Paradise Lost - ストリップ・リクライシス   作:添牙いろは

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最悪のファースト・インプレッション

 新歌舞伎町の片隅にひっそりと佇むライブハウス『ノクターン』。表向きは音楽ライブのための小さな空間にすぎないが、その中では、これまでの常識を覆す新たなパフォーマンスが静かに胎動を始めていた。

「何も言えず~うつむく夜に~♪」

 ステージでは、三人の若い女性がボーカルを務めながら踊り、照明とスモークの演出のもと、まるでアイドル・ライブのような盛り上がりを見せている。だが――ワンコーラスを終えたところで――彼女たちは各々自分の上着に手をかけ始めた。それはいわゆる衣装替え――とも異なる。何故なら、その内側から現れたのは新たな衣装というより、インナーそのもの。

 右の女性は黒のシンプルなブラトップ。やや光沢のある素材が、ライトに照らされて微かに輝く。フリルなどの装飾はなく、潔いシルエットが彼女の引き締まった体型を際立たせていた。

 左の女性は、白のスポーツブラに似たデザイン。サイドには薄いパッドが入っているが、決して盛るようなものではない。肩紐には小さなリボンがあしらわれており、さりげない可愛らしさが滲んでいる。

 中央の彼女のブラは淡いベージュのコットン素材で、縁には細かなレースがあしらわれていた。胸元に小さなリボンがひとつだけ飾られ、控えめでありながらも可憐さを感じさせる。

 三者三様のインナー――その素朴な下着が、ステージの光の中で浮かび上がり、かえって生々しい日常感を漂わせていた。

 そして、二度目のサビをこなし、大サビに向かうところで、それさえも――

「揺れて、揺れて、世界が霞んで♪」

 ここまでくると、もう取り繕いようも、隠しようもない。余すところなく肌のすべてに光を当てながら――高まる歓声、飛び交うスポットライト、胸の奥まで貫くような重い音響――そんな光り輝くステージに裸の女性が三人――そのステップは、恥じらいを感じさせないほど自然――だからこそ、まるで合成写真かのような非日常感――その姿は、いわゆる旧来のストリップとは異なる。彼女たちのパフォーマンスは、『ストリップ・ライブ』と呼ばれ、観客の間では『ストリップ・アイドル』という新たな存在として受け入れられていた。これは、二十一世紀末の『自己責任社会』の極みに生まれた、ひとつの文化的帰結ともいえる。

 その中でも一際存在感を放つのが、 霧島(きりしま) 紅葉(もみじ)――アイドル・ネーム『(かえで)』――もとはダンサーを志していた彼女は、いつしかこの過激な表現の舞台に身を投じることとなった。人前で裸になることに、いまでも恥じらいはある。迷いもあった。しかし――ただ脱ぐだけでなく、ただ踊るだけでもなく、ただ歌うだけでもなく――それらを、カメラを通すことなく、観客たちの眼前で披露する――初めてそのライブを目の当たりにしたとき、楓はあらゆる芸術の集合体をそこに見出した。彼女自身さえ忘れていたダンスの道を志したキッカケ――アイドルへの憧れ――ストリップ・ライブはそれをさらに昇華させたステージだと確信し、こうして光の中に立っている。

 きっと、男たちは胸だの下腹部だの、そういうところしか見ていないのだろう。だとしても、楓の内には表現したい姿がある。歌を奏で、音楽の渦に身を任せながら、裸となって表現する美しさ――自分の体型が完成されているなどとは思っていない。それでも、たとえ理想に及ばなくとも、できることはできる。手を伸ばすこともできる。そして、未完成がゆえの表現も。それを追求したい――そう思えたとき――彼女は『ダンサー』から『ストリップ・アイドル』へと転身した。

 普段の楓はレストランのウェイトレスとして働いている。しかし、ステージに立つときは、ただの従業員ではない。髪をまとめる紅葉の形をした真っ赤な髪留めだけは、他のすべてを脱いでも決して外さない。それは、彼女にとっての『アイドルとしての証明』だった。

 その両隣に立つのは、同じユニットの仲間、あやのと 美春(みはる)――

 左側に立つあやのは、健康的に引き締まった身体を持つスポーツインストラクター。普段はおどおどしており、気弱な印象を受けるが、磨き上げた筋肉を見せることに関してはむしろ積極的で、自慢の身体を存分に披露することに躊躇がない。一方、その逆サイドの美春は、すっきりしたショートボブに、変わらない仏頂面。理由は男嫌いだから――という、非常に分かりやすいもの。それでもこの仕事を続けているのは――きっと、何か理由があるのだろう。が、本人が語らない以上、周囲が深入りすることはない。そういった後ろ暗い過去を持つ者たちが集まるのが、この新歌舞伎町という街なのである。

 さて、その夜のライブも、納得のいく仕上がりだった――と、楓は思う。良くも悪くも――という意味で。プロのステージで踊るこの時間は、かつて夢にまで見た光景だった。ダンスには自信がある。センターとしての役割も、ダンスの腕を買われてのことだ。しかし、歌については基礎からして未熟な自覚があり、それが彼女の中に焦燥感をもたらしていた。これからは、ただ踊って脱ぐだけではなく、『歌いながら脱ぐ』ことのできる、本物のストリップ・アイドルにならなければならない――彼女はその覚悟をもって臨んでいた。

 

 ライブハウス『ノクターン』の前オーナーは、資金を横領しようとした末に消息を絶ち、いまもその行方は知れない。新たなオーナーが運営資金の提供を決めたと聞いてはいるが、未だ姿を現していない。その間、経営の実務を担っているのは踊り娘たちのリーダー――リリザ・シャトレという女性であった。黒く艶やかな長い髪を持つ、和風の顔立ちをした女性だが、何故か外国人のようなフルネームを名乗っている。物腰は穏やかながら、どこか掴みどころがない、と楓は感じていた。しかし、リリザは誰よりもこのライブハウスを愛しており、この場所を守るためならば、時折人が変わったように狂気じみた冷徹さを見せることもある。それが、楓には少し怖かった。

「楓さん、あやのさん、美春さん、お疲れ様です」

 控室にリリザが現れ、柔らかく微笑む。

「お疲れ様です。あのぉ……リリザさんは、出演……されないんですか?」

 控えめに、あやのが訊ねる。

「ありがたいことに、お店のほうが忙しくて……調整も不足してますし」

 リリザは困ったように笑みを浮かべる。

「早く新しい責任者に来てもらいたいのですが」

 それを聞いて、楓は小さく呟く。

「……私は、リリザさんのほうが安心ですけど」

「あら、私はステージに出るなということですか?」

 リリザは冗談めかした口調で微笑む。楓もまた曖昧に笑って合わせていたが、内心はちょっとだけ本気だった。リリザには申し訳ないが――楓は、前オーナーとの一件が未だに尾を引いている。裏切り、そして暴力――それ以来、楓の中にある『管理する立場の人間』に対して根深い不信感が消えることはない。

 それでも――リリザにも舞台に立ってもらいたい、というのは紛れもなく楓の本音である。正直なところ、ダンスのスキルは『中の下』――自他ともにダンスに対しては厳しい楓が『中』と評価している時点で、それは一定の誉め言葉ではあるのだが。その一方で、リリザの歌唱力は明らかに卓越している。かつて寸劇を披露していた際には場慣れした演技力を見せていたところからも、そもそも発声からして違うのだろう。そのボーカルとしての資質と洗練されたステージ・パフォーマンス――楓は、密かにその『正体』を疑っていた。その『正体』とは――伝説のストリップ・アイドル・ユニット『TRK26』の元メンバーなのではないかと。

『TRK26』――かつて新歌舞伎町を席巻し――<ある事件>をきっかけにユニットは離散し、その姿を消したといわれている。その去り際は徹底されており、ネットの情報はもちろん、同じ街の住人ですら口を割らない。これは、箝口令が敷かれているというより――下手に知ってしまうと、自分にも火の粉がかかりかねない――誰もがあえて距離をおいた結果であり、それほどの力が働いたことの証左でもある。

<ある事件>については未だ何ひとつわかっておらず、現在の楓たちに降りかからない保証はない。それでも、いまさら引き返すこともできない。何故ならば――ストリップ・ライブは、楓にとって唯一無二の表現になっているのだから。

 ゆえに、リリザに対して追求することはない。本当は、TRK26のメンバーだったのではないかと。もしそうだと知ってしまったら――リリザ本人だけでなく、楓自身にも良くないことが起こるかもしれない。リリザはリリザ――ライブハウス・ノクターンのストリップ・アイドルのリーダー――誰もが、それ以上踏み込むことはなかった。

 だからこそ、リリザもまた、自ら正体を明かすことなく、ひとりの踊り娘として振舞っている。ただし、この事務仕事の量は、踊り娘としての本分に支障をきたしているようだが。

 ゆえに。

「まあ、次の店長は話のわかる人ですよ」

 早くきちんとレッスンに集中できる日常に戻りたいのだろう。

 しかし。

「店長?」

 ここで楓は首を傾げた。

「オーナーではなく?」

 いなくなったのはオーナーなのだが。

「新しいオーナーさんは、お忙しい方でして。ライブハウスでお仕事をしている暇はないかと」

 どうやら、これまではオーナー兼店長という役職だったらしい。リリザの説明に、楓は軽く肩をすくめてみせる。

「私も、そのくらい忙しくアイドルとしての仕事をしたいものですね」

 ファミレスのウェイトレスと兼任している楓だが、やはり理想は専業アイドルだ。

「それはいずれ」

 リリザはさらりと返しながらも、目の奥には何かを含んでいる。それは、楓もまた感じていた。いまはまだ、あくまで様子見――<あの事件>の元凶に目をつけられないよう、しばらくは慎重に立ち回るべき時期なのだろう。

「私たちは、新たなオーナーや店長の期待に応えるべく、ステージに出るだけです」

「……そうですね」

 答えつつも、楓の表情には、言葉とは裏腹な不安が滲んでいた。我々は何を期待されているのか――その全貌が見えないからこそ、疑念が消えない。かつてのオーナーのように、集めた女のコを風俗に売ろうとする下郎がまたやってくるのでは――そんな危機感を、どうしても抱いてしまう。前オーナーの暴挙は所属するすべての踊り娘が目撃しているため、あやのや美春も少し離れながらも聞き耳を立てているようだ。

 そんなみんなの不信感を汲み取ったのか、リリザは目を伏せて穏やかに諭す。

「……そう警戒しないでください。少なくとも、女性の方ですよ」

 それを聞いて、美春が無言のまま踵を返し、着替え始めた。表情は相変わらず読み取りにくいが――男嫌いであるため、同性というだけで少しは安心できたようだ。美春ほどではないが、あやのも――あのような暴力沙汰はないだろう、と安堵する。

 ただ、会ってみなければわからない、というのが楓の本心だった。ある日突然、仕事をクビに――嫌というほど繰り返されてきた仕打ちに、楓の中から懐疑心が消えることはない。だからこそ、リリザはエールを送る。

「楓さんにも、ダンスチーフとして協力してもらうこともあると思いますよ」

「……はい」

 かつて、踊ることだけで存在意義を証明できていた。しかしいまは違う。センターという立場は、ダンスだけでは維持できない。少なくとも、リリザには歌で圧倒的に劣る。いま、楓がセンターを務められているのは、あくまでリリザが裏方に追われているからに他ならない。新しい店長が来て、レッスンの時間を取れるようになったら――

 ゆえに――一日も早く歌唱力を身につけなければならない。その向上心を常に強く持っていた。

 そして、あやのもそれに続く。

「わっ、私も…… 筋トレ(ジム)ばっかりでなく、ライブも頑張らなきゃ……」

 そんな宣言に、リリザは優しく微笑みで返した。

「ふふっ、ありがとうございます」

 一見穏やかないつもの口調だが――その視線はどこか白々しい。それで――社交辞令だな、と楓は察する。様々な就活で見送られ、雇用先から解雇され――その経験から、上司からの言動一致に、楓は人一倍敏感だった。あやのは元々体育の授業が苦手で、その反動から身体を鍛え始めたが――筋肉だけ身についてもセンスやリズム感まで備わることはなく、少なくともダンスチーフの選考や、センター争いに食い込めるような実力はない。リリザが協力を求めるのは、限られた“戦力”だけ――そして、おそらく、そこには何か()()()()()()がある。その気配に――楓は少し胸が高鳴った。いずれにせよ、自分は選ばれたのである。これまで、あらゆるオーディションで落ち続けてきた自分が、ここでは選ばれた――その事実が、楓の中でたしかな拠り所となっていた。

 

 リリザとの会話を終え、控室で私服に着替えながら、楓は何気なくスマートフォンを確認する。

「……うん?」

 目に飛び込んできたメッセージに、思わず眉をひそめた。差出人は、かつてのバイト先――コンビニの店長である。

 楓は、以前そのコンビニで夜勤スタッフとして働いていた。が、深夜営業が廃止されたのを機に辞め、そのまま新歌舞伎町へ移り住んでいる。いまでは、ファミリーレストラン『ファメリア』の社宅で暮らしながら、正社員として勤める日々だ。ありがたいことに、管理職になるまでは家賃の大部分が免除されることになっている。だからこそ楓は、できるだけ平社員でいようと目論んでいた。余計な責任など要らない。舞台と生活、最低限の安定――それだけ得られれば充分だ。

 コンビニ勤務のことなど、もうずっと昔のことのように思える。そんな店長から、いまさら何の用だろう――と訝しみながら本文を開くと、そこには写真付きでこう書かれていた。

『この鏡、霧島さんのじゃないですか?』

「あっ」

 小さく声が漏れる。思い出した。その卓上鏡は――たしかに、以前の職場で使っていたものである。ライブハウスの控室には大きな鏡があるので、なくしたことにさえ気づいていなかった。

 ワンコインで買えるようなもので、よくある量産品である。しかし。

『必要ないなら、こっちで処分しておくけど』

『いえ、明日、取りに行きます』

 それなりに長く使っていたため、愛着がないこともない。だが、それ以上に――もったいない。まだ使えるのだから。いまは、正社員とストリップ・アイドルの二足の草鞋のおかげで多少は潤っている。それでもやはり、これまでの貧乏暮らしが抜けていない。

 と、いうことで。

 かつての職場は新歌舞伎町から自転車を飛ばして小一時間――かつては毎日のように通っていた道のりだが、久々に長距離のペダルを漕ぐことになるのは、正直気が重い。それでも、バスや地下鉄を使う、という選択肢は自然と湧かない。それが、霧島紅葉の生き方なのである。

 

 まだ二十四時間営業を続けてくれていれば、連絡をもらってすぐにでも行けたのだが――いまから向かっても、とっくに閉店していることだろう。それでも楓の頭に電車という文字はない。

 楓はいまも夜型である。ライブハウスが空いている午前中はレッスンのために使わせてもらい、そのあと夕方まで就寝する。ゆえに、コンビニに向かうのは、連絡をもらった翌日の日暮れ頃となった。

 楓は錆びついたチェーンに油を差して、サドルにまたがる。頬を撫でる春先の夜風はひんやりと冷たく、星がちらほらと瞬き始めていた。街灯の明かりが道路脇に揺れる桜の影を映し出し、その薄紅色が闇に溶け込んでいく。楓は広い車道の端を慎重に進みながら、かつての通勤路を懐かしむように、そして面倒くさそうに、ペダルを踏み続けた。

 やがて、見慣れた外観のコンビニが視界に入る。入口のガラス戸も、壁のポスターも――そこに映る景色は、まるで時間が止まったかのように変わっていなかった。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

 楓はレジカウンターの向こうのバイトと挨拶を交わすが、ふたりの間に面識はない。そもそも、楓は深夜勤務担当だ。他の時間帯にどんな人が勤務しているかなど知る由もない。それでも、『私は関係者ですよ』という態度で堂々と――顔パスですらない、世にも杜撰な“関係者認証”である。

 ただ――バイトがすんなり通してくれたのは、店長自身が出勤していたからかもしれない。懐かしささえ感じるバックオフィスに顔を出すと、そのデスクには見覚えのある中年男性が座っていた。が、一瞥するだけで、特に親しい会話もない。

「鏡、そっちの机に置いといたから」

「ありがとうございます」

 コンビニともなれば、従業員も流動的なのだろう。一人ひとりに大した情もないらしい。楓は小さな私物を鞄にしまうと、そのまま退店することにした。

 楓にとって、この地は懐かしさというより生活の苦しさの記憶のほうが強い。温かな感慨深さもなく、早々に家路に就くことにした。今夜はこの後ファミレスのシフトも入っているので、その前に少しは休んでおきたい。足の重さを感じながらも淡々と来た道を戻っていると――駅のあたりで見知った顔が近づいてきた。

「あっ、楓さーん!」

 そこにいたのは――少し癖のある明るい金髪を軽くまとめ、このような地味な住宅地には似つかわしくない華やかな装い。どこか遊びに行ってきた帰りなのか、どこか楽しげな表情で楓に手を振っている。

「カリン……!」

 思いがけない出会いに、楓は表情を明るくする。カリン――本名・ 篠田(しのだ) 花梨(かりん)――芸名は本名をカタカナにしただけ――深夜営業が終了したとき、自分と同じくカリンもバイトを辞めたものと思っていた。というのも、新歌舞伎町からこのあたりまではかなり距離がある。カリンは車を所有しているとはいえ、てっきり別の住居に移ったものだと勝手に思い込んでいた。

 ……まだこの近所に住んでるんだったら、カリンに頼んで回収してもらえば良かったかも……そんな考えが、ふと頭をよぎる。

 だが――彼女の隣に、見知らぬ男性が立っていることに気づいた瞬間――彼氏連れかよ――楓の眉間にしわが寄る。だが、よく見ると――そんな雰囲気ではないかもしれない。

 男性は背が高く、黒髪を清潔感あるショートスタイルに整えていた。襟付きのしっかりしたジャケットを羽織っているもののノーネクタイで、ほどよいラフさがある。堅苦しくはないが、品は良い。だが――まとまりすぎた佇まいが、逆に楓の警戒心を呼び覚ます。

「……どうも」

 いずれにせよ、不必要にふたりの間に立ち入るべきではない。短く会釈をし、その場を立ち去ろうとした楓だったが、カリンが唐突に明るい声で紹介を始める。

「こちら、私のお兄ちゃん!」

 その声に楓がぴたりと足を止めると、隣の男性――彼がふっと微笑んだ。

「妹から変な伝わり方してないかな? 兄の 由伸(よしのぶ)です」

 その名前を耳にした瞬間、楓の目がきらりと光った。

「カリンのお兄さんってことは……写真家の 篠田(しのだ) 由伸(よしのぶ)さん!?」

 驚きと興奮が同時にこみ上げる。篠田由伸――その名は、近年の写真業界では知らぬ者のいない最新鋭の写真家だ。その名声は、『写真家』『篠田』と検索すれば、トップに彼の名前が躍るほど。

 由伸は小さく笑みを浮かべながら、やや芝居がかった口調で返す。

「キミのような美しいお嬢さんの耳に届いていたようなら、俺の名も捨てたものではないらしい」

「え、ええ、ぜひ一度お話ししたいと思っておりまして……!」

 楓の声には熱がこもっていた。とはいえ、それには裏がある。もしこの人物とコネクションを築ければ、自分の活動にとって大きなプラスになるはずだ。あわよくば写真を撮ってもらえるかもしれない。それが叶えば、自分の知名度は格段に上がるかも――

 楓はいまも、自身のダンスを収録した個人動画配信チャンネル『Red Hand Moving』をひっそりと続けている。とはいえ、着衣でのダンスのためか、再生数や登録者はいまひとつ伸びていない。何かしらの話題性や注目を引く要素を加えないと、今後の成長は難しい。楓にとって、登録者数を増やすことは喫緊の課題だった。それだけに、目の前の由伸という存在は、まさに千載一遇のチャンスである。

 そんな楓の思惑に気づいたのかどうか――由伸はふと視線を空に向けて意味深につぶやく。

「名前だけが先を歩いていると思っていたが……今日、ちゃんと追いつけた気がするよ」

 その言葉の真意まではわからない。だが、少なくとも、悪い印象は持たれていないようだ。それに、楓は胸の内でそっと安堵の息をつく。しかし――何故だか不安というか、胸騒ぎのようなものがどうしても消えてくれない。

 だとしても――行く。目的のためには踏み込むしかない。楓は、柔らかく笑みを浮かべながら、由伸に視線を向ける。

「先日、カリンさんの縁側の写真を拝見しまして」

 その言葉に、由伸はどこか誇らしげな笑みを浮かべる。

「ああ、妹にしては珍しく、カメラの方から惚れ込んできてくれたみたいでね」

 隣にいたカリンが、照れくさそうに頬を染めた。そんな様子をよそに、由伸はさらに続ける。

「こいつは服一枚で、物語を組み立てられるタイプなんだ。印象だけなら、なかなかに鮮やかだろう?」

 いや、あんたが撮ってるのはヌードだろ、とは内心でツッコみながらも――たしかに、今日のカリンはなかなかオシャレである。白のシアーシャツに淡いラベンダー色のキャミソールを重ね着し、クリームベージュのロングスカートを合わせていた。裾に向かって徐々に透ける素材は、風に揺れるたびに柔らかくきらめき、彼女の一歩ごとに光を纏うように見える。足元はヌーディーカラーのパンプス、耳元には小ぶりなパールのピアスが揺れていた。肩にはキャンバス地のミニトートバッグ。どのアイテムも決して派手ではないが、色味と質感の組み合わせが見事に調和しており、たしかに印象に残る装いだった。

 だからといって――妹に惚気るなよ――楓はそう思いながらも、にこやかに愛想笑いを返すに留めた。

 そんな中、カリンが楓に目を向ける。

「ところで楓さん、どうしてこっちに? コンビニのバイトは辞めたって聞いてたけど」

「鏡を忘れちゃって。小さいやつだけど」

「あっ、あれ楓さんのだったんだ」

 たぶん備品としてみんなに使われていたな、と思う。別に、それは構わないのだけれど。

「うん、一応長く使ってたから。思い出したなら、持って帰ろうかと思って」

 そのやり取りに、由伸が口を挟む。

「遠方からはるばるやってきたということは、きっと思い出は重いのだろうね。君にとっては……“往日の回収”ってところかな」

 キザな言い回しだな、と楓は内心で辟易しながらも、表情に出すことはない。

「たしかに、往日愛用していた品ですから」

 このあたりで――楓はこの男の気味の悪さの正体を理解する。由伸は、常に本気のようでもあり、すべてが冗談のようでもあり――そんな曖昧な空気を纏っていた。楓は社交辞令に敏感ではある。だが、彼の言動はいまいち真意が読みづらい。相手にとっては道端の雑談かもしれないが、楓にとっては採用面接も同然。にも関わらず、感触が読めない――これに楓は気疲れさせられていた。

 人付き合いに悩むと、楓はついカリンを頼ってしまう。

「ところで、今日は兄妹揃ってどうしたの?」

 仲が良いのは結構なことだが、ただの散歩とも思えない。

「カラオケに行ってきたんだよー。これからは歌も頑張らなきゃだから」

「ああ……そうねぇ……」

 楓は曖昧にうなずく。いまや自分たちはストリップ・アイドルとして、踊るだけでは評価されない段階に来てしまった。彼女も、直視せざるを得ない現実としてそのことを痛感している。

 もしかしたら、カリンのほうが自分より上手いかもしれない――その歌声を同席していた兄が評する。

「妹の声なら、 古竹(ふるたけ) 未兎(みと)あたりのキーがぴったりだ。……ちょっと癖はあるけど、それも含めて魅力ってやつでね」

 古竹未兎――昨今、日本でその名を知らない者はほとんどいないだろう。五・六年前に実力派として華々しくデビューし、特に女性からの支持が厚い。確かに高音に華やかさがある一方で、意外なほど低音域も豊かにこなすタイプだ。

「曲調は合いそうですね」

 楓は短く、無難に返答しておく。古竹未兎ほどの音域が出せるのなら、すでに歌のほうで一目置かれているはずだから。

 カリンは無邪気に笑いながら手を合わせる。

「今度は楓さんも一緒にカラオケ行こうよ!」

「練習相手次第で、声の伸びも変わるってもんさ」

 由伸がそう言って、柔らかく笑う。その笑顔には、少しだけ意味深なものが混ざっていた。

「誰と組むかは……そのときの運次第だけどね」

 その表情と言葉に、楓の中で何かが決まった。ここで賭けに出てみよう――いまだ、彼の心中は読めない。それでも、この流れは逃したくない。

「はっ、はい! 次は、ぜひ私も……!」

 その口調は、明らかにカリンに対する返事ではない。由伸に向けて、今度は三人で――楓は覚悟を決めて開き直る。

「も、もし良かったら……連絡先を、交換しません……か……?」

 そのアプローチに、カリンは少し驚く。一方、由伸は顔色ひとつ変えることもない。ただ、柔らかな微笑みを湛えたまま。

「君のような可愛いコにお誘いいただけるなんて、光栄の極みだが……」

 一呼吸置いて、片手をカリンの頭に軽く乗せる。

「今日は“お兄ちゃん役”に徹することにさせてもらおうかな」

 その言葉に、楓は一瞬だけ肩を落としかけたが――すぐに笑ってうなずいた。

「……はい」

 さすがに、相手もプロだ。簡単には踏み込ませてくれない。やはりガードは固いようだ。とはいえ、悪い印象を与えたわけではない。そのことがわかっただけでも、今日は収穫だったと、楓は自分に言い聞かせる。

「それじゃあ、また、ライブハウスで」

 明るく手を振るカリンと別れ、楓は自転車のサドルに腰を落とした。夜風がひんやりと頬を撫で、車のヘッドライトが通り過ぎるたびに、影が後ろへと伸びては消える。笑顔で別れたとはいえ、正直、由伸との距離はまだまだ遠い。だが、それでも一歩くらいは近づけた気がした。それだけでも――あの短い会話は、意味のあるものだったのだろう。

 やがて、楓の住まうマンションが見えてきた。新歌舞伎町からは徒歩で二〇分ほど。女子の足にはやや距離があるが、通勤にかかる交通費は支給されないため、楓は基本的に自転車で移動していた。幸い、このマンションにはしっかりとした駐輪場が完備されている。

 建物自体はそこそこ大きいが、見た目には明らかに築三〇年を超えていると思われる風格があった。壁面の塗装は薄れ、ところどころに補修の跡も見られる。とはいえ、設備に大きな不便はない。ここはファミリーレストランの社宅――ただし、一棟すべてが同系列というわけではなく、他企業の従業員も多く住んでいるようだ。新歌舞伎町という土地柄、住居を契約するのが難しい職業に就いている人も多いらしい。だからこそ、このような集合住宅は、さまざまな“事情持ち”がひしめく不思議な空間になっていた。

 自転車を駐輪スペースに停めた楓は、車輪の固定を済ませると、手癖のようにスマートフォンを取り出す。その画面には、新着のメッセージが届いていた。送信者はカリン。彼女はコミュ力に優れ、返信は速いが、用もなく自分から何かを言うタイプではない。そのカリンが、このタイミングで――これには思わず胸が高鳴った。

 しかし――

『もしかして楓さん、お兄ちゃんの写真集、見たことないんじゃ?』

 普段は何かとスタンプを併用したがるカリンが、今日は用件のテキストだけ――それだけで心臓がひとつ大きく跳ねるようなプレッシャーを感じる。たしかに、その通りだった。由伸とのコネには期待していたが、薄い可能性のために余計な支出は割けない。少なくとも、これまでの楓の収入では。

 だからといって、それを理由に正直に答えるわけにもいかない。これから関係を築いていこうという矢先に、そのような無知を晒してはおしまいだ。

『そんなことないけど』

 ――つい、即座にそう返信してしまった――もう少しごまかしようもあったはずなのに。『既読』の烙印が押されている以上、後には引けない。無言の圧力に押されるように、楓はエレベーターに飛び乗り、自宅へと急ぐ。外で検索なんてしては、スマホの通信量が一気に削られてしまう。社宅のネット環境を頼りに、できるだけ早く由伸の写真集について情報を集めなくては。カリンの返信は本当に早い。早速何かを送ってきているようだが、いまは写真集の件が最優先である。

 部屋に戻った楓は、着替えもそこそこにWi-Fiを接続し、すぐさまスマホで『篠田由伸 写真集』と検索をかけた。

 検索結果のページが読み込まれた瞬間、彼女の指が止まる。

「……あっ……」

 画面に表示された最新の写真集――タイトルは『秘密のキッス』。その表紙を飾っている女性の顔に、楓は見覚えがない。だが、彼女の着ている服を見た瞬間、全身に電流が走ったかのような衝撃に襲われた。

 ――これって――カリンが今日着てた服――! 白のシアーシャツにラベンダー色のキャミソール、クリームベージュの透け感あるスカート――間違いない。どこぞのアイドルが着ているのは、まさに先ほど見たばかりのコーディネートそのものである。

 着る人が違うと結構印象変わるんだなー……などと現実逃避しかかるが、楓は慌てて意識をスマホに戻す。すると――過去の作品だろう。別の写真集のタイトルも検索に引っかかっていた。

 その名も――『往日の回収』――由伸が会話の中で持ち出したあの言葉はタイトルをそのまま引用したものだったらしい。

 さらにもう一冊――『MITO』――古竹未兎の写真集――

 ――さっきの会話、ぜんぶ写真集の話だった……!? いまになってようやく、その節々に込められていた意味が腑に落ちる。だが、同時に、激しい自己嫌悪が込み上げてきた。自分は由伸との会話において、ひとつとして的確な返しができていない。由伸の言葉の端々に散りばめられていた“アピール”を、総スルーしていたのである。

「……うそでしょ……」

 気が抜けたようにスマホを放り出し、楓は布団にばたりと倒れ込んだ。天井が、ひどく遠くに感じられる。指一本動かす力も湧いてこない。

 それでも、気を取り直して――さっき後回しにしていたカリンからのメッセージの続きをようやく開いた。

『お兄ちゃん、自分の写真集を知らずにファンだって名乗る人、あんまり好きじゃないみたいで…』

 読み終えた瞬間、胸に杭を打ちつけられたような息苦しさに襲われる。何もできず、楓はしばらく呆然と消えたままの蛍光灯を見つめていた。そして――

「……サイコパスかよ」

 ぽつり、と呟く。

「おいおい、あんな()()()()な顔しながら、内心ムカついてたってわけ? コイツ、ファンのフリして、ただ有名人が好きなだけの()()()じゃねーか、って。どんだけツラの皮厚いんよ」

 語気を強めるうちに、楓の表情にも少しずつ怒りの色が滲んでくる。

「てか、初対面の相手にそんな試すようなこと、普通やる!? どんだけ性格悪いんだかーっ!!」

 ひとりきりの部屋に雄叫びが反響する。しかし、返ってくるのはただの静寂だけだった。

 スマホを掴み上げた楓は、怒りに任せて布団の上に叩きつける。枕元に落ちた画面は、仰向けのまま放置され、微かに光を放っていた。

 なんなのよ、もう……。言葉にできない感情が、喉の奥で渦を巻く。自分の準備不足を棚に上げての苛立ちだとわかってはいた。それでも、胸の奥からふつふつと湧いてくる悔しさを、どうすることもできない。

 そして――ポロリ、と一粒が頬を伝い、枕を濡らす。それを皮切りに――涙があふれて止まらない。ぽたぽたと、堰を切ったように落ちる雫の一つひとつがシミを静かに大きくしていく。

 いま、自分はストリップ・アイドルとして活動している。ライブで拍手をもらえるようにもなった。少しずつだけれど、ライブハウスの売り上げも伸びている。たしかに、あの頃からは変わった。深夜の公園で、ひとり街灯の明かりを頼りに、誰にも振り向いてもらえない動画を撮り続けていたあの頃からは――

 それでも、あの悔しさと孤独を糧に踊り続けてきたのである。

 なのに。

 カリンから写真家の兄の話を聞いたときに膨らんだ希望――“もしかしたら、何かが変わるかもしれない”という小さな野望――それが、こんな情けない形で潰えてしまうなんて。恨んでも、呪っても、相手には何のダメージもない。傷つくのは自分だけ。未来が閉ざされるのも、自分だけ。

 悔しさが、再び波のようにこみ上げてくる。

 ――それでも。

 膝を抱えて泣いてたって、何も変わらない――かつての楓なら、縁がなかったのだと簡単に諦めていたかもしれない。しかし、いまは――我ながら、ずいぶん()()()になったものだ、と自嘲する。お見送り――落選――差し伸ばした手をすべて振り払われるのが日常だった。にもかかわらず、そんな自分が無謀にも好感触だったと()()して――まあ、あの男が本音で喋ってくれなかったのも悪い、と軽く責任転嫁もしたうえで――楓は、いまの環境を振り返る。仲間がいて、観客もいて――この胸の傷は、自分が成長したがゆえの油断――その罰として受け入れよう。

 けれど、同じ轍は二度と踏まない。

 楓は、静かに体を起こした。スマホを拾い上げ、通販サイトを開く。検索欄に、ためらいなく打ち込む。

『篠田由伸』

 表示された写真集の数々を前に、楓はひとつ、深く息を吐いた。そして――カートに、ぽんぽんと追加していく。

「大人買いできるようになったってことは、私も大人になったってことなのかなー……」

 誰に言うでもなく、ひとりごちる。デビットカードの支払い画面を目の前にして、一瞬ためらったが――意を決して『購入する』ボタンをタップした。

 これで、しばらくは節約生活になるだろう。ファミレスのまかない以外の食事を口にできるのは、劇場のシフト次第になりそうだ。それでも、毎日納豆パスタしか食べられなかった頃よりもはるかに恵まれている。この変化に感謝しつつ、かつての苦境も忘れずに――楓は起き上がり、通勤のための準備を始めていた。

 

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