翌朝。
いつもの時間に、いつものように食卓に向かい合った二人。しかし、そこにいつもの温かい空気はなかった。
テーブルに並ぶのはトーストと、トマトやレタスの彩りが寂しげなサラダだけだった。二人の間に会話は一切ない。
昨日、あれほど幸せな音色を奏でていたはずのダイニングには、カチャリと食器が触れ合う乾いた音と、気まずい沈黙だけが重く漂っていた。
ななは、心ここにあらずといった様子で、ほとんど進まないトーストの端をフォークでちまちまとつついていた。時折、兄の顔を窺うが、兄はただ目の前の皿の一点を見つめるばかりで、決して彼女と目を合わせようとはしなかった。
(お兄ちゃん、怒ってる…?)
(私が夜中に部屋に行ったから…?)
(でも、どうして…)
ななの頭の中を、答えの出ない疑問がぐるぐると回る。何かを尋ねたいのに、昨夜の、あの静かな拒絶を思い出すと、喉が詰まって声が出なかった。
凪もまた、地獄のような時間を耐え抜いていた。
俯きがちな妹の悲しそうな気配を肌で感じながら、彼はただひたすらに耐えていた。今すぐ、すべてを投げ出して、ななを抱きしめ、「ごめん」と謝ってしまいたい衝動。それを、鋼のような意志で押さえつける。
(…これが、第一歩だ)
彼女の未来のために。この、胸が張り裂けそうなほどの痛みに、今は耐えなければならない。
やがて、どちらからともなく、ほとんど食事に手もつけないまま、二人はぽつりと「ごちそうさま」と呟いた。その声が重なることはなかった。
気まずい沈黙が支配した朝食の後、ななは逃げるように家を出ていった。
「…いってきます」
そう呟いた声は、いつもよりずっと小さく力がない。兄は「ああ、いってらっしゃい」と返すのが精一杯で、その背中を見送ることすらできなかった。
パタン、とドアが閉まる。
一人きりになった家の中、凪はまるで亡霊のように自室へと戻った。
罪悪感を、ななの自立を願う「決意」で塗り固め、凪は重い腰を上げた。
彼が所属しているテニスサークル。純粋にテニスが好きで入ったのだが、ここ最近はななを優先するあまり、全く顔を出せていなかった。
(…あそこなら)
大学のテニスサークル。その響きには汗と友情だけでなく、どこか華やかで男女の出会いの場という側面も確かにある。そういうことを目指すのであれば、これ以上ないほど打って付けの場所だろう。
凪は睨みつけていたパソコンの電源を落とすと、クローゼットの奥から久しぶりにラケットバッグを引っ張り出した。着慣れたスポーツウェアに袖を通し、玄関のドアを開ける。
夏の終わりの物憂げな日差しが、凪の背中に重く影を落としていた。
これから自分が向かう場所が、ななを救うための、希望の場所なのか。それとも、自分自身を、さらなる欺瞞の沼へと沈める、絶望の入り口なのか。
その答えは、まだ、誰にも分からなかった。
◇ ◇ ◇
ラケットバッグを肩に、兄が大学のテニスコートに姿を現すと、何人かの仲間がすぐに気づいて駆け寄ってきた。
「お、ナギ! 久しぶりじゃん! 生きてたかー!」
「ナギくん、来てくれたんだ! 嬉しい!」
口々に、しかし、誰もが温かく彼の久しぶりの参加を歓迎してくれた。凪は「ああ、すまない。少し家の用事が立て込んでいて」とだけ返し軽く頭を下げる。
すぐに練習が始まった。夕暮れのオレンジ色の光がコートを柔らかく染め、土の匂いがほのかに漂う中、軽いアップの後、同期の男子とゲーム形式の練習に移る。しばらくラケットを握っていなかったとは思えないほど、兄の体は動いた。鋭いサーブが相手のコートに突き刺さり、正確なストロークがライン際をかすめた。テニスに集中している間だけは、頭の中のどろりとした思考を、ほんの少しだけ忘れることができた。
ゲームが終わり、ネット際で相手と握手を交わす。ベンチに戻ってペットボトルのお茶を一口飲んだ、その時だった。
「お疲れ様です、凪さん」
声をかけてきたのは、同期のせつ菜だった。
「久しぶりなのに、すごいキレでしたね。少し、見入ってしまいました」
彼女は、落ち着いた丁寧な言葉遣いで、凪のプレイを称賛した。容姿端麗という言葉が、これほど似合う女性を凪は他に知らない。彼氏がいないのが、サークル内の七不思議の一つと言われるほどの女性だ。
「いや、そんなことはない。最後はバテてしまったよ。せつ菜さんこそ、いつも熱心だな」
「好きなので」
せつ菜は、その言葉を口にした瞬間ふっと表情を輝かせた。
「好きなことには、つい夢中になってしまうんです。だから、今日の凪さんのサーブ、本当に参考になりました。安定しているのに、あの威力…。すごいです!」
好きなものを語る時だけに見せる、情熱的な一面。そのギャップが、彼女の魅力を一層際立たせていた。そして、彼女はすっと普段の落ち着いた表情に戻ると、続けた。
「もし、ご迷惑でなければ、後で少しだけ、コツを教えていただけませんか?」
真面目で、努力家。揺るぎない情熱と、それを実現させるための行動力。まさに、彼女そのもののような申し出だった。
凪は、一瞬だけ逡巡した。だが、すぐに今日ここへ来た目的を思い出す。
「…ああ。俺でよければ、もちろん」
彼はそう言って、穏やかに微笑んでみせた。
サークルの全体練習が終わり、何人かが帰り支度を始める中、凪とせつ菜はコートの片隅に残っていた。
夕暮れのオレンジ色の光がコートを温かく照らし、土の匂いが汗と混じって鼻をつく。
「トスが、ほんの少しだけ、体の後ろに流れています。もう少しだけ、前へ」
「はいっ」
凪のアドバイスは的確で無駄がなかった。せつ菜は、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しで頷き、一球一球フォームを確かめるようにサーブを打つ。
数球繰り返した後、それまでとは明らかに違う乾いた快音がコートに響いた。せつ菜が放ったボールは、鋭い角度でサービスボックスの角に突き刺さる。
「…できました! 凪さん、今、すごく良い音が…!」
次の瞬間、それまでの真剣な表情がぱっと花が咲くように、明るい笑顔へと変わった。自分の成長を心の底から喜んでいる、一点の曇りもない笑顔。
凪は、その笑顔から、一瞬、目が離せなくなった。
(…ああ)
この子の笑顔を見ていると、不思議と、家の重たい空気を、自分の心の葛藤を、ほんの少しだけ忘れられるような気がした。
ななを救うため、という独善的な言い訳も。
彼女を作った方がいいのか、という功利的な思考も。
今は、どうでもいい。ただ、目の前でひたむきにボールを追い、自分の好きなことに全力で打ち込むこの女性との時間が、純粋に楽しい。
「…すごいな、せつ菜さんは。吸収が早い」
気づけば、凪も自然な笑みを浮かべていた。それは、ここ数日彼が忘れていた心からの笑顔だった。
◇ ◇ ◇
(一方その頃、ななは3人での買い物の帰り道だった)
今日の買い物は、とても楽しかった。三人でウィンドウショッピングを楽しみ、クレープを分け合って食べる。ななの心は、すっかり軽やかになっていた。
「あ、この道、お兄ちゃんの大学の近くだ」
帰り道、ななが何気なく呟く。その時だった。パン、パン、とテニスボールの弾むリズミカルな音が聞こえてきた。
(テニス…)
ななは、兄がテニスをする姿が好きだった。勉強している時の理知的で静かな表情とは違う、真剣で、躍動感あふれる姿。最近は研究や論文で忙しく、サークルには顔を出せていない、と彼は言っていた。
(お兄ちゃん、いないかな…)
そんな期待を胸に、ななは金網のフェンスの向こう側、オレンジ色に染まり始めたテニスコートへと、ふと目を向けた。
いた。
大勢の学生の中で、一際しなやかなフォームでボールを打ち返す、見慣れた後ろ姿。間違いなく、兄の凪だ。
「お兄ちゃ…」
その姿を見つけられたのが嬉しくて、思わず声を掛けようとした、その時だった。
ななの言葉は、喉の奥で、凍り付いた。
ラリーをしていた兄が、ネットの向こう側にいる相手を見て、ふっと笑ったのだ。
相手は、ななの知らない、綺麗な女の人だった。大人びていてとても素敵な人。
そして、兄が彼女に向けていたのは───柔らかくて、そして、どこか特別な意味が込められているように見える、優しい笑顔だった。
ズキン、と。
痛みの直後、世界から音が消えた。
さっきまで耳元で弾んでいたうたとこころの楽しそうな声が、分厚いガラスの向こう側のように曇って遠くなる。代わりに、自分の心臓が軋む、耳障りな鼓動だけが頭の中に響いていた。
(…ああ、そっか)
昨夜、私を部屋に入れなかったのは。
今朝、あんなに素っ気なかったのは。
(疲れてたんじゃなくて。考え事があったんじゃなくて)
(…あの人が、いたからなんだ)
ななは、その場に縫い付けられたように、一歩も動けなくなっていた。
「それでね、そのクレープ屋さんの新しい味、今度は絶対食べようね!」
「はい! ぜひ!」
うたとこころが、そんな他愛のない約束を交わしている間、なながふと立ち止まったことに、二人はすぐに気がついた。
「ななちゃーん? どうしたの、テニス?」
うたが、ななの視線の先にある大学のテニスコートを見て、屈託なく尋ねる。こころも「あ、もしかして、なな先輩のお兄さんがいらっしゃるとか…」と続けた。以前うたとこころがななの家にお邪魔したとき、兄が自分はテニスサークルに入っていると、自己紹介で言っていた気がしたのを、こころは覚えていた。
だから、二人は、ななが嬉しそうに「お兄ちゃん!」と手を振るものだと、そう思っていた。
しかし。
次の瞬間、二人は息を呑んだ。
ななの顔から、すっと血の気が引いていくのが、横からでも分かったのだ。さっきまで、楽しそうに笑っていたはずの横顔が、まるで氷のように凍り付いている。その瞳は、何か信じられないものでも見たかのように、大きく見開かれていた。
「え、ななちゃん!?」
異変に気づいたうたが、慌ててその肩を揺する。
「どうしたの、急に! 顔、真っ青だよ!」
「なな先輩…!?」
こころも、ななの顔を心配そうに覗き込む。だが、ななは二人の声がまるで聞こえていないかのように、ただ一点を、テニスコートの方を、茫然と見つめ続けていた。
うたとこころは、何が起こったのか分からず、ただ顔を見合わせる。いったい、あそこになにがあるというのか。二人の目には、楽しそうにテニスをする、大勢の大学生の姿しか映っていなかった。
うたがどれだけ肩を揺すっても、こころがどれだけ名前を呼んでも、ななは、まるで耳が聞こえていないかのように、ぴくりとも反応しなかった。ただ、血の気の引いた顔で、虚ろな瞳をテニスコートに向けているだけ。
そのあまりに普通ではない様子に、うたとこころは、ごくりと喉を鳴らした。
「ダメだ、埒が明かない…!」
最初に動いたのは、うただった。彼女は、このままななを一人で家に帰すことなど、到底できないと判断する。
「こころちゃん、ななちゃんをウチのお店に連れてくよ! このままじゃ危ない!」
「はい! それがいいです、うた先輩!」
こころも、即座に同意する。
うたは、ななの右腕をぐっと掴んだ。こころは、ななが落としそうになっていた買い物袋を代わりに持つと、そっと左側からその体を支える。
「ななちゃん、行くよ!」
ななは、まるで魂の抜けた人形のようで、ただうたに導かれるままだった。自分の足で歩いてはいるものの、その歩みには一切の意思が感じられない。うたとこころは、そんな彼女を両側から挟むようにして、来た道をとにかく引き返し始めた。
カランコロンと、喫茶グリッターのドアベルが重く響いた。
「母さん、ごめん! ちょっと色々あって! ななちゃん、2階で休ませるから!」
うたは母親に説明する時間も惜しんで、ななを支えながら、店の脇にある階段へと急ぐ。
再びうたの部屋。
ドアが閉められ、ようやく三人だけの空間になった。うたとこころは、ななをベッドにそっと座らせると、どうしたものかと、途方に暮れた顔で、互いを見つめ合った。
うたの部屋のベッドに、力なく座り込むなな。その顔色は、まだ青白いままだ。うたとこころは、少し離れた場所で、どう切り出すべきか、ひそひそと声を潜めていた。
「…ねえ、こころちゃん。いったい、何があったんだろう…」
「私にも、さっぱり…。あそこには、なな先輩のお兄さんがいただけのように見えましたけど…」
こころは記憶を探るように、先ほどの光景を思い返す。
ななの視線の先にいたのは、以前、一度だけななの家にお邪魔した時に、とても優しく温かく迎え入れてくれた、あの素敵なお兄さんだった。確かに、いた気がする。
ななは、兄のことをほとんど自分から話さないが、ななの家に行った時の様子を思い返せば、ななが兄のことを慕っていたのは、誰の目から見ても明らかだった。
そんな、大好きな兄の姿を見て、どうして、こんなことになってしまうのか。うたとこころには、全く理由が分からなかった。
しばらくの沈黙の後、うたが意を決したように、ななの隣にそっと腰を下ろした。
「…ななちゃん」
うたは、できるだけ優しい声で、慎重に言葉を選ぶ。
「さっき、テニスコートで何があったの? もし、話したくなかったら、無理にとは言わないけど…。でも、私たちすごく心配なんだ」
うたの言葉に、こころもこくりと頷き、ななの顔を覗き込む。
「はい、なな先輩。私たち、なな先輩の力になりたいんです」
二人の真剣な眼差しを受けて、ななの虚ろだった瞳が、ほんの少しだけ、揺れた。
うたとこころの、心配そうな声が、霧がかっていたななの意識を、少しずつ現実へと引き戻していく。ここは、うたちゃんの部屋。さっき、テニスコートを見て、それで…。
(言えるわけがない…)
ななは、唇を固く結んだ。
普段、兄と一緒にお風呂に入っていることも。
たまに、同じベッドで眠っていることも。
それが自分たちの「普通」だったけれど、世間一般の「普通」とは、かけ離れている。その知識だけは、ななにもあった。自分たちの関係は、ただ、特別に仲が良いだけの、ごく一般的な兄妹の範囲に収まっているのだと、そう信じようとしてきた。
だが、最近の自分の気持ちは、明らかにその枠を超えかかっているのではないか。
兄を独占したいと願う、醜い気持ち。その自覚が、ここ数日のななを苛んでいた。
そして、今日の、あの光景。
兄が、自分の知らない女性に向けていた、あの優しい笑顔。
あれは、ななが抱いていた恐ろしい予感が、現実になった瞬間だった。
何を、どう話せばいい? どこからが話していいことで、どこからが絶対に知られてはいけない、自分たちだけの秘密なのか。
今のななには、その判断すらまともにつかなかった。気軽に口を開けるような状況ではない。
だけど、目の前では、大切な友人二人が、自分のせいで心を痛めている。
これ以上心配を掛けたくない。
その気持ちとは裏腹に、ななの口は、まるで縫い付けられたかのように重く、開かなかった。
ななの、何かを言いたくても言葉が出てこない、という苦しそうな表情。その瞳に浮かぶ混乱と、助けを求めるような色。
うたとこころはその様子から、彼女が今、自分たちには到底理解できない、複雑な感情の迷路に迷い込んでしまっていることを、直感的に読み取っていた。
(話せないんだ…)
うたとこころは、無言のまま視線を交わす。
(話したくないんじゃなくて、話したくても、言葉にならないんだ)
次の瞬間、二人はほとんど同時に動いていた。
うたが、ななの右側から。こころが、ななの左側から。
まるで壊れやすい宝物を包み込むように、二人はななの体をそっと優しく抱きしめた。
「ななちゃん」
うたが、ななの耳元で囁く。
「大丈夫だよ。今は、無理に話さなくていいから」
「そうです、なな先輩」
こころも、ななの背中に自分の頬を寄せながら続ける。
「私たちは、いつだってなな先輩の味方です」
何が原因でなながこれほどまでに傷ついているのか、二人には見当もつかない。だから、気の利いた言葉も的確なアドバイスも、何一つ思いつかなかった。
言えるのは、「大丈夫」とか「味方だよ」とか、そんなありきたりな言葉だけ。
だが、ななに元気になってほしい、その一心だけは紛れもない本物だった。
二人の温もりに包まれたことで、張り詰めていたななの心と体の力が、ふっと抜ける。ななは友人たちの腕の中で、再び声を殺して、静かに涙を流し始めた。それは、先ほどの孤独な涙とは違う、温かい、感謝の涙だった。
友人たちの温かい腕の中で、ななはしばらくの間、静かに涙を流し続けた。それは、心の奥に溜まっていたどろりとした感情を、少しずつ洗い流してくれるような、浄化の涙だった。
やがて、しゃくりあげる声も落ち着き、ななはゆっくりと二人から体を離した。
「…ごめんね。もう大丈夫」
まだ少しだけ目は赤いけれど、その表情には先ほどまでの虚ろな色はなく、か細いながらも確かな意志の光が戻っていた。
うたとこころは、安堵したように顔を見合わせる。
ななは、一度深呼吸をした。そして、頭の中で必死に言葉を探し始める。
話せることと、絶対に話せないこと。
二人をこれ以上心配させないための、言葉の選び方。
「あのね…」
ななは、ぽつり、ぽつりと、慎重に語り始めた。
「さっき、コートにお兄ちゃんがいたの。…それで、その…お兄ちゃんが、知らない女の人と、すごく、楽しそうに話してて…」
そこまで言うと、ななは一度、言葉を切る。一番核心の部分は、ぼかさなければならない。
「最近、お兄ちゃん、なんだかすごく疲れてるみたいで、元気もなくて。家のことも、勉強のことも、全部一人で背負って、大変なんだろうなって、心配してたの。…だから、その、私以外の人の前で、あんなに楽しそうにしてるのを見たら、なんだか、ちょっとだけ…ショック受けちゃったみたい」
それは嘘ではなかったが、すべてを語ったわけでもなかった。
自分の醜い独占欲や、兄妹という枠を超えかかっている感情は、巧妙に隠されている。これは、ななが友人たちとの関係を壊さないために、必死で紡ぎ出した精一杯の「真実」だった。
なながようやく絞り出すように語ってくれた言葉。
うたとこころは、まず、彼女が口を開いてくれたことそのものに、心の底から安堵していた。
「そっか…ななちゃん、お兄さんのこと、すごく心配してたんだね」
「はい…なな先輩の、お兄さんを思うお気持ち、とてもよく分かります」
二人は、ななの言葉を、まずは真正面から受け止める。相槌を打ち、その気持ちに寄り添った。
だが、その内心は、全く別のところにあった。
うたとこころは、ななに気づかれないように、そっと視線を交わす。
(…それだけ、なのかな?)
うたは、直感的にそう感じていた。
(それだけで、あんな魂が抜けちゃったみたいになる…? ただのヤキモチとか、兄妹ゲンカとか、そういうのとは絶対に違う。あの時のななちゃん、まるで世界の終わりみたいな顔をしてた。もっと、何か、すっごく大変なことが、ななちゃんの身に起きてるんじゃ…)
(…なな先輩の説明は、とても筋が通っているように聞こえます)
こころは、より冷静に、分析していた。
(でも、まるで何か、もっと大きな本当のことを隠すために、必死に組み立てた物語のようにも聞こえました。私たちには言えないような、深刻な何かが、お兄さんとの間に…?)
ななが語ったのは、一見すればどこにでもある仲の良い兄妹の、些細なすれ違いの話だ。
だが、それだけの理由で人が、あれほどまでに壊れたような表情になるだろうか。
二人の脳裏には、血の気を失いただ茫然と立ち尽くしていた、先ほどのななの姿が焼き付いていた。あの様子は、それほどまでに異常だったのだ。
家庭の事情? ご両親のこと? それとも、お兄さん自身の問題…?
あらゆる可能性が、二人の頭の中を駆け巡る。
だが、これ以上、今のななを追及することが、彼女をさらに苦しめるだけだということだけは、痛いほど分かっていた。
「そっかそっか…」
うたは、あえて、底抜けに明るい声を出した。
「話してくれて、ありがとね! よーし、じゃあ、もう暗くなってきたし、私たちがななちゃんを家まで送ってくよ!」
「はい、それがいいです!」
こころも、にこりと微笑む。
今はただ、友人としてそばにいること。それが自分たちにできる、唯一で最善のことだと、二人は言葉を交わさずとも理解していた。
ななの家の前まで送っていく2人。
「じゃあね、ななちゃん、また明日!」と、できるだけ明るく手を振る。ななは、まだ少しだけ元気のない笑顔だったが、「うん、二人とも、ありがとう」と返して、家の中へと入っていった。
パタン、とドアが閉まる。
その音を聞き届けた瞬間、うたとこころはそれまで貼り付けていた笑顔をすっと消し、真剣な顔で、無言のまま、互いを見つめ合った。