せつ菜と半ば一方的に別れてから、凪はまっすぐ家へ帰れなかった。
あの幻覚の衝撃が強すぎた。一人になりたかった。
意味もなく電車に乗り、見知らぬ駅で降り、当てもなく夜の街をさまよう。
虚無感と疲労だけを抱え、彼が自宅に着いたのは夕食の時間を過ぎた遅い時間だった。
何かがおかしい。
家の電気が一つもついていない。
いつもならこの時間はリビングか、あるいはななの部屋の明かりが漏れているはずなのに。
まるで誰もいないかのような、完全な暗闇と沈黙。
その黒い箱のような家が、まるで口を開けて彼を待ち構えているかのように見えた。
そして彼が玄関のドアに手をかけようとした、その時だった。
ぞくり、と。
昼間のものよりはるかに強い悪寒。
家の中から絶望、憎悪、歪んだ愛情のような黒い感情が飽和して染み出してくるのを肌で感じた。
「…なな…っ」
凪の口から思わず妹の名前が漏れる。
彼女がこの中にいる。一人で。
そして彼女の身に、何かとんでもなく良くないことが起きている。
その確信が彼の全身を支配した。
凪は震える手で必死にドアの鍵を開けようとした。
カチャリ、と震える手で鍵が開いた。
玄関から一歩踏み入れた。
家の中はしんと静まり返り、音が吸い込まれるような闇だった。
悪寒が肌を粟立たせる。
「…なな!」
凪は声を張り上げた。
返事はなかった。
だが玄関のたたきには、ななの小さなスニーカーが揃えられていた。
中にいるはずだ。
凪は壁を手探りでスイッチを探した。
パチンと明かりが灯ったが、妹の姿はなかった。
嫌な予感が確信へと変わっていく。
彼は階段を駆け上がり、ななのドアを強く叩いた。
「なな! 返事をしろ!」
シーンと。ドアの向こうから何の物音も聞こえない。
(…ダメだ)
凪はこれが緊急事態なのだと判断した。
彼はドアノブを掴み、勢いよく開け放った。
部屋の中は、暗闇に包まれていた。
手探りでスイッチを探り、電気を点ける。
ななはいた。
ベッドの脇の床の上に、まるで小さなボールのように体を丸めて、うずくまっていた。
ようやく兄の帰宅に気づいたのだろう。
ななの小さな肩がびくりと震える。
彼女はゆっくりと、ゆっくりと顔を上げた。
その顔に浮かんでいたのは、笑顔と呼ぶにはあまりに痛々しく歪んだ表情だった。
声色は本人が必死に明るい声を上げようとしているのが分かるのに。
その喉から絞り出された音は震えきっていた。
「………お兄ちゃん、お帰り…なさい…」
それは兄の名を呼ぶ、ただ一言。
その一言だけで、彼女が今日一人でどれだけ絶望の淵にいたのかが伝わった。
凪はその場に駆け寄った。
ななの冷たくなった両肩を掴む。
「なな! 大丈夫か? 何があったんだ、しっかりしろ!」
凪は必死に呼びかけた。
だがななの瞳は虚ろで、焦点が合っていなかった。まるで兄の姿が見えていないかのように、ただ一点を見つめている。
「なな!」
もう一度強く揺さぶる。
すると彼女の乾いた唇がほんの少し開いた。
ようやく口を開いたと思った瞬間。
聞こえてきたのは会話とは呼べない、途切れ途切れな言葉の断片だった。
「………お兄ちゃんの、へやで……」
「…なにが…?」
「………ごめんなさい……きたない、から…ごめんなさい……」
「汚い? なな、何を言ってる!」
凪には意味が分からなかった。
彼の混乱をよそに、ななはまるで壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す。
「………ゆるして……お兄ちゃん……ゆるして……」
そのあまりにか細く、そして絶望的な響き。
凪の頭の中は、最悪の可能性で真っ白になった。
自分が家を空けている間に。
この家で。
俺の部屋で。
ななの身に恐ろしいことが起きたのではないか。
血の気が引く恐怖が彼の全身を支配した。
だが今のななが、まともな精神状態ではないことだけは、兄にも痛いほど分かった。彼女の精神も体力も、もう限界なのだ。
凪はひとまず、ななの体をそっと抱え上げた。あまりに軽く、そして冷たい。
彼はななをベッドに優しく横たえると、布団を首元までかけてやる。そしてキッチンからゼリー状の栄養食を一つ持ってくると、万が一彼女が夜中にお腹をすかせて目を覚ました時のために、ベッドのサイドテーブルにそっと置いておいた。
凪のそのいつもと変わらない優しい行動に、ほんの少しだけ安心したのだろうか。
ななの張り詰めていた意識の糸が、ぷつりと切れた。
彼女はそのまま深い眠りへと落ちていく。
しばらくその寝顔を見守り、呼吸が安定していることを確認すると、凪は静かにななの部屋を後にした。
そしてななが言っていた、自分の部屋へと向かう。
(俺の部屋で、一体何が…)
ドアを開ける。
部屋の中は彼が今朝出ていった時と何も変わらないように見えた。
だが。
(…この、匂い…)
部屋の中に普段ではありえないほど強く、ななの匂いが充満していた。
彼女のシャンプーの甘い香りと、そしてもっと生々しい女の子の香り。
凪はその匂いの発生源であるベッドへと、吸い寄せられるように近づいた。
そして見てしまう。
シーツの中央が、僅かに湿り気を帯びてよれているのを。
その瞬間。
凪の頭の中で、全ての点が繋がった。
ななのあの断片的な言動。
『お兄ちゃんの部屋で』
『ごめんなさい』
『きたないから』
『ゆるして』
そしてこの、雄弁なベッドの痕跡。
そこで何が起きたのか。
彼女が一人で不在を嘆き、どんな想いで自らを慰めたのか。
凪はその痛々しく倒錯した真実を、理解してしまった。
「………ぁ……」
声にならない声が喉から漏れる。
彼は足元の床が崩れ落ちる感覚に襲われ、立ち尽くすことしかできなかった。
ベッドの上のその、痛々しいほどの痕跡を前にして。
凪はようやく理解した。
自分はななの気持ちを、全く理解できていなかったのだと。
彼女が自分に向けていた想いの、異常なほどの深さ。そしてその歪み。
自分が彼女の世界のすべてだったこと。
その重い真実。
なのに自分は。
ななの悲痛な叫びに気づきもせず。
自分はせつ菜さんと親密になり、テニスを楽しみ、映画という名のデートに行き、あまつさえその事実をなな本人に突きつけるという、追い討ちまでかけて。
(俺は…なんて、愚かなことを…)
じわじわと、しかしどうしようもなく強烈な、自分自身への憎しみが腹の底から沸き上がってくる。
彼女が一人でこれほどの苦しみに苛まれていた、まさにその時間に。
他の女の子と笑っていたのだ。
その残酷な対比。
許せなかった。自分自身が。
「う…っ…ぁあああ…」
それは言葉にすらなっていない。
獣のような呻きが喉から漏れた。
感情の奔流に耐えきれず。
彼は糸の切れた人形のように崩れ、ななの痕跡が残るベッドに倒れ込んだ。
妹の甘く、そして悲しい匂い。
それが彼の意識を断ち切る、最後の引き金になった。
凪はそのまま、罪悪感の闇へ意識を手放した。
ななの後を追うかのように。