幼い日の約束   作:mairu_i

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3日目 冷たい活字、冷たい扉

ハッと目を開けた凪は、浅い呼吸に胸がざわついていた。

 

窓の外がうっすらと白んでいる。いつの間にか夜は明けていたらしい。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の輪郭を静かに照らし出していた。

 

だが、凪の心はその穏やかな朝の風景とは、遠くかけ離れていた。

 

(…汗が…)

 

寝間着がじっとり肌に張り付き、冷や汗にまみれていることに気づいた。心臓が、まだ早鐘を打っていた。

 

(夢だ…)

 

凪はゆっくりと体を起こす。その脳裏に、先ほどまで見ていた夢の内容が、嫌というほど鮮明に蘇ってきた。

 

夜明け前の薄闇に浮かび上がる、いつもより妖艶な妹の姿。

頬に触れた、ひやりとした指先の感触。

そして、重ねられた唇と、全身を駆け巡った、あの背徳的な快感。

 

「…っ」

 

凪は呻くように息を吐き出し、汗で湿った前髪を乱暴にかきあげた。

 

あれは、ななじゃない。疲労が見せたただの悪夢だ。

そう頭では理解している。理解しようと努めている。だが、夢の中で感じてしまったあの甘美な感覚の残滓が、まだ体の奥にくすぶっているようで、猛烈な自己嫌悪が込み上げてきた。

 

自分は、妹にそんな欲望を抱いているのか。

凪は固く目を閉じ、その不快な思考を、頭から振り払おうと必死にもがいていた。

 

乱れた呼吸を整えようと、兄はベッドから降りて冷たい水を求めてキッチンへと向かった。しかし、頭の中は依然として、悪夢の残滓と自己嫌悪の嵐が吹き荒れている。

 

(…何を考えていたんだ、俺は)

 

昨夜、あれだけ時間をかけて自分の考えをまとめたはずだった。

ななの自分への過剰な依存を、少しずつ解きほぐしていく。彼女が自立し自分の世界を広げていけるように、兄として一歩引いた場所から見守り支えていく。それが本当の彼女の幸せのためだと、固く決意したはずではなかったのか。

 

(それなのに、これではまるで…)

 

凪の脳裏に、夢の中の光景が再びフラッシュバックする。

あの夢は、ななの自立を願うどころか、むしろ彼女を自分の欲望の対象として、この閉鎖された世界に縛り付けておきたいという、醜い独占欲の表れではないのか。

 

口では「自立」を唱えながら、心の奥底ではななが自分から離れていくことを恐れている。兄妹という関係を超えて、彼女を支配したいという、歪んだ願望を抱いている。

 

あの悪夢は、そんな自分自身の最も見たくない深層心理を、まざまざと突きつけてきたかのようだった。

 

「…矛盾している…」

 

凪はキッチンのシンクに手をつき、低く呻いた。

ななの幸せを願う、清廉な兄でありたい自分。

そして、ななを独占したいと願う、醜い欲望を抱えた男である自分。

 

その二つの矛盾した自己像の間で、兄は夜明けの薄明りの中、ただ一人、立ち尽くすしかなかった。

 

悪夢にうなされた短い眠りから覚め、新しい一日が始まった。

 

朝食の席で、凪はななの顔を直視できず、視線を皿に落とした。努めて平静を装い、いつものように「おはよう」と声をかけたが、その声は自分でも分かるほどに硬かった。ななは少し不思議そうな顔をしたが、兄が夜遅くまで勉強していたのだろうと、特に気にした様子もなく「いってきます!」と元気よく家を出ていった。今日も、友人たちとの約束があるらしい。

 

パタン、と玄関のドアが閉まり、家が静寂に包まれた瞬間、凪の仮面は剥がれ落ちた。

 

彼は、本来やるべきだった大学の課題には目もくれず、パソコンの前に座った。そして、オンラインの学術論文データベースにアクセスすると、憑かれたようにキーワードを打ち込み始めた。

 

『兄妹関係』『心理』『依存』『非典型的家族構成』『情緒的近親関係』

 

画面に表示される無数の論文のタイトル。その一つ一つに、まるで救いを求めるかのように、彼は食らいついていった。客観的なデータ、臨床例、心理学的な考察。その乾いた文字列の中に、今の自分たちの異常な状況を、そして、自分自身の歪んだ心を正しく導いてくれる「指針」が、どこかに記されているのではないか。

 

昨夜、自分が立てた「ななを自立させる」という決意すら、今となっては独善的な偽善に思える。あの悪夢は、そんな綺麗事では覆い隠せない、自分の本質を暴いたのだ。

 

藁にも縋る思いだった。

誰か教えてくれ。俺たちの関係は何なのだ。俺がななを想うこの気持ちは、どこからが兄としての愛で、どこからが一人の男としての、醜い欲望なのだ。

 

凪は、答えのない問いに喘ぎながら、モニターの光に照らされ、ただひたすらに論文を読み漁っていた。

 

何十本もの論文を、半ば自暴自棄にクリックし続けていた、その時だった。

彼の目が、ある一つのタイトルに釘付けになった。

 

『非典型的家族構成における兄妹関係の心理的考察:ペアレンティフィケーションと潜在的近親相姦力動の発生要因について』

 

心臓が、どくん、と大きく跳ねた。

まさに、今の自分たちのことを指しているとしか思えない的確なタイトル。震える指で、兄はその論文のPDFファイルを開いた。

 

食い入るように、彼は画面の文字列を追い始めた。

 

そこには、彼の漠然とした不安や罪悪感に、冷徹な学術用語が名前を与えていた。

 

…両親の長期不在により、兄が妹に対して親の役割を過剰に代行する「ペアレンティフィケーション」が生じ、兄妹の境界線が曖昧になる。この共依存的関係は一見愛情深いが、情緒的に互いを「唯一無二のパートナー」と見なす「潜在的近親相姦(コバート・インセスト)」の危険性を孕み、双方の自立を阻害する。…

 

一文字、また一文字と読み進めるごとに、凪の呼吸は浅くなっていく。

昨夜の悪夢。ななの無防備なまでの依存。そして、自分の中に芽生えた、醜い独占欲。そのすべてがこの論文の上で、冷たい活字となって、完璧に言語化されていた。

 

これは、ただの思い過ごしなどではない。学術的に名前がつけられるほどの、危険な兆候なのだ。

 

凪は、もはや周りの音も、時間の経過も、何も感じていなかった。ただ、目の前の論文という名の「鏡」に映し出された、自分たちの歪んだ姿から、目を逸らすことができずにいた。

 

論文の最後の文字まで読み終えた時、凪の世界からは完全に色が抜け落ちていた。

絶望。その一言が彼の心を支配していた。自分たちがただ仲の良いだけの兄妹ではなかったという残酷な真実。良かれと思って続けてきた愛情深い習慣が、実は二人を緩やかに蝕む毒であったという事実。

 

その絶望から逃れたい一心で、彼は次から次へと関連する文献を貪るように読み進めた。

昼食を取ることも忘れ、椅子から立ち上がることも忘れ、窓から差し込む光が白からオレンジ色へと変わっていくのにも気づかないまま。

ただひたすらに、自分たちの関係性を断罪する冷たい活字の海に溺れていた。

 

ふと、彼が顔を上げた時。パソコンの右下に表示された時刻は、もうとっくに夕方を過ぎていた。

その数字が、ようやく彼を思考の海から現実へと引き戻す。

 

(…もう、こんな時間か)

 

絶望に打ちひしがれていても腹は空く。そして、ななが帰ってくる。

無情にも時間は流れ、気づけば夕食の準備を始めなければならない時間だった。

 

考えなど到底まとまらない。頭の中は、先ほど読んだ論文の言葉が、呪いのように反響している。それでも、体だけが長年の習慣を覚えていた。兄はまるで操り人形のように足早にキッチンへ向かうと、感情を消した無機質な動きで、夕食の準備を始めた。

 

(風呂に、入らなければ)

 

調理を終えた彼の脳裏で、自分の中の「理性」が冷たく警鐘を鳴らした。

ななが帰ってくる。そして、いつものように風呂に入ってくるだろう。

 

(ダメだ…)

 

あの空間でななの無防備な体に触れてしまえば、自分はもう、ただの「兄」ではいられなくなるかもしれない。あの悪夢が現実になってしまうかもしれない。

 

その恐怖が、彼を突き動かした。

兄はいつもよりずっと早い時間に、逃げ込むように浴室のドアを閉めた。熱いシャワーでただ体を洗い流す。湯船に浸かることもなく、それはリラックスとは程遠い、単なる「作業」だった。

 

体を拭き、急いで服を着ようとしたまさにその時。

 

カチャリ、と玄関のドアが開く音が、階下から響いてきた。

「ただいまー!」

ななの、屈託のない声。

 

兄は脱衣所で動きを止めた。心臓が恐怖で凍り付くようだった。

間に合った。だが、これから自分はどんな顔をして、ななと向き合えばいいのだろうか。

 

「ただいまー!」

 

ななの元気な声が家に響き渡る。すると、声に反応したかのように洗面所のドアが開き、部屋着に着替えた兄が顔を覗かせた。その髪は、まだ少しだけ湿っている。

 

「あ、お兄ちゃん。ただいま」

「…ああ、おかえり、なな」

 

兄の姿を見て、ななはすぐに状況を理解した。

 

「お風呂、もう出ちゃったの?」

「ああ…今日は、ちょっとな」

 

凪は少しだけ目を逸らしながら言葉を濁す。その様子に、ななは心の中で小さく唇を尖らせた。

 

(そっか…。もうちょっと早く帰ってくれば、一緒に入れたのにな)

 

ほんの少しだけ残念に思ったが、兄も一日勉強して疲れているのだろうと、ななはすぐに気持ちを切り替えた。

 

「分かった。じゃあ、私もすぐ準備して入っちゃうね。夕飯、ありがとう!」

 

ななはそう言うと、急いで自室で着替えを済ませ、一人でバスルームへと向かった。まだ兄の温もりが残っているような気がする湯船に一人で浸かりながら、ななは少しだけ、物足りなさを感じていた。

 

やがてななも風呂から上がり、二人は食卓につく。

今朝とは違う、どこか静かな夕食の時間。ななは、兄が疲れているせいだろうと思いながらも、その横顔に浮かぶ、今まで見たことのない種類の翳りのようなものに、ほんの少しだけ首を傾げるのだった。

 

夕食の間、二人の会話はほとんど弾まなかった。凪は、ななの問いかけに「ああ」とか「そうか」と相槌を打つだけで、どこか上の空。その視線が、ななと合うことはほとんどなかった。

 

食後、ななは早々に自室へと引き上げた。ベッドに座り読みかけの小説を開いてみるが、文字は少しも頭に入ってこない。

 

(お兄ちゃん、やっぱり疲れてるのかな…)

 

そう思うように努める。でも、心のどこかで小さな不安の芽が、むくむくと育っていくのを感じていた。

 

(それとも、私が何か気に障るようなことを、しちゃったんだろうか…)

 

考えれば考えるほど悪い方へと思考が沈んでいく。隣の部屋から物音一つしない静寂が、今はななの不安を一層煽っていた。

 

やがて、壁の時計がそろそろ寝るべき時間であることを示す。

ななは読んでいた本を静かに閉じた。そして、ゆっくりとベッドから立ち上がる。

 

(…ダメだ。このままじゃ眠れない)

 

確かめなければ。兄が、いつもの優しい兄であることを。自分たちの間に、何も変わったことなどないのだと。

 

ななは決意を固めると、そっと自室のドアを開けた。数歩先にある固く閉ざされた兄の部屋の扉へと、吸い寄せられるように向かう。扉の前で立ち止まり、一度だけごくりと喉を鳴らしたななは、その小さな手を、ノックするためにゆっくりと持ち上げた。

 

コン、コン…。

 

静寂を破る、控えめなノックの音。凪の心臓が、大きく跳ねた。

ななだ。間違いない。

 

以前は、なながこうして夜に部屋を訪ねてくるのは週に一度あるかないかだった。だが、ここ最近は、その頻度がほぼ毎日に近いくらいにまで増えていた。

 

(開けては、ダメだ…)

 

頭の中の、論文の活字で武装した「理性」が、警鐘を鳴らす。今、ここで彼女の不安を受け入れ甘えさせてしまえば、また彼女の依存を深めるだけだ。ななの自立を助けると決めたばかりなのに、これでは正反対の行為になってしまう。

 

それに、あの悪夢を見てしまった後では…。この歪んだ心を自覚してしまった今、これまでのように、ただの兄としてななを抱きしめて、平静な心で眠ることなど、果たして俺にできるのだろうか。

 

だが、心の奥底では、いつもの「兄」が叫んでいた。ドアの向こうで、世界で一番大切な妹が不安に震えている。今すぐドアを開けて、抱きしめ、「大丈夫だ」と言ってやるのがお前の役割だろう、と。

 

逡巡は、数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。

 

やがて凪は固く目を閉じた。そして次に目を開けた時、その瞳には痛々しいほどの、冷たい決意の色が浮かんでいた。

 

凪はドアを開けなかった。ベッドに座ったまま、声を押し殺してこう告げた。

 

「…ななか」

 

ドアの向こうで、ななの気配が、びくりと揺れる。

 

「どうしたんだ、こんな時間に」

「……あの、お兄ちゃん…。眠れなくて…」

 

か細いすがるような声。凪は胸が張り裂けそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐える。

 

「…すまない」

 

彼は感情を殺した声で言った。

 

「今日は、一人で寝てくれ。兄さんも…少し、考えたいことがあるんだ」

 

(すまない、なな。これがお前のための、最善なんだ)

 

ドアの向こうの気配が、凍り付いたのが分かった。

やがて、小さな躊躇いの後、そろ、そろ、と遠ざかっていく、か細いスリッパの音。

 

凪はその音が完全に聞こえなくなるまで、身じろぎもせず、ただ固まっていた。自分の心臓を、自らの手で抉り出したかのような、激しい痛みに耐えながら。

 

 

 

兄の部屋のドアの前で、ななはしばらくの間、立ち尽くしていた。

『今日は、一人で寝てくれ』

その、今まで一度も言われたことのない、穏やかで、けれど、絶対的な拒絶の言葉。その意味を、すぐには理解できなかった。

 

どれくらいそうしていただろうか。

ななは、まるで夢遊病者のように、ふらふらとした足取りで自分の部屋へと戻った。

 

自室のベッドに潜り込む。いつもなら、すぐに安らかな眠りに誘ってくれるはずの自分の城が、今夜はひどく冷たくて、だだっ広く感じられた。

 

(お兄ちゃん、疲れてるって言ってた…)

(考えたいことがあるって…)

(邪魔しちゃ、ダメだよね…)

 

頭ではそう理解しようとしていた。兄にだって一人になりたい夜くらいあるだろう。私は、良い妹でいなくては。物分りの良い、妹で…。

 

それなのに。

どうしてだろう。

 

ななは、自分でも分からないうちに、枕に顔をうずめていた。シーツに、ぽつり、ぽつりと、温かい染みが広がっていく。一度溢れ出した涙は、嗚咽も伴わず、ただ静かに、とめどなく流れ続けた。

 

悲しいのか、寂しいのか。それすらよく分からない。

ただ、今まで自分と兄との間に確かに存在していたはずの透明で温かい何かが、今夜初めて、分厚い壁となって、自分たちの間に立ちはだかったような気がした。

 

その壁の前で、ななはどうすることもできず、ただ静かに涙を流した。

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