幼い日の約束   作:mairu_i

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2日目 - 前編 とびきりの朝ごはん

うっすらと開いたカーテンの隙間から、朝の柔らかい光が差し込んでいる。ちち、と窓の外で小鳥がさえずり、夢と現実の境を優しく溶かしていく。

 

ななはそんな穏やかな世界の訪れと共に、ゆっくりと目を開けた。

 

最初に感じたのは、隣で眠る人の温もり。すぐに自分が兄の部屋のベッドで、その腕の中にいることを思い出す。昨夜の嵐のような感情がまるで嘘だったかのように、心は穏やかに凪いでいた。

 

そっと顔を上げると、すぐそこに兄の寝顔があった。いつもは知的で落ち着いているその表情も、今はすっかり無防備で、少しだけ幼く見える。規則正しい寝息を立てるその姿を見ているだけで、ななの胸は温かいもので満たされていった。

 

昨夜、自分の醜い部分も弱い部分もすべて受け止めてくれた、世界で一番大好きな人。

 

ななはそっと手を伸ばし、兄の額にかかった前髪を指先で優しく整えた。肌に触れるか触れないか、ぎりぎりのところで。

 

(お兄ちゃん、ありがとう)

 

声には出さない、心だけの感謝の言葉。

彼を起こさないように、ななはゆっくりと、静かにベッドを抜け出した。

 

夏休みの一日がまた始まる。

今日は私が、お兄ちゃんのために、とびきり美味しい朝ごはんを作ってあげよう。ななはそう心に決め、静かな喜びと共に、そっと部屋のドアを開けた。

 

凪が目を覚ました時、隣にあるはずの温もりは既になかった。シーツに残る妹の温もりが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを静かに伝えていた。

 

(なな…)

 

体を起こすと、どこからかふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。味噌汁とご飯が炊ける匂いだ。それに気づいた凪は、少し驚いて急いで身支度を整え、部屋を出た。

 

ダイニングキッチンに足を踏み入れると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 

テーブルの上には、炊き立てのご飯と豆腐とワカメの味噌汁、綺麗に焼かれた鮭の塩焼き、そして完璧な黄色い渦巻きを描いた出汁巻き卵が、きちんと二人分並べられている。

 

そして、テーブルの向こう側で、エプロン姿のななが誇らしげに、でも少し恥ずかしそうに立っていた。

 

「お兄ちゃん、おはよう!」

 

「なな…? これ、お前が全部…?」

 

凪が驚きを隠せずに尋ねると、ななは「うん!」と満面の笑みで頷いた。

 

「昨日はありがとう。…その、お礼だよ」

 

はにかみながらそう言う妹の姿に、兄の胸は、昨日とはまた違う温かい感情で満たされた。彼女が自分の足でちゃんと前に進もうとしている。その健気さと成長が何よりも嬉しかった。

 

「…すごいじゃないか、なな。ありがとう」

 

凪は柔らかい笑みを浮かべながら席に着いた。

 

「すごく、美味しそうだ。さあ、一緒に食べよう」

「うん!」

 

窓から差し込む朝の光が、幸せそうな二人を優しく照らしていた。昨夜の嵐は、もうどこにもない。

 

二人で手を合わせて、「いただきます」と声を揃える。その単純な挨拶が、今はとても特別なものに感じられた。

 

凪はまず、ななが作った出汁巻き卵を一口運んだ。そして、少しだけ目を見開く。

 

「…うん、美味しい。この出汁巻き卵、完璧じゃないか。母さんのより美味しいかもしれないな」

「ほんと!? よかった…!」

 

兄からの最高の褒め言葉に、ななの顔がぱあっと明るくなる。味噌汁を一口すすっても、ご飯を一口食べても、兄は「美味しい」と何度も繰り返した。そのたびに、ななの心はくすぐったいような、誇らしいような、温かい気持ちで満たされた。

 

「今日はどうするんだ? 夏休みの宿題は、昨日でだいたい終わったんだろう?」

「うん。お昼から、うたちゃんたちと図書館に行く約束をしてるんだ。調べたいことがあるから」

「そうか。じゃあ、今日の夕飯は兄さんが腕を振るうかな」

「わ、ほんと!? 楽しみ!」

 

窓から差し込む穏やかな朝日。カチャ、という食器の音。時折交わされる、優しい会話と笑い声。

昨夜の嵐が嘘だったかのように、蒼風家には、どこにでもあるようでどこにもない、かけがえのない朝の時間が流れていた。

 

「いってきます!」

「ああ、いってらっしゃい。気をつけてな」

 

玄関で元気な声に送られ、兄はパタンと閉まるドアの音を聞いた。ななが友人の元へと向かい、家の中には、再び心地よい静寂が訪れる。

 

朝食の食器を洗い終え凪は自室に戻ると、専門書の開かれたページに栞を挟み直した。大学の課題も進めなければならない。しかし、彼の心はまだ妹のことで満たされていた。

 

(…本当に強くなったな)

 

昨夜、あれだけ感情を乱し、子どものように泣きじゃくっていた少女が、今朝は心のこもった朝食を作ってくれた。それは、ただの「ありがとう」ではない。自分も兄を支えたい、という彼女なりの決意表明のように感じられた。

 

そして、うたちゃん、こころちゃんと楽しそうに友人の名前を口にし、笑顔で出かけていった。

兄である自分だけが世界のすべてだった妹が、外の世界にも自分の居場所を見つけ、大切な仲間たちと笑い合っている。

 

その事実が、兄の胸を温かくする。

ななが自分の知らない場所で笑っていてくれること。それが、兄である自分にとって、どれほどの安らぎと幸せをもたらしてくれるか。

 

昨夜、ななは自分のせいで兄が青春を謳歌できないのではと危惧していたが、それは全くの見当違いだ。

 

(ななが笑顔でいてくれること。それが俺の青春そのものなんだよ)

 

凪は誰に聞かせるともなく、心の中でそう呟いた。

窓の外、夏の日差しが輝いている。彼は小さく微笑むと、今度こそ目の前の難解な数式に意識を集中させるのだった。

 

◇ ◇ ◇

 

図書館の静かな閲覧室。ななは、うた、こころと共に、夏休みの自由研究のための資料を広げていた。うたが時折、面白い記述を見つけては小声で囁き、こころが真面目にメモを取る。そんな平和な時間が流れていた。

 

ななも、目の前の分厚い本に目を通していたが、内容が全く頭に入っていないことに気づいた。そして、ふと昨夜の出来事が鮮明に蘇ってきた。

 

(……わ、私、なんてことを…!)

 

そう思い至った瞬間、かぁっと顔が熱くなるのが分かった。

お兄ちゃんの前で、ぐちゃぐちゃに泣きわめいて。自分の醜い独占欲を全部ぶちまけてしまった。

 

(恥ずかしい…恥ずかしすぎる…!)

 

冷静になった今、思い返せば恥ずかしい、みっともない姿だった。穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。

 

だが、そんなななの全てを、兄はただの一度も否定しなかった。困った顔も呆れた顔もせず、ただ静かに、優しくすべてを受け止めてくれた。

 

(そうだった。お兄ちゃんはいつも)

 

ななは思い出す。

幼い頃、転んで泣いていた時も。ピアノの練習がうまくいかなくて、癇癪を起した時も。コンクールに失敗して部屋に閉じこもった時も。兄はいつだって、まずななの気持ちを丸ごと受け止めて、それから、大丈夫だと笑ってくれた。昨夜のことは、特別なことではなかった。それが、ななの知る「お兄ちゃん」そのものだったのだ。

 

「ななちゃーん? どうしたの、顔まっかだよ!」

 

隣から、うたが不思議そうに顔を覗き込んできた。

 

「なな先輩、大丈夫ですか…? 難しい本でしたか?」

 

こころも心配そうに尋ねる。二人の声に、ななはハッと我に返った。

 

「う、ううん、なんでもないの! ちょっと、ぼーっとしてただけ!」

 

ななはぶんぶんと首を横に振り、誤魔化すように目の前の本に視線を落とした。友人たちには言えない、自分だけの宝物のような秘密。その温かさを胸に抱きながら、ななは赤くなった頬を必死に隠すのだった。

 

ななが必死に平静を装い、本のページをめくるふりをしている間、テーブルの向こう側では、友人二人が顔を見合わせていた。うたが、こころの耳元にそっと顔を寄せる。

 

(ねえねえ、こころちゃん…)

 

うたが、図書館であることを忘れたように弾んだ声で囁く。

 

「ななちゃん、絶対おかしいよ! いきなり顔が真っ赤になるなんて!」

 

こころは人差し指を口に当てて「しーっ」と合図を送ると、こくりと頷いて、さらに小さな声で返す。

 

(はい…。さっきのなな先輩、本当に驚いたように固まっていましたし…。何か、悩み事でもあるのでしょうか…)

 

(分かった! きっと恋だよ、恋! ななちゃん、難しい顔して恋愛小説でも読んでたんだよ!)

 

うたが目を輝かせる。しかし、こころは少し首を傾げた。

 

(こ、恋、ですか…? でも、先輩が読んでいたのは歴史の参考書でしたけど…。もしかしたら、少し体調が悪いのかもしれません。心配です)

 

真剣な顔でななを見つめるこころ。うたは「うーん…」と少しだけ考え込むそぶりを見せた後、にぱっと笑った。

 

(よし、決めた! もう少しだけ様子を見て、後でこっそり、ななちゃんに直接聞いてみよう!)

 

(はい、そうですね、うた先輩)

 

二人はそう結論づけると、アイコンタクトを交わし、何事もなかったかのように、再び自分たちの手元の資料に目を落とす。しかしその意識の片隅では、大切な友人のことをずっと気にかけているのだった。

 

図書館での調べものを終え、三人は連れ立って帰路についていた。夏の午後の少しだけ傾きかけた日差しが、三人の影を長くアスファルトに伸ばしている。

 

「ねーえ、ななちゃん」

 

不意に隣を歩いていたうたが、ななの腕に自分の腕を絡ませてきた。いつもの屈託のない笑顔でななの顔を覗き込む。

 

「さっき、図書館でどうしたの? ほんっとに顔、真っ赤だったよ! まるで、キラッキランに熟れたトマトみたいだった!」

 

「う、うたちゃん…!」

 

ストレートな物言いに、ななは再び顔に熱が集まるのを感じる。すると、反対側を歩いていたこころも、心配そうに口を開いた。

 

「なな先輩。もし何か悩み事があるなら、私たちでよければ聞きます。一人で抱え込まないでください」

 

真摯な眼差しでそう言うこころ。二人の大切な友人が、本気で自分のことを心配してくれている。その温かい気持ちが、ななの胸にじんわりと伝わってきた。

 

(隠し事なんて、できないな…)

 

もちろん、兄との全てを話すことはできない。でも、この優しい友人たちを、嘘で誤魔化したりしたくはなかった。

 

ななは少しだけ逡巡した後、意を決して、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

 

「…ううん、悩み事っていうか…。その、昨日、ちょっとだけ、家族のことで色々考えちゃって…。でも、もう大丈夫なの。ちゃんと、解決したから」

 

「家族のこと…?」

 

「うん。だから、さっきのは、その…昨日のことを思い出して、ちょっとだけ…恥ずかしくなっちゃっただけだから。心配かけてごめんね」

 

そう言ってななは二人に向かって、へにゃりと笑ってみせた。嘘ではない本当の気持ち。その笑顔を見て、うたとこころは顔を見合わせると、安堵したように微笑み返した。

 

「そっかー! なら良かった!」

「はい、なな先輩が大丈夫なら、それが一番です!」

 

それ以上、二人が深く詮索してくることはなかった。それが、三人の間の心地よい距離感であり、信頼の証なのだった。

 

友人たちの優しさに胸を温めながら、三人は夏の午後の道を歩いていた。ななの心にあった最後の小さな雲も、すっかり晴れている。そんな時、うたが「そうだ!」と声を上げた。

 

「ねえ、このままウチのお店、寄ってかない? ちょっと、三人で話したいこともあるし!」

 

うたはそう言って、にぱっと笑う。その言葉の裏にある「本当の意味」を、ななとこころは即座に理解した。

 

「うん、そうだね。行こうか」

「はい! お邪魔します!」

 

ななとこころが頷くのを確認すると、うたは意気揚々と一行を先導する。

しばらく歩くと、レトロで可愛らしい看板が見えてきた。『喫茶グリッター』。うたの実家が経営する、地元で人気のカフェだ。

 

カランコロンとドアベルが軽やかに響いた。店内にはコーヒーの香ばしい香りが漂っていた。

 

「ただいまー!」

 

カウンターの中にいた、うたの母親に元気よく声をかけると、三人は店の脇にある階段へと向かう。一階のカフェスペースが、いわば表の顔。そして、階段を上った先にある二階の居住スペース、その奥にあるうたの部屋が、プリキュアである彼女たちの、いつもの作戦会議室なのだ。

 

うたの部屋に入るなり、三人はそれぞれ、いつものお気に入りの場所に腰を下ろした。うたはベッドの上、ななは窓際の椅子、こころは小さなラグの上にちょこんと正座する。部屋のドアが閉まると、外の喧騒が遠くなり、そこは三人だけの聖域となった。

 

「それでね、話したいことっていうのが、これなんだけど…」

 

うたはそう切り出すと、机に置いてあったタブレットを手に取った。画面には、テレビ局のロゴが入った企画書が表示されている。

 

「今度、音楽番組から出演のオファーが来てるんだって。アイドルプリキュアとして、歌ってほしいって」

 

「ほ、本当ですか!? テレビに…私たちが…!」

 

こころが、期待と緊張が入り混じった声で目を輝かせる。ななは冷静に企画書の概要に目を通した。

 

「音楽番組、か。歌う曲はどうするの? 新曲の準備はまだだけれど…」

 

「うん、だから今回はデビュー曲を、って話みたい。詳しいことは、また田中さんから連絡が来るって!」

 

うたがタブレットを置くと、緊張感を吹き飛ばすように、ポンと手を叩いた。

 

「はい!お仕事の話はこれでおしまい!ね、お腹すかない? 母さんが新作のピーチパイ、とっといてくれたんだー! 紅茶も淹れるね!」

 

その一言で、部屋の空気は一瞬にして「女子中学生の友達の部屋」へと切り替わる。

 

「わぁ、ピーチパイ! いただきます!」

こころが嬉しそうに声を上げた。ななも、ふふ、と柔らかく微笑む。

 

「ありがとう、うたちゃん。楽しみにしてるね」

 

三人の午後は、甘いパイの香りと他愛のないおしゃべりと共に、ゆっくりと過ぎていった。

 

うたの部屋でピーチパイを堪能し、夏休みの宿題の進捗や最近流行りの曲など、他愛のないおしゃべりに花を咲かせた後、そろそろ夕飯の時間だと、ななとこころは腰を上げた。

 

「じゃあ、うたちゃん、また明日ね!」

「うん! ななちゃーん、こころちゃーん、バイバーイ! 気をつけて帰るんだよー!」

 

喫茶グリッターの入り口で、うたはいつもの元気な声で、二人が見えなくなるまで手を振っていた。

 

ななとこころは、二人並んで夕暮れの道を歩く。今日の出来事を思い返し、ななの心は満たされていた。兄とのこと、そして友人たちとのこと。自分は本当に、人に恵まれている。

 

その時、隣を歩いていたこころが、少しだけ躊躇いがちに口を開いた。

 

「…あの、なな先輩」

「ん? どうしたの、こころちゃん」

「その…本当に、もう大丈夫なんですか? さっき、図書館で…」

 

やはり、気になっていたのだろう。こころは、心配そうな瞳でななの顔をじっと見つめている。その真摯な眼差しに、ななは胸が温かくなった。

 

「ありがとう、こころちゃん。心配してくれてたんだね」

 

ななは立ち止まると、こころに向き直り、心からの笑顔を見せた。

 

「本当に大丈夫だよ。ちょっと考え込んじゃってただけ。でも、もうすっかり元気。こうして、うたちゃんやこころちゃんと話せたら、もっと元気になった」

 

その嘘偽りのない、晴れやかな笑顔を見て、こころの表情も、ようやくぱっと明るくなった。

 

「…はい! なら、よかったです!」

 

一番下の、真面目で心優しい仲間。その気遣いが、ななには何よりも嬉しかった。やがて二人は分かれ道に差し掛かり、「また明日」と手を振り合って、それぞれの家路についた。

 

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