その日の朝、凪は退院の許可が下りた。
最後の診察を終え、看護師から自宅で使う肋骨を固定するためのコルセットのような器具の取り付け方を説明される。脇腹の鈍い痛みが、あの夜の出来事が現実であったことを彼に突きつけていた。
会計を済ませ、病院を出る。
凪は真っ直ぐ家へと向かった。
うたからの朝のメッセージによれば、ななは今朝自宅に戻っているらしい。もちろんうたとこころが付きっきりでそばにいるとのことだったが。
(家に帰ったら、なながいる)
電車に揺られながら、凪は何度もその事実を反芻する。
(どんな顔を合わせればいいんだ…)
だがもう迷いはなかった。
論文も理屈も小手先の計画も、全て間違っていた。
今の自分にできることは、たった一つだ。
(とにかく謝る。ななが許してくれるまで何度でも。それが俺にできる唯一のことだ)
やがて見慣れた我が家のドアの前に着く。
この先になながいる。
凪は一度固く目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
震える手で鍵を差し込み、回す。
カチャリと重い音がした。
彼は意を決して、その扉を開けた。
扉を開けたその先。
リビングのソファにはなながいた。その両脇をうたとこころが固めるように座っている。
三人の視線が一斉に凪に注がれた。
それまで人形のように無表情だったなな。
彼女は兄のその包帯が痛々しく巻かれた姿を見た途端、その瞳にみるみるうちに涙が溢れ出した。
「お兄ちゃん…!」
ななはソファから駆け寄ってくる。
凪もその小さな体を迎え入れた。
二人は玄関の上がり框で、強く抱き合った。
「…っ!」
折れた肋骨が軋むように痛む。だがそんなことはどうでもよかった。
「ごめん…なな…ごめん…!」
「ううん、違うの! 私がごめんなさい…! 私のせいで…!」
「違う、俺が全部悪かったんだ…!」
お互い涙を流しながら、ただ謝る。それは、ごめんなさいと、ありがとうと、大好きだという、言葉にならない全ての感情を、お互いの温もりを通して伝え合うような、必死の抱擁だった。
その光景をリビングの入り口から見ていたうたとこころは、そっと目を見合わせるとどちらからともなくふうと息を吐いた。そしてやれやれとでも言うように肩をすくめる。
やがてうたが、少し呆れたような、それでいて温かい声で口を開いた。
「…もう。二人とも、大丈夫そうですね」
「私たち、ななちゃんが心配で今日も泊ってく予定だったんですけど。それも必要さそうかな。むしろお邪魔虫になっちゃいそう」
その言葉に凪はななを抱きしめたまま、友人たちに向き直った。
「いや、そんなことはない。よかったら夕食、食べていってくれ。君たちには返しきれないほどの借りがある」
その日の夕食。
凪は折れた肋骨の痛みも忘れてキッチンに立った。
腕によりをかけて、謝罪と感謝の意味も込めて、彼は豪勢な料理を三人に振る舞う。
テーブルに並んだローストビーフやアクアパッツァ。それを見てうたとこころが驚きの声を上げる。
「毎日こんなの食べてるの!? ななちゃん羨ましいー!」
そんな会話が聞こえてくる。
話の中心はいつだってうただった。彼女の持ち前の明るさが、この少しだけぎこちない食卓を温かいものへと変えていく。
ななももう普通に話せるほどまでに回復していた。
だが凪とななの間の会話は、まだどこかぎこちない。
「なな、ドレッシング取るか?」
「…うん。ありがとう」
その短いやり取りが、今は精一杯だった。
やがて楽しい夕食の時間が終わり、うたとこころは「じゃあ私たちはお邪魔だから帰るね!」と笑って帰っていった。
バタンと玄関のドアが閉まる。
家の中にいるのは、凪となな二人だけだった。
嵐の後のような静けさ。
だがそれはこれまでの冷たい沈黙とは違う。
ほんの少しだけ温かい、始まりの静けさだった。
うたとこころが帰った後も、二人の会話はまだどこかぎこちなかった。
食後の片付けを黙々とこなしていく。
やがて壁の時計が、そろそろお風呂の時間であることを告げた。
「…風呂、入るか」
凪がそう言うと、ななはこくりと小さく頷いた。
当然のように二人は一緒のバスルームへと向かう。
むしろここ数日の別々に入っていたあの時間の方がおかしかったのだ。
これが蒼風家の当たり前なのであった。
温かい湯船の中。
凪はななの小さな体を後ろから優しく抱きしめるようにして、お湯に浸かっていた。ななはその腕の中に安心しきった様子で、自分の身を預けている。
「…なあ、なな」
凪が静かに口を開いた。
「小さい頃の約束、覚えてるか?」
ななの肩がほんの少しだけ、びくりと揺れる。
「ななが苦しんでいるなら、俺が命に代えてでも守ること」
「そして大きくなったら、結婚すること」
凪は幼い頃の約束を、一つ一つ確かめるように口にする。
そしてななの耳元で、はっきりと告げた。
もう遠回りはしない。ごまかしもしない。これが、俺たちの本当の関係の形なのだと。
「あの約束は、どっちも絶対守るから」
そのあまりにも真剣な表情。声。
ななは何も言えなかった。
ただその顔を首まで真っ赤に染め上げて、「…うん。…ありがとう」と蚊のなくような声で呟くのが精一杯だった。
もうぎこちなさなどどこにもない。
二人の時間はゆっくりと、そしてどこまでも優しく流れていった。
風呂から上がり、髪を乾かす。
その当たり前の日常の動作の中ですら、二人の間にはもう一切のぎこちなさはなかった。
ななはごく自然に凪の後をついていき、二人は彼の部屋にいた。
すっかり元通り。いや、それ以上の深い一体感が二人を包んでいた。
そろそろ寝る時間だ。
凪はベッドに入ると、当然のように隣の布団をめくり、ななを迎え入れる。
ななもまた何の躊躇いもなく、その隣に体を滑り込ませた。
正面から向かい合うように横たわる。
月の光だけが差し込む薄暗い部屋の中。
お互いの瞳だけがキラキラと輝いて見えた。
長い静寂の後、凪が口を開いた。
その声は囁くように優しかった。
「…なな」
「…うん」
「好きだ」
「………」
「世界で一番、好きだ」
そのあまりにも真っ直ぐな言葉。
ななの大きな瞳からぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
でもその顔は、人生で一番幸せそうに笑っていた。
「…うん」
「私もお兄ちゃんが大好き」
「世界で誰よりも好き」
もう言葉はいらなかった。
二人はどちらからともなく互いの体を求め、強く強く抱き合った。
「ずっと一緒だ」
「うん、ずっと一緒…」
愛の言葉を囁き合う。
お互いの温もりと心臓の音だけが、世界の全てだった。
やがてその完璧な幸福感の中で。
二人の意識は途切れるように、同じ穏やかな眠りの中へと落ちていった。