(ここは、どこだろう…)
凪は柔らかな光の中で目を覚ました。
目の前にいるのは、ランドセルを背負った小学生のなな。そして自分は、少しだけサイズの大きい中学の制服を着ている。
幼いなながキラキラした瞳で凪を見上げ、嬉しそうに話す。
「ななね、大きくなったら、お兄ちゃんと結婚する!」
その無邪気で愛らしい告白。
中学生の俺は、その言葉に少し照れながらも「そうか。分かった」と言って指を絡ませて
「お兄ちゃんはななのことが世界で一番好きだ。もしななが苦しむようなことがあれば、お兄ちゃんが命に代えてでもなのこと守ってあげるからな」
と真剣な顔で指切りをして、固く約束を交わした。
大学生になった今の自分から見ても、それは微笑ましい、ただ仲の良い兄妹の思い出の一場面だった。
そう思った瞬間、世界が一瞬だけ暗くなる。
次に目を開けた時、目の前にいたのは中学生の、まさに今のななだった。
彼女は何も言わない。ただ無言で凪の胸に飛び込んできて強く抱きついてくる。
ここ数日感じていなかったななの温もり。それはどうしようもなく温かかった。
凪はその体を愛おしげに抱きしめ返す。
だが。
その腕がななに触れたかと思った瞬間、腕の中にいたはずのななは、煙のようにすうっと消えてしまった。
辺りが一気に暗くなる。
温もりも光も何もない。一人真っ暗な世界に取り残された凪。
夢は覚めない。
これはまさに悪夢だった。
なな、どこに行ったんだ。
なな!
「ななッ!!」
凪は自分の声を荒らげる、その声で飛び起きた。
心臓が激しく脈打っている。
目の前に広がっていたのは見慣れた自分の部屋の天井。窓からは既に明るい朝の光が差し込んでいた。
随分うなされていたようだが、夢の内容はおぼろげだ。
何かとても大切な記憶だったような気がするが、どうしても思い出せなかった。
(…今日はせつ菜さんとのデートだ)
彼はその一つの輝かしい予定を思い出し、ベッドから出た。
そちらに頭を切り替えなければ。
朝食は軽く済ませた。
テーブルの向かいに座るななは、昨日と変わらず完璧な笑顔を浮かべていた。
数日前の凪であったなら、決して見逃しはしなかっただろう。
視界には入っていたはずだ。ななの目元が、昨夜泣き明かしたかのように、僅かに重く腫れていることが。だが彼の脳は、その情報を「意味のあるもの」として認識することを拒絶した。おはようと言った声も、僅かに掠れている。
ななが発しているその小さなSOS。だが、今の彼には、妹のその僅かな変化に気づくことができなかった。
「ななは今日はどうするんだ?」
「私は今日、二人とは会う予定はないから、家で一人でのんびりしてるよ」
その言葉にまた胸の奥がちくりと痛んだような気がしたが、凪はその小さな痛みを、これから訪れる輝かしい時間への期待で、強引に塗りつ潰した。
やがて出発の時間がやってくる。
「じゃあ、いってくる」
「うん、いってらっしゃい、お兄ちゃん!」
玄関のドアを閉める。
凪は、ななへの罪悪感を心の奥底に無理やり押し込むと、今日の楽しい予定への弾む心を抑えながら、駅へと向かって歩き出した。
◇ ◇ ◇
喫茶グリッターの二階ではうたとこころは、この世の終わりかというような顔で俯いていた。
兄との話し合いは決裂。ななの心は、自分たちが知らないところでどんどん壊れていっている。
もう自分たちには、どうすることもできない。
「…このままななちゃんを一人にしといたら…」
うたが震える声で呟く。
「本当にどこか遠い世界に行っちゃいそう…」
その最悪の可能性。二人は同時に顔を上げた。
「行くよ、こころちゃん!」
「はい、うた先輩!」
二人はもはや連絡などしていなかった。ただ衝動のままにななの家へと突撃する。
ピンポーンとインターホンを鳴らす。
『はーい! どなたですか?』
聞こえてきたのはななのいつも通りの明るい声だった。二人は少しだけ安堵する。
ななはモニターで二人を確認すると快く迎え入れてくれた。
そして玄関のドアが内側から開かれる。
「あ、うたちゃん、こころちゃん! どうしたの、急に?」
ななは笑顔だった。
だがうたとこころは、その笑顔の裏に隠されたものにすぐに気づいた。
よく見ればその目元は昨夜泣き明したのだろう、僅かに赤く腫れている。二人は言葉を交わすまでもなく、なながまた無理をしているのだと確信した。
「ごめんね、散らかってて! さあ、上がって!」
ななに促されるまま、二人はリビングへと通される。
「ななちゃん」
うたはソファに座るなり切り出した。
「昨日は本当に大丈夫だった? 私たちすごく心配したんだよ」
ななはきょとんとした顔でうたを見た。
「うん? 全然大丈夫だったよ! 何も問題なかったもん」
「でも…」こころが意を決したように続けた。
「失礼ですがなな先輩。その目元が…少し赤くなっています。泣いていませんでしたか?」
その真っ直ぐな問いかけ。
ななは心底不思議そうに首を傾げた。
「え? 私が? ううん、泣いてなんかないよ」
その真っ直ぐな瞳。嘘をついている様子では全くなかった。
うたとこころは顔を見合わせる。
「そ、そうでしたか…」
こころは話題を変えようと、当たり障りのない質問を口にした。
「…今日は、お兄さんはいらっしゃらないのですか?」
その言葉を口にした瞬間、こころ自身がハッとした顔をする。
隣で、うたもまた「しまった」とでも言うように、息を呑んで、こころと一瞬だけ視線を交わした。
昨日の帰り道、兄の話題はもう絶対に禁句にしようと、決めたばかりだったのに…!
だが、ななの様子は、昨日兄のことを忘れていた時とは違う。
彼女は笑顔のまま答え始めた。
「うん。お兄ちゃんはね、お友達と、お出かけする約束ができちゃったみたいで…。だから、私とのお買い物は、また今度になったの」
そう、彼女が自分と兄との約束が反故にされたという事実を、笑顔で口にしたその瞬間だった。
彼女のその笑顔のままの瞳から、ぽろりと涙が一粒、こぼれ落ちたのだ。
「な、ななちゃん…?」
うたが驚いて声を上げる。
だが、ななはまだ笑顔を浮かべたまま、友人たちの反応を不思議そうに見ている。そしてまるで何もなかったかのように、会話を続けようとした。
「それでね、お兄ちゃんは…」
その、異常な光景に。
うたとこころは、絶句した。
涙が頬を伝い続けている。それなのに、彼女の意識は、その涙の存在に全く気づいていない。
心と体が、魂と器が、完全にバラバラになってしまったかのようだった。
目の前の友人が、もう自分たちの知っている「ななちゃん」ではない、全く別の何かに変貌してしまったかのような、底知れない恐怖。
うたとこころはただ顔を引き攣らせながら、ぎこちない笑顔で相槌を打つことしかできなかった。
(ななの視点)
うたとこころはいつもよりずっと口数が少なかった。
どうしたのだろう。私が何か気に障るようなことを言ってしまっただろうか。
ななは不思議に思っていた。
その重たい沈黙を破ったのはうただった。
彼女はまるで意を決したかのように、真っ直ぐにななの瞳を見つめて口を開いた。
「…どうして泣いてるの、ななちゃん」
あまりに唐突な質問。
ななはきょとんとした。
(泣いている…? 私が?)
そんなはずはない。
私は今、友人たちと楽しいおしゃべりをしているだけだ。
「え? 泣いてないよ。うたちゃん、どうしたの?」
「泣いてるよ!」
うたはテーブルの上のティッシュを一枚掴むと、半ば強引にななの頬から目元を拭った。
そしてその濡れたティッシュをななの目の前に差し出してくる。
「ほら! こんなに濡れてるじゃない!」
ななはその湿ったティッシュを、呆然と見つめていた。
これは何のドッキリなのだろうか。
最初から少し濡らしたティッシュでも用意しておいたのかな…。なんて手の込んだドッキリだろう。
「…どうしてこんなことするの?」
ななが純粋な疑問としてそう尋ねると、うたとこころは絶望の表情を浮かべ押し黙ってしまった。
そして二人とも今にも泣き出しそうな顔で、ななの両側からそっとその体に寄り添ってきた。
「ななちゃん…」
「なな先輩…」
何故かは分からない。
でも二人のその温もりはひどく心地よかった。
自分の心のどこかに開いてしまっていた冷たい隙間を、優しく埋めてくれるかのような。
ななは友人たちのその温かさに、ただ静かに身を委ねていた。
◇ ◇ ◇
凪は少し小走りで、駅前の待ち合わせ場所へと向かっていた。
前回の映画の時、約束の10分前に着いたにも関わらずせつ菜は既にそこにいた。
だから今日はそのさらに上を行く15分前に着いておきたかった。
ぜえぜえと少しだけ息を切らしながら、待ち合わせの時計台の前に到着する。
スマートフォンの時刻を確認する。よし、約束の15分前ぴったりだ。
これならさすがに俺の方が先だろう。
そう思った凪が顔を上げた、その視線の先に。
最初からそこにいたかのように、せつ菜は静かに立っていた。
今日の彼女は少しボーイッシュなパンツスタイルだった。それもまたよく似合っている。
凪は驚きと、そしてどこか可笑しさを感じながら彼女の元へと歩み寄った。
「…せつ菜さん。すまない、待たせたか?」
声を掛けると彼女はぱっと顔を輝かせた。
「いえ、私も今来たところです。…でも凪さん、約束の時間までまだ15分もありますよ?」
「君がいつも早いから今日は俺も少し急いできたんだが…。それでも負けたか」
凪が降参だ、とでも言うように両手を軽く上げると、せつ菜はふふっと楽しそうに笑った。
「ごめんなさい。なんだか楽しみで、つい早く家を出てしまって」
その素直な言葉に、凪の心臓がまた少し高く跳ねるのを感じた。
家のあの重たい空気のことなど、もうすっかり忘れてしまっていた。
「こっちだ」
凪はそう言うと、駅前の賑やかな大通りから一本だけ外れた細い路地へと入っていった。せつ菜は少し不思議そうな顔をしながらも、黙って彼の後ろをついてくる。
やがて辿り着いたのは、蔦の絡まるレンガ造りの小さなイタリアンレストランだった。
「わぁ…素敵なお店。こんな場所、知っているんですね」
せつ菜が感心したように声を上げる。
「ああ。静かで、ここのパスタが美味いんだ」
凪は少しだけ照れくさそうにそう言った。
店内は彼の言葉通り、落ち着いた雰囲気だった。
ランチを注文し、二人の会話が始まる。
テニスのこと、大学の面白い教授のこと、お互いの好きな音楽のこと。
会話が途切れることはなかった。一つの話題が終わればすぐに次の話題がごく自然に生まれてくる。
凪はせつ菜の話に笑い、せつ菜もまた凪の話に楽しそうに相槌を打った。
(…楽しい)
凪は心の底からそう思えた。
ななのことも家の重たい空気も、今は遠い別の世界の出来事のようだ。
目の前のせつ菜の笑顔だけが、彼の世界の全てだった。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
美味しい食事を終えた二人は店の外へと出た。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです。…さて、それじゃあ本題の買い物に付き合ってもらってもいいですか?」
「ああ、もちろんだ」
せつ菜の少し悪戯っぽい笑顔に、凪も穏やかな笑みを返す。
二人はそうして、活気のある商店街へと並んで足を進めるのであった。
商店街は平日の午後とは思えないほど、多くの人で賑わっていた。
せつ菜は事前にリストアップしてきたのだろう、目的の店へと迷いなく凪を案内する。文房具店、スポーツ用品店、そして少しだけマニアックなCDショップ。
凪は彼女の後ろを歩きながら、その買い物に付き合った。
「凪さんはどっちの色がいいと思いますか?」
「ああ、そっちの方が君には似合うんじゃないか」
そんな他愛のないやり取り。
そして彼女が目的の品を手に入れるたびに見せる嬉しそうな笑顔。
その太陽のような笑顔を見るたびに、凪の心は高く高く舞い上がっていくようだった。
巡ったお店の中に一軒だけ、おしゃれなアクセサリーを扱う雑貨屋があった。
せつ菜が別の商品を見ているその隙に、凪の目は一つのヘアクリップに吸い寄せられていた。
夜空を模した深い藍色。そこに小さな銀色の星が一つだけあしらわれている、シンプルで洗練されたデザイン。
(…せつ菜さんに似合いそうだ)
彼女の艶やかな黒髪にきっと映えるだろう。
そう思った瞬間、凪はほとんど無意識のうちにそれを手に取っていた。
せつ菜に気づかれないように彼はそっと会計を済ませると、小さなプレゼント用の袋を自分のバッグの奥底へと忍ばせた。
やがてせつ菜の買い物はすべて終わった。
「ありがとうございました凪さん! おかげで良い買い物ができました!」
彼女は満足そうにそう言って笑う。
気づけば空はオレンジ色に染まり始めていた。
二人は夕方の街をたくさんの買い物袋を手に、ゆっくりと並んで歩いていた。
その距離は朝会った時よりも、ずっとずっと近くなっているような気がした。
駅の改札前。楽しかった一日もそろそろ終わりの時間が近づいていた。
「それじゃあ今日は本当に…」
「あの凪さん。今日のお礼です!」
凪が別れの挨拶をしようとバッグに忍ばせていたサプライズのプレゼントを渡そうとした、まさにその時。せつ菜の少しだけ弾んだ声が彼の言葉に完全に重なった。
「「あ…」」
二人の声が同時に響く。
「…どうぞお先に」
「いえ、せつ菜さんこそどうぞ」
そんなぎこちない譲り合いの後、二人は顔を見合わせてふふっと笑った。そしてまるで示し合わせたかのように同時に小さな紙袋を互いに差し出した。
「「…え?」」
再び二人の声が重なる。
凪は困惑しながらもせつ菜から渡された小さな袋を開けた。
そしてせつ菜もまた凪から受け取った袋の中を覗き込む。
そこには───
凪の手には、夜を優しく照らす、金色の三日月が。
そしてせつ菜の手には、その月に寄り添うように瞬く、銀色の星が。
デザインは全く同じ。ただ、月のチャームは金色で、星のチャームは銀色だった。
二人が先ほど立ち寄ったあの雑貨屋の商品だった。
一瞬の沈黙。
そして。
「ふふっ…」
「あはははっ!」
先に吹き出したのはどちらだったか。
二人は揃って声を上げて笑った。
「すごい…。同じお店の同じものを選んでたなんて…」
「まさか君も買っていたとは、思わなかったよ」
偶然がもたらした奇跡のようなお揃い。
その事実がたまらなく嬉しくて、そして少しだけ照れくさくて。
二人はただお互いの顔を見て、幸せそうに笑い続けることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
どれだけこうしていただろうか。
リビングのソファに座るななの頬を伝っていた涙は、ようやく止まっていた。
だが目を真っ赤にした彼女の表情はそれでも変わらず、ただ不思議そうにうたとこころを見つめている。
(ダメだ…)
うたはこころと目を見合わせた。
(ここにいちゃダメだ…!)
リビングの棚の上には仲睦まじそうに微笑むななと兄の写真。テーブルの上には兄が読んでいたのであろう難しい専門書。この家の全てが兄の存在をななに思い出させてしまう。
「そうだ、ななちゃん!」
うたはわざと大きな声で手を叩いた。
「この前行った駅前のカフェに行かない?あそこのパンケーキ、ほんっとうに美味しくて、また行きたくなっちゃった!」
「はい!」
こころも即座に話を合わせる。
「いいですね! その後、新しい雑貨屋さんも見に行きませんか? きっと、なな先輩の好きなものがありますよ!」
ななをこの空間から退避させる。
二人の思考は完全に一致していた。
その急な提案にななは少しだけきょとんとした顔をしたが、すぐに「うん」と小さく頷いた。
「…分かった。じゃあ着替えてくるね」
そう言ってなながリビングを出ていく。
そのか細い後ろ姿を見送りながら、うたとこころは固く決意を固める。
絶対に私たちがななちゃんを守るんだ、と。
蒼風家の重苦しい沈黙からななを連れ出すことに成功した、うたとこころ。二人はななを間に挟むようにして、駅前の活気ある商店街へと向かっていた。
駅前までの道のり、三人の間には久しぶりに心からの楽しい会話が弾んでいた。
だがその明るい雰囲気とは裏腹に、うたとこころは片時も気が気ではなかった。
(絶対に、ななちゃんから目を離しちゃダメだ…)
二人は言葉を交わすまでもなくそう固く誓い合っていた。
今ここで少しでも目を離したら、この子はまるで陽炎のようにふっと消えて、もう一生会えなくなってしまうのではないか。
そんな非現実的な恐怖すら感じていた。
三人が向かったのは、うたとこころが固唾を飲んで凪とせつ菜を見守っていた、そして、一昨日三人で来たあのおしゃれなカフェだった。
窓際の席に案内され、三人はパンケーキを注文する。
「んー、やっぱりおいしいー!」
うたが大きな口でパンケーキを頬張りながら満面の笑みを浮かべる。だがその視線はずっと、ななの様子を注意深く探っていた。
ななは力なくパンケーキを一口食べた。
そしてその瞳がほんの少しだけ見開かれる。
「……おいしい…」
ぽつりと呟かれたその言葉。
それは今日彼女の口から初めて発せられた、自発的な感情のこもった言葉だった。
うたとこころは顔を見合わせた。その表情には安堵の色が浮かんでいる。
「美味しかったね。連れてきてくれてありがとう」
カフェを出ると、ななははにかみながら言った。その少しだけ元気を取り戻した表情に、うたとこころは安堵する。
「でしょー!」うたは嬉しそうに言う。「よーし、じゃあ次はこころちゃんが言ってた雑貨屋さんを探検しに行こっか!」
「はい!」
雑貨屋に着く。
ななは「わ、可愛い!」と声を上げ楽しそうに商品を手に取った。
その無邪気な横顔をうたとこころは、ただじっと見守る。
その平和な時間。
張りつめていたうたとこころの心も、ほんの少しだけ解きほぐされていくようだった。
もちろんながらななから目を離すようなことは絶対にない。
だが今のななはもう涙を流してはいない。
うたのくだらない冗談に声を上げていつも通り笑っている。
(…笑ってる)
そうだ。親友三人でのお出かけはやはり楽しい。
この時間が少しでもななの心を癒してくれるのなら。
うたとこころはそう願いながら、自分たちの心もほんの少しだけ軽くなっていることに気づいていた。
夕暮れ時。三人は駅前の大きな本屋にいた。
ななのあの危うい様子はもうすっかりと影を潜めている。友人たちとの外出はやはり楽しかったのだろう。うたとこころの心もパンケーキを食べたあたりから、純粋にこの時間を楽しめるようになっていた。
だがそろそろ良い時間だ。
外はもう薄暗い。
(このままななちゃんを、あの静かな家に一人で帰すわけにはいかない…)
うたは考えた。
(そうだ! 急遽だけど今日の夜うちに泊まってもらおう! 母さんに連絡して許可を取らなきゃ!)
そして奇しくもこころも、全く同じことを考えていた。
(今夜はうた先輩のお家で三人でお泊まり会をするのが一番良いはずです。どう話を切り出そう…)
うたは母親へのメッセージを打つことに集中していた。
こころはうたへ話を切り出すタイミングを計っていた。
ほんの数秒間。
うたはこころが、こころはうたが、お互いがななを見てくれているだろうと。
そんな一瞬の甘えが生まれてしまっていた。
「よし!」
母親からOKの返信をもらったうたが顔を上げる。
そしてななに提案をしようと、彼女がさっきまで立っていたはずの文芸書の棚へと視線を向けた。
そこに、ななの姿はなかった。
「…あれ?」
うたは隣にいたこころに尋ねる。
「ねえこころちゃん。ななちゃん、どこに行ったか知らない?」
「え…?」
こころははっとした顔で辺りを見回す。
「私、てっきりうた先輩が見てるのかと…」
二人の顔からさっと血の気が引いていく。
雑誌コーナー、参考書コーナー。
二人は焦りながらフロア中を見て回った。
だが。
気づいた時にはもう遅かった。
ななの姿はこの本屋のどこにも見当たらなかった。