幼い日の約束   作:mairu_i

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2日目 - 後編 静かな夜の底で

夕暮れの町にチャイムの音が響く中、ななは「ただいまー」と玄関のドアを開けた。家の中は静かだったが、リビングのテーブルには、兄が一日取り組んでいたらしい難しそうな専門書が、整然と積まれていた。

 

ダイニングへ向かうと、キッチンは既に片付いており、カウンターの上にはラップのかけられた、彩りの良い夕食が準備されていた。そばには、赤いパプリカや鮮やかなブロッコリーなど、色とりどりの野菜が丁寧に並べられたまな板が置かれ、兄の几帳面な手仕事がうかがえた。今朝のお礼だろうか、兄の優しさを感じて、ななの口元が自然とほころぶ。

 

人の気配がない代わりに、バスルームの方から微かに水音が聞こえてきた。

 

(お兄ちゃん、お風呂か)

 

蒼風家では、夕食の時間がきっちりと決まっている。その時間まで余裕がある時は、先にお風呂を済ませてから、ゆっくりと食卓を囲むのが長年の習慣だった。

 

(夕食の準備もしてくれたんだ。私も、汗を流しちゃおう)

 

昨夜とは違い、穏やかで当たり前の気持ちで、ななは自分の部屋に鞄を置く。着替えとタオルを手に取り、迷いのない足取りでバスルームへと向かうのだった。

 

湯船に深く体を沈め、兄はゆっくりと息を吐いた。お湯の熱が、一日中続けた勉強で凝り固まった肩や首の筋肉を、じんわりと解きほぐしていく。

 

(…今日の講義で扱った、近代社会における家族構造の変容論。なかなか興味深かったな)

 

目を閉じると、彼の脳裏に講義で示された様々なデータや学説が浮かび上がってくる。核家族化、単身世帯の増加…。教授が語っていた典型的な家族モデルと、自分たちの現状を無意識に比較していた。

 

(両親が海外を拠点とし、兄妹二人で生活する世帯。経済的・精神的な繋がりは維持しつつも、物理的には分離している。この形態が、俺とななの役割意識にどう影響を与えているのか…)

 

自分が「保護者」としての役割を担い、ななが「被保護者」となっているのは、この環境における必然的な結果だ。だが、今朝ななが見せた、自発的な「感謝」の行動。あれは関係性が一方的なものから、より双方向的なものへとシフトしている兆候と見るべきか。

 

学術的な思考と妹への想いが交錯する、凪だけの静かな時間。

 

その静寂は、カチャリ、という控えめなドアの音によって、不意に破られた。湯気で少し霞む視界の向こうに、見慣れたシルエットが現れる。凪は思考の海から引き上げられるように、ゆっくりとそちらへ顔を向けた。

 

「ああ、なな。おかえり」

 

凪は柔らかな表情で妹を迎えた。

 

「ただいま、お兄ちゃん。…夕飯の準備、ありがとう。すごく美味しそうだった」

 

ななはそう言いながら、慣れた様子でかけ湯を済ませると、兄が作ったスペースに静かにお湯へと入る。昨夜とは違う、穏やかで心地よい沈黙が二人を包んだ。

 

「今朝のお礼だよ。ななが作ってくれた出汁巻き卵には、敵わないかもしれないがな」

 

兄が少し茶化すように言うと、ななは「そんなことないよ」と嬉しそうに首を振った。

 

「ううん、すごく楽しみ。お兄ちゃんは、勉強はかどった?」

「まあ、それなりにな。ななこそ、図書館はどうだった?」

「うん、楽しかった!」

 

他愛のない、一日の報告会。

湯船に浸かりながら、今日の出来事をぽつりぽつりと話す。この何気ない日常こそが、二人にとってかけがえのない宝物。

 

温かいお湯が、日中の疲れと、心の最後の澱まで、すべてを綺麗に洗い流していくようだった。

 

お湯の温かさに包まれて、ななの頭は心地よくぼんやりしていた。兄との他愛のない会話が途切れ、静かな時間が流れる。その時、ふと今日の昼間の出来事が、シャボン玉のように心に浮かび上がってきた。

 

(そういえば、図書館でも…)

 

うたちゃんとこころちゃんに、顔が真っ赤だと指摘されたこと。あの時、自分の頭の中は、昨夜の兄のことでいっぱいだった。大泣きしてしまった恥ずかしさと、それを受け止めてくれた兄への感謝と、愛おしさ。その感情の渦を思い出して、ななの頬が、お湯のせいだけでもなく、また少しだけ熱を帯びる。

 

(あの時、二人には変に思われちゃったかな…)

 

友人たちの心配そうな顔を思い出し、少しだけ申し訳ない気持ちになる。でも、とすぐに思い直す。

 

(お兄ちゃんのことを考えてたら、つい…)

 

その時の自分の心情を思い返し、ななの口元に、ふふと小さな笑みが漏れた。

 

「ん? どうした、なな」

 

その小さな変化を、兄が見逃すはずもなかった。

 

「また何か、思い出して笑ってるのか?」

「えっ!? う、ううん、なんでもない!」

 

兄に指摘され、ななは慌てて両手で自分の頬をぱちぱちと叩く。その様子を見て、兄は「そうか?」と柔らかく微笑んだ。

 

ななだけの、昼間の秘密。その中心にいるのが、今、隣にいる兄なのだと思うと、恥ずかしいような、でも、たまらなく誇らしいような、くすぐったい気持ちになるのだった。

 

兄の優しい眼差しと、穏やかな声。それが今のななには、たまらなく心地よかった。

昨夜から今朝にかけて、そして今日一日。自分の心は、ずっとこの温かさに包まれている。

 

(お兄ちゃん…)

 

理由なんてなかった。ただ、今、この胸いっぱいの温かい気持ちを、どうしても伝えたかった。

 

ななは、衝動に突き動かされるように、湯船の中でそっと体を動かした。ちゃぷん、とお湯が優しく波打つ。そして、目の前にいる兄の胸に、自分から飛び込むように、その体をぎゅっと抱きしめた。

 

「お、おい、なな…?」

 

突然の行動に、兄が少しだけ驚いたような声を上げる。だが、ななは構わず、彼の背中に腕を回し、その肩口に自分の額をこてんと預けた。

 

どくん、どくん。

兄の心臓の音が、耳元で、そして体全体で直接響いてくる。

 

ななの意図を即座に理解した凪は、もう何も言わなかった。ただ、その華奢な体を、壊れ物でも包み込むように、大きな腕でゆっくりと、そして優しく抱きしめ返す。

 

言葉はいらない。

お互いの体温と、心臓の音だけが、二人の間のすべての感情を伝えてくれているようだった。

 

腕の中に、すっぽりと収まるななの体温。規則正しく繰り返される、安心しきった呼吸の音。凪はその一つ一つを確かめるように、ゆっくりと妹の背中に腕を回した。

 

(…ああ、温かい)

 

昨夜の、嵐が嘘のような、穏やかな時間。この腕の中にある温もりこそが、凪の心の拠り所だった。

 

彼女を守ることが、自分のすべて。

そう思っていたはずが、いつの間にか、自分もこの子の存在に救われている。

 

(ずっとこのまま…)

 

凪は心の中で願う。

悩みも、苦しみも、未来への不安も、何もかもが存在しない、この二人だけの空間。この何でもない、ただ温かいだけの時間が、永遠に続けばいいのに。

 

世界中のどんなものよりも、この瞬間が愛おしい。

 

凪は、ななの髪からシャンプーの甘い香りがするのを名残惜しむように感じながら、その小さな体を、もう少しだけ強く抱きしめるのだった。

 

名残惜しい気持ちを振り払うように、凪は「さて、そろそろ出ないとのぼせてしまうな」と優しく声をかけた。ななもこくりと頷き、二人は温かい湯船から上がる。

 

それぞれが手早く体を拭いて部屋着に着替える。ドライヤーの音が響く洗面所での何気ないやり取り。そのすべてが当たり前で、そしてかけがえのない日常だった。

 

ダイニングへ向かうと、兄が準備しておいた夕食が、温かな湯気を立てていた。生姜焼きの香ばしい香りがキッチンに漂い、ななの空腹をそっと刺激する。彼が手際よくご飯と味噌汁をよそう間、ななはテーブルを拭き、箸を並べる。その連携は、まるで長年連れ添った夫婦のように自然で、阿吽の呼吸だった。

 

「わあ、いい匂い。お腹すいちゃった」

「もう少しでできるから、座って待っててくれ」

 

席に着くと、向かい合った兄が満足そうに微笑んでいる。今朝ななが作った朝食。そして今、兄が作ってくれた夕食。言葉にしなくても、お互いを思いやる気持ちが食卓の上に満ちていた。

 

やがて、すべての準備が整う。

二人は揃って目の前の温かい食事に手を合わせた。

 

「「いただきます」」

 

優しい声が重なり、蒼風家の穏やかな夜が、また一つ始まっていく。

 

兄が作った生姜焼きは、ななの好きな少し甘めの味付けだった。一口食べるごとに、ななは「美味しいね」と嬉しそうに微笑み、兄も「そうか?」と満足げに頷く。食卓は穏やかで幸せな空気に満ちていた。

 

「そういえば、なな」

 

味噌汁を一口すすった後、凪がふと思い出したように切り出した。

 

「夏休みも、もう中盤だな。何かやりたいこととか、行きたい場所とかあるのか?」

 

「え? やりたいこと?」

 

ななは少しの間箸を止めて考える。アイドルプリキュアの活動やピアノの練習、そして日々の宿題。考えてみれば、あまり『夏休みらしいこと』はしていなかったかもしれない。

 

「うーん…。特には考えてなかったけど…。あ、でも、うたちゃんたちと、みんなで花火とか行きたいな、って話はしてたかな」

 

「花火か。いいじゃないか」凪は目を細める。「浴衣、着ていくのか?」

 

「うん、もし行けるなら! みんなで着たいねって」

 

「そうか。もし着るなら、着付け、手伝ってやるよ。母さんに教わっておいて正解だったな」

 

「ほんと!? ありがとう、お兄ちゃん!」

 

ななはぱっと顔を輝かせた後、今度は自分から問いかける。

 

「お兄ちゃんは? 大学の夏休みは長いでしょ? どこか行くの?」

 

「いや、俺は特にないな」凪はあっさりと答える。「集中して読んでおきたい論文が山ほどあるし、家のこともある。それに…」

 

彼は一旦言葉を切ると、ななの顔を見て、優しく微笑んだ。

 

「ななとこうして過ごす夏休みが、俺にとっては一番だからな」

 

夕食の片付けも終わり、「おやすみ」と声を掛け合って、二人はそれぞれの部屋へと戻った。家の中は、一日を終えた後の穏やかな静寂に満たされている。

 

凪は自室のデスクに向かい、読みかけだった専門書を開いた。しかし、彼の意識は、インクで印刷された難解な文字列の上を、意味もなく滑っていくだけだった。

 

(…平静を、装ってはいたが)

 

ななの前では、いつも通りの、頼れる兄として振る舞っていたつもりだ。だが、彼の体には、まだあの風呂場での感覚が、ありありと残っていた。

 

腕の中にすっぽりと収まった、妹の柔らかな感触と熱。

自分を信頼しきって、すべてを預けてくる、その無防備な重み。

 

ななが自分から抱きしめてきた、あの瞬間。

驚きと共に、腹の底から、どうしようもないほどの愛おしさが込み上げてきたことを、凪は自覚していた。

 

あの温もりこそが、今の自分の世界の、間違いなく中心にある。

彼女を守り、導き、そして彼女の安らげる場所であり続けること。それが自分のすべて。

 

凪は読んでいた本を静かに閉じると、背もたれに深く体を預け、そっと目を閉じた。瞼の裏に、安心しきって自分に身を任せる、たった一人の大切な妹の笑顔が浮かぶ。

 

その温もりを、この胸にある限り。

自分は、何だってできる。

 

凪はそう、強く確信するのだった。

 

凪は自室の椅子に深く座り、天井を仰いだ。ななの穏やかな寝息が聞こえてきそうなほどの静寂の中、彼の思考は深く、そして複雑に沈んでいく。

 

(俺たちの兄妹関係は、おそらく特別だ)

 

客観的に見て、そう思う。この町で、いや、世界中を探しても、自分たちほど仲の良い兄妹はそうはいないだろう。それは喜ばしいことであり、誇りでもある。ななが自分を信頼し、心の拠り所としてくれている。それ自体は、良いことのはずだ。

 

(だが…)

 

凪の脳裏に、昨夜のななの嗚咽と、先ほどの風呂場での、すべてを委ねるような無防備な温もりが蘇る。

あの出来事は、二人の絆の深さを証明すると同時に、凪の心に、これまでになかった種類の小さな影を落としていた。

 

(このままで、本当に良いのだろうか)

 

ななの世界は、自分に集中しすぎてはいないだろうか。兄である自分が、彼女の「世界のすべて」になってしまってはいないか。

それは今、この瞬間は、二人にとって幸福な形かもしれない。しかし、この先は?

 

ななが成長し、いずれ自分以外の誰かと出会い、恋をすることもあるだろう。その時、兄である自分へのこの強い執着は、彼女自身の幸せの足枷にならないだろうか。

そして、もし自分が、進学や就職でこの家を離れる時が来たら? 自分という絶対的な支えを失った時、この子は、ちゃんと自分の足で立っていられるのだろうか。

 

今のこの安らぎが、未来のななを縛る枷に変わってしまうとしたら。

自分の深い愛情が、かえって彼女を弱くし、未来に起こるべき出会いや成長から遠ざけてしまうのだとしたら。

 

それこそが、一番の「不幸」ではないのか。

 

「…どうすれば、いいんだ…」

 

誰に聞かせるともない呟きが、静かな部屋に溶けて消えた。

ななを守りたい。幸せにしたい。その気持ちに嘘はない。だが本当の意味で彼女を守るとは、どういうことなのか。凪はその答えの出ない問いに、ただ一人静かに向き合っていた。

 

凪は再び、机に置かれた専門書に手を伸ばした。『近代社会における家族構造の変容論』。つい数時間前までは、ただの知的好奇心の対象だった学問が、今は自分自身の問題として、重く、そして切実に迫ってくる。

 

(そうだ…問題は、俺たちの関係性が「仲が良い」こと自体じゃない。役割の、極端な集中と固定化だ)

 

教授が講義で語っていた言葉が、脳裏で反響する。

両親という存在が、経済的な支援という外部機能に限定された結果、蒼風家という閉鎖空間の中では、兄である自分が、ななにとっての、あらゆる情動的・保護的役割を一手に担ってしまっている。

 

兄であり、父親代わりであり、母親代わりであり、そして、一番の親友でさえある。

ななが求めるすべての役割を、自分が満たしてしまっている。だからこそ、ななは自分の外に世界を広げる必要性を感じない。その心地よい閉鎖空間が、未来の彼女を孤立させる要因になり得る。

 

(…守ることとは)

 

凪は思考の果てに、一つの結論にたどり着く。

 

(ただ傍にいて、嵐から守るための港になることじゃない。いつかこの子が、俺という港から、自力で大海原へ漕ぎ出していけるように。その航海の仕方を教え、船を補強し、そして、いつでも帰ってこられる場所であり続けることだ)

 

甘やかすのではなく、自立を促す。

独占するのではなく、外の世界へ送り出す。

それが、兄である自分の、本当の愛の示し方なのだと。

 

それは、自分自身の心の一部を切り離すような、痛みを伴う作業になるかもしれない。それでも、やらなければならない。

 

長い夜の思索だった。気づけば、窓の外が、白み始めている。そろそろ、本当に眠らなければならない時間だ。

 

心は、まだ少しだけ重い。だが、進むべき道筋が、今はっきりと見えていた。凪は静かに立ち上がると、ベッドに入り、深く、そして短い眠りについた。

 

ようやく訪れた、鉛のように重い眠り。その深い意識の底に、凪が沈み込んでから、おそらく数分と経っていなかっただろう。

 

きぃ…、と。

 

静寂をわずかに軋ませる小さな音。

その微かな物音が、張り詰めていた彼の意識の弦をいとも簡単に弾いた。

 

(…なんだ…?)

 

思考がまとまらない。体は深く眠っているのに、聴覚だけが鋭く覚醒しているような、奇妙な感覚。夢か、現実か。混濁する意識の中、凪は重い瞼を、なんとかこじ開けた。

 

窓の外は、夜の闇が最も濃くなる夜明け前の青白い光に満たされている。

 

そして、その光を背負うように、部屋の扉の前に小さな人影が立っていた。

 

「……なな…?」

 

まだ眠りを含んだ掠れた声で問いかける。見間違えるはずもない妹のシルエット。

 

「どうしたんだ…こんな、時間に…」

 

ななは、何も答えなかった。ただ、そのシルエットが、まるで吸い寄せられるように、ゆっくりとベッドへと近づいてくる。その様子に、凪は眠気と、そして、得体の知れない緊張感を感じていた。

 

金縛りにあったかのように、凪は思うように体が動かせなかった。指一本、声一つ、脳からの命令が体の末端に届かない。

 

(寝起きだからだ。疲れているんだ。昨夜は、あまり眠れていない…)

 

必死に自分にそう言い聞かせる。だが、意識がまるで濃い霧の中を彷徨っているかのように、はっきりしない。現実と夢の境界線が、曖昧に溶けていく感覚。

 

そんな朦朧とした視界の中で。

目の前に立つ『なな』の姿が、やけに鮮明に映った。

 

夜明け前の青白い光が、まるで彼女のためだけのスポットライトのように、その輪郭を柔らかく縁取っている。いつも見慣れているはずの、妹の姿。それなのに、今は、まるで知らない誰かを見ているかのようだった。

 

幼さが消え、代わりに不思議なほどの静けさと、吸い込まれそうなほどの儚さをまとっている。その瞳は、ただ静かに兄を見つめているだけなのに、魂の奥底まで見透かされているような、不思議な引力があった。

 

(…綺麗だ)

 

そう思った瞬間、凪は自分の思考に狼狽える。何を考えているんだ、俺は。これは夢だ。疲労が見せている、ただの幻覚に違いない。

 

そう結論づけようとする彼の前で、ななはゆっくりと、音もなく片方の手を持ち上げる。その白い指先が、凪の頬に触れようとしていた。

 

その白い指先が、そっと凪の頬に触れた。

ひんやりと、だが柔らかな感触。その非現実的な心地よさに、凪の思考が一瞬停止する。

 

ななの顔が、そのままゆっくりと近づいてくる。抵抗しようにも、体は石のように動かない。ただ彼女の吸い込まれそうなほど静かな瞳が、自分を捉えているのが分かる。

 

そして、唇が、柔らかく重ねられた。

 

その瞬間、妖しいほどの陶酔感が、全身を駆け抜けた。背筋がぞくぞくと痺れるような、抗いがたい快感。

 

(ああ…これは、本当に夢なんだ)

 

現実では決してありえない。こんなにも都合が良く、そしてこんなにも背徳的な感覚。あまりに鮮明すぎるこの感覚こそが、ここが夢の世界である何よりの証明だった。

 

だが、凪の心に新たな恐怖が芽生える。

 

(であれば、目の前のこのななは、俺の深層心理が生み出したというのか?)

 

この、いつもより少し大人びて、妖しいほどに魅力的な妹の姿は、俺自身の願望が作り出した幻だとでもいうのか。

 

(…何だ、これは…!)

 

凪は心の中で、必死にその考えを否定する。

 

(俺はななを、たった一人の大切な妹として、家族として、守ると誓ったんだ。断じてこんな邪な感情を抱いたことなど、一度も…)

 

一度も、ない。

 

(…はずだ)

 

その否定の言葉の最後に、ほんの少しだけ生まれた、自分自身への疑念。その小さな染みに、凪は気づかないふりをしながら、甘美な悪夢に意識を委ねるしかなかった。

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