている、恋敵かもしれない相手。それなのに、そのあまりにも魅力的な人間性に、二人はほんの少しだけ心を惹きつけられてしまっていた。
カフェでの弾むような会話の時間が終わった。十分に語り合ったのだろう。凪とせつ菜が席を立ち、店を出ていく。
「やばい、行っちゃう!」
うたは、またしても残っていたお冷を一気に飲み干すと、こころの手を引いて、慌ててその後を追いかけた。
◇ ◇ ◇
カフェの外は、夜の闇に包まれていた。街灯が二人の、そしてそれを追いかけるうたたちの影を、地面に長く伸ばしている。
凪とせつ菜は駅の方向へと、並んで歩いていた。その距離が昼間より近くなっているように、うたには見えた。
そして、その時だった。
隣を歩いていたせつ菜の小さな手が、まるでそれがごく自然なことであるかのように、凪の少し冷たくなった手に、そっと触れた。そして絡められる、指。
「…っ」
凪は驚きのあまり、思わず足が止まりそうになる。だが、せつ菜は何も言わない。ただ少しだけ前を見つめたまま、その小さな手で彼の手を、きゅっと握りしめていた。
繋がれたせつ菜の手は、驚くほど温かかった。その確かな熱が、彼の冷え切っていた心にまで、じわりと染み渡ってくるようだった。
その確かな感触が、二人の関係がもうただの「サークルの同期」という単純な枠組みを越えてしまっていることを、凪にはっきりと理解させていた。
繋がれた温かい手。そのぬくもりが、彼の冷え切った心を溶かそうとした、その瞬間。
ドンッ、と。
まるで後頭部を鈍器で殴られたかのような強烈な衝撃。そして彼の脳裏に、真っ白な閃光と共に、一つの映像が浮かび上がった。
それは一人の女の子の悲しそうな顔だった。誰かは判別できない。ただその顔が、今にも泣き出しそうに絶望に歪んでいることだけが、鮮明に分かった。
(なんだ…これは…)
凪は思わず足を止めた。繋がれていたせつ菜の手を、振り払うように離してしまう。
◇ ◇ ◇
歩道橋の階段を上る、ほんの一瞬の出来事。
うたとこころは、息を呑む。
せつ菜が、すっと手を伸ばし、凪の手を取った。二人が恋人繋ぎで、歩き始める。
その、あまりにも自然で、そしてあまりにも親密な光景。うたとこころは、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
夜の街灯に照らされ、まるで映画のワンシーンのように完璧に見えた。流石のうた達でも、もう理解せざるを得なかった。この二人は少なくとも今日この日から、ただの友人以上の特別な関係になっているのだと。傍から見ても、あまりにもお似合いのカップルだった。
(…もう、ダメだ…)
うたの心に、絶望が広がる。
(私たちでは、もうどうしようもないところに来ちゃってる…)
こころも同じ気持ちだった。
だが、その時だった。事件は起こった。
歩道橋の上で突然、ななの兄が足を止めたのだ。そして、後頭部を見えない鈍器で殴られたかのように、大きくよろめいた。
繋いでいたはずの女性の手は離れ、彼は手すりに寄りかかり、苦しそうに頭を押さえている。
「…え?」
何が起こったのだろうか。隣にいたせつ菜も、ひどく動揺しているようだった。彼の肩を必死に支えながら、何か心配そうに言葉をかけている。その様子は、本当に彼のことを、案じているように見えた。
「ななちゃんのお兄さん、どうしちゃったんだろう…」
「急に気分でも悪くなられたのでしょうか…」
先ほどまでの怒りや絶望はどこかへ消え去り、うたとこころも純粋な心配を感じていた。
◇ ◇ ◇
「…っ…ぐ…」
凪はこめかみを押さえ、その場にうずくまりそうになる。
「凪さん!? しっかりしてください! 凪さん!」
肩を強く揺さぶられる。せつ菜の必死な声が、まるで分厚い壁の向こう側から聞こえてくるようだった。
どれだけの時間が経っただろうか。やがて嵐のように荒れ狂っていた頭の中の痛みが、すうっと潮が引くように消えていく。
「…はぁ…っ、はぁ…」凪が顔を上げると、目の前には今にも泣き出しそうな顔で自分を覗き込むせつ菜がいた。
「…すまない」何とかそれだけを絞り出す。
「大丈夫ですか!? すごい汗です…! 救急車を…」
「いや、大丈夫だ。…ただの貧血だと思う」
凪は、そう答えるしかなかった。彼はおぼつかない足でゆっくりと立ち上がる。
「今日は本当にすまなかった。でも楽しかった。ありがとう、せつ菜さん」
そして彼はせつ菜の返事も待たずに、やや一方的に別れを告げた。
「…じゃあ、また」
その背中にせつ菜が何かを言っていたような気もする。だが今の凪には、もう何も聞こえていなかった。
(あれは、なんだったんだ…)
先ほどの強烈な衝撃。脳裏に焼き付いて離れない、あの悲しそうな少女の顔。そして何より、彼を恐怖させていたのは。
(俺は、このまませつ菜さんとの関係を、進めても良いのだろうか…)
そんな疑念が、彼の心を再び暗闇の底へと引きずり込んでいく。せっかく見えかけた一筋の光は、あっけなく断ち切られてしまった。
◇ ◇ ◇
しばらくして、ななの兄はようやく落ち着きを取り戻したようだった。だが、彼は心配する女性に、何か短い言葉を告げると、半ば一方的に彼女に背を向けた。そして、少しおぼつかない、しかし速い足取りで、一人その場を立ち去ってしまったのだ。
残された女性は、ただ呆然とその後ろ姿を見送っている。
うたとこころは、その不可解な光景を物陰から見つめた。
残されたせつ菜がしばらくその場に立ち尽くした後、やがて彼女も心配そうな、そしてどこか寂しそうな表情で、凪とは逆の方向へと一人歩き去っていく。二人が完全に別れたのを確認して、うたとこころは、ようやく隠れていた物陰から姿を現した。
「…なんだったんだろう、今の…」うたが呆然と呟く。
今日のこの「ミッション」は、一応の完遂を迎えたと言っていいのだろう。ななの兄が、昨日一緒にいた女性と、やはりデートをしていたという事実は確認できた。
だが最後に見たあの光景。凪の突然の変調。そして、その唐突すぎる別れ。
「最後、なな先輩のお兄さん、大丈夫だったのでしょうか…」こころが純粋な心配を口にする。「本当に、ただの貧血か何かだったのなら良いのですが…」
「…わかんない」うたは首を横に振る。「もう、何もかもわかんないよ…」
時計を見れば、もうとっくに夕食の時間を過ぎていた。これ以上、ここにいても何も分かりはしないだろう。
「…帰ろっか、こころちゃん」
「はい、そうですね」
結局、今日の追跡で分かったのは、ななの問題が想像を超えて複雑で謎めいていることだけだった。
二人はため息を交わし、それぞれの家路に就いた。心の中に、モヤモヤとした感情だけを残して。