幼い日の約束   作:mairu_i

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4日目 - 前編 世界に亀裂が入る音

翌朝。

いつもの時間に、いつものように食卓に向かい合った二人。しかし、そこにいつもの温かい空気はなかった。

 

テーブルに並ぶのはトーストと、トマトやレタスの彩りが寂しげなサラダだけだった。二人の間に会話は一切ない。

昨日、あれほど幸せな音色を奏でていたはずのダイニングには、カチャリと食器が触れ合う乾いた音と、気まずい沈黙だけが重く漂っていた。

 

ななは、心ここにあらずといった様子で、ほとんど進まないトーストの端をフォークでちまちまとつついていた。時折、兄の顔を窺うが、兄はただ目の前の皿の一点を見つめるばかりで、決して彼女と目を合わせようとはしなかった。

 

(お兄ちゃん、怒ってる…?)

(私が夜中に部屋に行ったから…?)

(でも、どうして…)

 

ななの頭の中を、答えの出ない疑問がぐるぐると回る。何かを尋ねたいのに、昨夜の、あの静かな拒絶を思い出すと、喉が詰まって声が出なかった。

 

凪もまた、地獄のような時間を耐え抜いていた。

俯きがちな妹の悲しそうな気配を肌で感じながら、彼はただひたすらに耐えていた。今すぐ、すべてを投げ出して、ななを抱きしめ、「ごめん」と謝ってしまいたい衝動。それを、鋼のような意志で押さえつける。

 

(…これが、第一歩だ)

 

彼女の未来のために。この、胸が張り裂けそうなほどの痛みに、今は耐えなければならない。

 

やがて、どちらからともなく、ほとんど食事に手もつけないまま、二人はぽつりと「ごちそうさま」と呟いた。その声が重なることはなかった。

 

気まずい沈黙が支配した朝食の後、ななは逃げるように家を出ていった。

「…いってきます」

そう呟いた声は、いつもよりずっと小さく力がない。兄は「ああ、いってらっしゃい」と返すのが精一杯で、その背中を見送ることすらできなかった。

 

パタン、とドアが閉まる。

一人きりになった家の中、凪はまるで亡霊のように自室へと戻った。

 

罪悪感を、ななの自立を願う「決意」で塗り固め、凪は重い腰を上げた。

彼が所属しているテニスサークル。純粋にテニスが好きで入ったのだが、ここ最近はななを優先するあまり、全く顔を出せていなかった。

 

(…あそこなら)

 

大学のテニスサークル。その響きには汗と友情だけでなく、どこか華やかで男女の出会いの場という側面も確かにある。そういうことを目指すのであれば、これ以上ないほど打って付けの場所だろう。

 

凪は睨みつけていたパソコンの電源を落とすと、クローゼットの奥から久しぶりにラケットバッグを引っ張り出した。着慣れたスポーツウェアに袖を通し、玄関のドアを開ける。

 

夏の終わりの物憂げな日差しが、凪の背中に重く影を落としていた。

これから自分が向かう場所が、ななを救うための、希望の場所なのか。それとも、自分自身を、さらなる欺瞞の沼へと沈める、絶望の入り口なのか。

 

その答えは、まだ、誰にも分からなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

ラケットバッグを肩に、兄が大学のテニスコートに姿を現すと、何人かの仲間がすぐに気づいて駆け寄ってきた。

 

「お、ナギ! 久しぶりじゃん! 生きてたかー!」

「ナギくん、来てくれたんだ! 嬉しい!」

 

口々に、しかし、誰もが温かく彼の久しぶりの参加を歓迎してくれた。凪は「ああ、すまない。少し家の用事が立て込んでいて」とだけ返し軽く頭を下げる。

 

すぐに練習が始まった。夕暮れのオレンジ色の光がコートを柔らかく染め、土の匂いがほのかに漂う中、軽いアップの後、同期の男子とゲーム形式の練習に移る。しばらくラケットを握っていなかったとは思えないほど、兄の体は動いた。鋭いサーブが相手のコートに突き刺さり、正確なストロークがライン際をかすめた。テニスに集中している間だけは、頭の中のどろりとした思考を、ほんの少しだけ忘れることができた。

 

ゲームが終わり、ネット際で相手と握手を交わす。ベンチに戻ってペットボトルのお茶を一口飲んだ、その時だった。

 

「お疲れ様です、凪さん」

 

声をかけてきたのは、同期のせつ菜だった。

 

「久しぶりなのに、すごいキレでしたね。少し、見入ってしまいました」

 

彼女は、落ち着いた丁寧な言葉遣いで、凪のプレイを称賛した。容姿端麗という言葉が、これほど似合う女性を凪は他に知らない。彼氏がいないのが、サークル内の七不思議の一つと言われるほどの女性だ。

 

「いや、そんなことはない。最後はバテてしまったよ。せつ菜さんこそ、いつも熱心だな」

 

「好きなので」

 

せつ菜は、その言葉を口にした瞬間ふっと表情を輝かせた。

 

「好きなことには、つい夢中になってしまうんです。だから、今日の凪さんのサーブ、本当に参考になりました。安定しているのに、あの威力…。すごいです!」

 

好きなものを語る時だけに見せる、情熱的な一面。そのギャップが、彼女の魅力を一層際立たせていた。そして、彼女はすっと普段の落ち着いた表情に戻ると、続けた。

 

「もし、ご迷惑でなければ、後で少しだけ、コツを教えていただけませんか?」

 

真面目で、努力家。揺るぎない情熱と、それを実現させるための行動力。まさに、彼女そのもののような申し出だった。

凪は、一瞬だけ逡巡した。だが、すぐに今日ここへ来た目的を思い出す。

 

「…ああ。俺でよければ、もちろん」

 

彼はそう言って、穏やかに微笑んでみせた。

 

サークルの全体練習が終わり、何人かが帰り支度を始める中、凪とせつ菜はコートの片隅に残っていた。

夕暮れのオレンジ色の光がコートを温かく照らし、土の匂いが汗と混じって鼻をつく。

 

「トスが、ほんの少しだけ、体の後ろに流れています。もう少しだけ、前へ」

「はいっ」

 

凪のアドバイスは的確で無駄がなかった。せつ菜は、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しで頷き、一球一球フォームを確かめるようにサーブを打つ。

 

数球繰り返した後、それまでとは明らかに違う乾いた快音がコートに響いた。せつ菜が放ったボールは、鋭い角度でサービスボックスの角に突き刺さる。

 

「…できました! 凪さん、今、すごく良い音が…!」

 

次の瞬間、それまでの真剣な表情がぱっと花が咲くように、明るい笑顔へと変わった。自分の成長を心の底から喜んでいる、一点の曇りもない笑顔。

 

凪は、その笑顔から、一瞬、目が離せなくなった。

 

(…ああ)

 

この子の笑顔を見ていると、不思議と、家の重たい空気を、自分の心の葛藤を、ほんの少しだけ忘れられるような気がした。

 

ななを救うため、という独善的な言い訳も。

彼女を作った方がいいのか、という功利的な思考も。

 

今は、どうでもいい。ただ、目の前でひたむきにボールを追い、自分の好きなことに全力で打ち込むこの女性との時間が、純粋に楽しい。

 

「…すごいな、せつ菜さんは。吸収が早い」

 

気づけば、凪も自然な笑みを浮かべていた。それは、ここ数日彼が忘れていた心からの笑顔だった。

 

◇ ◇ ◇

 

(一方その頃、ななは3人での買い物の帰り道だった)

 

今日の買い物は、とても楽しかった。三人でウィンドウショッピングを楽しみ、クレープを分け合って食べる。ななの心は、すっかり軽やかになっていた。

 

「あ、この道、お兄ちゃんの大学の近くだ」

 

帰り道、ななが何気なく呟く。その時だった。パン、パン、とテニスボールの弾むリズミカルな音が聞こえてきた。

 

(テニス…)

 

ななは、兄がテニスをする姿が好きだった。勉強している時の理知的で静かな表情とは違う、真剣で、躍動感あふれる姿。最近は研究や論文で忙しく、サークルには顔を出せていない、と彼は言っていた。

 

(お兄ちゃん、いないかな…)

 

そんな期待を胸に、ななは金網のフェンスの向こう側、オレンジ色に染まり始めたテニスコートへと、ふと目を向けた。

 

いた。

 

大勢の学生の中で、一際しなやかなフォームでボールを打ち返す、見慣れた後ろ姿。間違いなく、兄の凪だ。

 

「お兄ちゃ…」

 

その姿を見つけられたのが嬉しくて、思わず声を掛けようとした、その時だった。

ななの言葉は、喉の奥で、凍り付いた。

 

ラリーをしていた兄が、ネットの向こう側にいる相手を見て、ふっと笑ったのだ。

相手は、ななの知らない、綺麗な女の人だった。大人びていてとても素敵な人。

 

そして、兄が彼女に向けていたのは───柔らかくて、そして、どこか特別な意味が込められているように見える、優しい笑顔だった。

 

ズキン、と。

痛みの直後、世界から音が消えた。

さっきまで耳元で弾んでいたうたとこころの楽しそうな声が、分厚いガラスの向こう側のように曇って遠くなる。代わりに、自分の心臓が軋む、耳障りな鼓動だけが頭の中に響いていた。

 

(…ああ、そっか)

 

昨夜、私を部屋に入れなかったのは。

今朝、あんなに素っ気なかったのは。

 

(疲れてたんじゃなくて。考え事があったんじゃなくて)

 

(…あの人が、いたからなんだ)

 

ななは、その場に縫い付けられたように、一歩も動けなくなっていた。

 

「それでね、そのクレープ屋さんの新しい味、今度は絶対食べようね!」

「はい! ぜひ!」

 

うたとこころが、そんな他愛のない約束を交わしている間、なながふと立ち止まったことに、二人はすぐに気がついた。

 

「ななちゃーん? どうしたの、テニス?」

 

うたが、ななの視線の先にある大学のテニスコートを見て、屈託なく尋ねる。こころも「あ、もしかして、なな先輩のお兄さんがいらっしゃるとか…」と続けた。以前うたとこころがななの家にお邪魔したとき、兄が自分はテニスサークルに入っていると、自己紹介で言っていた気がしたのを、こころは覚えていた。

 

だから、二人は、ななが嬉しそうに「お兄ちゃん!」と手を振るものだと、そう思っていた。

 

しかし。

次の瞬間、二人は息を呑んだ。

 

ななの顔から、すっと血の気が引いていくのが、横からでも分かったのだ。さっきまで、楽しそうに笑っていたはずの横顔が、まるで氷のように凍り付いている。その瞳は、何か信じられないものでも見たかのように、大きく見開かれていた。

 

「え、ななちゃん!?」

 

異変に気づいたうたが、慌ててその肩を揺する。

 

「どうしたの、急に! 顔、真っ青だよ!」

「なな先輩…!?」

 

こころも、ななの顔を心配そうに覗き込む。だが、ななは二人の声がまるで聞こえていないかのように、ただ一点を、テニスコートの方を、茫然と見つめ続けていた。

 

うたとこころは、何が起こったのか分からず、ただ顔を見合わせる。いったい、あそこになにがあるというのか。二人の目には、楽しそうにテニスをする、大勢の大学生の姿しか映っていなかった。

 

うたがどれだけ肩を揺すっても、こころがどれだけ名前を呼んでも、ななは、まるで耳が聞こえていないかのように、ぴくりとも反応しなかった。ただ、血の気の引いた顔で、虚ろな瞳をテニスコートに向けているだけ。

 

そのあまりに普通ではない様子に、うたとこころは、ごくりと喉を鳴らした。

 

「ダメだ、埒が明かない…!」

 

最初に動いたのは、うただった。彼女は、このままななを一人で家に帰すことなど、到底できないと判断する。

 

「こころちゃん、ななちゃんをウチのお店に連れてくよ! このままじゃ危ない!」

「はい! それがいいです、うた先輩!」

 

こころも、即座に同意する。

うたは、ななの右腕をぐっと掴んだ。こころは、ななが落としそうになっていた買い物袋を代わりに持つと、そっと左側からその体を支える。

 

「ななちゃん、行くよ!」

 

ななは、まるで魂の抜けた人形のようで、ただうたに導かれるままだった。自分の足で歩いてはいるものの、その歩みには一切の意思が感じられない。うたとこころは、そんな彼女を両側から挟むようにして、来た道をとにかく引き返し始めた。

 

カランコロンと、喫茶グリッターのドアベルが重く響いた。

 

「母さん、ごめん! ちょっと色々あって! ななちゃん、2階で休ませるから!」

 

うたは母親に説明する時間も惜しんで、ななを支えながら、店の脇にある階段へと急ぐ。

再びうたの部屋。

ドアが閉められ、ようやく三人だけの空間になった。うたとこころは、ななをベッドにそっと座らせると、どうしたものかと、途方に暮れた顔で、互いを見つめ合った。

 

うたの部屋のベッドに、力なく座り込むなな。その顔色は、まだ青白いままだ。うたとこころは、少し離れた場所で、どう切り出すべきか、ひそひそと声を潜めていた。

 

「…ねえ、こころちゃん。いったい、何があったんだろう…」

「私にも、さっぱり…。あそこには、なな先輩のお兄さんがいただけのように見えましたけど…」

 

こころは記憶を探るように、先ほどの光景を思い返す。

ななの視線の先にいたのは、以前、一度だけななの家にお邪魔した時に、とても優しく温かく迎え入れてくれた、あの素敵なお兄さんだった。確かに、いた気がする。

 

ななは、兄のことをほとんど自分から話さないが、ななの家に行った時の様子を思い返せば、ななが兄のことを慕っていたのは、誰の目から見ても明らかだった。

 

そんな、大好きな兄の姿を見て、どうして、こんなことになってしまうのか。うたとこころには、全く理由が分からなかった。

 

しばらくの沈黙の後、うたが意を決したように、ななの隣にそっと腰を下ろした。

 

「…ななちゃん」

 

うたは、できるだけ優しい声で、慎重に言葉を選ぶ。

 

「さっき、テニスコートで何があったの? もし、話したくなかったら、無理にとは言わないけど…。でも、私たちすごく心配なんだ」

 

うたの言葉に、こころもこくりと頷き、ななの顔を覗き込む。

 

「はい、なな先輩。私たち、なな先輩の力になりたいんです」

 

二人の真剣な眼差しを受けて、ななの虚ろだった瞳が、ほんの少しだけ、揺れた。

 

うたとこころの、心配そうな声が、霧がかっていたななの意識を、少しずつ現実へと引き戻していく。ここは、うたちゃんの部屋。さっき、テニスコートを見て、それで…。

 

(言えるわけがない…)

 

ななは、唇を固く結んだ。

 

普段、兄と一緒にお風呂に入っていることも。

たまに、同じベッドで眠っていることも。

 

それが自分たちの「普通」だったけれど、世間一般の「普通」とは、かけ離れている。その知識だけは、ななにもあった。自分たちの関係は、ただ、特別に仲が良いだけの、ごく一般的な兄妹の範囲に収まっているのだと、そう信じようとしてきた。

 

だが、最近の自分の気持ちは、明らかにその枠を超えかかっているのではないか。

兄を独占したいと願う、醜い気持ち。その自覚が、ここ数日のななを苛んでいた。

 

そして、今日の、あの光景。

兄が、自分の知らない女性に向けていた、あの優しい笑顔。

あれは、ななが抱いていた恐ろしい予感が、現実になった瞬間だった。

 

何を、どう話せばいい? どこからが話していいことで、どこからが絶対に知られてはいけない、自分たちだけの秘密なのか。

 

今のななには、その判断すらまともにつかなかった。気軽に口を開けるような状況ではない。

だけど、目の前では、大切な友人二人が、自分のせいで心を痛めている。

 

これ以上心配を掛けたくない。

その気持ちとは裏腹に、ななの口は、まるで縫い付けられたかのように重く、開かなかった。

 

ななの、何かを言いたくても言葉が出てこない、という苦しそうな表情。その瞳に浮かぶ混乱と、助けを求めるような色。

うたとこころはその様子から、彼女が今、自分たちには到底理解できない、複雑な感情の迷路に迷い込んでしまっていることを、直感的に読み取っていた。

 

(話せないんだ…)

うたとこころは、無言のまま視線を交わす。

(話したくないんじゃなくて、話したくても、言葉にならないんだ)

 

次の瞬間、二人はほとんど同時に動いていた。

 

うたが、ななの右側から。こころが、ななの左側から。

まるで壊れやすい宝物を包み込むように、二人はななの体をそっと優しく抱きしめた。

 

「ななちゃん」

 

うたが、ななの耳元で囁く。

 

「大丈夫だよ。今は、無理に話さなくていいから」

「そうです、なな先輩」

 

こころも、ななの背中に自分の頬を寄せながら続ける。

 

「私たちは、いつだってなな先輩の味方です」

 

何が原因でなながこれほどまでに傷ついているのか、二人には見当もつかない。だから、気の利いた言葉も的確なアドバイスも、何一つ思いつかなかった。

言えるのは、「大丈夫」とか「味方だよ」とか、そんなありきたりな言葉だけ。

 

だが、ななに元気になってほしい、その一心だけは紛れもない本物だった。

 

二人の温もりに包まれたことで、張り詰めていたななの心と体の力が、ふっと抜ける。ななは友人たちの腕の中で、再び声を殺して、静かに涙を流し始めた。それは、先ほどの孤独な涙とは違う、温かい、感謝の涙だった。

 

友人たちの温かい腕の中で、ななはしばらくの間、静かに涙を流し続けた。それは、心の奥に溜まっていたどろりとした感情を、少しずつ洗い流してくれるような、浄化の涙だった。

 

やがて、しゃくりあげる声も落ち着き、ななはゆっくりと二人から体を離した。

 

「…ごめんね。もう大丈夫」

 

まだ少しだけ目は赤いけれど、その表情には先ほどまでの虚ろな色はなく、か細いながらも確かな意志の光が戻っていた。

 

うたとこころは、安堵したように顔を見合わせる。

ななは、一度深呼吸をした。そして、頭の中で必死に言葉を探し始める。

 

話せることと、絶対に話せないこと。

二人をこれ以上心配させないための、言葉の選び方。

 

「あのね…」

 

ななは、ぽつり、ぽつりと、慎重に語り始めた。

 

「さっき、コートにお兄ちゃんがいたの。…それで、その…お兄ちゃんが、知らない女の人と、すごく、楽しそうに話してて…」

 

そこまで言うと、ななは一度、言葉を切る。一番核心の部分は、ぼかさなければならない。

 

「最近、お兄ちゃん、なんだかすごく疲れてるみたいで、元気もなくて。家のことも、勉強のことも、全部一人で背負って、大変なんだろうなって、心配してたの。…だから、その、私以外の人の前で、あんなに楽しそうにしてるのを見たら、なんだか、ちょっとだけ…ショック受けちゃったみたい」

 

それは嘘ではなかったが、すべてを語ったわけでもなかった。

自分の醜い独占欲や、兄妹という枠を超えかかっている感情は、巧妙に隠されている。これは、ななが友人たちとの関係を壊さないために、必死で紡ぎ出した精一杯の「真実」だった。

 

なながようやく絞り出すように語ってくれた言葉。

うたとこころは、まず、彼女が口を開いてくれたことそのものに、心の底から安堵していた。

 

「そっか…ななちゃん、お兄さんのこと、すごく心配してたんだね」

「はい…なな先輩の、お兄さんを思うお気持ち、とてもよく分かります」

 

二人は、ななの言葉を、まずは真正面から受け止める。相槌を打ち、その気持ちに寄り添った。

 

だが、その内心は、全く別のところにあった。

うたとこころは、ななに気づかれないように、そっと視線を交わす。

 

(…それだけ、なのかな?)

うたは、直感的にそう感じていた。

(それだけで、あんな魂が抜けちゃったみたいになる…? ただのヤキモチとか、兄妹ゲンカとか、そういうのとは絶対に違う。あの時のななちゃん、まるで世界の終わりみたいな顔をしてた。もっと、何か、すっごく大変なことが、ななちゃんの身に起きてるんじゃ…)

 

(…なな先輩の説明は、とても筋が通っているように聞こえます)

こころは、より冷静に、分析していた。

(でも、まるで何か、もっと大きな本当のことを隠すために、必死に組み立てた物語のようにも聞こえました。私たちには言えないような、深刻な何かが、お兄さんとの間に…?)

 

ななが語ったのは、一見すればどこにでもある仲の良い兄妹の、些細なすれ違いの話だ。

だが、それだけの理由で人が、あれほどまでに壊れたような表情になるだろうか。

 

二人の脳裏には、血の気を失いただ茫然と立ち尽くしていた、先ほどのななの姿が焼き付いていた。あの様子は、それほどまでに異常だったのだ。

家庭の事情? ご両親のこと? それとも、お兄さん自身の問題…?

 

あらゆる可能性が、二人の頭の中を駆け巡る。

だが、これ以上、今のななを追及することが、彼女をさらに苦しめるだけだということだけは、痛いほど分かっていた。

 

「そっかそっか…」

うたは、あえて、底抜けに明るい声を出した。

 

「話してくれて、ありがとね! よーし、じゃあ、もう暗くなってきたし、私たちがななちゃんを家まで送ってくよ!」

 

「はい、それがいいです!」

 

こころも、にこりと微笑む。

今はただ、友人としてそばにいること。それが自分たちにできる、唯一で最善のことだと、二人は言葉を交わさずとも理解していた。

 

ななの家の前まで送っていく2人。

 

「じゃあね、ななちゃん、また明日!」と、できるだけ明るく手を振る。ななは、まだ少しだけ元気のない笑顔だったが、「うん、二人とも、ありがとう」と返して、家の中へと入っていった。

 

パタン、とドアが閉まる。

その音を聞き届けた瞬間、うたとこころはそれまで貼り付けていた笑顔をすっと消し、真剣な顔で、無言のまま、互いを見つめ合った。

 

 

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