二人がななに向けていたその表情。
それはもう心配する友人へ向けるものではなくなっていた。
得体の知れない恐ろしいものを前にしたような、恐怖と憐憫が入り混じった表情。
ななはそんな二人の顔を、ただ不思議そうに見つめ返すことしかできなかった。
「まずい」
うたとこころの思考が完全に一致した。
これは本当にまずい。
ななは限界が近い。
「な、ななちゃん!?」
うたは慌てて取り繕うようにわざと明るい声を出した。
「何言ってるの冗談でしょー!? 凪さんだよ! ななちゃんの優しくて格好いいお兄ちゃん! テニスサークルの!」
「そ、そうですなな先輩!」
こころも必死に続く。
「数日前だって私たちテニスコートで見かけたじゃないですか!」
実の妹にその兄の存在を必死に説明する。
その異常で悲しい光景。
ななは二人のその必死の形相をきょとんとした顔で見ていたが、やがて何かを思い出したようにぽんっと手を叩いた。
「…あ、そっか。そうだよね。ごめんごめん。私少しぼーっとしてるみたい」
そう言って彼女はへらりと笑う。
だがうたとこころには分かっていた。
ぼーっとしているなんて、そんな可愛らしい次元の話では断じてない。
「そ、そっか! 疲れてるんだよななちゃん!」
うたは話を合わせながら強引に結論を導き出す。
「そうだ今日はもうお開きにしない? 私もなんだか疲れちゃった!」
「はい、それがいいです!」
こころも即座に同意した。
これ以上ななをここに置いておくのは危険だ。
「え、でも…」
「いいからいいから! 帰ろななちゃん!」
戸惑うななの手をうたはぐっと掴んだ。
当然このまま一人で帰すわけにはいかない。
うたとこころはななを両側から挟むようにして、家まで送り届けることにした。
壊れやすいガラス細工でも運ぶかのように、慎重にそして優しく。
帰り道、三人の間には一見いつも通りの穏やかな会話が流れていた。
だがうたとこころはその会話の中に慎重にいくつかの罠を仕掛けていた。
「そういえばなな先輩。新曲の振り付けを少し変えたいと仰っていましたよね?」
こころがそれとなく尋ねる。
「ああうん。覚えてる。あそこのステップのことでしょう? 私もその方が良いと思うな」
ななは即座に的確に答えた。
記憶にはほぼ問題ない。むしろそんな細かいことまでよく覚えているなと感心するくらいだ。
だが。
「そっかそっか! さすがななちゃん! …あ、それでさ、お兄さんも確か、ななちゃんのピアノすごく褒めてくれてたよね?」
うたが核心である兄の話題を振ったその瞬間、ななの表情からすっと光が消えた。
「…お兄さん…?」
初めて聞く単語であるかのように。その存在自体があやふやなレベルにまで後退してしまっていた。
「あっ見て可愛い猫!」
「わ、本当ですね!」
まずい。
うたとこころは慌てて別の話題へと強引に切り替える。兄に関する話題はもう絶対に禁句だ。二人は無言のままそう決めた。
何とか、ななの家の前まで送り届ける。
「二人とも今日は本当にありがとう! また明日ね!」
別れ際のななの顔は確かにいつも通りの完璧な笑顔だった。
そしてその笑顔の裏側にある、巨大で深い闇の存在に気づいてしまっていた。
ドアが閉まる。
残された二人の心の中で鳴り響いていた警鐘はもうとっくに最大値を超えて振り切れていた。
これはもう自分たちだけでどうこうできる問題ではない。
◇ ◇ ◇
二人はまるで魂が抜けてしまったかのように、喫茶グリッターの二階の床に座り込んでいた。
この世の終わりかというような顔で俯いている。
ななは本当に限界が近い。
いや、もうすでに限界を超えてしまっているのかもしれない。
それなのに自分たちにはもうどうすることもできない。
当の本人である兄との話は、今日の午前中、完全に平行線を辿ったまま終わってしまった。
本当に明日にでもななが目の前からふっといなくなってしまっても、もはや不思議ではなかった。
「………もう、待てない」
沈黙を破ったのはうただった。
彼女は意を決したように顔を上げると、スマートフォンを手に取った。
「私、もう一回お兄さんに電話する」
今日の話し合いの別れ際に半ば強引に交換しておいた連絡先。
うたはその電話帳を開こうとする。
「待ってください、うた先輩!」
こころが慌ててその手を止めようとした。
「今日の午前中、あれだけ話して分かってもらえなかったのに! 今、電話して何になるんですか!」
「分かってる!」
うたは叫んだ。その瞳には涙が浮かんでいる。
「分かってるけど、もうこれしかないの! あの人はななちゃんの本当の心の声を聞いてない! 私たちが無理やりにでも聞かせるしかないの! そうじゃなきゃななちゃんは本当に壊れちゃう!」
その悲痛な叫び。
そうだ。もう残された道はこれしかないのかもしれない。
こころはうたを止めようとしていた手をゆっくりと引っ込めた。そして小さく頷く。
うたはその無言の同意を確認すると、迷わず凪の番号をタップした。
プルルル…。プルルル…。
数回のコールの後、電話の向こうから少しだけ訝しむような兄の声が聞こえてきた。
『もしもし、うたちゃんか。どうしたんだい?』
「凪さん! 明日、もう一度私たちと話し合ってもらえませんか!」
電話の向こうで凪が大きなため息をつくのが、スピーカー越しにも分かった。
『すまないがそれはできない。今朝話した通りだ。ななはもう大丈夫だよ。それに明日は俺もサークルの友人と約束がある』
その言葉にうたは咄嗟に、知る由もないはずの名前を口走った。
「…サークルの友人って…せつ菜さん、ですか」
一瞬の沈黙。
『…ななから、聞いたのかい?』
「は、はい!」
尾行していたことなど言えるはずもない。うたは苦しい嘘をつき、そこから堰を切ったように続けた。
『ななちゃん、今本当に限界が近いんです! それなのに明日、ななちゃんを置いてまた会いに行くなんて!』
語気が強くなる。
『ななちゃん、もうお兄さんのことも忘れちゃうくらい追い詰められてるんですよ!』
だが電話の向こうの声はどこまでも冷静だった。
『兄のことを忘れる…? ああ、俺との日常の些細な出来事を思い出せないってことか…?特段不思議なことでもない。 むしろ、今のななとの丁度良い距離感を思えば、兄のことなどたまに忘れるくらいが健全なのかもしれないな。』
あまりにも温度のない分析。
『うたちゃん。君たちが心配しすぎなんだ。ななは大丈夫だと言っているだろう』
「言葉じゃないんです! ななちゃんの心が、魂が悲鳴を上げてるんです!」
『話し合うことはもう何もない。じゃあ』
うたが何かを言い返すよりも早く、ツー、ツー、という無機質な電子音がうたの部屋に虚しく響いた。
一方的に切られた電話。
うたはゆっくりとスマートフォンを下ろす。そして向かいに座るこころを見て、力なく首を横に振った。
「…だめだ。あの人全然聞いてくれない…」
通話を聞いていたこころもただ悲しそうに目を伏せる。
うたとこころは諦めていた。
もう自分たちではどうすることもできないのだと。
重たい沈黙。
その息が詰まるような空気の中で、ぽつりとこころがつぶやいた。
「……もしかしたら」
その声は祈りにも似ていた。
「もしかしたら本当に私たちが誤解をしているだけなのかもしれません…」
うたもそのか細い希望の糸に必死にすがりついた。
「…うん。そうかも。ななちゃん、お兄さんのことは少し忘れっぽくなっちゃったけど、それ以外はいつも通りだったもんね…。私たちといる時ちゃんと笑ってた…」
そうだ。きっとそうだ。
この異常な数日間が終われば。
また他は何も変わらず、今までの楽しい日常が続いていくはずなのだ。
二人は必死にそう思い込もうとしていた。
そうでなければ大切な友人が自分たちの手の届かない場所でゆっくりと壊れていくのを、ただ指をくわえて見ていることしかできないという耐えがたい現実に押し潰されてしまいそうだったからだ。
◇ ◇ ◇
サークルからの帰り道、凪は少しだけいつもより速い足取りで家路を急いでいた。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、ちょうど洗面所から出てきたらしいななと顔を合わせた。彼女の髪はタオルでまとめられている。
「あ、お兄ちゃん。おかえり」
「…ああ、ただいま。風呂、もう済ませたのか」
「うん。お腹すいちゃったから先にね」
ななはそう言ってリビングの方へと歩いていく。
その後ろ姿を見送りながら凪は考えていた。
以前までのななだったら。
きっと自分が帰ってくるまで律儀に待っていただろう。「お兄ちゃん、お風呂一緒に入ろう」とそう言うために。
だけどそれもなくなった。
正直に言えばほんの少し寂しいと、思った。
だがすぐにその感情を頭から追い出す。
(…いや違う。これで最善なんだ)
これが俺が望んだ正しい兄妹の距離感。
そうだ。何も心配することはない。
凪は自分にそう言い聞かせると、彼もまた汗を流すため一人風呂場へと向かった。
やがて彼も風呂を済ませ、夕食の時間がやってくる。
食卓にはななが温め直してくれたのであろう温かい料理が並んでいた。
夕食の会話は驚くほど弾んだ。ななが学校や友人たちの話をすることを楽しそうにするのを、凪は穏やかな気持ちで聞いていた。
その中で彼は確かめるように尋ねてみた。
「そういえばなな。うたちゃんたちが少し心配していたぞ。ななが俺のことを時々忘れてしまうことがある、と」
その言葉にななはきょとんとした顔をした後、ころころと鈴が鳴るように笑った。
「えーそんなことないよ! 私が大好きな兄の普段を忘れるはずがないじゃない。きっとうたちゃんたちがぼーっとしてたんじゃないかな?」
その自然な否定。それはまるで、深い闇色の湖の上に張った、あまりにも薄く、美しい氷のようだった。
凪は、その氷の上を歩いていることに気づかないまま、完全に安心しきっていた。
やはりななは何もおかしくない。友人たちは少し良くない方へと考えてしまうタイプなのだろう。できることなら今のこの元気なななの姿を見せて、安心させてあげたいと思うほどだった。
そうだ。きっとこれも時間が解決してくれるはずだ。
凪は完全に安心しきっていた。
そしてすっかり忘れていた本題を切り出す。
「そうだ、なな。明日の買い物の件なんだが…すまないが別の日に延期してもらえないだろうか」
「うん? いいけどどうして?」
「実はサークルの同期のせつ菜さんに、買い物に付き合ってほしいと頼まれてしまってな」
その言葉を凪が口にした瞬間。
ななの心の一番奥深くで、かろうじて彼女の正気を繋ぎ止めていた最後の細い糸が、ぷつりと音もなく切れた。
だがその致命的な断裂の音は、なな本人にすら聞こえてはいなかった。
ななの表情は完璧な笑顔のままだった。
彼女は快く承諾してくれた。
「そっか! 分かった! 大丈夫だよお兄ちゃん。お友達との約束の方が大事だもんね! 私の買い物はいつでも行けるから!」
その完璧な笑顔と物分かりの良さ。
だがほんの僅かな彼女の心の奥から湧き上がる最後のSOSのサイン。もしうたやこころがここにいれば、その笑顔の裏にある絶望的な不協和音に気づいていたかもしれない。
数日前の凪であったなら、確実にその違和感を感じ取っていただろう。
だが今のここにいる誰も。
「ななは大丈夫だ」と信じ込んでいる兄も。
そしてなな自身でさえも。
その最後の警鐘が鳴り響いたことに気づいた者は、誰一人としていなかった。
夕食を終え、二人はそれぞれの自室へと戻った。
凪の部屋。
彼はクローゼットを開くと明日着ていく服を真剣に吟味していた。
(せつ菜さんはどんな服が好きなんだろうか…映画館は少し冷えるかもしれないな。何か羽織るものも…)
その表情はここ数日の彼からは想像もできないほど明るい。明日のことを考えると自然と心が弾む。そのわくわくとした高揚感を隠しきれない様子だった。
一通り準備を終えると、彼は明日のために少し早めにベッドへと入った。心地よい期待感に包まれながら。
一方その頃、ななの部屋では───
自室のドアが閉まったその瞬間から、ななの大きな瞳からは音もなく、静かに涙が溢れ続けていた。
だが、ななは自分が泣いているという事実に全く気づいていない。
彼女の意識は、完璧な日常という安全な場所に避難していた。
それなのに、その意識の主を失った体だけが、魂だけが、主人の代わりに悲鳴を上げ、涙を流し続けている。
誰にも届かないと知りながら、それでも助けを求めて。
(…このワンピース可愛いな。今度うたちゃんたちと見に行こうかな)
心の中はそんなごく普通のことを考えている。
それなのに涙だけが意思とは無関係に後から後から溢れてくる。
(…なんだかすごく疲れてる)
やがてななは雑誌をパタリと閉じた。
理由の分からない疲労感。
(今日はもう早めに寝よう)
彼女は自分が泣いていることに最後まで無自覚なまま、ベッドに潜り込む。
そして数分もしないうちに深い深い眠りに落ちていった。
心がこれ以上傷つかないように、強制的に電源を落としたかのように。