これは、夢だろうか。
意識が温かな光に浮かんでいる。
目の前にいるのは、幼稚園の頃のななだった。
自分は使い古したランドセルを背負っていた。
場所は昔の家の近所の公園だ。
彼の友人たちが、「ナギ、早くしろよー!」と、キャッチボールをしながら呼んでいる。
「ああ、今行く!」
凪が友人たちに手を上げて駆け寄ろうとした、その時だった。
「お兄ちゃん、ダメ!」
小さな手に、ぐいっと制服の袖を引かれた。ななだった。
「どうしたんだなな。今から友達と…」
「ヤダ!」
ななは、ぷくっと頬を膨らませる。
「お友達とじゃなくて、ななと遊ぶの! あっちの砂場で、大きなお城作りたい!」
その瞳には、他の誰にも見せない絶対的な信頼と、少し身勝手な要求が浮かんでいる。
凪はその顔に弱かった。
(…しょうがないな)
彼は友人たちの方へ向き直ると、「ごめん! 今日、やっぱりパス!」と大声で叫んだ。
自慢の妹の、その自分にだけ見せてくれる特別な姿が、どうしようもなく愛おしかった。
凪は、少しだけ得意げな顔で、自分の手を見上げてくるななの頭を、くしゃりと撫でる。
そうだ。
この笑顔を守るためなら、どんなわがままも全力で叶えてきた。
それが兄である自分の、唯一の正義だと信じていた。
ななを守れるのは世界で自分だけだ。
小学生の凪は、そんな誇らしい自負に満ち溢れていた。
その愛情の形が、十年近い時を経て、自分たちを蝕む呪いへと変わってしまうことなど、知る由もなく────
「……なな…」
自分のか細く掠れた声で目を覚ました。
瞼の裏には、まだ幼い妹の屈託のない笑顔が焼き付いていた。
だが、心臓は激しく脈打っていた。額に冷たい汗がびっしょり滲んでいた。
昨夜の絶望的な記憶と、夢の中の温かい記憶。その境界が曖昧だった。
ゆっくりと体を起こす。
目の前に広がっていたのは、見慣れた天井。窓からは、既に明るい朝の光が差し込んでいた。
「…お兄ちゃん?」
目の前には、なながいた。
ベッドの脇に静かに立ち、じっと自分を見つめている。
「うなされてたみたいだけど、大丈夫?」
その穏やかな声。
凪は混乱に襲われた。
目の前のななは、昨夜自分が見た、あの壊れてしまった妹ではなかった。
シーツがない。
自分が座っているのは、シーツのない剥き出しのベッドだった。
どこかからゴウン、ゴウン、まるで昨夜の出来事を無かったことにするかのように、洗濯機の音が単調に響いていた。
状況が全く理解できない。
昨夜、何があった? 俺は自分の部屋で倒れて…。あの痕跡は…?
そしてさっきまで見ていた、あの幼い頃の夢は一体…。
「おはよう、お兄ちゃん」
ななは屈託のない、完璧な笑顔で、そう挨拶をした。
あまりの現実感のなさに、兄は言葉を失った。
長い静寂のあと、ようやくか細く弱々しい声で挨拶を返した。
「…ぁ…おは、よう…」
「朝ごはん、もうできてるから」
ななは、にこりと微笑む。
「リビングで待ってるね」
彼女はそう言うと、踵を返し何事もなかったかのように部屋を出ていった。
一人残された兄は、ただ茫然と、洗濯機の音だけが響く静かな部屋で、座り尽くすことしかできなかった。
わけも分からないまま。
凪はリビングへと向かった。
ダイニングテーブルの上には、湯気の立つ味噌汁と綺麗に焼かれた卵焼き、そして炊き立てのご飯がきちんと二人分用意されていた。
完璧な日本の朝食。
そのあまりにも完璧な日常の光景が、凪の混乱をさらに加速させた。
(昨夜の出来事は、幻覚だったのだろうか…?俺が疲れすぎて、ただ悪い夢を見ていただけ…?)
だが、だとしたら。
今この瞬間も家のどこかで回っている洗濯機。
その中で洗われている、俺のベッドのシーツはどう説明すればいい?
そんなことを、目の前でにこやかに味噌汁をよそっている妹に聞けるはずもなかった。
「お兄ちゃん、早く座って。冷めちゃうよ」
「あ…ああ…」
席に着くと、ななは屈託のないいつもの笑顔で話しかけてきた。
「それでね、お兄ちゃん。昨日の映画、どうだった? せつ菜さんと楽しめた?」
そのあまりにも自然に、躊躇いなく口から出てきた「せつ菜さん」という名前。
自分からその名前を出すななは、初めてだった。
凪はもはや、何が正常で何が異常なのか、その判断基準すら失いかけていた。
彼は起きてからずっと混乱し続けていたが、それでも必死に言葉を紡ぎ出す。
「あ…ああ。面白かったよ。せつ菜さんも喜んでた…」
「そっか! よかったね!」
ななは心の底からそう思っているかのように、嬉しそうに笑う。
その完璧な笑顔の裏側で彼女が何を考えているのか。
凪にはもう何も分からなかった。ただ見えない何かの主導権を、完全に彼女に握られてしまっている。
その事実だけを、ただ突きつけられていた。
ななのあまりにも自然なその問いかけ。
凪は映画の感想を、当たり障りなく、しかし必死に言葉を繋いでいた。
「あ、そうだ。私、今日、お昼からうたちゃんたちと会う約束してるんだ」
ふと、ななが思い出したようにそう言った。
その言葉に、凪の心にほんの少しだけ安堵の光が差し込んだ。
(…よかった)
昨日、一人で家に閉じこもっていた妹。
その姿に、自分の行動が彼女を孤立させているのではないかという恐怖を覚えていた。
だが今日は違うらしい。
「そうか…。昨日言っていた、一人でしたい勉強というのは、もういいのか?」
凪が尋ねると、ななは「うん! あれはもう集中して終わらせちゃったから大丈夫!」とにこやかに答えた。
「そっか…。俺は今日はサークルも他の予定もないから、一日家で勉強していると思う」
「分かった!」
ななは楽しそうに頷く。
その笑顔。
凪はじっと妹の表情を観察していた。
そこには確かに、感情の温かい光が宿っているように見えた。
屈託のない笑顔。
兄との会話を心の底から楽しんでいる、いつものなな。
(…俺の考えすぎだったのか…?)
昨夜の彼女のあの壊れたような姿も。
自分を苛んだあの悪寒も。
全ては自分の心が生み出した幻だったのだろうか。
何が本当で何が嘘なのか。
今の凪はもう判別がつかなかった。
ただ目の前の妹が笑ってくれている。
その事実だけを信じようと、彼は必死に自分に言い聞かせていた。
朝食を終え、「いってきまーす!」と昨日までとは打って変わって元気な声で、ななは家を出ていった。
一人残された兄は、そのあまりの変化に戸惑いながらも、自室へと戻る。
机の椅子に座り考え込もうとしたその時。
ふと枕元に置きっぱなしになっていた自分のスマートフォンが目に入った。
昨夜、早々に眠ってしまったため、ほとんど触れていない。
手に取って画面をつけると、そこにはかなりの数の通知が溜まっていた。
そのすべてが、せつ菜からのメッセージだった。
凪は驚きながらも、一番古いメッセージから順番に指でスクロールしていく。
『凪さん、今日は本当にありがとうございました! 映画、すごく楽しかったです!』
『あと、今日の写真です! よかったら保存してくださいね』
添付されていた画像を開くと、そこには映画館の前でぎこちなく、しかし少しだけ嬉しそうに微笑んでいる自分とせつ菜の姿が写っていた。
『…凪さん、あの後、体調は本当に大丈夫ですか? すごく辛そうだったので、心配です。無事に、お家に着けましたか?』
『おはようございます。体調、良くなっているといいのですが…。もし、まだ辛かったら、無理しないでくださいね』
昨夜から今朝にかけて送られてきた、その数々のメッセージ。
自分のことを本気で心配してくれる、そのあまりにも真っ直ぐで優しい言葉の数々。
凪の荒んで冷え切っていた心が、じわりと温もりを取り戻していくのを感じた。
彼はすぐに返信画面を開く。
『返信が遅くなって、本当にすまない。それに、心配をかけてしまったな』
『体調はもう、すっかり大丈夫だ。ただの寝不足か何かだと思う。本当に、昨日は見苦しいところを見せてすまなかった』
『写真、ありがとう。俺も昨日は本当に楽しかった』
凪は一つ一つのメッセージに、感謝と謝罪の気持ちを込めて、丁寧に、丁寧に返信をしていく。
家の外に、自分を気にかけてくれる人がいる。
その当たり前の事実が、今の彼にとっては何よりの救いだった。
凪がメッセージを送ると、ほとんど間を置かずにせつ菜から返信が来た。
『本当ですか! よかったです!』
その短い文面だけで、彼女が心から安堵してくれているのが伝わってくる。返すのが遅れたことを少し申し訳なく思いつつも、凪は彼女とのやり取りを続けた。
他愛のない会話が数回続いた後、せつ菜から、少しだけ、ためらいが感じられるメッセージが届く。
『もし、迷惑でなければ…また、凪さんと、どこかへ遊びに行きたいです』
その、あまりにもストレートな言葉。
凪はそのメッセージを読んだまま、しばらくの間固まっていた。
そしてゆっくりと文字を打ち込む。
『ああ、ぜひ。また近いうちに、必ず』
日付は決めなかった。いや、決められなかった。だが、その約束の言葉に嘘はなかった。
会話を終えると、タイミングを見計らったかのように、家のどこかから、ピー、ピー、と軽やかな電子音が鳴った。
ドラム式洗濯機が、乾燥までの全工程を終えたことを告げる音だ。
凪は洗面所へと向かい洗濯機のドアを開けると、ふんわりと温かく仕上がった洗濯物が詰まっていた。その中には、昨夜自分が絶望したあのシーツも混じっている。
(…シーツと昨日の服は、ななが入れてくれたのだろうか)
そのかいがいしい妹の行動。だがその意図は、全く読めない。
彼は取り出した服をクローゼットに掛け、そして剥き出しだった自分のベッドに、温かい洗い立てのシーツを手際よく張っていった。
残りの洗濯物もクローゼットにしまって、一通りやることを終える。
綺麗になった自室のベッドに、凪は静かに腰を下ろした。
そして、昨夜からのあまりにも濃密すぎた出来事を思い返す。
せつ菜とのデートの結末。
脳裏に焼き付いた、あの少女の幻覚。
帰宅した時に感じた、おぞましいまでの、悪寒。
壊れてうずくまっていた、なな。
彼女の支離滅裂な、告白。
自分のベッドで見てしまった、絶望の痕跡。
気を失った後に見た、幼い頃の懐かしい、夢。
そして今朝のななの、あの完璧なまでの、日常。
何が、現実で。
何が、幻覚で。
何が、彼女の本心なのか。
凪は、そのあまりにも複雑に絡み合った、巨大な謎の中心で、ただ一人途方に暮れていた。