幼い日の約束   作:mairu_i

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7日目 - 中編 こわれた万華鏡

うたとこころは、約束の時間より一時間も早く、喫茶グリッターの二階に集まっていた。

当然、議題はななのことだった。

二人は昨日自分たちの目で確かめた「ミッション」の結果を、スケッチブックにまとめ上げていた。

 

『ななちゃんのお兄さんは、昨日私たちが見たせつ菜さんという女性と、デートをしていた(ほぼ確定!)』

 

その、残酷なまでに明確な一文。

二人はその事実を前に、腕を組みながら唸っていた。

 

「やっぱりさ…」

 

最初に沈黙を破ったのは、うただった。

 

「こうなったら、私たちが裏で手を回して、あの二人を別れさせる、とか…!」

「うた先輩。それは人として最低な行為です」

 

こころが冷静にツッコミを入れる。

 

「じゃあやっぱり、直接お兄さんのところに乗り込んで、『ななちゃんを泣かせるなんて、サイテーだ!』って説教しに行くべきだよ!」

「それも違います。私たちはまだ、何も本当のことを知らないのですから…」

 

うたの突飛な、しかし本気の提案が、次々とこころによって却下されていく。

根本的な解決策など、どこにも見当たらない。

 

「じゃあ、もうこれしかないじゃん!」

 

しびれを切らしたうたが叫ぶ。

 

「ななちゃんに、直接聞くの! 『お兄さんのこと、本当はどう思ってるの?』って!」

 

「だ、ダメです!」

 

こころが今までにないほど、強い口調で反対した。

 

「それは一番してはいけないことです! なな先輩にとって、心の一番デリケートな部分です。私たちが無理やりこじ開けるようなことをしたら…なな先輩は、本当に壊れてしまいます…!」

 

「でも、それしかないじゃない!」

「いいえ、今は待つべきです!」

 

二人の意見は、完全に平行線をたどっていた。

その議論がまとまらない、まさにその時だった。

 

カランコロン───

 

階下から軽やかなドアベルの音が響いてきた。

そして、うたの母親の明るい声が、階段下から聞こえてくる。

 

「うたー! ななちゃん、来たわよー!」

 

その声に、うたとこころはハッとして顔を見合わせた。

どうする? 何も決まっていない。

なのに、ななはもうすぐそこまで来ている。

 

トントンッ

 

階段を上ってくる聞き慣れたスリッパの音。

その音にうたとこころはハッとして、弾かれたように動き出した。

 

「やばい、隠して!」

 

うたは、先ほどまで自分たちの衝撃的な仮説が書き連ねられていたスケッチブックをひったくると、ベッドの下へと滑り込ませる。こころも慌ててマジックペンのキャップを閉めた。

 

コン、コン。

「入るね」

 

ドアが開いた時には、二人は何事もなかったかのようににこやかな笑顔で、ななを出迎えていた。

 

「やあ、ななちゃん!」

「なな先輩、こんにちは」

「こんにちは、二人とも。…あれ、こころちゃん、早かったんだね。何か話してたの?」

 

ななの無邪気な問いかけに、うたの心臓が一瞬だけ跳ねる。

 

「う、うん! 今度私たちがアイドルプリキュアとして出演するテレビ番組の打ち合わせを、ちょっとだけね!」

 

完璧な言い訳。ななも、「そっか、楽しみだね!」と疑う様子もなく微笑んだ。

今日のななは、三日前に自分たちが見た、あの影のある少女ではなかった。うたとこころがよく知っている、少し前までの穏やかで優しい、いつものななだった。

 

三人はすぐに他愛のないおしゃべりに夢中になる。

その中でなながふと尋ねた。

「そういえば、二人は昨日何してたの?」

 

うたとこころは、一瞬だけぎくりとして視線を交わす。

「えーっと、私たちも買い物したり映画を見たりとか…ね、こころちゃん!」

「は、はい! とても感動的な、良い映画でした!」

 

まさか、あなたのお兄さんを尾行していました、などと言えるはずもない。二人は映画のあらすじを思い出しながら、必死にその場を取り繕った。

 

その時だった。

 

「へぇ、そうなんだ。そういえばね、うちのお兄ちゃんも昨日、サークルの友達と映画観に行ったんだって」

 

ななは、あまりにも自然に、そして軽やかに、その話題を口にした。

その光景に、うたとこころは言葉を失い、ただ目を丸くする。

 

え?

ななちゃんがお兄さんの話をするなんて。

今まで、ほとんどなかったのに。

ましてや女性とデートなどという話題が、ななから出るとは夢にも思っていなかった。

 

「すごく楽しかったみたいでね、なんだか私まで嬉しくなっちゃった」

 

そう言ってななは、本当に嬉しそうに、ふふ、と笑う。

その笑顔は、誰の目から見ても紛れもなく、「本物」に見えた。

 

何か心境の変化でもあったのだろうか。

兄がデートから帰ってきて、たった一晩しか経っていない。むしろ、悪い方に向かってしまうのではないかと、あれだけ心配していたのに。

 

昨夜、蒼風家で一体何があったのだろう。

うたとこころは笑顔で相槌を打ちながら、そのあまりにも不可解な謎に、ただ混乱するばかりだった。

 

それからは、まるで堰き止められていたダムが決壊したかのように、ななは兄のことを口にするようになった。

 

「あ、このケーキすごく美味しい! 今度お兄ちゃんにも買って帰ってあげよう」

「この本に書いてあること、お兄ちゃんも言ってたな…」

「お兄ちゃんって、昔から本当に優しくて…」

 

そのあまりの変わりように、うたとこころはただ「そ、そうだね」「へぇ、そうなんですね」とぎこちなく相槌を打つことしかできなかった。

やがてその空気に、うたの方が我慢できなくなった。

 

「ななちゃん!」

 

彼女が少しだけ大きな声で名前を呼ぶと、ななはきょとんとした顔でこちらを振り返った。

隣でこころが、「うた先輩…!」と焦った顔をしているのが視界の端に入る。

 

「…あのさ、ななちゃん」

 

うたは努めて明るい声で尋ねた。

 

「今日なんだか、お兄さんの話よくするね。今まで全然しなかったから、ちょっと珍しいなーって思って」

 

あまりにも直接的なその表現。こころは思わず息を呑んだ。

だがななの返答は、あまりにも自然なものだった。

 

「え? そうかな?」

 

彼女は不思議そうに小首を傾げる。

 

「自分では全然、いつもと変わらないつもりだけど…。お兄ちゃんは、私にとってたった一人の大切な家族だから。話題に出るのは、普通のことじゃないかな?」

 

その一点の曇りもない、瞳。

そのあまりにも完璧な、正論。

うたとこころは、その言葉にぐうの音も出なかった。

まるで自分たちが、何かおかしなことを言っているかのような、錯覚に陥ってしまう。

 

二人はそれ以上その話題に踏み込めなかった。

ただ、「そ、そっか! そうだよね!」と乾いた笑いを返すことしか。

 

ななのあまりの自然な振る舞い。

その完璧な「いつも通り」の姿。

うたとこころは、ななとそうして過ごしているうちに、先ほどまで自分たちの胸の中に渦巻いていた深刻な不安が、少しずつ消えていくのを感じていた。

 

(…もしかしたら)

うたは思う。

(私たちが考えすぎてただけなのかも。ななちゃんは、私たちが思うよりずっと強い子で。一晩でちゃんと自分の気持ちに整理をつけて、吹っ切れたのかもしれない)

 

そうだ。きっと、そうだ。

 

二人の表情が少しずつ和らいできたのを確認したかのように、うたがパンッと手を叩いた。

 

「あ、そうだ、ななちゃん!」

彼女はとびきりの笑顔をななに向ける。

「昨日、私とこころちゃんが行った駅前のカフェ、知ってる? あそこのパンケーキが、もうキラッキランに美味しかったんだよ!」

 

「え、本当? パンケーキ!」

ななの瞳が興味深そうに輝く。

 

「うん! 今度、絶対ななちゃんも連れてってあげたいなって、話してたの!」

「行きたい、行きたい!」

 

ななは、心の底からそう思っているかのように、嬉しそうに笑った。

その笑顔を見て、うたはもう完全に安心しきっていた。

 

「よし、決めた! 今度じゃなくて、今から行こうよ!」

「え、今から?」

「はい! いいですね!」

 

ななの驚きの声に、こころの賛成の声が重なる。

こころもまた、ななが元気になったのだと信じ始めていた。

 

「よーし、じゃあ出発だー!」

 

うたの元気な掛け声と共に、三人の少女たちは笑い声を響かせながら、うたの部屋を飛び出した。

つい先ほどまでこの部屋を支配していた、重苦しい作戦会議の空気は、もうどこにも残っていなかった。

 

うたがあれほど力説していたカフェ。

テーブルに運ばれてきたパンケーキは、確かにふわふわで、フルーツがたくさん乗っていて、キラキラと輝いて見えた。

 

「ほら!とっても美味しいでしょー!」

「うん、美味しいね」

 

うたが興奮気味に感想を言い、ななもにこやかに言葉を返す。

三人の楽しい会話は尽きることがない。

ななのあまりにも自然なその笑顔と態度に、うたとこころの胸の中にあった、重たい不安は、もう完全に消え去っていた。

ななちゃんはもう大丈夫なんだ。吹っ切れたんだ。

二人は、そう信じ切っていた。

 

(…そういえば)

 

ななは友人たちとの楽しい会話の合間に、ふと今朝の出来事を思い返していた。

 

(今朝のお兄ちゃん、やっぱり少しおかしかったな…)

 

自分が部屋に起こしに行った時、ひどく寝汗をかいていた。何か悪い夢でも見ていたのだろうか。だからシーツと脱ぎっぱなしの服を洗濯機に入れてあげたのだ。

朝食の時も、どこか上の空だった。

昨夜何かあったのだろうか。

でも、たまにはお兄ちゃんだって、そんな日もあるだろう。

 

(昨日は何かあったかな…)

 

ななは、昨日の自分の行動を思い返してみる。

確か一日家で、普通に過ごしていたはずだ。

夜、お兄ちゃんが帰ってきて…。一日外にいて疲れていたのか、すぐに寝てしまったようだったけど…。

それ以上は、何も覚えていない。

うん。特に変わったことはなかったはずだ。

 

(様子がおかしいと言えば…)

 

ななの思考は続く。

今朝のうたちゃんとこころちゃんも、少しだけおかしかった。

グリッターに着いた時、なんだか二人とも慌てていたような…。

 

(…そっか)

 

ななはそこで一人納得する。

昨日、自分が約束をドタキャンしてしまったからだ。二人はきっと自分のことを、すごく心配してくれていたのだろう。

 

ななは、そう結論づけた。

目の前で楽しそうにパンケーキを頬張る親友たち。

その優しい友人たちに、これ以上心配はかけられない。

 

ななは、自分の中にあったほんの僅かな違和感を、すべて納得の行く答えで塗り潰すと、再び目の前の楽しいおしゃべりに、意識を戻すのだった。

 

パンケーキを囲む、三人の楽しい時間。

その和やかな空気の中で、うたがふと思い出したように切り出した。

 

「そういえば、ななちゃん。昨日はごめんね、いっぱいメッセージ入れちゃった。でもすごく心配だったんだよ」

「はい、なな先輩。お一人で大丈夫かなって…」

 

うたが心配そうに尋ねる。

だが、ななの返事は、二人の予想を裏切るものだった。

 

「え? メッセージ…?」

 

ななは不思議そうに首を傾げる。

 

「ううん、私、昨日二人とはあんまりやり取りしてないと思うけど…。最初の、『今日は休むね』っていう連絡くらいしか…」

 

「え!?だって、ななちゃん、『寝ちゃってた』とか『夢を見てただけ』って返信くれたじゃない!」

うたは驚いてそう聞き返した。そんなはずはない。最初の返信があってから、何往復かメッセージのやり取りをしていたはずだ。

 

「…私が?」

 

ななは、心底、不思議そうな顔をした。

 

「寝てたかな…夢…? ごめん、どっちもあんまり、よく覚えてないや」

 

その言葉に、うたとこころは凍りついた。

メッセージのやり取りだけでなく、自分が寝ていた事実すら、忘れてしまっている。

 

「なな先輩、昨日一日、何をされてたんですか…?」

こころがおそるおそる尋ねる。

「えっと…普通に家にいたと思うけど…。でも、あんまり覚えてないかも」

 

それはまるで、美しい模様の万華鏡から、醜い色のガラスだけを綺麗に取り除いてしまったかのようだった。

残されたのは、完璧で都合の良い、キラキラとした記憶の欠片だけ。

そのあまりにも不自然な記憶の欠落に、二人の胸に再び不安が込み上げてくる。

 

「そ、そっか…。そういえばさ!」うたは重たい空気を振り払うように話題を変えた。「ななちゃん、今日お兄さんの話よくするよね! 仲直りできたの?」

 

それは、核心に触れるための、うたなりの変化球だった。

だが、その言葉を口にした瞬間。

 

ピシッ、と。

 

うたとこころは、確かに感じ取った。

ななの表情は、変わらない。笑顔のままだ。

だが、その心の奥の奥底で、何かが硬く、冷たく拒絶する、その瞬間を。

それは勘違いなどでは決してない。

 

「仲直り?最近お兄ちゃんと喧嘩なんてしてないよ?」

 

ななは、さも当然のように、にこやかに答えた。

 

また、同じ反応だった。

見た目は完璧な笑顔。だがその内側で、彼女の魂が悲鳴を上げているかのような、ほんの僅かな不協和音。

 

間違いない。

多分、ななちゃんは自分でも気づいていない。

そしてこれは演技でもない。

 

まるで、兄に関する何か重大な辛い記憶だけを、都合よく失って。

その空っぽになった穴を埋めるために、理想の「仲の良い兄妹」物語を、無意識に自分で作り上げて、それを信じ込んでいるかのようだ。

 

泣いているのなら、抱きしめることができた。悩んで苦しんでいるのなら、話を聞くことができた。

だが、今の彼女は、自分がおかしくなっていることにすら、気づいていない。

問題は解決したのではない。むしろ、誰にも手の届かない、彼女自身の心の奥深くへと潜ってしまったのだ。。

 

うたとこころは、目の前で楽しそうにパンケーキを頬張る友人の、そのあまりにも危うい笑顔を、ただ見つめていることしかできなかった。

心の中に、どうしようもない絶望と無力感が広がっていくのを感じながら。

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