幼い日の約束   作:mairu_i

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4日目 - 中編 決意と影の気配

言葉は必要なかった。

二人の心は、完全に一つだった。

 

うたが、こくりと頷く。こころも、それに力強く頷き返す。

二人は踵を返し、今来たばかりの道を足早に引き返し始めた。目指す場所は一つしかない。

 

カランコロンと、喫茶グリッターのドアベルが三度目に重く響いた。

 

「あら、二人とも、また戻って…」

カウンターから顔を出したうたの母親が言い終わる前に、うたは「母さん、ちょっと部屋で大事な話してくる!」とだけ告げ、こころと共に再び二階への階段を駆け上がっていった。

 

うたの部屋のドアが閉まり、外の世界から遮られた静寂が広がった。窓辺には夕闇に染まるカーテンが揺れていた。

 

うたは、ベッドにどさりと腰を下ろし、こころは、その向かい側に真剣な表情で正座した。

 

「…やっぱり、おかしいよ」

 

沈黙を破ったのは、うただった。

 

「ななちゃんが話してくれたこと、もちろん嘘じゃないと思う。でも、絶対にそれだけじゃない。もっと、何か私たちが知らないすっごく大変なことが起きてるんだ」

 

「はい」

 

こころも静かに、しかしきっぱりとした口調で同意する。

 

「なな先輩の、あの時の様子…。まるで、世界が崩れ落ちたかのようでした。単なるお兄さんへの心配からくるものでは、決してありませんでした」

 

二人の脳裏に、同じ光景が浮かんでいた。

血の気を失い、魂が抜けたように立ち尽くす、大切な友人の姿。

 

「私たち、ななちゃんのために、何かできることはないのかな…」

 

うたの切実な声が、静かな部屋に響いた。

ななを救いたい。でも、何が彼女を苦しめているのか、その根本的な原因が分からない限り、自分たちは、ただそばにいることしかできない。

 

二人は顔を突き合わせ、大切な仲間を救うための方法を必死に考え始めるのだった。

 

うたの部屋に重い沈黙が流れる。二人はななを救うための糸口を探して、必死に記憶をたぐり寄せていた。

 

「…なな先輩は、こう仰っていました」

 

最初に口を開いたのはこころだった。彼女はななの言葉を、一言一句正確に思い返しながら、静かに口にする。

 

「『最近、お兄ちゃんがすごく疲れているみたいで、心配していた』と。『だから、私以外の人の前で、あんなに楽しそうにしてるのを見たら、ショックを受けちゃったみたい』…って」

 

うたは、その言葉を黙って聞いていた。あの時、ななを安心させたくて、ただ頷くことしかできなかった言葉。

 

「でも、うた先輩…」

 

こころは、続ける。

 

「今、冷静に思い返してみると、そこが少しおかしいと思いませんか?」

「おかしいって、何が?」

 

「もし、本当にお兄さんのことを心配していたのなら、お兄さんが、誰かと楽しそうにしている姿を見たら、むしろ安心するはずです。『ああ、元気そうで良かった』って…。それなのに、なな先輩は、まるで世界の全てを失ったかのような、あんなお顔に…」

 

こころの言葉に、うたはハッとした。そうだ。その通りだ。

 

「そうだよ…!」

 

うたは、思わず身を乗り出して声を上げた。

 

「ただの『ショック』とか、そういうのじゃなかった! あの顔は、嬉しいとか、安心したとか、そういうのが全部吹っ飛んじゃうくらい、もっと、こう…なんていうか、『裏切られた』みたいな…そんな顔だった!」

 

ななの言葉は、一見すると兄を深く思う、優しい妹の健気な言葉に聞こえる。

だが、その言葉とは裏腹に彼女が見せた反応は、激しく絶望的だった。

 

二人は、ようやくその矛盾にたどり着く。

 

うたとこころは押し黙った。ななの言葉と行動。その間に横たわる矛盾。どうすればこの二つが繋がるのか。

 

「…ううん、でもさ」

 

沈黙を破ったのはうただった。彼女は、何かとんでもない可能性に思い至ったかのように、慎重に言葉を紡ぐ。

 

「もし、もしだよ? ななちゃんが、こう思ってたら、どうかな…?」

「…こう、ですか?」

 

「うん。『お兄ちゃんのこと、すごく心配だ』。そして、『そんなお兄ちゃんを元気にできるのは、世界で自分たった一人しかいない』って。…ううん、それだけじゃない。『自分しか、いちゃいけない』って、もしそう思ってたら…」

 

その言葉に、こころは息を呑んだ。

うたの立てた恐ろしい仮説。その点と点が、こころの頭の中で一本の線で繋がっていく。

 

「! …だとしたら…」

こころは、震える声で続けた。

「『お兄さんを元気づけられるのは、自分だけの特権だ』と…。『自分以外の人間が、お兄さんを笑顔にしている姿は、見たくない』…。だから、ショックを受けた…? 話の辻褄が合います…」

 

ななの台詞の前半と後半が、その、あまりにも切実で、独占的な想いを間に挟むことで、完璧に繋がってしまう。

 

二人は再び、言葉を失った。

それはもう、ただの「ヤキモチ」などという可愛らしい言葉で片付けられる感情ではない。兄を想うあまり、その心を独占しようとする、あまりにも切実で、そして危険なほどの依存。

 

確信があるわけではない。ななが本当に、心の底からそう思っているのかは分からない。

だが、あの時の常軌を逸したななの様子を説明できる可能性が、これ以外に果たしてあるだろうか。

 

「ななちゃん…」

うたは、手で口を覆う。

「そんなに、お兄さんのことが…」

 

(それはもう、ただの兄妹の愛情なのでしょうか…。あまりにも切実で、苦しそうで…)

こころは、ぎゅっと自分の膝の上で拳を握りしめた。

 

自分たちが想像していたよりも、ずっと、ずっと深い場所で、なながたった一人、巨大な感情に囚われているという事実。その想像を絶する想いの重さに、二人はただ驚愕するしかなかった。

 

二人を包む、驚愕と沈黙。

ななが抱える想いの、その想像を絶するほどの深さと重さ。その事実に、ただ圧倒されていた。

 

その時、思い出したように、こころが顔を上げた。

 

「…うた先輩。考えてみれば、とても不思議なことがあります」

「不思議なこと?」

 

「はい。なな先輩が、私たちの前で、お兄さんの話題を出されたことって、ほとんどありませんでしたよね…?」

 

その言葉に、うたも目を見開く。

 

「! …言われてみれば、そうだ! ななちゃん、お兄さんの話、全然しない! 私も、こころちゃんと同じ! この間、ななちゃんの家にお邪魔した時に、初めて、『わー、ななちゃんとお兄さん、超仲良し!』って知ったくらいだもん!」

 

そうだ。おかしい。

あれほどまでに兄を想い、その一挙一動に心をかき乱されるほど、ななの世界の中心にいるはずの存在。それなのにななは、普段の会話の中で、兄の存在をまるで隠すかのようにほとんど話題に出したことがなかった。

 

どうして?

どうして、隠す必要がある?

 

その疑問が、一つの恐ろしい仮説へと、二人を一直線に導いてしまった。

 

(もしかして…)

 

うたは、ごくりと喉を鳴らす。

 

(ななちゃん…お兄さんのこと、誰にも話したくないんじゃないかな。お兄さんは、自分だけのものだから。私たちにですら無暗に話すの嫌だったんじゃ…)

 

その衝撃の事実にたどり着いた瞬間、うたとこころは言葉を失い、ただ開いた口が塞がらないまま、呆然と顔を見合わせるしかなかった。

ななの心は、自分たちが思っていたよりも、ずっと、ずっと深い場所で、孤立している。

 

開いた口が塞がらないまま、どれくらいの時間が経っただろうか。窓の外は、すっかり夕闇に染まっている。

 

「…だめだ」

 

最初に、絞り出すような声を出したのは、うただった。

 

「何も、思いつかない…。どうすれば、ななちゃんを助けられるのか、全然、わからないよ…」

 

「はい…」こころも、力なく頷く。「これは、私たちが軽々しく口を出せる問題では、ありません…。なな先輩の、心の一番深い場所の問題ですから…」

 

自分たちにできることは、あまりに無力だった。

時計の針は、もう、とっくに夕食の時間を過ぎている。

 

「…もう、こんな時間か」うたが、ぽつりと呟く。「こころちゃんも、帰らないと」

「…そうですね」

 

こころは静かに立ち上がった。今日のところは、一旦解散するしかない。

 

部屋のドアの前で、こころがうたの方を、そして、うたがこころの方を、同時に強く見つめた。

 

「でも、このままには絶対にしておけない」

 

うたが、決意を込めて言う。

 

「ななちゃん、一人であんな気持ち抱えてるなんて、辛すぎるよ! 私、絶対に、ななちゃんを助けたい!」

 

「はい…!」

 

こころも、その瞳に強い意志の光を宿して、力強く頷いた。

 

「私も、同じ気持ちです! アイドルプリキュアは、みんなのキラキラを守ってきました!。だったら、一番近くにいる仲間のキラキラを、私たちが守らないでどうするんですか!」

 

二人の心は、固く、固く、誓い合っていた。

今はまだ、無力かもしれない。でも、決して諦めない。

大切な友人、蒼風ななを、必ず、その苦しみから助け出すのだと。

 

 

 

(時間は少しだけ遡り、凪の大学のテニスコート)

 

せつ菜とのラリーは、驚くほど楽しかった。

彼女の打つボールには、彼女自身の性格が表れているかのように、一切の迷いがない。その真っ直ぐなボールを、ただ夢中で打ち返す。思考の大部分が、論文とななとので埋め尽くされていたここ数日、凪が心の底から「楽しい」と思えた、唯一の時間だったかもしれない。

 

(サークル、もう少し顔を出す頻度を増やそうかな)

 

そんな前向きな気持ちが、ふと芽生えた、その時だった。

 

ぞくり、と。背筋に氷のような悪寒が走った。

 

楽しいはずのコートの空気が、一瞬にしてどろりとした、粘度の高い何かに変わる。まるで、濃縮された憎悪や絶望、そして身勝手な執着のような黒い感情が、空気を伝わって、直接肌に突き刺さってくるかのようだった。

 

「…っ!」

 

凪は打ち返そうとしていたボールを、思わず空振りする。

 

「凪さん? どうかしましたか?」

 

ネットの向こうで、せつ菜が不思議そうな顔をしている。だが、凪はその声に答える余裕もなかった。

彼はまるで何かに導かれるように、気配のする方へと視線を向けた。コートの外、大学の敷地を囲うフェンスの向こう側だ。

 

だが、そこに特に変わった様子はなかった。

夕暮れのオレンジ色の光に染まる道を、学生や親子連れが穏やかに歩いていた。先ほど感じたあの、刺すような黒い感情の気配は、既に跡形もなく消え去っていた。

 

(…なんだ、今のは…)

 

「いえ、なんでもないです。すみません、続けましょう」

 

凪はせつ菜にそう言って、何事もなかったかのように、ラケットを構え直した。

だが、一度心に落ちた黒い染みは、なかなか消えてはくれなかった。

 

彼はもちろん知る由もない。

先ほどまで自分が視線を向けていたその場所に、絶望に凍り付いた妹が、確かに立っていたということを。そして、自分が感じた悪寒が、その妹が放った、あまりにも深く、そして純粋な、呪いにも似た想いの欠片であったということを。

 

汗の匂いが混じり合うラウンジ。練習を終えた仲間たちが、心地よい疲労感と共に談笑していた。

 

「ナギ、やっぱ強いわー! 全然ブランク感じさせないの、ムカつくなー!」

「家の用事、落ち着いたのか? また来いよな、サボんなよ!」

 

口々に仲間たちが軽口を叩きながらも、彼の帰還を歓迎してくれる。凪は「ああ、また頼む」とだけ返し、穏やかに微笑んだ。あのコートで感じた正体不明の悪寒は、仲間たちのこの温かい喧騒の中では、少しだけ遠のいているように感じられた。

 

タオルで汗を拭いていると、ふと、隣にせつ菜が立った。

 

「凪さん、本当にお疲れ様でした。サーブのこと教えていただいて、ありがとうございました」

「いや、大したことは教えられていないよ」

 

「そんなことありません」せつ菜は、きっぱりと言う。「すごく、勉強になりました。…凪さん、お忙しいと言っていましたけど、何か大変な研究とかをされているんですか?」

 

「まあ、そんなところだ。論文と家のことで、ちょっと忙しくてな」

当たり障りのない、嘘と真実を混ぜ合わせた返答。せつ菜は「そうなんですね。すごいです」と、素直に感心したように頷いた。

 

「せつ菜さんの方は? 夏休み、どこか行ったりするのか?」

 

会話の流れで、凪が問いかける。すると、彼女は少しだけ嬉しそうに表情を綻ばせた。

 

「いえ、私も基本は練習です。でも、今週末、ずっと好きなアーティストのライブに行けることになって! それが、今の一番の楽しみなんです!」

 

好きなものについて語る時の、彼女特有のキラキラした表情。

その屈託のない笑顔を見ていると、凪の心も、ほんの少しだけ軽くなるような気がした。家の重たい空気も、自分を苛む罪悪感も、この瞬間だけは、忘れさせてくれる。

 

彼女との何気ない、穏やかな時間は、凪の心を軽く解きほぐしていった。

 

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