食卓には、昨日と同じ完璧な「日常」が再現されていた。
トーストの焦げる香りが漂う中、二人の声だけが穏やかに響いた。
「おはよう、お兄ちゃん」
「ああ、おはよう、なな」
昨日の夕食と何一つ変わらない。ななは学校の友人たちの楽しそうな話題を口にし、兄はそれに穏やかな相槌を返す。
食器が触れ合う音も、二人の間に流れる会話のリズムも、傍から見れば完璧に調和していた。
だが、凪の内面では、昨日とは明らかに違う変化が起きていた。
昨夜は鋭く感じ取ることができた、ななの笑顔の裏に潜む、ほんの僅かな翳り。完璧な演技の中に、一瞬だけ混じる、目の奥の揺らぎ。
それが、今朝の彼には、まるで一枚の厚いすりガラスを通して見るかのように、ぼんやりと曖昧にしか、認識できなくなってきていた。
一晩中彼女のことを考え、悩み、苦しみ続けたせいだろうか。彼の心は疲れすぎていた。これ以上、妹の痛みを敏感に感じ取ってしまえば、自分が壊れてしまう。彼の心は無意識のうちに、自己防衛のシャッターを下ろし始めていた。
(…この方が、いいのかもしれない)
凪はななの話を聞きながら、ぼんやりとそう考えていた。
当たり障りのない会話。
当たり障りのない笑顔。
深く互いの心に踏み込まず、傷つけ合わないこの距離感。
これが、もしかしたら自分たちが目指すべき、「健全で、正しい兄妹」の姿なのかもしれない。
その思考が危険な自己欺瞞であることに、今の彼は気づくことができなかった。
「お兄ちゃん」
トーストを一口かじった後、ななが何気ない口調で尋ねた。
「今日もサークル、行くの?」
その問いに悪意などひとかけらも感じられない。ただ純粋な妹としての興味。
兄は、昨日決めた「なな以外の世界を持つ」という自分の行動計画を思い出し、努めて正直に答えた。
「ああ、そのつもりだ。今日も練習があるからな」
なな以外の世界。なな以外の人間関係。そのキーワードに反応したかのように、ズンッ、と。
腹の底を氷の杭で突き上げられたような悪寒が走った。
昨日、夕食の席で感じたものと同じ。いや、それ以上の、明確な敵意と憎悪の塊。
「なんなんだ…本当に…っ」
凪は思わず低い呻き声を漏らし、テーブルの下で固く拳を握りしめた。
目の前のななを見る。
彼女は先ほどと何一つ変わらない。きょとんとした顔で、ただ兄の返事を待っているだけだ。
(違う…ななじゃない…)
(なながこんな感情を俺に向けるはずがない…)
(これは俺のただの疲労からくる、幻覚なんだ…)
兄は必死に自分にそう言い聞せる。だが、体中にまとわりつくこのおぞましいまでの負の感情の残滓は、彼の理性をじわじわと、しかし、確実に蝕んでいくようだった。
ななの心配そうな声。
その言葉が、まるでスイッチだったかのようだった。
話題が変わった瞬間、すっと霧が晴れるように、凪の体を苛んでいたあのおぞましい感覚が、綺麗に消え去った。
「…いや、大丈夫だ。少し考え事をしていただけだ」
兄は何事もなかったかのようにそう取り繕う。
その後は、天気の話やテレビのニュースの話など、当たり障りのない他愛のない会話だけが食卓の上を滑っていった。
やがて、朝食を終える。
兄は決意した通りサークルへ向かうための準備を始めた。玄関でラケットバッグを肩にかける。
「ななは、今日も友人たちと会うのか?」
「ううん」
ななは静かに首を横に振った。
「今日は、家にいる。少しやりたい勉強もあるし…」
その言葉に、兄の心にほんの少しだけ、安堵の気持ちが芽生えた。
(そうか…。一人で自分の時間を見つけようとしているんだな)
自分が距離を置いたことで、彼女が早速自立への一歩を踏み出そうとしている。そう都合よく解釈したかった。
「そうか。分かった。じゃあいってくる」
「…うん。いってらっしゃい、お兄ちゃん」
兄は妹の表情を、もう深くは読み取ろうとはしなかった。
彼は逃げるように、玄関のドアを閉める。
一人残されたななは、兄の背中が消えたリビングでソファに力なく座り込んだ。部屋には朝の静寂が重く漂い、ピアノの鍵盤に薄い埃が光っていた。
勉強なんて本当はどうでもよかった。
ただ今日は誰にも会いたくなかった。そして兄がいないこの家を、自分以外の誰もいないこの空間を守らなければならない。
そんな漠然とした強迫観念にも似た思いに、ななは一人囚われていた。
◇ ◇ ◇
その頃、喫茶グリッターの二階、うたの部屋に、二人の少女が集結していた。
その言葉は大げさかもしれないが、これから始まる作戦の重みを考えれば、決して的外れではなかった。
「ななちゃん、結局今日は家から出ないみたい…」
ベッドに座ったうたが、スマートフォンの画面を見ながら、ぽつりと呟く。ななとの短いメッセージのやり取りを終えたところだった。
「はい…」
向かいの椅子に座るこころも、憂鬱そうに頷く。
「昨日の朝から、ずっとご様子がおかしいです。私たちが知らないところで、何かが、どんどん悪い方向へ進んでいるような気がして…」
二人の脳裏には、昨日、無理に笑顔を作っていた、大切な友人の姿が焼き付いていた。
「このまま放っておくことなんて、絶対にできない!」
うたは決意を固めると、パン、と自分の膝を叩いた。
「よし! これより、第一回、緊急作戦会議を始めます!」
そのいつになく真剣な声に、こころもごくりと喉を鳴らし姿勢を正す。
部屋の空気が、ピンと張り詰めた。
当然、議題はたった一つ。
「───蒼風ななを、私たちの力で絶対に救い出す!」
うたの宣言と共に、部屋の空気は「友達の部屋」から、「作戦司令室」へと変わった。窓から差し込む茜色の光が、彼女たちの決意を照らしていた。
「よし、じゃあまずは今私たちが分かってることを、ちゃんと整理しよう!」
うたが、ホワイトボード代わりの大きなスケッチブックと、マジックペンを手に取る。こころも真剣な表情で頷いた。
「はい、それがいいです。感情的になる前に、まずは客観的な事実の確認を」
うたは、スケッチブックの一番上に『ななちゃんのこと』と力強く書き込んだ。
「まず、昨日ななちゃんの様子がおかしくなったのは、テニスコートで、お兄さんが知らない女の人と、すごく楽しそうに話してるのを見たのがキッカケ」
うたが一つ目の事実を書き込む。
「はい。そしてなな先輩は、その理由を、『お兄さんのことを心配していたのに、自分以外の人の前で楽しそうにしているのを見て、ショックを受けたから』と、説明されました」
こころが冷静に補足する。うたはそれも箇条書きで書き足していった。
「でも、私たちはその説明に、違和感を覚えた…」
「はい。なな先輩のあの時のご様子は、単なるショックというレベルを、はるかに超えていましたから」
「そして、私たちは一つの『仮説』にたどり着いた。『ななちゃんは、お兄さんを元気づけられるのは、自分しかいない、いてはならない、と思っているのではないか』ってこと」
「その仮説に立つと、なな先輩の、一見矛盾した言動が、全て繋がってしまいます…」
「そしてもう一つ。ななちゃんは、私たちの前でお兄さんの話を、今までほとんどしたことがなかった。それは、お兄さんを『自分だけのもの』だと思っているからではないか、って…」
スケッチブックの上には、箇条書きにされたいくつかの「事実」と、そこから導き出された衝撃的な「仮説」が並んでいた。
二人は、改めてその文字をじっと見つめる。
こうして整理してみると、事態の異常さが、よりくっきりと浮かび上がってくるようだった。
スケッチブックに書き出された、冷たい事実と衝撃的な仮説。
うたとこころは、改めてその文字の羅列を眺めていた。
「…信じられない。あの、いつも優しくて、穏やかなななちゃんが…こんな、苦しい気持ちを、一人で…」
うたの声が震える。普段の明るく元気な彼女からは、想像もできないようなか細い声だった。
「はい…。嘘であってほしい、と、私も思います。ですが、私たちが見てきた事実と、一致しすぎています…」
こころも、唇を噛み締める。
普段のあの優しくて、知的で、少しだけ大人びて見えたなな。その彼女からは、想像もできないほどの、激しい想い。
この仮説が大きく外れているということは、おそらくないだろう。
二人はその重い事実を認めざるを得なかった。
「…根本的な解決は、とても難しいと思います」
こころが静かに切り出す。
「これは、なな先輩とお兄さんの、私たちが知らない、長年の関係性の問題です。私たちが、軽々しく、その中心に触れるべきではありません」
「じゃあ、どうするの!? このままじゃ、ななちゃん、どんどん辛くなるだけだよ!」
「はい。ですから、まずは私たちにできる小さなことから始めましょう。いわば、対処療法です」
こころは、うたの目を真っ直ぐに見つめた。
「なな先輩が心を痛める原因。それを、少しでも減らしてあげるんです」
「心を痛める原因…」うたは、こころの言葉を反芻する。「…そっか! とにかく、ななちゃんを、一人にしないことだ!」
うたの目に、いつもの輝きが少しだけ戻る。
「私たちと一緒にいれば、お兄さんのことを考えちゃう時間も、少しは減るでしょ! 明日も、明後日も、夏休みの間、ずーっと一緒にいるの!」
「はい、それが一番です」
こころも、力強く頷く。
「そして、私たちと一緒にいる時は、できるだけ楽しい気持ちになれるように、なな先輩の好きな場所に連れて行ってあげたり、好きなものの話をしたりするのは、どうでしょうか」
「いいね、それ! ななちゃん、可愛い雑貨屋さん好きだもんね!」
ひとまずやるべきことが見えてきた。
根本的な対策は後回しだ。今はただ、傷ついている友人、ななの心をこれ以上痛ませないように。自分たちの友情で、彼女を優しく包み込んであげるのだ。
二人の間には、再び固い決意が生まれていた。
友人としての大切なミッションだった。
「ななちゃんを一人にしない」「楽しいことで気を紛らわしてあげる」。
対処療法は決まった。だが、二人の表情は、まだ晴れない。
「でも、うた先輩…」
こころが、不安げに切り出す。
「いずれは、根本的な原因…なな先輩のお兄さんへの、あのお気持ちと向き合わなければ、本当の解決には…」
「…うん。わかってる」
うたも、腕を組んで、難しい顔をする。
「でもどうやって?ななちゃんに直接 『ななちゃん、お兄さんのこと好きすぎるよ!』なんて言えるわけないし! そんなことしたら、ななちゃんもっと傷ついちゃう!」
「かと言って、お兄さんの方に私たちが何かを言うなんて、それこそお門違いですし…」
ああでもない、こうでもない。
思考を巡らせれば巡らせるほど、ななと兄との間に横たわる問題が、巨大で、繊細で、自分たちの手には負えないものだという結論しか出てこない。
「…やはり、私たちには何もできないのかもしれません…。見守ることしか…」
こころが諦めかけたようにそう呟いた、その時だった。
「ヤダ!!」
バンッ! と、うたが勢いよく机を叩いて立ち上がった。その瞳には悔し涙すら浮かんでいる。
「『見守る』だけなんて、絶対にヤダ! 何もしないで、ななちゃんが、一人で苦しんでるのを見てるだけなんて、そんなの友達じゃない! 」
「う、うた先輩…?」
突然の、そのあまりの気迫に、こころが圧倒される。うたは決意を固めた目で、こころをぐっと指さした。
「こうなったら…行くよ、こころちゃん!」
「え!? い、行くって、どちらへ…?」
うたは、窓の外、茜色に染まった西の空を睨みつけながら、叫んだ。
「決まってるでしょ! すべてが始まったあの場所! あの、テニスコートだよ!」
「えええええっ!?」
こころの素っ頓狂な声が、部屋に響き渡った。
「い、今からですか!? テニスコートって…うた先輩のお兄さんが通われている、あの大学の…!? でも、行ってどうするんですか!?」
だが、そんなこころの至極もっともな疑問に、うたは耳を貸す暇すら与えてくれなかった。
「うだうだ考えてたって何も始まんない! 百聞は一見にしかず! 敵を知り己を知れば、百戦危うからず! とにかく現場に行くの!」
うたは、訳の分からないことわざを叫びながら、弾丸のように外出の支度を始めた。スマートフォンと財布を小さなポシェットに突っ込むと、もう玄関へと向かっていた。
「ちょ、ちょっと待ってください、うた先輩!」
こころは慌てて、その後を追いかける。
何をするのか全く分からない。何の計画も勝算もない。
でも、うたのあの、本気の目。そして、「友達を絶対に助けるんだ」という、揺るぎない情熱。
それが、こころの冷静な思考を麻痺させていた。
こころはうたの情熱に押され、気づけば喫茶グリッターの階段を駆け下りていた。
理屈じゃない。
今はこの、破天荒なリーダーの直感に賭けてみるしかないのだ。