サークルの仲間たちと別れ、凪は一人帰り道を歩いた。藍色に染まった空に一番星が瞬き、涼しい風が彼の疲れた心をそっと撫でた。テニスでかいた汗が、夕暮れの涼しい風に冷やされて心地よい。
その時、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
画面に表示された名前に、凪は少しだけ驚く。『せつ菜』。サークルに入った時に、事務連絡のために全員で交換して以来、個人的なやり取りは一度もなかったはずだ。
メッセージを開くと、そこには彼女らしい丁寧な文章が綴られていた。
『凪さん、今日はお疲れ様でした。サーブの件、本当にありがとうございました。教えていただいたこと、忘れないように練習します!』
その実直な文面に、凪の口元が思わずふっと緩んだ。
そして、彼は気づく。
(…そういえば、俺は…)
せつ菜と話している間、彼女の笑顔を見ている間、すっかり忘れてしまっていた。
ななと距離を取るための道具としてせつ菜を利用する、そんなおぞましい考えは、彼女の笑顔を前に消えていた。ただ、一人の人間として、せつ菜さんとの時間を純粋に楽しんでいただけだ。
(…それが、本来、あるべき姿、なのかもしれないな)
そんなことを考えていると、想像は自然とありえないはずの未来へと飛躍する。
もし、せつ菜さんと恋人関係になったとしたら。
こうして、一緒に帰り道を歩いたり。彼女が好きだと言っていた、アーティストのライブに、二人で行ったり。図書館で隣に座って静かに勉強したりするのだろうか。
そこまで考えて、凪ははっと我に返った。
(…何を考えているんだ俺は)
彼は、かぶりを振って馬鹿げた空想を追い払う。街灯に照らされたショーウィンドウに、自分の姿が映っていた。疲れて、思い詰めた暗い顔。
(ありえない)
陽の光の下で、真っ直ぐに自分の好きなことに打ち込むあのせつ菜さんが、俺のような人間に振り向いてくれるわけがない。
…妹一人幸せにできず、閉ざされた家の中で、自分の心の闇にすら答えを出せずにいる、こんな俺に。
凪はスマートフォンをポケットにしまい込むと、先ほどよりも少しだけ速いペースで、重たい空気が待つ我が家へと足を向けた。
見慣れた我が家の玄関ドア。
凪はポケットから鍵を取り出そうと、その前に立った。せつ菜とのやり取りで、ほんの少しだけ軽くなったはずの心が、家の前に来た途端、またずしりと重くなるのを感じる。
その時だった。
ぞくり、とコートで感じたのと同じ、氷のような悪寒が背筋を駆け上った。
(…この感じは…)
忘れかけていた、あの感覚。
家の中から、まるで黒く淀んだ靄のような負の感情の気配が、ドアの隙間から漏れ出してくるかのような、錯覚。いや、これは錯覚などではない。
凪は鍵を握りしめたまま、その場に凍り付いた。
コートで感じた、あの一瞬の出来事。あれは、気のせいなどではなかった。そして、今この瞬間に感じているこの気配は、間違いなく、この家の中から発せられている。
(なんなんだ…これは…)
凪は、ただ茫然と、固く閉ざされた自宅のドアを見つめていた。
ついさっきまでただの帰宅だったはずだ。それが今やまるで、得体の知れない何かが待ち受ける、敵の巣窟にでも帰還するような、そんな、おぞましい感覚に変わっていた。
玄関のドアノブに手をかける。一歩家に近づくだけで、肌を刺すような悪寒と、心を掻き乱すような気持ち悪さは倍増していく。
(ななが、中にいるのかもしれない…)
確信はなかった。だが彼女の身に、何かあったのかもしれないと。
凪は、意を決して、鍵を回した。何があっても、自分が彼女を守らなければ。
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
扉を開けたその先に待っていたのは、満面の笑みを浮かべたななだった。
一見、いつもの屈託のない笑顔だった。
だが、凪はその裏に隠された、笑っていない心を痛いほど感じ取った。
そして、丹念に見れば、その目のあたりが、うっすらと赤く腫れている。まるで、ついさっきまで、どこかで激しく涙を流していたかのような、痛々しい痕跡。
「…っ」
すぐさま彼女の腕を掴み、何があったのか問い詰め、抱きしめてやる。
昔の自分なら、きっとそうしていただろう。
だが、今の兄の体は、玄関のたたきの上で、凍り付いたように動かなかった。
(干渉、するな)
頭の中で冷たい理性が囁く。
ななの自立を促すのだと、決めたばかりだろう。どこまで妹のプライベートに踏み込んでいいのか。その距離感を正しく保つのではなかったのか。
(でも、ななは明らかに無理をしている…!)
心の奥で、昔の自分が叫ぶ。
目の前の妹は、笑顔という仮面を被って、助けを求めているじゃないか。
(いや、彼女は笑顔だ)
理性が、再び反論する。
(心が笑っていないというのは、兄として、いや保護者としての俺の、過剰な思い込みではないのか?あやふやな根拠で彼女の心に土足で踏み込むのが、果たして正しいことなのか?)
「お兄ちゃん? どうしたの?」
不思議そうに小首を傾げるなな。
凪は、その問いにすぐには答えられなかった。助けたいという本能と、距離を置くべきだという理性との間で、彼の体は完全に動きを止めてしまっていた。
苦悩の末凪が選んだのは、放棄だった。いや、彼自身はそうは思っていない。これは未来のための痛みを伴う治療なのだと、自分に言い聞かせる。
「…いや、なんでもない。少し、ぼーっとしていただけだ」
凪は、まるで自分のものではないかのような、ぎこちない笑顔を顔に貼り付け、そう言ってななの横をすり抜けた。妹の、傷ついたような気配を感じないように、意識して。
「サークルでかいた汗を流してくる」
それだけを告げると、彼は逃げるようにバスルームへと向かった。
一人湯船に浸かりながら、彼の頭の中はななのことだけでいっぱいだった。あの、無理に作った笑顔。泣き腫らした、目の縁。自分が彼女を、どれだけ追い詰めているのか。
(これで、よかったんだろうか…)
胸が張り裂けそうなほどの罪悪感に、沈みそうになる。
だがその時。ふと、脳裏に全く別の光景が蘇った。
オレンジ色の夕日を浴びた、テニスコート。
『できました!』と、一点の曇りもなく、心の底から笑っていた、せつ菜の顔。
屈託のない、計算のない、ただ純粋な笑顔。
ななとの複雑で重すぎる関係性とは対極にある、その軽やかで健康的な時間。
あの楽しい記憶が今、ギリギリのところで凪の心を支えていた。あれが本来あるべき、人と人との正しい距離感なのだ。俺は、間違ってはいない。そう、自分に言い聞かせるための、唯一の支えとなりかけていた。
兄は、じっとバスルームのドアを見つめていた。
いつものなななら、きっとこのドアを開けて入ってくるはずだ。その時、自分はどうすればいいのか。
だが、彼が風呂から上がるまで、そのドアが開かれることは、ついに一度もなかった。
◇ ◇ ◇
夕食の時間。
朝の、あの息が詰まるような沈黙とは打って変わって、食卓には、二人の穏やかな笑い声が響いていた。
「それでね、うたちゃんが、また変な歌を歌い出して…」
「はは、そうか。相変わらずだな、うたちゃんは」
「そうなの。こころちゃんと二人で、もう、大変だったんだから」
「お疲れさま、なな」
ななは、今日あった友人たちとの出来事を楽しそうに話す。兄は、それに優しく相槌を打つ。
傍から見れば、それはどこにでもある、とても仲の良い、いつもの兄妹の姿だった。
だが、その完璧な日常の風景の下で、二人の心の中は、普段とはかけ離れた場所にいた。
(笑ってなきゃ。いつも通りの、物分りのいい妹でいなきゃ、お兄ちゃんは、また私から離れていっちゃう…)
ななの心臓は、恐怖で張り裂けそうだった。
兄の隣にいた、あの綺麗な女の人は誰? なぜ、私に見せたことのない、あんな顔をしていたの? なぜ昨夜、私を拒絶したの?
聞きたいことは、山ほどある。だがそれを口にした瞬間、いつもの「日常」がガラスのように粉々に砕け散ってしまうような気がして、ななは必死に笑顔の仮面を被り続けていた。兄への強い独占欲と、彼に捨てられることへの恐怖。その複雑な思いが、彼女の中で渦を巻いている。
(…これでいい。これが、正しい距離感なんだ)
凪もまた、完璧な「優しい兄」を演じ続けていた。
ななの笑顔を見るたびに、その裏に隠された悲しみを感じ取り、胸が締め付けられる。今すぐ、すべてを投げ出して、彼女を抱きしめ、慰めてやりたい衝動に駆られる。
だが、彼はその本能を、冷たい理性で押さえつけていた。今自分が彼女に与えるべきは、甘い慰めではない。彼女が自立するための、厳しい距離なのだと。
「お兄ちゃん、これ、美味しいね」
「そうか? 良かった」
完璧な笑顔と、完璧な会話。
その裏側で、二人はそれぞれ全く別の想いを抱えながら、ただ静かに、目の前の食事を胃の中へと流し込んでいくのだった。
食卓にかろうじて保たれていた、偽りの平穏。それは、ななの何気ない一言によって、唐突に崩れ去ることになる。
「お兄ちゃんは、今日サークルどうだったの? 久しぶりだったんでしょ?」
いたって普通の、妹らしい問いかけ。凪は演じている「優しい兄」の役割に徹するため、当たり障りのない返答を、口にした、はずだった。
「ああ、久しぶりだったが楽しかったよ。体を動かすのは、やっぱりいいな。同期の…せつ菜さんにも、サーブのコツを教えてほしいと頼まれて。彼女、すごく熱心なんだ」
その名前を、口にした、瞬間だった。
ぞくり、と。
全身の血が凍るような、今日一番の悪寒が背骨を駆け抜けた。コートで感じたものや、家の前で感じたものとは、比べ物にならない。吐き気を催すほどの、純粋な、負の感情の奔流。
「…っ!」
凪は思わず息を呑み、目の前のななを見た。
なにか、反応があるはずだ。こんな、異常な気配がしたのだから。
だが。
ななの表情は、ぴくりとも変わらなかった
完璧な、普段通りの屈託のない笑顔のまま、ただにこにこと兄を見つめている。
(なんだ…? 今のは…? ななは、普通に笑っている…。俺の、気のせいか…?)
凪が混乱の極みにいると、ななは完璧な笑顔のまま、楽しそうに言った。
「へぇ、そうなんだ。お兄ちゃん、教えるの上手だもんね」
その、あまりに普段通りで、穏やかな声。
それが、凪には何よりも、恐ろしかった。
目の前で微笑む妹と、自分の体を突き抜けていった、あの憎悪にも似た感情の奔流。乖離した二つの事実の間で、凪はただ冷や汗を流すことしかできなかった。
あの強烈な悪寒は、ひとまず過ぎ去った。
凪は神経をすり減らしながら、なんとか会話を続ける。ななも、兄の内心には気づかぬまま、笑顔を返す。表面上はどこまでも完璧な、楽しい兄妹の夕食の時間は、そうして過ぎていった。
食後、二人はまるで申し合わせたかのように、それぞれの部屋へと引き上げる。
ドア一枚を隔てた空間。その距離が、今はひどく遠いものに感じられた。
(…そろそろ、いつもの時間か)
壁の時計に目をやり、凪は思う。
ななの、宿題の時間だ。
夏休みの課題はもう大方終わらせたが、彼女は自分の実力を試すかのように、必須ではない追加の応用課題にも手を出すと、そう言っていた。
いつもなら。
今頃ななは、その難しい問題集を抱えて、自分の部屋のドアをノックしてくるはずだった。そして自分の隣に座り、「お兄ちゃん、ここ分からない」と、頼ってきてくれるはずだった。
だが。
待てど暮らせど、あの控えめなノックの音は、聞こえてこない。
その頃、ななもまた自室の机で、応用問題集を開いたまま固まっていた。
分からない問題がある。兄に聞けば、きっとすぐに解決するだろう。
でも、聞けない。
今日の兄の、あのよそよそしい態度。夕食の時に感じた、目に見えない壁。
今部屋を訪ねていっても、昨夜のようにまた、静かに拒絶されてしまうのではないか。
その恐怖が、ななの足を鉛のように重くしていた。
いつもなら、二人の笑い声と、鉛筆の音が響いているはずの時間。
その時間は、重たい沈黙だけを乗せて、ただ静かに過ぎていくのだった。
壁の時計の秒針が、カチ、カチ、とやけに大きな音を立てて時を刻んでいく。
待てど暮らせど、ななは来ない。
いつもの時間だったはずの、兄妹だけの勉強会は、今日初めて、その約束を破られた。いや、違う。約束などしていなかった。いつの間にか、それが当たり前になっていただけだ。
(…呼びに行くべきか?)
凪の脳裏に、一瞬、その考えが過る。
だが、すぐに別の理性がそれを押しとどめた。なながやろうとしていたのは、必須ではない応用課題だ。やらなくても、誰にも怒られるわけではない。それを、わざわざ兄である自分が「手伝うぞ」と部屋まで呼びに行くのは、果たして正しいことなのだろうか。
今までの距離が近すぎたのだ。
どこからが兄としての純粋な心配で、どこからが彼女の自立を妨げる「過度な干渉」に当たるのか。今の凪には、その境界線が全く分からなくなっていた。
何をするのも、何もしないのも、どちらも間違っているような気がして、彼はただ身動きが取れずにいた。
その、息が詰まるような思考のループから彼を救い出したのは、机の隅で控えめに光るスマートフォンの通知ランプだった。
(…そういえば)
せつ菜さんに返信していなかった。
サークルの後彼女からもらった、あの実直で温かいメッセージ。
凪はまるで救命ブイにでも手を伸ばすかのように、スマートフォンを手に取った。この重く淀んだ気分を、少しでも変えたかった。
トーク画面を開き、指を滑らせる。
『こちらこそ、ありがとう。せつ菜さんは吸収が早いから、すぐに上達すると思う。またいつでも聞いてくれ』
送信ボタンを押すと、ほんの少しだけ、胸のつかえが取れたような気がした。
家の外の世界との、正常で何の問題もない、シンプルなやり取り。それが今は、ひどく、貴重なものに思えた。
送信ボタンを押してスマートフォンを机に置こうとした、まさにその瞬間だった。
ブブッ、と、間髪入れずに、画面が再び明るくなる。
『本当ですか!? 嬉しいです! 兄さんにそう言ってもらえると、すごく自信になります! またぜひお願いします!』
(早いな…)
その、驚くほどの返信の速さに、凪は思わず、そう呟いていた。
(もしかして、俺のメッセージに通知でも入れてくれているのだろうか…)
そんな考えが頭を過り、先ほどまで返信をしていなかった自分に、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
だが、その感傷よりも、純粋な人とのやり取りの温かさが、今は彼の心を占めていた。
凪は少しだけ浮き立った気持ちで、指を滑らせる。
『そういえば、さっきライブに行くと言っていたな。どんなアーティストなんだ?』
送信すると、またすぐに返事が来た。
『えっ、聞いてくれるんですか!? 私が好きなのは、『Starlight Anthem』っていうインディーズのロックバンドで、ボーカルの人の声がすごく綺麗で、歌詞も真っ直ぐで…!』
画面の向こう側の、彼女の熱量が伝わってくるような、生き生きとした文章。
凪はそのメッセージを読みながら、ふっと、口元が緩んでいることに気づいた。
家の重たい空気も、このたわいもないやり取りをしている間だけは、忘れられる。
凪は久しぶりに感じるその軽やかな心地よさに、しばらくの間だけ身を委ねることにした。
せつ菜との他愛のない、心地よいやり取りを終える頃、時計の針は深夜を指していた。
『ライブ、楽しんでくれ』
『おやすみ』
そう短いメッセージを送り、凪はスマートフォンを机に置く。すると途端に、家のあの重たい静寂が、彼の肩にのしかかってくるようだった。
(…来る、だろうか)
凪は固く閉ざされた自室のドアを、じっと見つめた。
今夜もななが、昨夜のようにあのドアをノックしてくるかもしれない。
その時、自分はまた彼女を拒絶しなければならない。
今度は、もっと心を鬼にして。これが彼女のためなのだと、自分に言い聞かせて。
そう凪は覚悟を決め、ひたすらにその瞬間を待っていた。
だが、待てど暮らせど、あの控えめなノックの音は聞こえてこない。
時計の秒針だけが無慈悲に時を刻んでいく。
やがて凪は悟った。
ななは、もう来ないのだと。
あのノックの音は、ななが自分を頼り、信頼し甘えてくれていることの証だった。その音が聞こえなくなった今、この家には、自分が望んだはずの、ひどく冷たい静寂だけが残されていた。
それは、耐え難いほどの寂しさだった。
当たり前のようにすぐそばにあった温もりが、そこにはもうない。
この静寂は、自分が望んだ、正しい「距離」の始まりに過ぎない。
凪は電気を消すと一人、冷たいベッドに体を滑り込ませた。
広い空っぽの空間で、凪は目を閉じられず、ただ暗闇を見つめていた。
◇ ◇ ◇
ななもまた、自室の机の前で、固まっていた。
目の前には、兄に手伝ってもらおうと思っていた、数学の応用課題集が開かれている。だがその難解な数式は、今の彼女の目には、意味のない記号の羅列にしか映らなかった。
(…行けない)
行けるはずがなかった。
夕食の時のあの、よそよそしい兄の姿。決してこちらと目を合わせようとしない、どこか遠くを見ていたあの瞳。
今、兄の部屋のドアをノックして、昨夜のようにまた、冷たく拒絶されてしまったら。
今の自分にはもう、その衝撃に耐えられる自信がなかった。
もちろん、一緒に寝るために部屋に行く、などという選択肢は、もはや頭の片隅にも浮かんでこなかった。
(どうして…?)
(あの、女の人は、誰…?)
(お兄ちゃんは、私のこと、嫌いになったの…?)
次から次へと湧き上がってくる黒い感情。
兄を疑う気持ち。兄の隣にいた見知らぬ女性への嫉妬。そして、兄に捨てられてしまうかもしれないという根本的な恐怖。
醜くて苦しい自分の本当の気持ちと、ななはまともに向き合うことができなかった。そんなことを考えれば、また心が張り裂けてしまいそうだったから。
ななは、バタンと問題集を叩き閉じた。
そして電気を消すと、逃げ込むように、自分のベッドへと潜り込む。
もう、何も考えたくない。
ななは、ぎゅっと固く目を瞑った。だが、眠気は一向に訪れてはくれなかった。