パンケーキを食べ終え、楽しいおしゃべりの時間もそろそろお開きかという雰囲気になった頃。
うたがわざとらしく、パンッと手を叩いた。
「あー! ごめん、二人とも!」
彼女は申し訳なさそうな、演技がかった表情を作った。
「すっかり忘れてた! 今日この後、お店の手伝いを頼まれてたんだった! もう行かないと!」
「え、そうなの? 大変だね」
ななが純粋な心配の声を上げる。
「うん! だからごめん、今日はもう解散かな!」
うたのその言葉で、三人は少し早いがお開きとなった。
カフェの前でななに、「バイバイ!」と手を振り、その後ろ姿が角を曲がって見えなくなるのを確認した。
その瞬間。
うたとこころは、顔に貼り付けていた笑顔を、すっと落とした。
もちろん、うたの手伝いというのは、真っ赤な嘘だ。
二人がすることは、当然、ひとつ。
うたとこころは無言のまま、再び喫茶グリッターに戻り、二階にあるうたの部屋へと駆け戻っていった。
ドアを閉め、鍵をかける。
「…やっぱり、放っておけないよ」
うたが絞り出すように言った。
「ななちゃん、絶対おかしい。どんどん何かが壊れていってる…」
こころも青い顔で頷く。
ななの、あの記憶の欠落。そして兄に対する、あまりにも不自然で、そして無自覚な反応。
事態は、自分たちの想像をはるかに超えて、悪化している。
二人は再び顔を突き合わせた。
ななの親友として、ななを救うための作戦会議を始めるために。
うたの部屋。
スケッチブックの上には、昨日までの情報に加えて、今日新たに判明した事実が書き足されていた。
『ななちゃんの昨日の記憶が、曖昧になっている(メールのやり取りなど)』
『兄の話題を、自分から頻繁にするようになった(以前とは真逆!)』
『だが兄の名前を直接聞くと、無意識に拒絶反応を示している(本人は気づいていない様子)』
「…事態は、私たちが思っている以上の速度で悪化しています」
こころが青ざめた顔で言う。
「このままでは一週間…いえ、もしかしたらこの数日で、取り返しのつかない最悪の事態に発展しても、おかしくありません」
「…やっぱり、私もう我慢できない」
うたは決意を宿した目で立ち上がる。
「お兄さんと直接話をしなきゃ、気が済まない!」
「だから、それはダメだと言っているじゃないですか!」
こころは立ち上がって反論した。
「会って何を話すというのですか!? 『なな先輩が苦しんでいるから、せつ菜さんという方との交友関係を、解消してください』とでも、言うつもりですか!? 私たちに、そんなことを言う権利が、どこにあるんですか!」
「分かってるよ!」
うたも叫び返す。
「でも、何を話せばいいのか、分かんないけど! このまま何もしないでいたら、絶対に、もっと良くないことが起こるって、私の勘が言ってるの! もちろん、せつ菜さんとの関係をどうこう言うつもりはない! だから…!」
だから、ただ話を聞きたいのだ、と。
うたのその悲痛なほど真剣な眼差しに、ついにこころは折れた。
「…分かりました。ですが、慎重にお願いします」
うたはこくりと頷くと、すぐさまスマートフォンを手に取った。
今の時間なら、ななはまだカフェからの帰り道で、家にはまだ着いていないだろう。
うたはスマートフォンの電話帳から、蒼風家の固定電話の番号を探し出す。
深呼吸を一つ。そして通話ボタンを押した。
数回のコールの後、電話の向こうから落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
ななの兄、凪だった。
「もしもし、咲良うたです。ななちゃんの友達の」
『…ああ、うたちゃん。どうしたんだい、急に』
「突然すみません! あの、ななちゃんのことについて、凪さんに直接お会いして、お話したいことがあります!」
うたの、そのどこか迫真に迫る声色に、電話の向こうの凪が息を呑む。
彼は一瞬逡巡した後、押されるように了承した。
『…分かった。だが今日はもう、夕飯の準備があるから難しい。明日の午前中なら時間が取れるが…』
「はい! 明日で結構です!」
話はまとまった。
明日の午前、喫茶グリッターの奥の一番目立たない席で。
通話を終えると、うたは大きなため息をついた。
「ふぅ…こころちゃん、明日午前、グリッターの一番奥の席で!」
「わかりました…!」
通話を聞いていたこころは、力強い声で返事をする。
時計を見れば、もう良い時間だった。
「…今日は帰ろうか、こころちゃん」
「はい…」
二人は、今日は解散して明日に備えることにした。
一体何が待ち受けているのか。
今は誰にも分からなかった。
◇ ◇ ◇
ななは、うたとこころと別れ、一人家路についていた。
三人で過ごした時間は確かに楽しかった。美味しいパンケーキを食べて、たくさん笑った。
でも、どこか話が噛み合わない瞬間が、何度かあったような気がする。
(メッセージのやり取り…)
うた達がしきりに気にしていた、昨日のメッセージ。
『寝ちゃってた』『夢を見てただけ』なんて、私が本当に送ったのだろうか。
ななはふと立ち止まった。
そうか。自分のスマートフォンを見てみれば、分かることじゃないか。
彼女はバッグからスマホを取り出すと、3人のグループのトーク画面を開いた。
そして、息を呑む。
そこには、確かにうた達が言っていた通りの、やり取りの履歴が残っていた。
うたからの心配のメッセージ。それに対する、自分の短い返信。
(どうして…? 私、全然覚えてない…)
夢? 昨日の私、どんな夢を見ていたんだろう。
ななは、昨日の出来事を必死に思い出そうとした。兄との、幼い頃のあの約束の夢を。
その、瞬間だった。
すっと頭の中から、何かの感情が抜け落ちる。
ななは、気づかなかった。自分の指が、まるで意思を持っているかのように、勝手に動き始めていることに。
トーク履歴の一番最初の、自分が覚えている二つのメッセージ。それ以外を、一つ、また一つと選択していく。
そして、何の躊躇いもなく「削除」のボタンを押した。
そんなもの、最初からなかったかのように───
「………ん?」
はっと、我に返る。
ななは自分がスマートフォンの画面を、じっと見つめていることに気づいた。
画面には自分が覚えている通り、昨日送った最初の2つのメッセージだけが表示されている。
「…なんだ。やっぱり、メッセージのやり取りなんてしてないじゃない」
ななは独り言をぽつりと呟いた。
(もう、うたちゃんったら。こころちゃんまで一緒になって、私をからかってたんだな)
きっと、そうだ。
昨日、自分が約束を休んでしまったから、その仕返しに、ちょっとした悪戯をしたのだろう。
ななは、ふふ、と小さく笑うと、スマートフォンをバッグにしまった。
友人たちのお茶目な冗談のおかげで、胸の中にあった最後の小さなモヤモヤも消え去っていた。
ななは、すっかり軽くなった足取りで、再び家路へと歩き始めた。
「ただいまー!」
ななが元気よく玄関のドアを開ける。
キッチンからは、食欲をそそる良い匂いがした。ひょこりと顔を出すと、エプロン姿の兄がちょうど夕飯の最後の仕上げをしているところだった。
「おかえり、なな。もうすぐご飯できるぞ」
「うん! 今日も、すごく美味しそうだね!」
凪はななの顔を見ると、「ああ」とだけ言ってエプロンを外し始めた。
「夕飯の前に、俺は風呂に入ってくる」
その言葉に、ななは壁の時計をちらりと見た。今から兄がゆっくりと風呂に入って、その後に自分が入るとなると、せっかく作ってくれた夕飯が冷めてしまうだろう。
「ねえ、お兄ちゃん」
ななはキッチンにいる兄の元へ駆け寄った。
「私もシャワー浴びたいんだけど、お兄ちゃんが湯船に浸かってる間に、隣でシャワーだけ使わせてもらってもいいかな? 時間、もったいないし」
それは、ごく合理的な、時間の節約のための提案だった。
だが、その言葉を聞いた兄は、びくりと肩を震わせた。そして、何かひどく苦しいことでも考えるかのように、一瞬押し黙る。
やがて、兄は意を決したように口を開いた。
「…ああ。…一緒の湯船に入らないのであれば、構わない」
その奇妙な条件。
ななは、ぽかんとしてしまった。
(お兄ちゃんは何を言っているんだろう…)
いくら自分たちが特別仲が良いとはいえ、私ももう良い年齢だ。今更兄と一緒の湯船に入りたい、などと思うわけがない。
ただ純粋に時間の関係で、そう提案しただけだったのに。
(…変なの、お兄ちゃん)
ななは、兄のその少しおかしな言動に小さく首を傾げながらも、「分かった!」と元気よく返事をして、自分の着替えを取りに部屋へと向かった。
◇ ◇ ◇
ななからの、「シャワーを使わせてほしい」という提案。
その言葉を聞いた瞬間、凪の心臓がひやりと冷たくなった。
ダメだ。それだけは。
この狭く密閉された空間に、二人きりになることだけは避けなければ。そう本能が叫んでいた。
だが、彼は必死に目の前の妹の様子を観察する。
その瞳に宿っているのは、昨夜までの彼にすがりつくような依存の色ではなかった。
もっとずっと前の。兄をただ純粋に慕ってくれていた頃の、なな。
そしてその表情は、本当に、ただ夕食の時間のことだけを気にしているようだった。
(…考えすぎなのか…? 俺が過敏になりすぎているだけなのか…?)
果たしてここで彼女の合理的な提案を、拒絶して良いのだろうか。
逡巡の末、これは兄妹の間に課した新しい境界線なのだと自分に言い聞かせ、一つの妥協案を口にした。
「…ああ。…一緒の湯船に入らないのであれば、構わない」
その言葉に、ななは少し不思議そうな顔をしたが、「分かった!」と元気よく返事をした。
そして訪れた奇妙な時間。
湯船に浸かる自分。そのすぐ隣で、シャワーを浴びるなな。
お湯の音だけが響くバスルーム。
二人の間には特に会話もなく、その時間は終わった。
先に風呂から上がった凪は、脱衣所で着替えを済ませながら自問自答する。
(考え過ぎだったのだろうか…)
ななはもう立ち直ったのかもしれない。
自分だけがまだ、悪夢の呪縛に囚われているだけなのかもしれない。
そんな混乱を抱えたまま。
夕食の時間がやってきた。
その夜の夕食の会話は驚くほど弾んだ。
きっかけは、ななからだった。
「今日ね、うたちゃんたちと駅前の新しいカフェに行ったんだ! パンケーキがすっごく美味しくて!」
「へえ、そうなのか」
凪は相槌を打ちながら、内心少し驚いていた。そこは昨日、自分がせつ菜と行ったのと全く同じ店だったからだ。
(…やはり、それほどまでに評判の店なのだろう)
彼はそう結論づけた。
「お兄ちゃんも、今朝はありがとう。洗濯物取り込んでくれて」
ななが話題を変えると、兄は自然と会話を紡ぐ。
「いや、それより俺の方こそありがとう。俺の服だけじゃなくて、ベッドのシーツまで洗ってくれていたなんて…」
「シーツ」という単語を口にしてしまった瞬間、凪はハッとした。
昨夜のあの絶望的な光景が、脳裏をよぎる。彼は思わず、ななの表情を窺った。
だが、ななの反応は極めて自然なものだった。
「ううん。お兄ちゃん、すごく汗をかいてたみたいだったから。気になっただけだよ」
そう言って彼女はにこりと無邪気に笑った。そのあまりの屈託のなさに、凪はまた自分の感覚が麻痺していくのを感じていた。
「俺は今日一日、部屋で勉強してたよ」
兄がそう言うと、ななは、「お疲れ様」と労いの言葉をかけてくれる。
彼が今日実際に取り組んでいたのは、昨日までのあの心を蝕むような家族関係の論文などではなかった。気分を切り替えるために、必死に、無機質な数学の課題に向き合っていたのだ。
やがて楽しい(そう、表面上は見える)夕食の時間が終わった。
二人は食器を片付けると、「おやすみ」とごく自然に挨拶を交わし、各々の部屋へと戻っていった。
まるでここ数日、二人の間にあったあの嵐のような出来事など、何もかもが幻だったかのように。
凪は自室に戻ると、ベッドに目をやった。そこには、自分が今日掛け直した洗い立ての清潔なシーツが、きちんと張られている。
もうこの部屋から、ななのあの甘く悲しい匂いはしない。
(…やはり、昨夜の出来事は俺が見た悪夢だったんだ)
凪は静かに息を吐いた。
あの優しくて正しいななが、そんな自分を傷つけるようなことをするはずがない。
風呂の件もそうだ──俺が提示した「同じ湯船には入らない」という新しい境界線を、何の疑問も抱かずに受け入れた。あれこそ、自分が思い描いていた適切な距離感ではないか。
あの様子では、今日彼女が「一緒に寝たい」と言ってくることもないだろう。
昨日は初めてのデートで、知らず知らずに浮かれてひどく疲れていたのだろう。その疲れが、あの倒錯した悪夢を見せ、夢と現実を混同させただけだ。
凪はそう結論づけた。そう信じ込むことでしか、彼は自分の正気を保てなかった。
彼は机の上の数学の問題集を開く。
もう、あの心を蝕む論文を読むのはやめよう。俺たちの関係は正常だ。
凪は自分自身に呪文のようにそう言い聞かせながら、無機質な数式に意識を沈めていった。
やがて、眠気が訪れる。
凪はベッドに横になると、ふと明日の約束を思い出した。
(そうだ。明日はななの友人たちと会う約束があるんだった)
電話口でのうたちゃんの声。
ななのことについて話したいと、どこか切羽詰まったような、迫るような物言いだった。
あの時は自分も動揺していたから、ただならぬことだと感じてしまったが。
(…きっと彼女たちも心配しているだけなんだ)
今なら分かる。
きっとうたちゃんたちも、ここ数日のななの、少しおかしな様子を見て心配になったのだろう。
そして、俺が昨夜悪夢と現実を混同してしまったように、彼女たちもななの様子を、変に間違って受け取って、思い詰めてしまっているのかもしれない。
だから、兄である自分に相談しようとしてきたのだ。
凪は安堵の息を一つ漏らし、心に決めた。
(よし。明日会ったら、きちんと説明して安心させてあげよう)
ななはもう心配ないのだと。
自分たちが、少し過敏になりすぎていただけなのだと。
そう心に決めると、凪の意識は急速に、穏やかな眠りの中へと落ちていった。
ここ数日、彼を苛み続けていた悪夢も悪寒も、もう感じることはない。
彼はそう信じていた。