朝、食卓には穏やかな時間が流れていた。テーブルを挟んだ向かいには、昨日と変わらない笑顔のなながいた。
今日の予定を話す中で、凪はななに告げた。
「俺は今日、午前中からサークルに行く予定なんだ。だから昼食までには帰るよ」
ななのことについて友人たちと話すのだから、本人に隠しておくのが良いだろうという配慮からの嘘だった。本当の予定は、午前中に喫茶グリッターへ向かい、午後にサークルへ顔を出すというものだ。
「そっか。私は今日もお昼からうたちゃんたちと会う約束なんだ。午前中に集まる予定だったけど、急に午後からに変更になったの。
その言葉に、凪の胸にすとんと一つの理解が落ちる。
(ななとの約束をわざわざ午後からに変更してまで、うたちゃんは俺と話したいことがあるのか…)
電話口での、あの迫真に迫る声色を思い出した。やはり、彼女たちはななのことを相当心配しているらしい。
(俺と同じように、ななの様子を少し大袈裟に受け取ってしまったんだろうな)
凪はそう結論づけた。
(早く、彼女たちを安心させてあげなければ)
ななはもう問題ないのだと。これ以上、俺の心の奥にある、見たくない部分を抉るような真実を突きつけられる前に。
「じゃあ、いってくる」
「うん、いってらっしゃい、お兄ちゃん!」
朝食を終え、凪は家を出た。
大切な妹を心配してくれる友人たちの過剰なまでの優しさに応えるために。
約束の時間より少し早く、凪は喫茶グリッターのドアを開けた。カランコロンと軽やかなベルの音が鳴る。
「いらっしゃいま…あ、凪さん!」
カウンターの中からうたの母親が顔を出し、すぐに事情を察したようににこやかに微笑んだ。
「うたたちなら、奥の席で待ってますよ」
案内された一番奥のボックス席。そこにはうたとこころが、緊張した面持ちで座っていた。凪の姿を認めると二人は、待っていましたと言わんばかりに立ち上がる。
「凪さん、すみません、お忙しいところ…」
「いや、構わないよ」
凪は向かいの席に腰を下ろした。店員が運んできたお冷を一口飲んだ。
まずは普通に注文を済ませた。そしてテーブルの上に静かな緊張感が漂い始めた頃、凪の方から口を開いた。
「それで…ななのことについて話があるんだろう? まずは君たちの話を聞かせてくれるかな」
その言葉を皮切りに、二人は堰を切ったように話し始めた。
ここ最近、ななの様子が明らかにおかしいこと。
遠回しだが確信に満ちた言葉で、ななは兄である凪に対して、ただの兄妹愛とは違う少し特別な感情を抱いているかもしれないということ。
そして先日、偶然にも大学のテニスコートを通りかかった時。
凪がせつ菜という女性と仲睦まじそうに話しているところを、ななと一緒に見てしまったこと。その瞬間からななの様子が一変してしまったこと。
「私たちが見ていないところで、どんどん事態が悪化しているような気がするんです」
「今のななちゃんは、本当の自分の気持ちを必死に自分で押さえつけて、無理に笑っている状態なんじゃないかって…」
とにかく自分たちの想いを、この何も知らない(ように見える)兄に理解してもらうため。
二人は必死に言葉を紡いだ。
その真剣で切実な眼差しは、純粋に大切な友人を救いたいという想いだけで満ち溢れていた。
うたとこころの切実な言葉。
凪は、その一言一句を真剣な表情で受け止めていた。
(…そうか。この子たちは、こんなにも…)
ななのことをこんなにも真剣に見て、心配してくれていたのか。
自分がななの兄として見落としていた、あるいは見ないふりをしていた妹の僅かな変化まで、彼女たちはちゃんと感じ取ってくれていた。
その事実が、まず何よりも嬉しかった。
そしてだからこそ。
彼女たちが抱いてしまっている、その深刻な「杞憂」を、今すぐここで解消してあげなければならない。そう強く思った。
二人の話が一通り終わるのを待って、凪は静かに、そして穏やかに口を開いた。
「…話してくれてありがとう。二人がななをどれだけ大切に思ってくれているか、よく分かった。兄として心から感謝するよ」
まず感謝を伝える。
そして彼は一つ一つ丁寧に、彼女たちの不安に答えていった。
「君たちが心配する気持ちはよく分かる。確かにここ数日、ななは少し不安定だったのかもしれない。俺も兄として反省している」
「でも、もう大丈夫だ」
凪は安心させるように、はっきりとそう告げた。
「ななも少し考えすぎてしまっていただけなんだ。もう何の問題もない。昨日もいつも通り元気な顔で、君たちに会いに行っただろう?」
「君たちがテニスコートで見たというのも、ただのサークルの同期と練習をしていただけだ。ななもそのことはちゃんと理解してくれている。だから心配しなくて大丈夫だよ」
凪はそう信じていた。
いや、そう信じ込むことで自分自身を保っていた。
彼のその穏やかで自信に満ちた言葉。
それは友人たちの不安を取り除くための、完璧な説得力を持っているように思えた。
凪の穏やかで自信に満ちた雰囲気。
うたは一瞬、その空気に圧倒されそうになった。
(…そっか。私たちが考えすぎてただけなのかも…)
そう思いかけた、その時だった。
「…凪さん」
隣に座るこころが、静かに、しかし凛とした声で口を開いた。
「失礼を承知で申し上げます。凪さんは、なな先輩の何を、見ていらっしゃるのでしょうか」
その真っ直ぐな言葉に、凪の穏やかだった表情がほんの少し揺らいだ。
「昨日のなな先輩は、確かに笑顔でした。嘘や作り物ではなかったと思います。ですが…」
彼女は必死に言葉を探すように、一度唇を結んだ。
「その完璧な笑顔の奥から、ほんの僅かに聞こえてくるんです。まるで調律の狂ったピアノのような、小さな不協和音が。…それが、なな先輩の心のSOSなのだと、私たちは感じました」
こころは続ける。
「私たちはただの友人です。ですがそれでも分かりました。兄である凪さんに、それが分からなかったとは到底思えません」
その鋭い指摘。
だが凪だって譲れなかった。ここで引くわけにはいかなかった。
「…君たちの気持ちは嬉しい。だがななのことは、俺が兄としてずっと見てきた。誰よりも長く深く。その俺から見て、今のななにはもう何の問題もない。少し不安定だった時期を乗り越えて、彼女はちゃんと前に進もうとしているんだ」
「いいえ、そうではありません!」
「いや、そうなんだ!」
議論は完全に平行線を辿っていた。
ななの心の奥底にある真実を信じようとする友人たち。
ななの表面上の笑顔を信じようとする兄。
どちらもななを想う気持ちは同じはずなのに、その想いの形はかけ離れていた。
喫茶グリッターの奥の席で、二つの正義はただ静かに、そして激しく火花を散らしていた。
平行線を辿る議論に、窓の外の光が真昼のそれへと変わっていくのが時間の経過を告げていた。
凪は腕時計に目をやり、ふうと一つ息をついた。
「…すまない。もう行かなければ。午後からサークルがあるんだ」
その言葉は、この不毛な議論の打ち切りを意味していた。
うたとこころは悔しそうに唇を噛んだ。まだ何も解決していない。
「…分かった」
凪は最後に一つの提案をした。それは彼なりの最大限の歩み寄りだった。
「君たちの心配は分かった。だからこうしよう。これからもななの様子は、俺が兄として責任を持って注視する。そしてもし何か大きな変化があった場合には、必ず君たちにも伝える」
彼は続ける。
「だから君たちも、どうかこれからもななの良い友人としてそばにいてやってほしい。そして必要だと感じた時には、また様子を教えてくれないか」
それは一見協力的な提案に聞こえた。
だがその実態は、問題の先送りに過ぎない。
うたとこころは、そのことを痛いほど理解していた。
だがこれ以上、何を言えるというのか。
兄である彼が「大丈夫だ」と言い切るその前で。
「……分かりました」
こころが絞り出すようにそう答える。うたは悔しそうに俯いたまま、ただこくりと頷いた。
その場はそれで、納得せざるを得なかった。
凪は伝票を手に席を立つと、「話を聞けて良かった。ありがとう」と言い残し、店を出ていった。
残された二人はただ、無力感に打ちひしがれていた。
自分たちの声は届かなかった。
そしてななは今も、あの笑顔の仮面の下で一人苦しんでいるのかもしれない。
そのどうしようもない現実に、二人はただ唇を噛み締めることしかできなかった。
凪は近くの定食屋で軽く昼食を済ませると、そのまま大学のサークルへと向かった。
その道中、彼は先ほどのななの友人たちとの会話を思い返していた。
(思った以上に強情な子たちだったな)
特にこころという、物静かそうに見えた後輩の女の子。彼女のあの真っ直ぐな瞳。
だがそれも、ななのことを本気で心配してくれているからこそだろう。あれだけ真剣な顔で訴えられては、とても邪険にはできなかった。
(だが、焦ることはない)
凪は確信を持っていた。
今のななは安定している。俺が信じて見守ってやればいい。
これからのななの元気な姿が、きっと彼女たちの誤解も解いてくれるだろう。
…そう、時間が解決してくれる。
彼はそう結論づけた。
その結論にたどり着いた時、ちょうど大学のテニスコートが見えてきた。
パンッ、パンッととボールの弾む音が聞こえる。
凪はコートの中を見渡した。
まず探すのは、真っ先に彼女の姿だった。
いた。
コートの一番奥。壁を相手に一人黙々とストロークの練習をしている。
優木せつ菜。
そのひたむきな姿を認めた瞬間、凪の心にここ数日こびりついていた、重たい澱のようなものがすっと軽くなるような気がした。
凪の姿に気づいたせつ菜は、壁打ちをぴたりと止めるとぱっと顔を輝かせた。そしてラケットを片手に駆け寄ってくる。
「凪さん! 来てくれたんですね!」
その嬉しそうな声。
「よかったら今日も一緒に練習、お願いできますか?」
まるでそれが当たり前のことであるかのように、彼女は屈託なくそう誘ってくれた。
その笑顔は本当にまぶしかった。夏の入道雲を突き抜ける太陽の光のように強い。凪はその光に目を細めた。
「ああ、もちろんだ。俺の方こそ、頼むよ」
その日の練習は昨日よりもさらに実践的な、技術練習が中心だった。
ネット際でのボレーの応酬。ドロップショットの精度。コースを狙ったサーブ。
「ナイスショット、せつ菜さん!」
「今の、良かったです、凪さん!」
二人は声を掛け合いながら、ひたすらに練習に没頭した。
純粋にテニスが上手くなりたい。ただその一つの共通の目的だけが、二人を繋いでいる。
そのシンプルで健康的な関係性が、今の凪には何よりも心地よかった。
家の重たい空気も、ななのあの笑顔の意味も。
今は考えなくていい。
凪は額に滲む汗を拭うのも忘れ、ただ目の前の黄色いボールだけを追い続けた。
ラリーを続ける中で、彼は改めてせつ菜の才能と情熱に感心する。教えたことをすぐに吸収する飲み込みの速さ、そして、一球一球に食らいつく、その全力の姿勢。本当に、心の底からテニスが好きなのだろう。
「ありがとうございました!」
練習を終え、二人でネットのそばで話していると、自然とテニスの話題に花が咲いた。好きなプロ選手、次の大会への意気込み。彼女と話していると、家の重たい空気を忘れ、ただの一人の大学生に戻れる気がした。
「…あの、凪さん」
一通り話した後、せつ菜が少しだけためらいがちに切り出した。
「もし明日ご予定がなかったら…なのですが。ちょっと買い物に付き合って欲しいものがあって…」
その言葉を聞いた瞬間、凪の心臓がドキッと高く鳴った。
彼女からの初めての明確な二人きりでの誘い。
だがその高鳴りの直後、彼の脳裏に別の約束が浮かび上がった。
(…明日。確か、ななと一緒に買い物に出かける予定が…)
その思考に一瞬彼の表情が曇る。だがそれはすぐに別の言い訳じみた思考に上書きされた。
(いやでもあれは別に急ぐ用事でもなかったはずだ。ななに頼めばきっと日程をずらしてくれる)
目の前で返事を待つせつ菜の、少しだけ不安そうな顔。
そしてななに少し我慢をさせれば手に入る、この輝かしい時間。
天秤にかけるまでもなく彼の答えは決まっていた。
「ああ、分かった。いいよ。俺でよければ付き合う」
快諾する。
その言葉を聞いたせつ菜の顔がぱっと輝いた。
彼女は満面の、それは綺麗な笑顔を浮かべるのであった。
凪はそのまぶしさに胸の奥がちくりと痛んだような気がしたが、すぐにその感覚を忘れることにした。
(一方、喫茶グリッターの二階)
約束通りなながやって来た。うたとこころは凪との会談で、すり減らした精神をなんとか奮い立たせ、笑顔で彼女を出迎えた。
「ななちゃん、いらっしゃーい!」
「こんにちは、なな先輩」
だが二人のその笑顔はどこか心なしか元気がないように見えた。
(ダメだ、ダメだ…)うたは心の中で自分を叱咤する。(私たちがこんな顔してたらななちゃんに心配かけちゃう!)
うたは気分を切り替えるようにパンッと手を叩いた。
「よーし、じゃあ今日は何して遊ぶ!?」
その一言で場の空気はいつもの女子中学生の放課後のそれに変わった。
三人は他愛のない話に花を咲かせる。
学校のこと。プリキュアのこと。そして最近流行っているアイドルのこと。
その楽しい会話の流れの中でうたがふと核心に触れた。
「そういえばさ、ななちゃん。今日お兄さんサークルだって言ってたけど、最近また行くようになったんだね」
その言葉にななは一瞬、頭にはてなを浮かべたような顔をした。
そして何かを思い出すようにゆっくりと続ける。
「あ、うん。そうみたい。なんだかすごく楽しそうだよ」
やはりおかしい。
兄のことを話すその口調は自然なのに、その話題に入る一瞬だけほんの僅かなタイムラグがある。
「昨日とか一昨日とか、お兄さん家の中ではどんな感じだったの?」
うたはさらに踏み込んだ。
すると、ななの動きがぴたりと止まった。固まったように。
そして困ったように眉を下げるとこう言った。
「…ごめんね。忘れちゃった」
その突拍子もない言葉。
うたとこころは絶句した。
(忘れる…?)
(家にいるのは二人だけで、たった一人の家族と言ってもいいのに…?)
(食事や家での様子を忘れるなんてことがあるだろうか…)
もし言いたくないのであれば「別に普通だったよ」とか、もっと違う言い方があるはずだ。
なのに彼女のその物言いは、まるで本当に全く覚えていないかのようだった。
うたとこころは顔を見合わせる。
ななの心の中で起きている異変。
それは自分たちが想像していたよりも、もっとずっと深刻でそして根深いものなのかもしれない。
その恐ろしい可能性に、二人はただ言葉を失うしかなかった。
うたとこころがまるで時間が止まったかのように自分を見つめている。
ななは二人のそのただならぬ様子が気になっていた。
(私、そんなにも変なことを言っただろうか…)
聞かれたから答えてあげたい。力になってあげたい。
だが本当に思い出せないのだ。
ななはもう一度必死に記憶の糸を手繰り寄せようと試みた。
昨日のこと。一昨日のこと。
ううん、違う。もっと近く。
今朝の朝食。
(私そもそも今朝、お兄ちゃんとちゃんと顔を合わせたのだろうか…)
兄はどんな顔をしていただろうか。
笑っていた?
それとも疲れていた?
(…だめだ。ちょっと思い出せない)
霧がかかったようにその光景はひどく曖昧だった。
でもとななは思う。
(それがそんなに変なことだろうか…?)
毎日当たり前のように顔を合わせているのだ。一回一回の食事の時の兄の表情など、細かく覚えているはずもない。
目の前の二人が何をそんなに真剣な顔で気にしているのか。
今のななには全く分からなかった。
ただ自分を心配してくれるその友人たちの優しい気持ちだけが、少しだけくすぐったかった。
うたとこころの真剣な心配そうなその表情。
ななはその意味が全く分からなかった。
その重たい沈黙を破ったのはこころだった。
彼女はまるで意を決したかのようにすっと背筋を伸ばすと、ななに問いかけた。
「…あのなな先輩。そういえばなのですが…。先輩のお兄様が入ってらっしゃるサークルって何でしたっけ? 何度かお話を伺っているのに、うっかり失念してしまって…」
それは明らかに不自然な質問だった。
ななの兄がテニスサークルであることなど三人にとっては周知の事実。今更こころがそれを聞くなど変な話だ。
だがななはその不自然さには気づかない。
ただ友人の質問に答えようとした。
「えっとお兄ちゃんのサークルは…」
テニス。
そのたった三文字が出てこない。
あれだけ好きだったはずの兄がテニスをするその姿が、全く思い浮かばない。
(あれ…?)
兄は何のサークルに入っていたのだろうか。
そもそも。
(私に…お兄ちゃんなんて…いたのだったろうか…?)
ななの頭の中が真っ白になる。
彼女は目の前で答えを待つ友人たちに向かって、ただ率直に事実だけを告げた。
「…ごめんなさい。分からない」
「………私にお兄ちゃんっていたかな…?」
その言葉を聞いた瞬間、うたとこころは再び、完全に絶句した。