凪とせつ菜の楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
お互いがそれぞれ今日の記念に買ったキーホルダーが、鞄で小さく揺れている。もう日は完全に暮れかかっていた。
駅の改札前でそろそろ別れの挨拶をしようとした、その時だった。
せつ菜が突然立ち止まり、真っ直ぐに凪を見つめた。
「凪さん、大事な話があります」
そのとても真剣な表情。
凪も流石に理解できた。彼女が何を言おうとしているのかを。
だが理解できたその瞬間、ズキンと胸の奥が鋭く痛んだ。
(なんだ…? この胸の痛みは…)
そして脳裏に浮かんだ。
まただ。
誰かは分からない。でもあの少女の、ひどく悲しそうな泣いているような顔が。
(ダメだ…)
凪は必死にその幻影を振り払う。
(今はせつ菜さんの言葉に集中しなければ)
もしこれが愛の告白だった場合、自分は何と返そうか。
自分はせつ菜のことが好きだ。
何事にもひたむきな努力を惜しまず、常に「大好き」という純粋な気持ちで周りまで笑顔にしてくれる彼女が。
だがそれが一人の「女性」としての恋愛感情かと問われると、彼はずっとその問いから目を背け続けてきた。
考えれば考えるほど、脳裏に浮かぶあの少女の顔がこびりついて離れない。
(いや、何を言っているんだ自分は)
凪は心の中で自分を叱咤した。
(答えはもう決まっているだろう)
この温かくて正常な関係こそが、今の自分には必要なのだと。
凪が覚悟を決めたその時、静まり返った夕暮れの駅前広場に、せつ菜の凛とした声が響き渡った。
「───凪さん。あなたのことが、好きです」
◇ ◇ ◇
「ななちゃんがいない…!」
うたとこころは本屋の中を必死に探し回っていた。
「すみません、このお店にお手洗いは…」
「申し訳ありません、当店にはございません…」
店員の言葉を聞きこころの顔が青ざめる。
もしかしたらトイレを探しに一人で外に出ただけかもしれない。
二人は急いで本屋を飛び出した。
夕暮れの雑踏がいきなり二人の目に飛び込んでくる。学校や仕事帰りの人々が川の流れのように行き交っていた。ざわめきとヘッドライトの光が渦を巻いている。
「ななちゃん!」
うたが叫ぶ。だがその声は街の喧騒にかき消された。
「どっち!? こころちゃん、どっちに行ったと思う!?」
「分かりません! でも、もしかしたら本当に、お手洗いを探しに…! この辺りで一番近い公衆トイレがあるのは駅です! 駅の方へ行ってみましょう!」
こころが指差した方向へと二人は人波をかき分けるように駆け出す。
だがどこを見渡しても、ななのあの少し小さな後ろ姿は見当たらない。
「どうしようこころちゃん!」
冷静になっている余裕などなかった。
「私、あっちの大通りを見てくる! こころちゃんはこっちの路地をお願い!」
「は、はい!」
二人は一度別れるとそれぞれの方向へと走った。
うたは道行く人の顔を一人一人必死に確認する。違う。違う。違う。
(なんで…!? なんでいなくなっちゃうの…!)
こころもまた薄暗い路地を駆け抜けながら、最悪の可能性ばかりが頭をよぎっていた。
(もしなな先輩がまた一人で思い詰めてしまったら…)
(もし私たちが目を離したあの一瞬の間に、取り返しのつかないことが…)
数分後、二人は大通りの真ん中で再び合流した。
互いの息を切らした絶望的な表情が答えだった。
「…いない」
「こっちにもいませんでした…」
うたの目に涙が滲む。
その時だった。
「うた先輩、あそこ!」
こころが叫ぶように指差した先。
駅へと向かう大きな歩道。
その道の先、人混みの中にぽつんと佇む見慣れた後ろ姿。
「いたっ!」
二人は何とか、ななに追いついた。
だがななは二人の存在に気づいていないようだった。ただ前を一点を見つめて立ち尽くしている。
何故こんな何もない道の真ん中で。
ななの視線の先にうたとこころも目をやる。
その視線の先から、まるでありったけの勇気を振り絞ったかのような女性の凛とした声が聞こえてきた。
「───凪さん。あなたのことが、好きです」
それは考えうる限り最悪の光景だった。
ななの兄、凪。
そして彼に想いを告げる、せつ菜。
二人は見てしまった。
自分たちの、大切な友人が、その心が完全に壊れてしまう、まさにその決定的な瞬間を。
うたとこころは、固まっていた。
目の前で起こった、あまりに残酷な現実。
一体どれほどの時間が流れたのだろうか。一時間か、いやほんの一瞬だったのかもしれない。
こんな地獄のような出来事が、現実に起きて良いのかと、二人の思考は完全に停止していた。
その静寂を破ったのはななだった。
彼女は突然ゆっくりと向きを変える。
そして、初めてそこにいることに気づいたかのように、うたとこころの顔を見た。
その表情には、何の感情も浮かんでいなかった。
ただ空っぽの瞳で二人を捉えると、か細くそして平坦な声で一言だけ言葉を残した。
「さよなら───」
そしてくるりと踵を返すと、今来た道とは全く逆の方向へと走り出した。
「ななちゃん!」「なな先輩!」
二人の声が重なる。
さよなら? なぜ?
その言葉の持つあまりに不吉な響き。
二人はその意味を理解できなかった。いや、理解したくなかった。
だが、あのななの虚無な表情を見てしまっては、理解しないわけにはいかなかった。
「待って!」
すぐさま後を追おうとする二人。
だがうたの腕をこころが強く掴んで制止させた。
「うた先輩!」
こころは叫んだ。
「二手に分かれます! なな先輩のことは私が追います! うた先輩は、お兄さんに今のことを伝えてください!」
迷っている暇はない。
うたは一瞬ためらったが、すぐにこころの判断が正しいことを理解した。
二人は強く一度だけ目を合わせると、それぞれ別々の方向へと走り出す。
一人は闇の中へと消えていく友人の背中を追って。
そしてもう一人は、この悲劇の引き金を引いてしまった何も知らない兄の元へと。
「なな先輩!」
こころは必死に前を走る親友の名を叫んだ。
だがその声は届いていない。ななの小さな背中はどんどん小さくなっていく。とても追いつけない。
(でも…!)
こころは奥歯を食いしばる。
今ここで自分が目を離せば、もう一生なな先輩には会えなくなってしまう。
そんな絶対的な確信があった。その恐怖だけが痛み始めたこころの足を、前に前へと突き動かしていた。
ななは駅前のデパートの中へと吸い込まれていく。こころもそれに続いた。
(うた先輩に連絡を…!)
だがそんなことをしている暇は一秒もない。
こころは走りながらスマートフォンを取り出し、現在地の位置情報だけをうたとのメッセージ画面に送信した。ただ一言『ここです!』と添えて。
ななはエスカレーターを駆け上がっていく。こころも辛うじてその後を追う。
だが最上階である5階に着いた頃には、彼女の姿は完全に見失ってしまっていた。
こころはフロアをぐるりと見回す。だがななはいない。
目に入るのは下りのエスカレーター。最上階ゆえ下行き専用となったエレベーター。そして下り階段。
それと───『従業員以外立ち入り禁止』の看板が立てかけられた薄暗い上り階段。
最悪の事態がこころの脳裏をよぎる。
いくら注意書きがあろうと屋上への扉は鍵がかかっているものだろう。
(でも、もし管理が杜撰だったら…?)
あり得てしまう。その可能性を、こころは考えざるを得なかった。
意を決して薄暗い上り階段を駆け上がる。
果たしてそこには屋上へと出られる鉄製の扉があった。錆びついたノブに手を掛ける。
扉が開いてしまった。
ひやりとした夜風と共に眼下に広がる街の灯り。
そして。
いた。
ななはいた。
屋上の淵に腰掛け、その両足を完全に外の暗闇へと投げ出して。
「なな先輩ッ!!」
こころの絶叫が夜空に響いた。
それに気づいたななはゆっくりとこちらを振り返る。そしてふわりとも綺麗な笑みを見せながら答えた。
「あ、こころちゃん。来てくれたんだ」
「危ないです! そっちへ行ってはダメです!」
こころが一歩近付こうとする。
だがその動きはななの静かな声によって制止させられた。
「それ以上近づかないで」
その声には何の感情もなかった。
「一歩でも動いたら、私───」
こころはその場に凍り付く。
必死に説得を試みた。「帰りましょう」「うた先輩も心配しています」
だがななの心には全く響いていなかった。
(ダメだ…。私の言葉じゃ届かない…)
自分にできることは時間稼ぎだけだ。
うた先輩がお兄さんをここに連れてきてくれること。
その僅かな可能性に賭けるしかない。
「なな先輩! あの聞いてください! この間私、新しい曲を作ったんです!」
こころは震える声で必死にななに語り掛け続けた。
友人のそのあまりに危うい背中に、届くはずもない言葉の雨を降らせ続けた。
◇ ◇ ◇
「───凪さん。あなたのことが、好きです」
せつ菜の凛とした告白の言葉。
それは凪の心に温かい光のように差し込んできた。嬉しかった。心の底から。
用意していた返事をしようとした。
だがその時、ズキンとまた胸が鋭く痛む。
脳裏に浮かぶあの少女の顔。それはこれまで以上にひどく悲痛な表情で泣いていた。
(一体この少女は誰なんだ…)
(いや今は返事を…)
そう思った矢先だった。
「ななちゃんが!」
思考を遮ったのは切羽詰まった少女の叫び声だった。
そこにいたのはうたちゃんだった。
だがそんなことより凪の頭に引っ掛かったのは、彼女が叫んだ名前。
(なな…?)
そして脳裏に浮かぶあの少女。頭の中に直接響くか細い声。
『お兄ちゃん』
凪はようやく気づいた。
この幻影の少女は。
(…ななではないか…)
どうして。どうして今の今まで気づかなかったのだろう。
そして、何故彼女はあんなにも悲しそうな顔をしているんだ。
そんな思案の中、さらにうたの声が響く。
(どうしてこの子はこんなにも必死なんだ…)
(今俺は大事な話をしなければいけない。大切な返事を…)
凪は頭の中の想いを何とかうたに伝えようとした。そしてせつ菜の方を向く。
だがその時。
パァン!
乾いた音が響き渡った。
うたの手が凪の頬を強く叩いていた。
「ななちゃんが苦しんでいるんですよッ!!」
彼女は大声でそう叫んだ。
頬を打たれた、熱い痛み。そして「苦しんでいる」という、魂を直接揺さぶる言葉。
その二つの衝撃が、凪がここ数日、必死に築き上げてきた自己欺瞞の分厚い壁を、粉々に打ち砕いた。
記憶の底から溢れ出してきたのは、幼い頃妹と交わした、約束の言葉だった。
───『お兄ちゃんはななのことが世界で一番好きだ。もしななが苦しむようなことがあれば、お兄ちゃんが命に代えてでもなのこと守ってあげるからな』───
せつ菜と距離が近づくたびに思い起こされていた少女の、いや、ななの悲しい表情。
そしてここ数日、自分が「何の問題もない」と信じ込もうとしていた、ななの笑顔の裏にあった微かな悲鳴。
全ての点と点が、繋がった。
今、ななは苦しんでいる。
そう確信した瞬間、考えるより先に体が動いていた。
「…すまない」
凪は呆然と立ち尽くすせつ菜にそれだけを告げると、すぐさまうたに向き直った。
「ななはどこにいる!」
「デパートです! 駅前の!」
うたがメッセージ画面を見せる。
5階建ての高層ビル。
何故だかひどく嫌な予感がした。
「行こう!」
凪はうたにそれだけを言い残すと、全速力でその場を離れた。
夕暮れの駅前広場にただ一人、悲しそうな顔をしたせつ菜を残して。
凪は走っていた。
アスファルトを強く蹴りつける。肺が張り裂けそうだった。
後ろからうたも懸命に追いついてくる。
「うたちゃん! デパートのどこにいるか分かるか!」
「分かりません! こころちゃんから位置情報を送ってきたきり、返事が…!」
その言葉に凪の胸のざわつきがさらに大きくなる。
もう限界の速度で走っていたはずなのに、気力だけで足をさらに速めた。
デパートの入り口が見えてくる。
自動ドアをすり抜けるように中へと入った。
その瞬間、凪は何故だか分かった。なながどこにいるのかを。
「上だ…!」
彼はエスカレーターを駆け上がる。一段飛ばしで。
流石に距離が離れてしまったうたに「うたちゃん、上だ!」とだけ言い残して、さらに上へ上へと駆け上がっていく。
最上階、5階。
階段を探す。あった。従業員用の薄暗い階段。
迷いはなかった。
扉を蹴破るような勢いで駆け上がる。
そして屋上へと続く鉄の扉。
それを開け放つ。
そこに広がっていた光景は。
ひやりとした夜風。眼下に広がる宝石のような街の灯り。
そしてその光を背にして。
屋上の淵に座り、足を完全に暗闇へと投げ出しているなな。
その数メートル手前で必死に何かを語りかけているこころ。
凪は、そのあまりにも非現実的でそして絶望的な光景を、ただ息を切りながら見つめていた。
「ななッ!!」
凪の絶叫が屋上に響き渡った。
その声に淵に座っていたななはゆっくりとこちらを振り返る。その表情は驚くほど冷静だった。
「…ああ、お兄ちゃん。来てくれたんだ」
凪が一歩彼女に近づこうとする。だがその動きは、ななの静かな言葉によって制止させられた。
「それ以上こっちに来ないで」
これ以上近づけない。その事実を悟った凪は、その場から叫んだ。心の全てを吐き出すように。
「ごめん…! なな、ごめん…!」
「ここ数日のこと、俺が間違ってた! 俺の勝手な思い込みで、一方的にお前との距離を取って…お前を傷つけてた…!」
「お前の笑顔の裏から聞こえてた、悲痛な悲鳴に、兄として気づくべきだったのに…! 俺は気づかないふりを、してたんだ…!」
その魂からの謝罪。
ななはそれを聞いて、喜ぶような、いやひどく悲しむような、どちらとも判別のつかない奇妙な顔をして、静かに首を横に振るだけだった。
「…ううん。お兄ちゃんは謝らないで」
ななの声は夜風のように穏やかだった。
「間違ってたのはお兄ちゃんじゃない。全部、私が悪いの。お兄ちゃんを、私の小さな世界に縛り付けていた、ただの『わがまま』だったの。…大好きだから、独り占めしたかった。ただ、それだけだったの」
「違う!」
あまりにも悲しい自己否定に、凪は我を失って叫んでしまう。
「その『わがまま』を叶えてやることが、俺の生きる全てだったんだ!ななが隣で笑ってくれるだけで、他愛のない話をしてくれるだけで、『お兄ちゃん』って俺を頼ってくれるだけで、それだけで良かったんだ!」
「俺の未来を奪っていたなんて言うな! 俺の未来には、いつだってなながいた! なながいてくれなきゃ、俺の未来なんて何にもない! 」
「辛い時も、苦しい時も、家に帰ってななの顔を見れば、全部どうでもよくなった!お前が!なながずっと、俺を救ってくれていたんじゃないか!ななの存在と関わりの全てが、俺の宝物だったんだ!」
兄の、魂からの叫び。
それは厚い氷に閉ざされていたななの心に、一瞬だけ小さなヒビを入れた。
彼女の瞳が、驚いたように、ほんの僅かだけ見開かれる。
だけど、そのヒビは、すぐにまた、固く閉ざされてしまった。
彼女の表情は、元の穏やかで、そしてどこまでも悲しい、笑みに戻っていく。
「…宝物なんかじゃ、ないよ」
ななは、静かに、首を横に振った。
「お兄ちゃんは、優しいから、そう言ってくれるだけ。本当は私のせいで、お兄ちゃんずっと苦しんでた。…私、知ってるんだよ」
「お兄ちゃん、気づかないふりしてたって言ったよね。…それならお互い様だよ。私もずっと気づかないふりしてた。ここ数日、お兄ちゃんがすごく苦しそうな顔をしてたこと。私との関係に悩んでいたこと。でも私は、自分の心が壊れないようにするだけで、精いっぱいだったの。」
「お兄ちゃんの未来は、きっと、私なんかじゃない。あの、せつ菜さんみたいに、綺麗で真っ直ぐな人」
「あの人との関係は、きっと誰もが祝福してくれる素敵なものなのに。世界でたった一人、私だけがそれを、醜い嫉妬で否定してる。私だけが、お兄ちゃんの幸せを、邪魔してたの」
「だからね、もう終わりにするの。私がいなくなれば、お兄ちゃんは自由になれる」
その、悲しすぎる、独白。
言い終わると、ななはすっと立ち上がった。
そして一歩前へと進む。その足の先はもう何もない暗闇。
「なな、やめろ!」
もう一歩、前へ。
兄の悲痛な叫び声が聞こえる。
もう半歩、前へ。
完全に体の重心が外に出てしまった。あとはこの身を夜の闇に任せるだけだ。
それを見ていた凪は、思考より早く動いていた。
ドンッ、と地面を蹴りだす音。全身の筋肉が悲鳴を上げる。
世界がスローモーションになる。
風に煽られるななの髪。闇へと伸ばされた白い指先。
あと数メートル。いや、数十センチ。
届け。間に合ってくれ。
彼は、喉が張り裂けんばかりの声で、最愛の妹の名前を叫びながら、その腕を必死に前へと伸ばした。
ななあああああああああああああっ!!
そして、その指先が。
ようやく、ななの薄い腕に、触れた。
だが、倒れゆくななを救うには、自分の身を投げ出して、彼女を強く押し返すしか残っていなかった。
一瞬のためらいもなかった。
命に代えてもななを守る、幼い頃に交わした約束を、果たせてよかった。
凪の体は重力に引かれるまま暗闇の中へと落ち、ななの体は強い力で屋上のコンクリートの上へと押し戻されていた。
事態に気づいたななの瞳から、ようやく色が戻る。
その表情が、さっと青ざめた。
いやあああああああああああああっ!
「お兄ちゃん! お兄ちゃんッ!!」
何度も何度も兄を呼ぶ声が、誰もいない屋上からこだまする。
だが何度叫んでも、その声は夜の静寂へと、ただ霧散するだけだった。
うたとこころは、今目の前で起こったことが理解できなかった。
脳が、そのあまりにも残酷な現実を理解することを拒否していた。
ななの絶叫だけが、夜の屋上に、虚しく響き渡る。
二人はただその場に立ち尽くす。呼吸の仕方すら忘れてしまったかのように。こんなことがあっていいはずがない。そんな無言の叫びが二人の間に満ちていた───
だが、その絶望の淵で、うたとこころは同時に顔を上げた。
目の前で泣き崩れる親友の姿。
悲しみに打ちひしがれるよりも強く、彼女を守らなければならないという想いが、心の底から込み上げてきた。
そのたった一つの使命感が、恐怖で凍り付いていた心をこじ開けたのだ。
「ななちゃん、しっかりして!」
「なな先輩、危ないです!」
うたとこころは屋上の淵で泣き叫ぶななの両腕を掴むと、半ば強引に屋上の扉の内側、階段の踊り場へと連れて行った。
「いや! お兄ちゃんが! お兄ちゃんが!」
暴れるななを、うたは力いっぱい抱きしめた。
その体が壊れてしまわないように。その心が砕け散ってしまわないように。
「大丈夫! 大丈夫だから! 私がここにいるから!」
「うた先輩!」こころが叫ぶ。「なな先輩をお願いします!」
「うん!」うたはななを抱きしめる腕にさらに力を込める。「こころちゃんはお兄さんを!」
こころは一度だけ強く頷くと、くるりと踵を返した。
ななの兄を探すために。
そして助けを呼ぶために。
彼女は先ほど駆け上がってきた薄暗い階段を、今度は駆け降りていった。
一刻も早く。
その一心で。
うたは、ただひたすらにななを抱きしめていた。
階段の冷たいコンクリートの上で。
「いやあああ! お兄ちゃん!」
ななは、一向に落ち着かない。うたの腕の中で、暴れ泣き叫び続けている。
でもうたは離さなかった。「大丈夫だから」「私がいるから」と何度も何度もななに語り掛けた。
こころは、デパートの裏通りにたどり着いていた。
どんな光景が目に飛び込んでくるのか、想像もしたくなかったが、ななのあの絶望に比べれば、そんな自分の恐怖などないに等しいと、彼女は自分に言い聞かせた。
通常5階建ての建物から体勢を崩したまま落ちれば、まず即死だろう。
だが。
「…う…っ…」
呻き声が聞こえる。
そこは大きな業務用ゴミコンテナがいくつも並べられたゴミ捨て場だった。そして上を見上げれば、非常階段の鉄製の手すりが大きくグニャリと曲がっている。
途中でそれに掴まるかぶつかるかして、落下する勢いを軽減できたのだろう。
「凪さん!」
こころは慌てて駆け寄る。
意識がある。
こころは震える手でスマートフォンを取り出し、119番に電話をかけた。
そしてその後すぐに、うたにメッセージを入れる。
『生きてます! 意識もあります!』
その短い、しかし希望に満ちたメッセージ。
それを受け取ったうたはすぐさま、腕の中で泣きじゃくるななに伝えた。
「ななちゃん、聞いて! お兄さん、生きてるって! 意識もあるって!」
その言葉を聞いた瞬間、ななの体からふっと力が抜けた。
極度の緊張と絶望から解放されたその安心感からか、彼女はそのままうたの腕の中で気を失っていた。
うたはぐったりとしたななを抱きしめながら自分の親に連絡を入れる。
デパートまで車で迎えに来てほしいと頼んだ。
やがて遠くからけたたましいサイレンの音が近づいてくる。
夜の街に救急車の赤い光が鳴り響いていた。