幼い日の約束   作:mairu_i

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10日目 二つのけじめ

凪は目を覚ます。

 

(…ここは)

 

見慣れない白い天井。消毒液のツンとした匂い。

少しずつ意識がはっきりとしてくる。ここは病院だった。

 

やがて医者からの説明を受けた。

「気が付きましたか、蒼風さん。救急隊の報告によりますと、デパートの屋上から転落した、と。…正直、あの高さからでは普通は助かりません」

 

医者は淡々と、しかしどこか信じられないといった口調で続ける。

 

「落下地点がゴミ捨て場の大きなコンテナの上だったこと、そして、途中で何かにぶつかった痕跡があること。いくつもの幸運が重なったようですね」

「肋骨が二本折れてはいますが、幸い内臓に損傷はありません。手術も不要でしょう。固定しておけば問題ない。ただ念のため、明日まで様子を見ましょう」

 

宝くじで一等を当てるようなものですよ、と医者は呆れたように笑っていた。

 

◇ ◇ ◇

 

病室に戻りベッドに腰掛けていると、コンコンと控えめなノックの音がした。

入ってきたのは、うただった。

 

「ななは…」

凪はうたの顔を見るなり、か細い声で尋ねた。

 

「ななちゃんに怪我はありません」

うたは静かに答えた。

「あの後、うちの親に車で迎えに来てもらって、昨日は私の家で休みました。今は部屋からは出られませんが、意識ははっきりしています。こころちゃんがずっと付きっきりで見てくれているので大丈夫です。今日もうちに泊ってもらう予定です」

 

その報告に、凪は心の底から安堵した。体の力が抜けていく。

 

「…そうか。よかった…」

 

そして彼はうたに向き直ると、深く頭を下げた。

 

「うたちゃん…。本当にすまなかった…」

それは心からの謝罪だった。

「俺は何も分かっていなかった。なながあんなに苦しんでいたのに。君があれだけ必死に教えてくれようとしていた、ななからの警鐘を、俺は無碍にしてしまった…。本当に馬鹿だった。済まない…」

 

何度も謝罪を繰り返す凪。

うたはその姿を静かに見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

 

「…分かってくれたなら、いいんです」

その声に怒りの色はなかった。それは、ななを傷つけた彼への個人的な感情よりも、ななの心がこれ以上壊れないでほしいという、切実な祈りに近い響きだった。

 

「お兄さんは、ななちゃんの全てなんです。だから覚えておいてください。…今度ななちゃんを泣かせたら、何度でもあなたの頬を叩きに来ますからね」

 

その真っ直ぐな瞳。

凪はその視線をしっかりと受け止めると、はっきりと答えた。

 

「ああ。もう二度とない」

その声には揺るぎない決意が込められていた。

 

「これから一生、ななを泣かせるようなことはしない。この命に代えてでも」

 

その言葉を聞いて、うたはようやくふわりと表情を和らげた。

そして安心したような顔をして、「じゃあ、また」と言い残し、病室を後にした。

 

◇ ◇ ◇

 

うたが帰った後、しばらくしてまた病室のドアがノックされた。

入ってきたのはせつ菜だった。その手には見舞い用の果物のバスケットが抱えられている。

 

「凪さん…!」

 

彼女はベッドの上にいる凪の姿を認めると、心配した様子で駆け寄ってきた。どこまでもできた子だった。

「体、大丈夫なんですか!? あの後、すごく心配で…」

「ああ、大丈夫だ。肋骨が少しだけ。大したことはないよ」

 

凪のその言葉に、せつ菜は心から胸を撫でおろしていた。

その真っ直ぐな優しさに、凪の胸は少しだけ痛んだ。

彼は口を開いた。今ここで、けじめをつけなければならない。

 

「せつ菜さん。昨日の返事をさせてほしい」

その真剣な声色に、せつ菜の表情がこわばる。

 

「君の気持ちは本当に嬉しかった。でも…。俺は君とは付き合えない」

 

その言葉を聞いた瞬間、せつ菜の大きな瞳からぽろぽろと涙が溢れ出した。

「ごめん…。本当にすまない…」

凪はそう言い続けることしかできない。

 

どれくらいの時間が経っただろうか。

ようやく落ち着いたのか、せつ菜は涙を拭うと静かに口を開いた。

 

「…サークルに入ったばかりの頃から、ずっと気になっていたんです。いつも一人で黙々と練習していて。でも誰よりも楽しそうにボールを打っていて。ずっと目で追っていました」

「でも勇気がなくて、なかなか練習に誘えなくて。そうこうしているうちに、あなたがサークルに来る頻度が減って。私、勝手にしょぼくれていたんです」

「あなたの友人の方に少しだけ話を聞きました。家のことでとても忙しいこと。そしてよく妹さんの自慢をする人だということも」

 

彼女は一度、窓の外に目をやった。

 

「だから分かっていました。私があなたとの距離を近付けるたびに、あなたの瞳の奥に誰か別の、大切な人の顔が浮かんでいるのだということに」

「そして告白の直後、あなたが見せたあの苦しそうな表情。あの時に悟ったんです。ああ、私は、この人が命懸けで守ろうとしている、その『一番』には、絶対に勝てないんだなって」

 

彼女は全て話してくれた。

そして最後にこう言った。

「でも、あなたと過ごしたあの数日間は、私の一生の宝物になりました」

 

あまりに強く、そして優しい言葉。

凪はただ「ありがとう」と、それだけを返すのが精一杯だった。

 

「…もしよければ。これからもサークルの良き同期として、よろしく頼む」

 

その言葉に、せつ菜の顔から涙はもう消えていた。

彼女はいつもの快活な笑顔で、力強く頷いた。

 

「はい! もちろんです! 次の試合は負けませんからね!」

 

せつ菜はそれだけを言うと、凛とした足取りで病室を後にした。

一人残された凪は、その眩しい潔さに、ただ頭を下げることしかできなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

せつ菜が帰った後、凪は誰とも話す気にはなれなかった。

運ばれてきた夕食にもほとんど手を付けず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

やがて消灯時間を迎え、静まり返った病室の暗闇。その中で、凪の思考は、再び妹のことで満たされていった。

 

夜、病院の固いベッドの上で、凪はなかなか寝付けずにいた。

目を閉じればななのあの虚ろな表情が浮かんでくる。

彼は耐えきれなくなり、枕元のスマートフォンを手に取った。そしてうたに短いメッセージを送った。

 

『夜分にすまない。ななは大丈夫か?』

 

数分後。

ブブッと手の中でスマホが震えた。うたからの返信だった。

 

『もう! これで今日だけで何回目ですか! 大丈夫だって言ってるじゃないですか』

 

その少し呆れたような文面に、凪は思わず苦笑する。

メッセージは続いていた。

 

『まだほとんど話はできないけど…。私とこころがずっとそばにいます。時々、私たちのくだらない話に少しだけ笑ってくれるんです。だから大丈夫ですよ』

 

そのメッセージを見て、凪の張り詰めていた心がようやく少し緩んだ。

ななが笑っている。

その事実だけで彼は救われたような気持ちになった。

 

『そうか…。ありがとう、うたちゃん。本当に感謝している。また連絡する』

 

凪は心からのお礼を述べると、スマートフォンをサイドテーブルに置いた。

今は友人たちに任せるしかない。

彼はようやく訪れた束の間の穏やかな気持ちと共に、ゆっくりと目を閉じた。

 

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